加茂直樹『4分の3世紀の人生を振り返って』

目次

はじめに

自分の一生を振り返ってみようと思い立ったのは、昨年の長期入院中のことである。昨年(2011年)5月末、満75歳になり後期高齢者の仲間入りをしてすぐに、胆管の癌の疑いで入院し、7月に再度の手術を受けた。それがようやく治りかかったころに、今度は腸閉塞を併発し、9月に手術したが、その後にもいろいろな後遺症があって、結局、11月末まで半年間の入院を余儀なくされた。自分ではたいした病気ではないと過小評価ばかりしていたが、癌を疑い緊急入院の手配をしてくださった近所のお医者さん、京都医療センターと京大病院肝胆膵・移植外科で適切な治療を施してくださった医療スタッフの皆さんのお蔭で、命拾いしたとも思われる。長期の入院中には、苦しさや痛さに耐えているだけのこともあったが、退屈をもてあますこともあった。そういうときに、普通に日常生活を送っているときにはないことであるが、自分のこれまでの人生を思い起こし、勝手気儘な生き方をしてきたことへの反省もこめて、これを見直してみようという気持ちになったのである。

日本の植民地であった旧満州国で生まれ育った私は、10歳前後で、外地に取り残された敗戦国民として、価値の大転換とそれまでの生活の根底的な崩壊を体験した。引き揚げてからの青少年期は、日本社会が敗戦後の混乱と貧困の中で苦闘しながら、秩序と経済的安定を取り戻していく時期であったが、私は両親やきょうだいに支えられて、たいした不自由もなく育ち、進学し、志望の大学で学ぶことができた。大学院修了後は、研究・教育に従事するようになった。大学教員としての生活は、日本の社会の激しい変動からの影響もあり、私が予想していたほど平穏ではなかったが、いつも最終的には自分の意志で進むべき道、採るべき行動を選ぶことができたので、自分としては後悔することはない。ただ、家族や周囲の人々には、ずいぶん迷惑をかけたと思われる。こうしたことを思いめぐらしているうちに、この時点で、自分の人生は全体として何であったか、の総括を試みようという気になった。そこで、退院し、気にかけていた別の仕事に一区切りつけてから、これまで自分の身に起こったことと自分の行ったことを、歴史的・社会的背景にも触れながら、できるだけありのままに書き記す、という作業に取りかかったのである。

少し別のことばで表現するならば、このような文章を書き残す理由は、時代の大きな流れに翻弄されながら、なんとか生き延びてきた私の生の軌跡をありのままに示し、そのような流れの中でも、もっとましな生き方ができなかったか、省みることにある。このような企てが、自分にとってはともかく、他人や世間にとって意味があるか否かは、私には判断し難い。だから、これをどのような形で発表するかについては未決定のまま、とにかく書き始めることにした。ただ、この記録が何らかの形で残ることはありうるから、特に他人に関わることについては、その名誉やプライヴァシ―を侵害しないという配慮が当然必要になる。自分だけに関わる部分では、そうした配慮は不要であるから、できるだけ正確に叙述するように心がけたつもりであるが、これにも限界がある。まず、記憶がおぼろげで、特に事にあたっての自分の内面的な心情がどうであったかを、正確に思い出すことができない場合が多くある。また、意識してはいなくても、自己防衛の本能に駆られて、知らず知らずに自分を正当化する見方に傾いてしまうこともあると思われる。外面的な事柄については、できるだけ客観的な叙述を心がけたつもりであるが、私の生きてきた時代の歴史的・社会的状況についての捉え方が、自分がそのときに感じ取った印象と、現在の一般的な理解とでは、かなり異なっていることがある。これらの難点をどう克服するかについて考えてはみたが、根本的な解決は得られないままである。

以下の文中でも触れるが、私は生まれつき社交性に乏しく、人と気楽に付き合うことができない、不器用な人間である。特に大勢の人の前で話をするなどというときには、不必要なほど緊張する。そんな人間が、他人と頻繁に接触しなければならない仕事、つまり教職とか組織の管理職に就いたのだから、他人からはどう見えたかはわからないが、本人にとっては大変な気苦労があり、ストレスがあった。このような苦労は経験を積むにしたがって、少しは軽減されていったが、すっかり消えてしまうことはなかった。自分の言動を他人がどう受け取るかについても、過敏なほど神経を遣う。だから、私の振る舞いにはぎこちなさがつきまとい、話は堅苦しくて、面白みに欠けるものになってしまう。私自身の評価では、それが少しはましになるのは、親しい仲間と愉快に酒を飲んでいるときぐらいである。

そういう性質とも関係することであろうが、私は臆病な平和主義者であり、争いを好まない。ところが、それにもかかわらず、私は自分の生き方を、だれの指示に従うわけでもなく、いつも自分の意志で選んできたし、それを当然のことと受け取っていた。しかし、いま考えてみると、それは必ずしも当然ではなく、こういう生き方を寛容に認めてくれた周囲の人々にまず感謝すべきであろう。感謝を捧げるべきは、第一に、敗戦後の混乱と貧困がまだ続く中で、私が経済的に不安定な哲学研究者を志すことを許し、さらに支援してくれた両親ときょうだいであり、結婚してからは、仕事と家事・育児を両立させながら、私に広範囲の活動の自由を認めてくれた妻である。第二には、私が非正統的な研究に走るのを干渉しないで見守り、それだけでなく、私に適切な活動の場を与えてくれた恩師や先輩たちである。私は恩知らずで、いままで自分の力で自分の進む道を切り開いてきたように思っていたが、今度、振り返ってみて、それが多くの方々の暖かい援助に大きく支えられたものであったことを、初めて認識した。研究会の仲間や勤務校における同僚にも恵まれ、多くの人たちとの信頼関係のお蔭で、半世紀に及ぶ教育・研究の生活を楽しくかつ有意義に過ごすことができた。

もう一つ改めて気づいたことであるが、私がここまで好き勝手をしながら生きてくることができたのは、かなり幸運に恵まれたからである。子どものとき、旧満州国で敗戦国民として苦労したが、結核になっても自然に治癒し、無事に引揚げることができたのは僥倖であったし、何よりも、日本の歴史にも稀な価値の大転換に遭遇したことは、後に哲学を学ぶことになる身にとっては、かけがえのない貴重な体験であった。研究者を志してからは、何といっても、専門に選んだ哲学で生活できるようになったことが幸運であった。29歳から73歳まで44年の間に、大阪府立大、京都教育大、そして京都女子大に勤めたが、それぞれのポストは、私のために準備されたかと思うほどに、その時々の私の状況に適合したものであった。もちろんそれでも、種々の苦労や困難はあったが、私としては、苦しい中にも生き甲斐を感じながら、勤めを全うすることができた。もっとも、組合の委員長や学長等の管理職に私が適任であったとは思えないが、自分の選んだ職場でそういう立場におかれたからには、真面目にかつ愚直にやるしかないと観念して、なんとか切り抜けてきたのである。

繰り返しになるが、私は、自分の一生を振り返ってみることによって、私がこうして生きてこられたのは、第一に、家族、先輩、友人などの人間関係に暖かく支えられ、第二に、稀な幸運に恵まれたお蔭であることを、自ら再認識した。そのことを、お世話になった方々に感謝をこめてお伝えしたいと考える。以下の叙述がどこまでそういう意図にそったものになるかは覚束ないが、とにかくできるだけ率直に現時点での自分の気持を書き記してみることにする。

追記:なお、この文章を一応書き上げてから、次姉に読んでもらい、多くの貴重な指摘を受けた。3歳上の姉は、特に敗戦から引揚げまでの1年余の時期について、私よりもずっと豊富な体験を重ねてきたし、それを詳細に記録に残している。その記録を見せてもらったお蔭で、いくつかの事実に関する誤りを訂正することができた。ただ、私自身が覚えていないことは、貴重な情報であると思われても、書き加えることはしなかった。これについては、いずれ姉自身がまとめてくれることと期待している。

I 敗戦まで(1936年~45年8月)

1 幼児期(1936年~42年)

