あまりに運動不足なので朝ちょっとジョギング。
午後卒論発表会。 夜「門」で飲み会。
午後博物館(私は職員証で入れる)。まだ日本画や仏像はいまいちだが、器物は楽しめるようになってきた。訓練するものだな。そのまま梅小路公園に行ってみるが、梅はまだまだ。
夜柳宗悦の茶道論集みたいなのを読み、茶道の話というより物の話で、だいたいわかるようになっている。「不昧公の名物」みたいなのもこの前三井博物館で見たし。まあ私は私がなりたいようなものになったという感じ(しかしそれはそんなよいものではなかった)。
事務のミスあり。私のミスかなあ。
まあわりと落ちついて本読んだりしている。アウトプットの予定はない。もうアウトプットとかしなくてもいいだろうぐらいの勢い。まあ義務だからなんかしないとならんか。
午後散歩。春。
10時間ぐらい寝てしまう。会議とか。この時期、いつものように昼飯に困っている。土曜日の一般向け講座の準備しないとならんのだが、どうも調子悪いので早く帰り、布団に入る。簡易森田療法。
採点。
ちと苦しんでいる。
豚汁残り。
雨。依然として冬の雨。
採点しないと。
午後けっこう苦しむ。天気のせいか。
夜、今日も映画を見る。『この世界の片隅に』。これは名作だね。 苦手だった映画館という場所にだんだん馴染みつつある。 一方、もう外で酒飲むというのが億劫になりつつある。1、2杯飲むだけでけっこう体力を使う感じ。
紅梅開く。
午後某小波先生の最終講義を聞く。
調子悪く早く寝る。
陰亦晴。春が来た感じはある。やっとやる気が出てきている。
昨日のNikeの筋肉痛。プール。さすがにボディに数字ではない効果が現われてきたような気がする。
十分睡眠をとったつもり。
だらだら読書とか。単に読書して充実を感じてはいかん。
夜早々に眠い。
夜呼び出されて出て行く。
天気が悪い。
エントリシートとか。
夜調子悪すぎるのでマンガ喫茶へ。つまらんもの を読んでしまう。
やっと花屋の店頭の草木に目が行くようになった。昨日も鴨川歩いて 鳥とか見て、しばらく何も見えていなかったことに気づいた。 なにかをきっかけに「目が開く思いがした」とかってのはこういう感じの強いものなんだろうな。 "I was blind but I can see"とかってフレーズ使った好きな歌があったような気がする。 なんだったかな。女性ボーカル。
午後四条大宮に。
寝坊。
雪降っていたが、この時期になると寒いのはそれほど苦にならない。暗い11月の方がつらく感じる。
添削と採点。
入れっぱなしにしていたコンタクトレンズが外れず苦しむ。
草野心平にノックアウトされる。
カントの最高傑作は『人間学』だよな。あ、そういや『モラリストとしてのカント』とかって本があったか。
毛利透『表現の自由』。そもそもの問題意識がよくわからん。私ってこういう話のセンスぜんぜんないのね。 -->
鈴木直『輸入学問の功罪』。立派な本だなあ。
うーん、採点。・・・よし、締切1時間前に提出。すばらしい。
ふと顧みると、URLに"~"が入っている人なんてもうめったにいないのね。
昼飯食いそこねて血糖値が下がりすぎ、やっぱり失敗。 どうしたもんかな。
あまり進まず。でもなんか仕事しすぎな気がする。
明け方スパゲティ食ってもう一寝してしまう。
でも起き出して午前中から。ドアのフックに鍵をかけて、お湯が沸くまでの 間に灰皿を洗い、机を清めて、TO-DOリストを確認してざっと部屋を片づける。 やればできるじゃないか。来年はTO-DOリストを見るだけでなく実行できるようになりたい (ちゃんとした大人は心理的障壁をいかにして乗りこえるか?)。
床に物(特に書類)を置かないようにするにはどうしたらよいか? → 見かけの机面積を増やすにはどうしたらよいか?