私が生まれたのは、1936年(昭和11年)5月11日、場所は旧満州国の首都新京市(現長春市)の満鉄官舎である。父は新京一中の教員をしていたが、当時、日本人向けの学校はまだ満鉄に属していたのであろう。姉が二人いて、上の姉は28年生まれ、次姉は33年生まれであり、私は長男であるが、3番目の子であった。その後、42年春、父が新設の佳木斯中学校の校長になって転任するまで、学校が満鉄から離れたせいか、官舎を出て、何度か転居したようであるが、もちろんほとんど記憶はない。この時期は、日中戦争からアジア・太平洋戦争へと拡大する、日本にとって大変な時代であったが、満州在住の日本人はまだ平和で豊かな生活を享受していたと思われる。多少成長してから母や姉たちに聞いたことや、わずかに残る写真などから推測すると、私は、一人息子で大事にされ、呼吸器系統がやや弱かったことを除いては、ごく順調に育っていたらしい。41年12月8日の米英との開戦を伝える大本営発表のニュースは、当日の朝ラジオで聞いて、子どもながらに緊張感を覚えたような記憶がかすかにある。

なお、その少し前、39年秋から40年春にかけて、父が内地での研修で東京にある研究所に留学したので、一家を挙げてしばらく東京で暮らした。父の実家は京都府の北部、奥丹後といわれる日本海岸の網野町(現京丹後市)にあり、祖父母がまだ健在だったので、そちらにまず寄ったが、長くは滞在しなかったようである。ただ、長姉だけは網野に留まり、翌春まで祖父母のもとで網野小学校に通った。東京についても、ほとんど記憶はなく、断片的なことを母や姉から後で聞かされて、そういうこともあったのかと思う程度である。写真に残るのは、住んでいた目黒区中目黒の借家の近所を頭でっかちの男の子が散歩している姿と、七五三で明治神宮にお参りしたときに次姉と一緒に写してもらったものだけである。なお、東京での滞在が終わりに近づいた40年2月に妹が生まれ、4人きょうだいになった。米英との開戦直前の時期ではあったが、まだそれほど緊迫感もなく、大人たちは束の間の東京生活を楽しむことができたようである。

2 父母について

父は前述のように丹後の出身である。1900年に天橋立のある府中村(現宮津市)で生まれた。役所勤めの祖父が竹野郡役所に転勤したのにともない、網野に移り住むようになったと思われる。祖母は、謹厳で気難しい祖父の世話をし、私の父を長男とする3男2女の子どもを育てながら、網野小学校で裁縫の教員として長年勤務した。最初は代用教員であったが、中年になってから京都で講習を受けて正教員になった。数年前、長姉が偶然に祖母の履歴書を見つけたが、それによると、正教員になってから、給与がかなり増えていた。祖母の影響か、父のきょうだい5人のうち、4人は教職に就いており、その配偶者や子どもを含めて、親類には、京都師範、京都女子師範、京都教育大出身の教員がかなり多い。

先祖についても触れると、新潟の村上藩の士族であった曾祖父が、明治維新の後、どういうわけか丹後まで流れてきて、橋立にある丹後一の宮の籠神社の宮司を勤めた。ただ、祖母はその養女であり、祖父は鹿児島の方から入り婿として来たので、村上の方との血のつながりは無くなっている。本籍だけが、現在の京都市北区に変更するまで、村上のままであった。なお、曾祖母は1927年の丹後の大震災で亡くなっている。

さて、父は小学校から高等科を経て、京都師範学校に進み、さらに東京高等師範学校で国語・漢文を専攻した。師範卒だと小学校教諭として、音楽とか体育なども教えなければならないので、それを嫌って、中等教員資格の取れる高等師範に進学した、と聞いている。私も音楽、美術、体育などを苦手とする点では、父の血を受け継いでいる。父は身長178センチで、当時としては背が高かったので、ボート部に誘われ、1923年の関東大震災のときには、隅田川でボートを漕いでいたそうである。ただ、最近になって不思議に思うのであるが、震災について父からそれ以外には何も聞いていない。あれだけの大災害であったから、いろいろ深刻な経験や見聞があったと思われるが、父はどうして何も語らなかったのであろうか。

卒業後、父はいったん飛騨高山の斐太中学校に勤めたが、2年でやめて、満州に渡り、鞍山中学校、安東高等女学校を経て、私の生まれる前に新京一中に勤務するようになった。なお、鞍山時代に母と見合い結婚して長姉が生まれ、安東で次姉が生まれている。父は堅苦しいぐらいのまじめ人間であったが、酒が好きで毎日、晩酌を欠かさなかった。酒を飲むと少し人当たりが柔らかくなる、と他人からも言われていたようである。子どもに対しては厳しい方で、特に一人息子である私にとっては怖い父であった。姉たちと同じようにふるまって、たとえば台所に入ったりすると、男の子はそんなことをするものじゃない、と叱られたこともあった。ただ、敗戦後は、男の子でも何でもできないといけない、という考え方に変わったようで、私としてはまた戸惑ったのである。

母は1905年に、福岡県の宗像郡の海岸の村で旧家の末娘として生まれた。直方の女学校を卒業後、結婚して満州に住む姉のところに遊びに来ていたときに、父との話があり、結婚することになったらしい。母は末っ子のせいか少し勝手なところがあったし、身体が弱いといつも自称していたが、戦前、戦中、戦後の激動期に4人の子どもを無事に産み育てたのだから、その点は立派だったと思う。女学校卒でそんなに学識・教養があったわけではないが、直感的に鋭い判断を下す能力があり、父に対しても互角に意見を交わし合ったりしていた。敗戦後、日本に引揚げるまでと、帰国後の貧困と混乱が続く生活の中では、いろいろと人知れぬ苦労があったと思われるが、危機に遭遇するほど強さを発揮して、私たち4人の子どもを無事に育て上げてくれたのである。

3 佳木斯時代(42年春~45年8月)

42年春、北満の三江省の省都である佳木斯市に中学校が新設され、父が校長に任命されたので、一家は佳木斯に転居した。佳木斯は開拓団の中心地であり、黒竜江の支流である松花江に面する。当時の人口は約12万人、うち日本人は1万人程度であった。すでに日本人向けの小学校(正式には在満国民学校)が二つあり、医科大学と女学校も少し前に設置されていた。佳木斯に着いたときは、4月というのに寒い日で、風邪をひいていた私は、母と馬車に乗って、宿に向かった記憶がある。住まいは中学校と女学校の教員のための官舎であった。日本人ばかりの交際社会で、現地の人たちとの付き合いはなかったから、中国語に接する機会もほとんどなく、少し覚えたのは、敗戦国民になって、必要に迫られてからである。

43年春、私は朝日在満国民学校に入学した。入学のときも大雪が降って、登校に苦労した。1年のとき、大相撲の双葉山一行が満州巡業で佳木斯にやってきた。私の学校にも来て、新しくできた土俵で生徒の相手をしてくれた。どういうわけか私も指名されて、双葉山にぶつかるという経験をした。また、双葉山の弟弟子に不動岩という飛びぬけて長身の関取がいたが、彼は子どものとき、長春で私の家の近くにいて、親しい間柄だったので、そのとき家に来てもらった。背の高いのとよく食べるので、びっくりしたのを覚えている。 当時はすでに太平洋戦争の戦況が深刻化しつつあるときで、満州は空襲もなく、平穏であったが、男の先生は次々に応召していなくなり、現地の軍隊に在籍する教員経験者がその穴埋めで教えに来たりしていた。私は級長などもさせられたが、要領が悪く、ぼんやりとしていることが多かったので、よく失敗して怒られた。図画の時間には新聞に出ている空中戦の写真を真似した絵を描き、音楽の時間には軍歌ばかり歌う、というような時代であった。厳寒の佳木斯では、冬になって寒い日に、校庭を少し掘って水をまくと、たちまちスケートリンクができる。それで、放課後にはスケートをして、3年上の姉の授業が終わるのを待ち、一緒に帰ることがよくあった。ただ、スケートは一向にうまくならなかった。学芸会で劇に出たこともあるが、芝居がかったことがまったくできない性質なので、いやで仕方がなかった。松花江は対岸が見えないほどの大きな河で、広い中州があった。冬にはすっかり凍結するので、先生に連れられて、中州まで歩いて行ったこともあった。 その間、戦況はますます深刻になり、そのニュースはある程度は伝わってきていたはずだが、多くの在満日本人にとっては、まだ平穏な日常生活が続いていた。赤紙が来て、戦地に赴く男たちが増えたこと、中学校や女学校の生徒たちが動員で遠くの工場へ派遣されたことなどが、戦争を身近に感じさせる出来事であったのではないだろうか。45年春、長姉は女学校を卒業し、やがてはるか南の旅順女子師範学校に入学のため、一人旅立った。私は3年生、次姉は6年生、妹は5歳だった。そして、私たちの太平の夢は、1945年8月9日に始まるソ連軍の突然の満州侵入によって破られたのである。

II 避難民としての1年(45年8月~46年8月)

1 ソ連軍の侵入(45年8月)

夏がすぐ終わって秋になる満州では、8月の初めから2学期が始まる。その年も夏休みが終わって、年末までの長い2学期が始まっていた。自宅の近所で、子どもが井戸に落ちる事故があったことが、不吉な予兆であったのかもしれない。9日のソ連軍侵入の知らせがどう受け止められたかは覚えていない。とにかく、てんやわんやの騒ぎの中、11日には家・財産すべてを捨て、リュックサック一つに最小限のものを詰め込んで、最初は開拓団のある近くの農村へ避難した。しかし、すぐにそこも危険だということになり、いったん佳木斯にもどり、それからまた列車で南へ向かった。このとき、中学生は憲兵の指揮下で武装して避難民の援護にあたることになった。といっても、上級生の多くは動員で不在のため、1、2年生の子どもが主体である。教員もみんなソ連軍侵入と同時に召集されていたので、校長の父一人が中学生を引率することになり、私たちとは別行動を余儀なくされた。だから、母と姉、妹との4人で、中学校の教員の家族とともに、右往左往していたのである。列車は少し走ったと思ったら、草原の中で長く停車したりして、遅々として進まず、怪しげな情報が飛び交うことが不安をいっそうかき立てた。初めはショックのあまり食欲もなかったが、母が食べないといけないと言って、停車中に飯ごうでご飯を炊いていたら、急に汽笛が鳴って、発車しそうになり、慌てて飛び乗るというようなこともあった。そのとき、ご飯にバターをのせて食べたら、とてもおいしかったのを覚えている。当時、開拓団では酪農も営むようになっており、貴重品のバターがあったのを、リュックに放り込んできたのであろう。通り抜けた草原には秋の花が盛りを迎えていて、すばらしくきれいだったこと、夜には遠くで日本軍が兵舎などを焼き払うのか、赤々と火が燃えていたことなどが、印象に残っている。

とにかく、何日かの列車の旅の後、8月15日の夜(姉の記録では14日の夜)、綏化という飛行場のある町に着き、その晩は、敗戦などということはまったく知らずに、駅前で寒さに耐えつつ野宿をした。翌朝、飛行場に向かう途中、日本が負けたというニュースがどこからともなく流れてきたが、それはデマだとか、日本は負けても満州はまだ頑張るのだとか、情報が乱れ飛び、何を信じたらいいのかわからない状態が続いた。しかし、飛行場の格納庫に入り、親子4人が横になれるだけのスペースをようやく確保して何日か過ごすうち、日本の敗戦は厳然たる事実であることを思い知らされ、私たちは異国の地に取り残された敗戦国民になったのである。中国本土から海外に移住した中国人とその子孫を華僑と呼ぶが、在満の日本人も、約1年後に日本に引揚げるときには日僑と呼ばれ、番号入りの腕章を付けさせられた。もっとも私は子どもということで、その対象にもしてもらえなかったが。それまでは、日本人は満州全土を植民地化し、我がもの顔に振舞っていたのだから、1週間ほどの間に180度の価値の転換を経験したことになる。これは生き延びて無事に日本に帰ってくることができたから言えることであるが、得難い貴重な経験であった。

綏化の飛行場には、北満各地から3万人の日本人避難民が集まってきていた。すぐに食料品などを売る市が立ち、僅かに持ち出してきた金目の物を売って食糧を手に入れるという売り食いの生活が始まった。離れ離れになった家族と再会するという光景もあちこちで見られた。私の父も生徒たちを連れて現れて、以後は帰国まで親子5人で行動をともにすることができたのは、幸運であったと言えよう。父は生徒たちを家族にめぐり会ったら引き渡していたが、3人だけは家族に会えず、ずっと私たちと寝食をともにした。私たちの家族は、一時は守備隊の兵舎に泊らせてもらったこともあったが、その内にソ連軍が進駐してくると、また、追い出された。多数の日本人が一緒にいたので、それほど酷い目にあうことはなかったが、それでも夜にはソ連兵が略奪に来たりした。また、食糧不足で栄養失調になったり、母乳が出なくなったりして、乳幼児は次々に死んでいった。私の妹は当時5歳であったが、教員の家族グループの中でそれより小さい子どもはほとんど亡くなったと記憶している。だが、僻地で孤立した日本人集団の多くは、殺害、暴行、略奪、強姦など、それ以上の被害に晒されたのである。

2 長春での避難民生活(45年9月~46年8月)

9月になると秋が深まり、開けっ放しの格納庫では、夜は特に寒さが厳しくなってくる。このままでは凍死者が出るというので、日本人避難民は長春へ送られることになった。その途中のことはあまり覚えていない。無蓋貨車に詰め込まれたのはそのときのことだったのだろうか。途中の駅に停車したとき、反対方向に向かう列車に乗っている旧日本人兵士たちをよく目にした。彼らはそれから遠くシベリアに送られて、酷寒の地で何年間も働かされ、日本への帰国を待たず、命を失った人も多かったはずである。日本人の男は、兵士でなくても、町を歩いていて、ソ連兵に来いと言われて拉致され、そのままシベリアへ送られる、というようなこともよくあったのである。それはともかく、私たちは、何日か費やして、9月21日、無事に長春に着いた。さいわい、父の知人の紹介で、児玉公園の向かいにある商業学校の寄宿舎に教員グループ一同で泊まり込むことになった。

それから1年足らずの長春滞在中のことは、断片的にはいろいろと思い出すのだが、前後関係がよくわからなくなっている。とにかく列挙してみると、その寄宿舎にいたときであるが、みんな何か働いて生きていかねばならないので、同行の先生たちは、繁華街に薬品、雑貨などを売る店を出し、姉はそこに手伝いに行った。私は父が朝、仕入れてくる駄菓子の立ち売りをした。机の引き出しに紐をつけて肩からつるし、路傍で売るのである。大の大人がそんなことをしても、客が寄りつかないので、子どもがそうするのが普通だった。客はほとんどが子どもで、日本人と中国人両方であった。間もなく、ソ連軍は撤退していった。やたらに菓子がよく売れた日があり、喜んでいたら、ソ連軍の発行していた軍票が、撤退と同時に通用しなくなっており、大損をしてしまった。その後、蒋介石の国府軍や毛沢東の八路軍などが入れ替わり立ち替わり長春を占拠した。やっかいなのは、どの支配者も軍票を発行するが、支配者が変わると、その軍票は通用しなくなってしまうことである。その中で最後まで価値を保ったのは、旧満州国の紙幣と日本の紙幣だけという皮肉な結果になった。

軍隊の質を比較すると、ソ連軍が一番無規律で、自動小銃を肩にかけたソ連兵は所構わず略奪行為をしていた。たとえば、腕時計を奪って、いくつも腕に巻いて喜んでいるが、扱い方がわからずに壊してしまうのだった。日本人は夜は外出禁止になっていたかと思うが、佳木斯以来の知人であるM氏と夜歩いていて、ホールドアップされたことがある。M氏は、手袋の掌がわに紙幣を隠していたら、見つけられなかったと喜んでいた。M氏は佳木斯医大の学生で、飛騨高山の出身であり、父が高師卒業後に斐太中学に在職していた縁で、よく遊びに来ていた。私よりは一回り年上で、日本に帰ってからも、京都でいろいろと世話になり、酒の飲み方なども教えてもらった。

そうした経験を通じてわかったのは、中国人は政権の交代や価値の転換に慣れていて、変わり身早く状況の変化に対応していたことである。これまでそういう苦労を知らなかった日本人は、初めて敗戦国民になり、何度か苦い経験をしてから、ようやく少しずつ賢くなっていった。国府軍の支配のときには、100人ばかりのアメリカ兵が長春にやってきた。そのころ、児玉公園内の球場で、日本人が出身地別の3チームに分かれて野球の試合をしていたが、そのどれかのチームがアメリカ兵のチームとも試合をしたことがあった。私は野球のルールも知らなかったが、そこで煙草を売っていたことを覚えている。収支の計算は親任せだったので、駄菓子や煙草の行商でどれだけ利益があったかはわからない。とにかく、それほど辛いこともなかったし、無事にすんでみれば、面白い貴重な経験であった。