「無駄な本ばかり読んでないで、もう原稿出したらいいのよ。もう書き直す気な んかないのになにしてるの?」最近アニマの声が聞こえるようになったのはな ぜだろう。アニマさんはなんでも知っているから困る。
レポート1件。
あら、衣笠の採点は9日までか!4回生だけだと思ってた。9日までということは 連休あけの13日の届いても同じということなのかどうか。でも今日これに気づけるところが ちゃんとした大人への道を辿っているといえるのではないか。だめか。
いろんなことから読書に逃避。・・・あら督促された。だめだめだけどもういいや。 「いつまでたってもプロになれないのね。」
Adobe Acrobat、textの出力がちゃんとならんのは どうにかならんか。もっているのがver 6.0だから? もういいや。出した。今時の印刷屋Acrobatぐらいもってるだろう。
さらに続く柳沢発言とか、 長居のホームレス強制退去とかに関するブログその他を見てなんだか絶望的な気分になる。 また「対偶」っていう言葉を使った論理的な誤りを見たり、 「人権」っていう言葉の乱用を見たり。 もちろん、柳沢や大阪市の態度や方針を批判するのはかまわんのだが、 その論法というか議論がうまくない。
なんていうのか、なんでわれわれはクリアに考えることができないんだろう。 単に「信念の不一致と態度の不一致があって、態度の不一致の方がより重要な 問題なのです」「thickな概念とthinな概念があって」というだけではないん だな。態度が認知さえも論理的にねじれさせてしまう。 なんか我々の認知バイアスっていうか、問題の奥深さを 思いしらされる感じがする。それはもちろん私にも根深くあって、 そういう用心をしようとするとなにも言えなくなり、自分が信じられなくなり、 精神衛生にひどく悪い。よく理解できないと他人に悪意を見る、他人の知性を 疑う、ってのが気分悪くさせるのだろうか?他人に対する不信感が満ちている のがいやなのか。いや、そうではなく、それが自分の信念や論理も疑うこ とになるのが気分悪くさせるんだろう。そして、この気分の悪さそのものが私の認知バ イアスと不協和の結果なのだろうという恐れ がなおさら悪い回路にひきこむ。こういう敵意や憎悪ってなんなんだろうな。 馬鹿げている。心理学が必要だ。
夜明け前に目が覚めてしまう。軽くジョギングして朝から。
Blackburnって文章が難しいというか、読むのに必要な語彙が異常に多いよな。辞書ないと読めない。
昼から雪、のち霙。夕方採点表を提出しに百万遍。生協で本を買う。
東横インの社長に爆笑。こういうひといるよな。コタツでうたた寝したら喉が痛い。早く寝よう。
なんかダメな日。
帰宅。
今回はPCも持たずに旅行に出かけた。 2、3日メールも読まず、テレビも見ず、新聞も読まずって生活をしてみたが、 ぜんぜん困らないものだな。さすがに電子辞書がないと困ったと思うが。
デンマークはタバコ大国。全員歩きタバコ、どこでも店内は紫煙。どうなってるんだろう?