やはり国府軍占領下の時期の話であるが、近所にアメリカ式か立派な装備の兵隊たちが駐屯していて、ご馳走をしてもらったりしたこともある。そのとき、彼らが私の母に、日本に帰っても食糧難で大変だから、この子をおいていきなさいと勧め、母が慌てて断ったという一幕もあった。お蔭で私は残留孤児にならないですんだのである。

私の家族は、前に長春に長く住んでいて、知り合いも多かったので、父を寄宿舎に残して、ある知人の家に住まわせてもらったこともあった。そこを出てからは、何度か転居したが、よく覚えていない。転居といっても、リュック一つの荷物であるから、簡単だった。風呂に入るのは、月に一度だけというのも普通のことだった。食糧は豊富で、金さえあれば何でも手に入れることができた。内地に引き揚げてからの方が、食糧難を実感したようにも思う。ただ、大勢の日本人避難民が密集して住んでいたところでは、栄養不足に加えて、発疹チブスなどの伝染病で倒れる人が多く、悲惨な状況であったと聞いている。

私の家族は、なんとか栄養失調にもならずに過ごしていたが、その間に、私はツベルクリン反応が陽性になり、軽い結核を患った。肋膜から水を取ってもらったりしたが、薬もろくにない状況下で、間もなく自然に治ったのは本当に幸運だった。ただ、その痕跡は残っていて、老年になってから、健康診断でレントゲン写真を撮ると、胸の隅の方に異常が発見されて、精密検査に回されることが何度かあった。そればかりか、京都女子大での定年退職を目前にした2009年秋には、喀痰検査で微量の結核菌が検出されて、数か月間の服薬を強いられ、また、まわりの教職員、学生や家族に大変迷惑をかけた。10歳のときの結核菌が死滅しないで残っていて、年とって身体が弱ってきたときに、再び活動を始めたのだと思われる。

3 引揚げ(46年8月~9月)

46年の7月ごろから、長春の日本人の日本への帰国が断続的に進み始めた。私たちも何度も予定変更でじらされたあげく、8月末にようやく乗船地であるこ蘆島に向けて出発した。錦州で数日を過ごしてから、9月6日にリバティ型という、アメリカ軍の上陸用舟艇の親船に乗り、船底の狭い空間に詰め込まれた。船員は海軍から復員した日本人であった。食事はきわめて粗末だったが、海が荒れて、船酔いでそれも受けつけなくなった。4日ぐらいかかって、ようやく目的地である佐世保に着いた。伝染病患者がいないか調べるため、乗船から1週間は上陸させないことになっていたようだが、私たちの場合は、引揚げ船が多くて、陸の受け入れ施設が詰まっており、結局佐世保の港で16日まで祖国の陸地を眺めながら、待たされることになった。ようやく上陸すると、米軍の兵士にDDTを頭から足先までたっぷりとかけられ、敗戦国民の悲哀を味わったが、その効果は劇的で、それまで私たちを悩ませた虱の活動はすぐに止った。佐世保の施設で2日間を過ごしてからは、目的地までの国鉄の切符を支給されて、祖母の待つ丹後の網野を目指すことになるのだが、みんな疲れていたので、母の父が健在であった、福岡県宗像郡の母の里に寄ることになった。途中、博多駅で乗り換えたときに、駅の食堂で海草で作った麺を売っていてびっくりした。

母の里である勝浦村は玄界灘に面していて、新鮮な魚が豊富にあり、朝、祖父が自分で買ってきて、調理をしてくれたのだが、みんな衰弱していたので、せっかくのご馳走を食べても胃腸が受けつけず、下痢をしてしまう始末だった。母方の伯母や従姉たちも会いに来てくれて、何日間か過ごした後、また長時間、汽車に乗って京都に向かった。京都駅で山陰線に乗り換えるのだが、そのあたりから急に言葉が変わって、関西弁、京都弁が車中に氾濫するようになったことが印象的だった。こうして、9月末に一家5人は長い旅を終え、祖母のいる網野にようやく帰り着いたのである。なお、旅順の女子師範で学んでいた長姉は、一人で随分苦労したようであるが、翌47年春に無事に帰ってきた。激しい動乱の中で、親子6人が生き延びて帰国できたことは、幸運に恵まれたせいでもあり、本当にありがたいことだった、といま改めて感じている。

III 高校卒業まで(46年9月~55年3月)

1 第二のふるさと網野(46年9月~51年8月)

網野に帰って、しばらく休養してから、10月、網野小学校の4年生に編入学した。1年余り学校にはまったく行っていなかったが、その当時はのんびりしていて、遅れずにすんだのである。やはり田舎の学校のことで、クラスの中で少し目立つのは、外地からの引揚げ者や都会から疎開してきた子どもが多かった。それだけに、よそ者としていじめられることがなかったわけではないが、間もなく友達もできて、海あり山ありの恵まれた自然の中で、勉学などというものに追われることもない、楽しい少年期を過ごすことができた。

網野は丹後でも奥丹後と呼ばれる日本海に面した町で、農業・漁業に加えて、丹後ちりめんの産地としても知られている。自宅から5分ぐらいで、きれいな砂浜のある海岸に行けるので、夏は毎日のようにふんどし一丁で泳ぎに行き、暗くなるまで波と戯れていた。水泳以外で多く楽しんだのは、草野球である。用具も揃わないので、自分たちでボールやバットを作り、ライトに打つと海に入ってしまう砂浜で、飽きもせずに日が暮れるまで遊んでいた。

帰国当初は食糧事情がまだ厳しく、農業とも漁業とも縁のない我が家にとっては、金さえ出せば何でも手に入った満州のときよりも、窮屈な食生活であった。もともと痩せていた私は、同級生から「すいっちょ」と呼ばれていた。「すいっちょ」は栄養失調の「失調」の訛りである。でも、海の幸には恵まれていて、たとえば、冬の蟹漁の時期には、おいしい小さなコッペ蟹が安く手に入り、たらふく食べることができた。ただ、その経験の後遺症で、私はいまに至るまで、世間では珍重されている日本海のずわい蟹を、ありがたがるほどのご馳走とは思えないのである。

2 宮崎の田舎暮らし(47年9月~48年3月)

5年のときには、また一つ大きな変化があった。この年の夏の終わりから、春に無事に帰国した長姉とともに、宮崎県の野尻村という、網野よりもずっと田舎に住む伯母(母の姉)のもとに行くことになったのである。伯母の家は小林町から宮崎市に通ずるバス道路に面していたが、隣の家まで数百メートルもあるという一軒家で、ガスや水道どころか、電気も井戸もないという、当時としても珍しい住まいだった。その前に亡くなっていた伯母の夫は、長年、アメリカで苦労して帰ってきて、アメリカのような広い土地を求めて、ここに定住したということだった。両親がなぜそこに行かせようと決めたのかはわからないが、姉には、しばらくゆっくり休養させたい、私には、そういう原始的な環境で身体をしっかり鍛えさせたい、というような意図があったのだろうか。とにかく、私と姉は翌年3月まで、そこで伯母や二人の従姉弟の世話になって過ごすことになった。

野尻での生活を思い出すままに述べる。伯母の所有地は境界がよくわからないほど広く、沢山の鶏を放し飼いにしており、畑には野菜や落花生、蕎麦などを作っていて、病気上がりの従兄が主に世話をしていた。従姉は、女学校卒業後、満州の私の家に家事見習に来ていたことがあるが、小学校の先生として勤めていた。伯母は婦人会など外で多く活動していて、宮崎県ではかなり有名な存在だったらしい。みんないい人たちで、お蔭で姉と私は、不自由な生活をそれなりに楽しんで過ごすことができた。電気がきていないので、夜はランプが頼りであった。それでも手回しの蓄音機でクラシックの音楽を聴いたりして、文化的には高尚な生活を楽しむという面もあった。水は住まいからかなり離れているバス通りを横切って、またしばらく歩いたところに流れている用水の小川まで汲みに行くのである。飲み水、料理用の水、風呂の水すべてを、天秤棒で担いで汲んでくるのだから、何回も往復する必要があり、そのかなりの部分が私の仕事になった。お蔭で私の貧弱な肉体も少しは鍛えられたであろうか。また、野尻滞在の最初のころには、福岡の祖父が来ていて、器用な祖父から大工仕事を教えてもらったりした。これも懐かしい思い出である。

野尻で過ごしたのは5年生の2学期と3学期であるが、その間、バス道路沿いに3キロほど離れた野尻小学校に歩いて通学した。この辺りは南国で日差しは強いが、霧島の麓の高原地帯なので、朝晩はかなり冷え込む。子どもは学校に裸足で通うのが普通だったので、私もそうしたが、夏は焼けついて熱く、冬は霜が降りて冷たかった。暖衣飽食のいまからは考えられないことで、自分ながらよく我慢したと思う。この小学校でも、新参者の異分子はいじめの標的にされがちであったが、私も、二度目の転校で、少しは免疫性ができたか、耐えられないほどではなかった。こうして冬が過ぎ、春になって、また網野に帰ることになった。途中、福岡県の直方で炭鉱を経営していた母の姉婿のところに寄った。当時、炭鉱は、日本の復興をエネルギー面で支えるという使命を担って最盛期を迎えており、景気のいい話を沢山聞かされ、色々とご馳走にもなったことを覚えている。

3 再び網野小学校へ(48年4月~49年3月)

こうして再び網野に帰り、ここで小学校6年から中学3年の途中までを過ごすことになるのだが、このころも日本の社会体制の急速な転換は続いていた。47年5月には、新しい日本国憲法が施行された。また、同じ47年度から教育改革が実施に移され、6・3・3制という学校制度が導入された。また、47年ごろから農地改革が行われ、その結果、日本の地主階級は消滅した。我が家について言えば、父は帰国してすぐに、隣町の峰山にある工業学校に勤務していたが、新制度に伴い設置された網野中学校の校長を務めることになり、創設に付随する雑務に忙殺されていた。次姉はその新制中学で学んでいた。農地改革の我が家との関わりについても触れておく。私の家は地主ではなかったが、戦前に東京に滞在したときに、郊外の国立に将来に備えて300坪の土地を購入していた。ところが、その土地を、税金が安いという理由で、農地のままにしていたため、この改革で、不在地主として、強制的に安く買い上げられてしまった。満州での全財産を失った上、内地の土地も取り上げられたのだから、二重の被害者になったのだが、父や母はそのことについて、ほとんど愚痴をこぼすことはなかった。ただ、私は、東京の土地があったら、一家はいずれ東京に移っていただろうし、そうしたら、以後の私の人生はどうなっていただろう、と想像し、運命の不思議さを感じるのである。

網野に帰った私を、家族や友達は暖かく迎えてくれた。6年生の時期は平穏に過ぎて、49年の春には、網野中学に入学する。幸いなことに、父は、私と入れ替わるようにして、校長職を辞し、京都市の中学に平教員として転出した。父自身が書き残している文章では、校長を辞めたのは、満州のときとは違って、難しいこと面白くないことばかりが多かったからだ、と説明しているが、おそらく管理職そのものに嫌気がさしていたのだと、私には思われる。父はその後、77歳で亡くなる少し前まで、20数年にわたって京都の公立・私立の中学・高校に勤務するが、その間、一貫して学校図書館の発展・充実に情熱を傾けた。これはもちろん学校図書館の重要性を確信していたからであるが、それだけではなかった。父はもともと愛書家であり、在満当時はかなり立派な蔵書をもっていたが、敗戦ですべて失ってしまった。引揚げ後は、自分で本を買い集める余裕はなかったから、それに代わる楽しみを、図書館によい本を集めることに見出していたと思われる。

4 網野中学から烏丸中学へ(49年4月~52年3月)

私が中学に入学した49年は、新学制の3年目であり、網野中学も創設3年目であった。初めは小学校に間借りするなどして発足したのだが、父も尽力したからか、自前の新しい校舎が完成して、新入の私たちを迎えてくれた。校域も広くなって、毎日2里も歩いて通学する生徒も含めて、1学年350人、7クラスという大規模校であった。同級生は中卒あるいは高卒で京都、大阪方面に就職することが多かった。卒業後のいつごろからか、京都周辺に住む同学年の有志が集まる同窓会が、毎年京都で催されるようになり、やがて網野からも多数参加するようになって、いまも続いている。私は卒業までは在校しなかったのであるが、誘われて出席するようになり、中学時代には知らなかった人たちとも交流を深めることができた。網野は私の第二のふるさとになったのである。

網野の自然についても、少し触れておきたい。まず網野の海である。天橋立には、加茂家の墓があり、また、京都教育大に勤めるようになってからは、水泳訓練の付き添いで毎年のように橋立の海でも泳いだが、網野の海の方が、水の透明度、遠浅の程度など、海水浴場としてずっとすぐれているといつも感じていた。町と砂浜の間には丘があり、そこには野蒜というねぎに似た野草が生えていて、これを積んできて酢味噌で和えて食べるとおいしかった。海とは反対側にある田畑の畔では、芹を摘み、福田川という小さな川の河原では、春に土筆を摘んでくるのが、楽しみであった。また、福田川では、かますっぺと呼ばれる小さな魚がよく釣れた。針を2本つけておくと、2匹一度に釣れたりする。天ぷらにするとおいしかった。畑作りも経験した。家からかなり離れた山の中の小さな畑を貸してくれる人があり、そこでトマト、キュウリ、ジャガイモなどを作った。母と二人で、家の便所から肥を汲みだして、手押しの荷車で2,30分かけて運び、最後は山中の畑まで天秤で担いで上がる、というような作業を数年間、続けた。ある程度の収穫はあったように思うが、それよりもはっきりと記憶に残っているのは、畑の側にきれいな水が湧いている小さな泉があり、そこに野兎がよく来ていたことである。

夏には毎日のように海に泳ぎに行っていたが、我流でやっていたせいか、うまくはならなかった。痩せていたので、浮力がつかず、特に平泳ぎは顔を上げたままで泳ぐのが難しかった。それでも、何年のときか、遠泳に出て、アップアップしながら、完泳したことがある。いまも、山よりは海になんとなく親近感を抱いている。波が静かで私の体調もいいときには、水と身体が一体化し、自然に手足が動いて、無心無我の言わばエクスタシーの状態で泳ぐ、という経験も何度かあった。ただ、広いきれいな海で泳ぎ慣れたせいか、いまも都会のプールなどでは泳ぐ気がしないのは、困ったものである。なお、小学校のときは、まだ修学旅行という行事は復活していなかったが、中学では実施されて、3年生の5月には、米を持参して2泊3日で京阪神と奈良を見学して回るという、忙しい旅行を体験した。大阪での宿は、道頓堀の繁華街の真ん中にあり、賑やかな町と汚い川の印象が残っている。

父は49年春から京都へ赴任していたが、長姉はそれに同行し、次姉も間もなく京都に移った。母もときどき京都に世話に行くので、祖母と妹と私で留守番をすることが多くなり、炊事なども少しはやるようになった。そして中学3年の夏には、網野の家を引き払い、一家を挙げて京都に移ることになった。といっても、京都の住まいは出雲路橋近く、鞍馬口通りの商店街にある八百屋とパチンコ屋の2階の6畳3間であり、そこに祖母も含めて7人の家族が住むことになったのである。もちろん自分の机などはなく、ほとんど勉強することもなかった。私の寝床は積み上げた荷物の箱の上だった。そんなに無理して京都に転居したのは、両親が子どもの教育、特に私の教育を気にかけてくれたからだと思う。

5 紫野高校で(52年4月~55年3月)