まあとりあえずタバコもいらん。飯食うときにアルコールは欲しい。
五嶋みどりのテレビインタビュー見て圧倒される。
まず百万遍生協へ。 午後から研究室。
あいかわらず中学生虐待事件が気になる。昨日テレビ見てたら同級生の女の子が家を訪問したけど云々。なんというか、逃げだすこともできたんだけど、逃げださなかった理由は絶望の他に、少年のプライドとかもかかわっていたのかもしれんな、とかそんなこと想像したり。誰かに助けを求めれば、もっと虐待がひどくなるかもしれんって他に、微妙な年頃で学校の友人とかには知られたくなかっただろうとか。自分がそういう弱さをもっていることは、あまり親しくない友人や女の子たちには知られたくないものかもしれん。中学生はそういうところも難しかったかも。「放っておいてくれ」っては本心だったかもなあ。やっぱりいやな事件だなあ。
中学のころ同級生に体格の悪いやつがいて、イジメられたりしていたのだが、彼もそういうタイプだったのかもしれないなと思う。某編集。面倒。
ところで、DVDを輸入して観ることができずに、字幕もなにも付加価値がない日本盤に高い金を払わねばならんのはなぜか。たかがUSBケーブルにコネクタの形状が3種類も4種類もあって互換性がないってのはどういわけか。イライラ。
なんで我々は政治をちゃんとした職業として認めなくなったんだろう、ていうか政治参加を怪しげなものと見るクセがついているんだろうとか。昭和以降の政治家で、ちゃんと高く評価されている人間というのはどれくらいいるのだろうか。たとえば私が知っている首相は、田中角栄以降の三木、福田、大平、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉ということらしい。こんなにいるのに「いろいろあったけどあの人は偉かった」と素直に評価することができないのはなぜか。私の世代は小学生のころにロッキード事件があったってのが大きな影響があったと思うが、それだけなんだろうか。なんでワシらはちゃんと人を評価することができなくなっているんだろうか。政治に対するシニカルな態度ってのはまともなものなんだろうか。(後藤田なんて名前がふと頭に浮かぶのはなぜだろう・・・)そういうのが戦後教育のなんとかとかそういう動きの源泉のひとつなんだろうか、とか。ほんとに政治知らんな。「政治家の演説」とかってものの重要性が人びとの記憶から消えてどれくらいになるんだろう。ていうか昔からあんまり重要じゃなかったんだろうか。40前にしてこんなこと考えてるんじゃいかんよなあ。
小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』とかめくったり。なかなかおもしろい。いつもの進化生物学の話だが、知らなかった情報もかなり含まれている。人間の脳は150人規模の集団で生きるために適応しているんじゃないかって話とか。まあ、この手の本は大半が同じことが書かれているので、どの本で何を読んだか忘れがちなんだけど。
集団の問題をあつかうには、やっぱり生物種としての人間の認知特性とか考えなきゃならんよな。伝統的な「倫理」とか「倫理学」ってのはもうすぐ滅びる(あるいは滅びなきゃならん)かもしれんなと思う。少なくとも規範倫理学はかなり大きな変化を被ることになるんだろうな。私が生きているうちにかなり大きな変化を見ることになるかもね。
ところでよく授業でいつまでもお喋りしている学生がいると、「お前らたまには一人になれよ」と言うのだが、彼らや彼女らがペアやグループを組んでいるのはそれなりに進化上の適応なのかもしれんなとか。弱い者はペアやグループを作れば危険を分散させることができるし攻撃も避けやすくなるだろうからね。「一人になれ」は「ひとりで危険(教師からの攻撃?)に対処できるくらい強くなれ」ってことなんだなあ。
野田正彰『共感する力』とか。新聞とかのエッセイ集。目先広いし、いいこと書いているところも多い(うちの大学で一番書ける人間だったのはまちがいない)のだが、なんだか人びととの距離感が気になる。なんというか、この人はあんまり自省することないんじゃないかなあとか思ったり。攻撃が常に外に向いていて、自分は攻撃されるべき対象の一部ではないという感覚というか。まあ実物を知っているの でなんだかアレなんだが。