私は3年の2学期から烏丸中学に編入し、翌春には、公立高校共通の入試に合格して、大徳寺の西に新設された市立紫野高校に入学した。入試の得点は割に高かったが、入学してからの成績は、きちんとノートをとって学ぶという習慣が身についていなかったせいか、よくなかった。学区には京都の高級住宅地が含まれており、他の中学からの入学生には、京都学芸大(後の京都教育大)附属中学の出身者をはじめとして、秀才が多かった。親はがっかりしていたであろうが、私自身は、自分の力はこの程度だと思って、自転車で京都の名所旧跡を訪ねまわったり、宝が池でボートに乗ったりして、気楽に過ごしていた。テレビがまだなかったこのころからの私の一つの楽しみは、映画を見ることであった。初めはアメリカ映画の華やかなミュージカルや西部劇をよく見たが、やがて詰まらなくなり、フランス映画、さらにはイタリア映画へと好みは変わっていった。当時は二番館では二本立てを安い料金で上映していたので、大学院生のころまで、多いときは年に4,50本の映画を見ていた。また、日本の流行歌は家庭に1台しかないラジオで自然に聞き覚えた。外国製のポピュラーソングの多くは映画音楽であり、ラジオでこれに親しんだ後で、映画を見ることが多かった。 その間にも、父は住宅金融公庫に何度も融資の申し込みをし、母は資金作りのため、内職に励んでいた。二人の姉も小学校の事務員として勤めて、それに協力していた。幸運なことに、地価が暴騰する前に、当時の住まいの近くの閑静な地域にある100坪余の宅地を手に入れることができた。そして、私が高校2年のときに、公庫からの融資がようやく認められて、待望の我が家が実現した。平屋建て20坪ほどの、一家7人が暮らすには小さな家であったが、住に関する苦労を重ねてきた私たちには、天国のように感じられた。加茂家の本籍は、それまで、父も行ったことがないという新潟県の村上にあったが、これを京都の出雲路の地に移し、こうして京都を生活の本拠とすることになったのである。

高校生活も2年目になると、進路の選択が問題になってくる。父はそのころの風潮から、理科系を勧めてくれたが、私自身は、数学はともかく、理科にはまったく関心も能力もなかったので、選択肢は自然に文科系に限られた。そして、当時は法律や経済にも関心がなかったので、文学部を志望することにした。文学部で何を専攻するかについても、心の中では不確定のままであったが、世界史の授業に興味を覚えたので、一応西洋史志望としておいた。志望校は、自宅から自転車で10分の近さにある京都大学が費用の点でも一番安くてすむので、合格する自信はなかったが、これを第一希望にした。こうして、2年の後半ぐらいから、遅まきながら受験勉強を始めた。

このころから、世の中が落ち着いてきたせいか、大学への受験競争がしだいに激しくなり、浪人することも珍しくなくなっていた。予備校や家庭教師に頼るという傾向もようやく顕著になりつつあったが、我が家ではそんな余裕はなさそうであったし、私自身もそうしたいとも思わず、高校での補習授業に出たぐらいだった。それでも、勉強をすると、ある程度の成果は上がるもので、校内の模擬試験でもいい成績を取れるようになったし、自分の能力に少しは自信がもてるようになった。

高校の修学旅行は、2年から3年になる春休みに行われた。東京方面と九州方面に分かれての旅行であったが、私は九州を選んだ。広島、長崎の爆心地に寄り、雲仙、熊本、阿蘇を回って、別府から船で帰る5泊6日であったが、今度はおいしい食べ物もあったし、宿にも恵まれて、楽しい思い出の残る旅になった。

6 受験と旭丘中学事件とフォークダンスと

私が高校3年になった54年には、受験勉強以外にも、触れておきたい出来事がいくつかあった。一つは、京都の旭丘中学で、3人の教師が、「平和と民主主義」を掲げる日教組の方針にしたがって偏向教育をしたという理由で懲戒免職になり、これに抗議するための同盟休校が行われるなど、長期にわたって紛糾した事件である。この旭丘中学は紫野高校のすぐ近くにあり、高校にはその卒業生が多く進学してきていたから、この事件の影響は直接的に私たちの身辺にも及んできた。たとえば、この事件を契機に、共産党に入党する紫野高校の生徒が急増した。当時は、言わばイデオロギーの時代であり、入党した高校生が党の指令で農村へ工作員として派遣されるというようなことが、大真面目に行われていた。私の友人の多くも、そうした政治活動に関わっていたが、私自身は関心はもちながらも、実際的な活動には踏み込めなかった。それは、私が臆病だったこと、親の目が怖かったことのせいでもあるが、最大の理由は、敗戦時の体験で、当時、左翼の人々の間では絶対的に信奉されていたソ連の社会体制やマルクス・レーニン主義の正しさを、簡単に信じ込むことができなかったことにある。そして、このような体験は、その後、大学で学んだ時期にも繰り返されるのである。

もう一つの事件は、フォークダンスの流行である。そのころ全国的にはやったと思われるが、私たちの高校でも急に盛んになり、しばしば校庭でダンスパーティが催された。私も一時は夢中になり、機会があるたびに、受験のことなど忘れて参加した。これにも、イデオロギー的な要素がなくはなかったが、大部分の参加者は、そういうこととは無関係に、ただ異性と手を取り合って踊ることが楽しくて参加していたのだと思う。まだそのころは、異性と付き合うことは、そう簡単なことではなかったのである。

そうした動きの中でも、受験勉強は一応やっていたので、55年3月、私は無事に第一志望である京大文学部の入試に合格した。紫野高校は新設校だったので、大学入試の実績がなく、先生も生徒も不安に思っていたのだが、結果としては、京大に13人合格し、現役だけで比較すると、京都の公立高校でトップであった。このころから、日本の高度経済成長が始まるのだが、借金して家を建てたばかりの我が家とは無縁の話であった。父は54年度末で、定年を前にして公立校を退職し、私学に勤め始めた。これも経済的なことを考慮しての決断であったに違いない。私の京大入学を家族みんなが喜んでくれたが、どういうことを私に期待していたかは、よくわからない。金とはあまり縁のない文学部に入り、しかも、大学院へ進学したので、長く親の脛をかじる結果になったのは、本当に申し訳なかったと思う。

IV 京都大学で過ごした11年(55年4月~66年3月)

1 教養部で(55年4月~57年3月)

私たちが入学したころまで、京大では2カ年の教養部での授業を、1回生は宇治分校で、2回生は旧三高跡の吉田分校で受けることになっていた。宇治分校は、京阪電車宇治線の黄檗駅近くの旧陸軍火薬庫跡にあり、隣には自衛隊の施設があった。教室の多くは陸軍時代の建物を改造して使っており、雨が降ると火薬の匂いが漂ってくるなど、学問的な環境とは縁遠いところだった。それでも、新入生たちは、割に熱心に授業に出たし、宇治の土地にも馴染むよう努めていたように思う。文学部入学の120名は、第一外国語に何を選ぶかによって3クラスに分かれたが、私は英語を第一外国語とするL1(エルワン)クラスに属した。近くにある黄檗山万福寺内の部屋を借りての茶話会に始まって、クラス内の交流も盛んであった。宇治の県神社の祭のときには、宇治に下宿する友達のところに泊まり込んだりした。同級生には、一浪、二浪で合格した、老成した感じの者も多く、高校時代とはかなり違う雰囲気であった。私はまだ未成年であったが、酒を飲む機会もしだいに増えた。ただ、酒といっても、赤玉ポートワインとか、トリス・ウイスキーがせいぜいで、ビールなどは当時は贅沢品であった。当時の級友の多くとは、いまも付き合いが続いている。

なお、当時は、日本の左翼もまだある程度のまとまりと人を惹きつける力を保っていて、ソ連版の『経済学教科書』の読書会があちらこちらで開かれ、また、反戦自由を唱える「わだつみ会」が多くの学生を集めて、熱心に活動していた。私はそんなに批判精神が強い方ではなく、疑い深い方でもないが、満州における敗戦時の経験もあり、『経済学教科書』のような特定のイデオロギーの露骨な押し売りにはついていけず、それをそのまま鵜呑みにしている学生を見ると、不思議で仕方がなかった。だから、そうした学生たちと交流はあったが、運動に参加することはなかった。そのころは、ハンガリーの思想家G・ルカーチの著書名が象徴するように、私たちにマルクス主義か実存主義かの二者択一を迫るような思想的状況が少なくとも一時的にはあったが、私自身はどちらにもコミットすることはできないまま過ごした。

授業では、週6日間、朝から午後まで、多くの科目に登録していたので、忙しかったが、その中でも週3コマの英語と2コマのドイツ語の外国語科目は、予習が必要な上、あまりサボることもできないので、かなりの負担であった。その他の教養科目では、藝術学など、大学で初めて学ぶ科目に興味を覚えた。歴史を専攻するつもりだったので、その関係の教養科目を多く選択したが、教員が自分の専門とする狭い分野のことばかり取り上げていて、がっかりした。哲学の授業は、田辺元の弟子のU先生の担当で、病気のための休講が多かったが、内容は、自分に予備知識がほとんどなかったせいか、新鮮に感じられた。学年末の試験のときに少し勉強したことがきっかけで、哲学を専攻する気になった。

その学年末の試験のときに、軽い虫垂炎にかかった。試験中なので、薬で散らしたが、終了後、いつまた発症するか気になるので、府庁前の第二日赤で手術を受けた。検査入院を除いては、それが75歳になるまでに経験した唯一の入院である。なお、第二日赤には、次姉が栄養士として勤務し始めたところであった。頑張り屋の姉は、小学校の事務員をしながら、堀川高校の定時制で4年間学ぶという道を選び、それから京都女子短大の家政科食物専攻を卒業して、日赤に就職したところだったのである。

2回生になり、吉田分校に通いだすと、教養部所属でも、文学部の専門の授業も一部は履修できるので、東一条の通りをはさんで北側にある文学部に通って、哲学史関係を中心にいくつかの専門科目を学ぶようになった。宇治までは自宅からの通学に1時間以上かかったが、吉田分校までは自転車で15分もあれば行けるし、文学部はもっと近いので、ずいぶん楽になった。旧三高の校舎がまだ使われていた吉田分校は、宇治とはかなり雰囲気の異なる場であった。教養部の教員の中には、三高の教員だった人が残っていて、昼休みに学生を集めて、三高寮歌を教えたりしていた。食糧事情も大分よくなってきて、生協の食堂では30円程度でカレーライスを食べることができた。関田町の学生会館に住む友人のところには、しょっちゅう入り浸り、夜中までトリスや2級酒を飲んで、議論に熱中した。

7月には、同級のS君、W君と一緒に10日以上にわたる九州旅行を楽しみ、熊本、雲仙、阿蘇、高千穂峯、青島などを巡った。旅館・ホテルなどにはほとんど泊らず、友人宅や野尻村の私の伯母宅に世話になり、ときにはキャンプ場のバンガローに泊るという、安上がりの旅であった。随分いろいろなところに迷惑をかけたが、当時はそういうことが珍しくなかった。学生の特権を利用させてもらったという面もあったと思う。

アルバイトについては、家庭教師の口はなかなか見つからず、たまにあっても長続きしなかった。わずかに経験したのは、東映の時代劇の撮影にエキストラとして行ったことや、予備校の模擬試験の監督や採点をしたことなどである。大学で育英会の奨学金を借りるようになってからは、親から小遣いをもらうことはほとんどなくなっていたが、家計の事情を考慮すると、もっと積極的に仕事を探すべきであったと思う。

3回生に進学する直前の春休みには、ふとしたきっかけで、1週間の参禅を体験した。私の高校1年のときのクラス担任で、「一般社会」を教えたK先生は、京大の哲学の出身で、永平寺で禅の修行を積んだ経歴をもつ、非常に個性的な人であったが、私が哲学を専攻すると伝えると、ぜひ禅をやってみるようにと勧められた。それで、京大の哲学関係者を中心に毎年4月初めに妙心寺内の寺で開かれていた、1週間泊まり込みの参禅会に、K先生とともに参加した。でも、足は痛いし、雑念ばかり浮かんで無念無想にはほど遠い状態が続き、この体験になんらかの意義があるとは思えないまま終わった。京大の哲学には、戦前から、西田哲学とドイツ観念論と禅とを結びつける京都学派の伝統があったが、私はこの体験から、自分はこのような伝統には馴染まないだろうということを、漠然とではあるが、感じ取ったのである。

2 学部で哲学史を学ぶ(57年4月~59年3月)

京大文学部では、哲学1講座と西洋哲学史の古代・中世・近世の3講座が、西洋哲学系として一つのまとまりを作り、カリキュラムについても、この4講座にはかなりの共通部分があった。戦前からは、前述の京都学派が大きな影響力を保持していたが、戦後、公職追放などがあって、堅実な哲学史研究を重んずる教授陣への入れ替えが進んでいた。そして、私が在学した昭和30年代は、掛け値なしに日本でも最高のスタッフがそろった時期であって、哲学講座には三宅剛一教授、西洋哲学史の古代に田中美知太郎教授、中世に高田三郎教授、近世に野田又夫教授がおられた。私は哲学を選ぶことにいくらか気後れがあって、教授陣の中で一番若い野田教授担当の近世を専攻することにした。ところが、私が無知で予想もしなかったことだが、三宅教授は私が3回生のとき限りで定年退職され、野田教授が哲学講座に移られた。そして、近世の講座の後任には、京都学派で追放から復帰された西谷啓治教授が就任された。私としては、ややがっかりしたが、以後も実質的には野田教授の指導を受けたし、西谷教授も親切にしてくださったから、何も不都合はなかった。

私が京大の哲学で学んでよかったと思うのは、一つにはそれぞれに個性のある一流の先生方に接する間に、知らず知らずのうちに、多様な学問の仕方を学んだことであり、もう一つは、先生方はこちらが押し掛けていくと、ていねいに教えてくれるが、それ以外は干渉せずに、自由にしておいてくれたことである。なお、哲学・哲学史関係に同時に入ってきた学生は他大学からの編入者を含めて7人であったが、ほとんどが年上で、しかも専門についての素養のある人たちであったので、素人にすぎない私はいろいろと教えられることが多かった。この7人は、みんな後に大学の研究職に就いている。哲学上の専門分野・関心は各人各様であったが、先輩にも同輩にも親しく付き合ってもらい、その交友関係の多くは現在も続いている。その意味でも、私にとっては得るところの大きい時期であった。

卒業論文のテーマには、17世紀英国の哲学者ジョン・ロックの実体論を選んだ。私は哲学が社会にとってどういう意義をもつかに関連して、啓蒙ということに関心があり、それで近世の市民社会を先導したロックを学び始めたのだが、卒論では、彼の認識論の中で、彼自身が曖昧なままにしている、実体という観念の経験的起源を明らかにするという試みに限定せざるを得なかった。しかし、論文をなんとか書き終えてみると、自分の未熟さや不徹底なところばかりが目について、さらに学ばなければならないという気になってしまう。学部卒で社会に出ていった同級生たちの多くは、教員、公務員、新聞社、そのころ新しくできつつあったテレビ局などに就職していたが、私自身は就職活動もしていなかったので、当然のように大学院への進学という道を選ぶことになった。卒論の試問は、田中・高田・西谷・野田という4教授がお揃いで、私のつまらない論文について厳しく指導してくださったので、これだけでも、授業料の価値はあると思った。国立大学の授業料は、私たち55年入学の学生までは年に6千円で、当時の金銭感覚でも非常に安かった。翌年の入学生からは9千円に値上がりしたと記憶している。なお、育英会の奨学金は入学時には月2千円、2回生からは3千円であった。卒業論文の出来も、院入試の成績もあまりいい方ではなかったが、なんとか院への進学を許され、こうして私の研究者としての経歴は始まったのである。

3 修士課程で(59年4月~61年3月)

修士課程に進学して学んだのは、カントである。哲学の場合、授業とは関係なしに、自分で研究対象を選び、ほとんど独学でそれに取り組むことが普通であり、大事でもある。最初はカントの『純粋理性批判』を通読したが、難解で取り付く島もないという感じであった。私自身の関心は実践哲学にあったので、次に『実践理性批判』を読んだが、これもほとんど理解できず、やむなく、比較的わかりやすいと言われる『道徳形而上学の基礎づけ』の研究に取りかかった。修士論文では、『基礎づけ』の内容を、できるだけ平易な形で、つまり、自分にも理解できるような形で、把握した上で、カントの自律という概念がどのように成立するかを論じた。修士論文の試問も卒論のときと同じ4教授であった。西谷教授は私の平易なカント解釈では物足りないという意味の指摘をされたが、ドイツ観念論の嫌いな田中教授は、私が卒論で英国の思想を学んだことが生かされていると褒めてくださった。高田教授は「カントを批判するのは容易だが、カントに代わるものを立てるのは難しい」という私の表現について、そういうことは簡単には言えない、という苦言を呈された。野田教授はもっと大きなテーマに取り組むようにと言われたように記憶する。いずれにしても、4人の先生方が私の取るに足りない論文をきちんと読んで、真面目に論評してくださったことを、ありがたいと感じた。特に、偉い先生方の中で評価が分かれたことは、私にとって救いであったし、「教育的」という意味でも興味深かった。