う、野田正彰という人の経歴は、「1944年、高知県生まれ。北海道大学医学部卒業、長浜赤十字病院精神科部長、神戸市外国語大学教授などを経て、2004年度より関西学院大学教授。」(『共感する力』みすず書房2004年1月20日発行の著者略歴から)なのか。なるほど。つまんないことだが。いくらいいこと書いてても、出版時点での現職を書かないってのはないよな。まあ略歴だからそれでいいのかなあ。
昼から。某資料集の編集作業。いつもながらこの手の作業はしんどい。
いったん帰宅してジョギングして飯。夜も出てくる。
昨日借りてきたCD-Rを自分用に焼こう・・・と、 1枚丸ごとコピーするにはどうしたらいいのかな、と。
OS XのMailアプリケーションの迷惑メール分別機能はたいしたものだ と思う。Emacs上のメーラーで同じようなインテリジェンスもってるやつは ないものか。
寒い。そういや、昨日「なんか、最近日記欝病みたいやで」とつっこまれた。 まあ、循環気質なんでその気はある。春さえ来れば。 (それはそれでまた無駄づかいして困ったことになっちゃったりするわけだが)
きっと、雪の多い東北地方で長年生きていた私の祖先は、 冬の間は家にこもってじっと縄でもなってたんだろう。むしろ冬に元気な奴は 余計な外出とかして雪崩にあったり雪にまかれて凍傷になったりして 死んだのだろう。季節と関係なく人と会ったり活動したりしなきゃならん 今の世の中がまちがっているのかもしれん。
午前中失神したようにイスの上で寝る。なんだったんだ。
午後会議。
ピラト主義者というのを考える。時々「真理ってなんだ?」とかつぶやい てすぐに別のことしたり、なんかあるたび、手を洗って「おれのせいじゃない よ」と言ったりとして汲汲。
お呼ばれ。しかし飲み過ぎ。出町駅から歩いて帰るのが困難で転んだりもする。 やれやれ。
午前中から活動。まずレポートの採点を終わさねば。クライバーのイゾルデとか聞きながら。さすがにこれはエロエロ。
採点が終りかけたところで、採点表が見あたらないことに気づく。・・・30分後にやっと発見。人間失格。それにしても、いつもながら欠点をつけるのは恐い。
夜、三条の「ル・クラブ・ジャズ」という店に行ってみる。店の空間の感じは悪くない(白いピアノがしょぼいが)。本日は「ジャズ・ワークショップ」ということで、早い話が、発表会というか練習会というかジャムセッションの日。「我ら音楽仲間」ってな感じでなごやか。途中、デブ中年がドラムで乱入したところから、雰囲気が一変。真剣勝負になっちゃった。たまにこういうものを見ると非常におもしろい。
D’angeloの新譜入手。聴きながら寝てしまったのでよくわからん。
寝坊して忙しい人を待たせてしまう。ごめんなさいごめんなさい。しかし土曜も働く偉いオレ。
サーバーは深夜止めます。
最近倫理研では、コミックショックから安くマンガを買ってくるのがはやっているらしい。うちの近所(東山三条店)でもすべて100円になっているのでゴミを買ってみる。ほんとにゴミばっかり。いろいろ買って、当りは岡崎京子の『ハッピィ・ハウス』のみ。もっとも岡崎京子は猛烈な名作だったので、その他の全額をおぎなって余りがあった。上巻124ページの感動を知れ。あるいは下巻47ページ。そう、「様式美」が重要。あるいはp.78を見よ。岡崎コレクションも完成に近づいている...。
某債権者がバンド活動の相談に来たので、ちょっと飯。そんとき熱く語ってしまったのは
まだ自分のなかで十分整理させれていなのだが。冨樫義博の『幽遊白書』というマンガは、実は一つのマンガではなく、いくつかのマンガの束にすぎない。それらをひとつのマンガとしてなりたたしてめているキーワードは、「美」あるいは「美学」である。(もっともこのキーワードがマンガ内で発話されることはないが。)あるいは、人によってはそれを虚栄vaniteと呼ぶかもしれない。
主人公たちは、自分の美学---それはたいていの主人公にとって「強くなること」や「友情」であるが、例外も多い---を追求することに自分の生の意味、あるいは自分の生を意味あるものにするような物語を見いだし、自分の実際の利益をかえりみることがない。
作者冨樫は十分反省的である----つまり、自分がそのような「美学」を追求していることを自覚している。彼は自分の「マンガ道」と、利益との天秤のあいだで苦悩しながら、美学を選択し、書かれた物語そのものを破壊することを厭わない。しかし苦悩が我々の感動を誘う。
なんちゃって。やーめた。
わたしたちは、ふつうに生きているときにどれだけ自分の美学なり理想なりを尊重しているだろうか。
私はよく「それはワシの美学じゃから」あるいは、「それはワシの美学が許さん」というフレーズを使う。このときに私が「美学」ということで意味しているのは、「他人にそれにしたがうことは要求しないが、私はしたがうべき原則・規範・理想」という意味で使っている。
さすがに33年ぐらい生きていると、私自身の価値観というものがかたまってしまっている。で、そのなかで重要なものには「道徳的」な規範とか理想とか私が呼ぶものもあれば---つまり、他人がそれに従わないことを非難したい気持ちになるもの---、他人はそれにしたがわない、あるいはそうすることができないだろうが私自身は守りたいような規範とか理想---これが私が「美学」と呼ぶもの---もある。
そういう美学ってのは、まあ、ふつうに言えば「見栄」なんだわなあ。たとえば、非常に卑近な例で言えば、「ケチは許さん、酒飲んだら払え」とか、「いったん人物評価したら、重大な(自分の利益にからまない)理由がないかぎりそれを変更するな」とかね。もちろんもっと複雑で微妙なものも多いが、ま、いちいち挙げるときりがない。
冨樫のマンガからは、そういう美学なり見栄なりあるいは「心意気」とかを感じるんじゃな。「オレはこれ以下の美的価値の絵は描かんぞ」とか、「同じこと2回も3回もやってらんねーぜ」とか、「1話1回はみんなを驚かせるような絵を入れるぜ、この絵見てみー」とか、「お前らはわからんだろうが、このプロットにはけっこう意味あるんだぜ」とか。いぇーい。冨樫。がんばれ冨樫。
で、人間のタイプとしては、そういう美学とかなんとかを重視するひとびとと、そうじゃなくてその時々で利益を追求する人々がいるんじゃよね。ワシはいまんとこ前者じゃが、後者にも非常に魅力を感じる。たとえば前に書いた宮台真司の「よのなか」は後者に共感的なんだが。
で話は、結局人間の幸福っちうか、よく生きることwell-beingっちうかそういうもんが、自分の描いている美学とか理想とかsecond-order preferenceとかそういうもんとどういう関係にあるかってことなんじゃよね。しかしこれだけではなんにも分析されていない。いぇーい。
意外かもしれんが、私は美しく生きたいといっつも思ってる。いかなるときも美しくね。
明日は停電。サーバー復活は私が夜ここに来たとき。(だいたい8時ぐらいか?)
いや、吉田まゆみ『ローファー・ローファー』もなかなかであった。
ワシらの幸福ってのは非常に安価である。100円のマンガでよければ1時間、260円のタバコで通算10分、1000円のCDで1時間(運がよければもっとず〜と)幸せ。限界効用が低くなることをなんとかすれば一生幸せに生きられるはず。ではワシらの敵はほんとは何なのか。
早起き。
禁煙続行中。ついでにコーヒーも控えている。仙人を目指しているわけではない。作業能率が下がる。
野良(?)猫たちがオワーオワーうるさい。
そういや、ちょっと前に出た岩波の『図書』で「私の3冊」という企画をやっていたのだが(某大教授も書いてる)、この『死に至る病』が268人中5人もいたのはおどろきだったね。これ以上の票(6票以上)を集めたのは、『仰臥漫録』『いきの構造』『カラマーゾフ』『銀の匙』『風姿花伝』『福翁自伝』『文明論之概略』『忘れられた日本人』『我輩は猫』しかない。(これは索引のページづけだから数は正確でないかも)
今日気にいったフレーズ「使わなければ衰えます」(アラン・ブルーム『アメリカンマインドの終焉』から)