私たちが修士論文の作成で忙しかった60年は、いわゆる「60年安保」で騒がしい年であった。日米安全保障条約の改定の是非をめぐり、改定を強行しようとする岸自民党内閣とこれの阻止を唱えて社会党や総評を中心に結成された「安保改定阻止国民会議」の運動とが、60年5月から6月にかけて激突した。紫野高校時代の同級生のK君は、旭丘中学事件の当事者であった教員の長男であるが、全学連の書記長として活躍していた。私たち大学院生の集団も京都市内をデモ行進したりしたが、東京で激しい運動を展開していた全学連の学生たちに比べると、微温的なものに過ぎなかった。結局、安保改定は成立したが、7月には岸首相は退陣し、代わって池田内閣が成立した。池田内閣は「国民所得倍増計画」を基本的な政策として掲げ、ここに戦後の日本にとっての一つの転機が訪れる。全学連を含めて、左翼の分裂が目立ってくるのも、このころからである。

だが、この騒がしい世相をよそに、私たち哲学関係の院生4人は、7月末に、岡山県の湯原温泉から蒜山高原を経て鳥取へ抜ける、1週間ほどの旅に出かけた。このときは一泊2食付きで500円ぐらいの宿を見つけて泊ったが、最後は鳥取大学の寮に潜り込んだりした。記憶が薄れているので、当時の写真から思い出すのだが、大学院在学中を通じて、同じ仲間たちと、京都、奈良、神戸などの名所旧跡には、よく日帰りで出かけている。当時の私たちの精神状況がどうであったかは、いまとなっては、自分でもよくわからない。

なお、話は前後するが、修士課程では、奨学金が借りられなかったので、1回生のときには、立命館中学で週10時間、英語の非常勤講師として勤務した。英語の教員免許を取ってはいたが、新制中学で国語専門の先生に英語を習ったりしたので、発音などに自信がなく、結構つらい仕事だった。だが、運命は皮肉で、その後も、予備校、大学、短大などで英語を教えて生活の資を得る、という経験を重ねることになるのである。

4 博士課程で(61年4月~64年3月)

博士課程では、当初は再びロックを研究対象にした。認識論を一応踏まえた上で、道徳、政治、社会についての思想に取り組むことが、私の当時からの思考の方向性であったので、博士課程では、ロックの政治思想を研究するつもりであった。ところが、ロックの政治論を彼の初期の思想にまで遡って学んでみても、あまり引っ掛かるところがなく、行き詰ってしまった。ロックの市民社会理論は、欧米の18世紀をリードし、現代にまで大きな影響を及ぼしている思想であるが、それだけに、現在の私たちにとっては、当たり前のことになっており、かえって論ずるべき問題性を見出し難いのである。だから、ロックの思想の独自性を理解するには、ロックの生きた時代、つまり17世紀後半の英国の政治的な状況をより深く把握する必要があると思われた。

それで、いろいろな意味でロックとは対照的な思想家であるトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を読み始めた。言うまでもなく、ロックが17世紀末の名誉革命期を代表する思想家であるのに対して、ホッブズは世紀半ばの清教徒革命期を生き抜いた思想家である。ところが、ホッブズ研究に取りかかってみると、ロックよりもこちらの方が面白くなり、結局、博士課程の終わりに提出する研究報告も、ホッブズで書くことになってしまった。絶対王制を擁護することにつながるホッブズの人間観や政治論は、現代のわれわれがそのまま受け入れられるようなものではないが、ロックに比べて、刺激的で引っ掛かるところが多く、しかも、ロックに劣らず現代的な意義をもつ、と私には感じられた。なお、ホッブズの政治思想についての研究報告は、博士課程修了後の65年に、やや短縮した形で京都哲学会の『哲学研究』に掲載され、私の最初の発表論文となった。また、3回生のときからは、大津市の坂本にある天台宗立の叡山学院で、非常勤講師として西洋哲学史と論理学の授業を担当し、僧侶志望の学生相手に新しい経験をすることになった。

博士課程では、奨学金の貸与が認められたし、家庭教師などのアルバイトにも多く携わったので、経済的にはだいぶ楽になっていた。日本の社会全体としても、少しは余裕が生まれてきた時代であり、「レジャーブーム」が喧伝されたりしていた。私も、1回生の夏には、新潟、佐渡、苗場山などへ1週間ほどの旅を楽しんだ。また、3回生の8月には、10日間の東北旅行で、裏磐梯から、仙台、十和田湖、八幡平、男鹿半島、蔵王などを歩き回った。博士課程を終えて1年目の夏には、まだ定職もないのに、飛騨の高山、乗鞍から信州に入って、上高地、美ヶ原、白樺湖、小諸などを周遊し、最後は小海線の沿線にある民宿でしばらく過ごすという、20日間ほどの旅をしている。これらの旅はほとんどが単独行であった。結婚してからは、妻と一緒のこともあったが、関心事の違いがあり、お互いに納得した上で、別々に旅行することの方が多かった。それはともかく、その後の外国への10数回にわたる旅行を含めて、旅をするということは、私の人生にとって大きな楽しみであったし、また、それ以上の意味をもっていたように思われる。

結婚したのは、博士課程2回生の5月である。相手は教養部での同級生で、1年のときから付き合ってきた稲田映子である。映子は生まれも育ちも京都で、英文学を専攻し、私と同様に修士、博士の課程に進んで、勉学を続けていた。式は挙げなかったし、仲人も頼まなかったが、京都大学の楽友会館で、簡素なパーティを催し、西谷教授、野田教授、英文学の菅教授を始め、約40人の親族、知人、友人が集まって祝ってくれた。新婚旅行では、岡山から鷲羽山、小豆島、高松などを3日間で回ってきた。住まいは東天王町にあるアパートで、トイレも風呂もない狭い一室であったが、これで初めて親から独立して生活することになった。ここで私の家族の動静に触れると、姉たちは数年前から次々に結婚し、すでに甥や姪が生まれていた。引揚げてから大病を患った妹は、短大を出て、会社勤めを始めていた。祖母はまだ健在であったが、私が博士課程を終えて間もなく、88歳の天寿を全うして亡くなった。父母は元気で、父はまだ学校図書館の仕事に専念していた。激動の時代を生き延びてきた私の一家も、いくらか落着きを取り戻していた時期であった。

博士課程になると、同輩だけでなく、先輩たちとの付き合いも広がってくる。哲学関係の個性的な院生たちとの、学問以外の交流も楽しく、また有益であった。書生気質で、晩婚の人が多かったが、そのころには結婚する人が増え、会費制でお祝いの会を催すこともしばしばであった。また、外国への留学の機会もようやく増えてきたので、私もYMCAに通って、アメリカ人から英会話を習ったり、京大の近くにある日仏学館でフランス語を学んだりした時期がある。語学については、京大の西洋哲学関係の学生は、修士課程までに、英、仏、独の3カ国語のほかに、ラテン語とギリシャ語を習得することになっていたが、私の場合には、フランス語は半端なままで終わったし、古典語も単位は取ったものの、ほとんど使うこともなく、忘れてしまった。英語は小説などを含めて、多く読み親しんだが、ドイツ語はカントぐらいしか読んでおらず、後にドイツ語の書物の翻訳をしたときには苦労した。

博士課程を終えた後は、当然、大学でのポストを目指すのであるが、哲学の場合、それは必ずしも容易ではなかった。ドイツ語などの非常勤講師をしてオーバードクターの数年を過ごした後、ようやくどこかのポストに潜り込むというのが、普通であった。私が博士課程に進学して間もなく、上回生たちが主催して就職問題についての会合が開かれ、もっと積極的にポストの斡旋をするように、教授たちに要求するという一幕もあった。だが、まだそのころは、研究者養成をしている大学院が少なかったので、京大の哲学は一種のブランドとして通用していたし、多くの大学に京大出身の先輩が在職していたことも、私たちにとっては有利な条件であった。また、京大には、論文などはやたらに書くものではないという、奇妙に禁欲的な伝統あるいは雰囲気があり、しかも、学外の学会活動なども軽く見る傾向があったが、当時はまだ、公募で業績の質量を競い合うということは稀だったので、それでそれほど不都合はなかった。私自身も業績を積み上げようというような意欲は希薄で、たまに仕事が持ち込まれても、自分の都合で簡単に断ったりしたこともあった。

5 臨時教務員として(64年4月~66年3月)

当時は、博士課程の3年間を終えた時点、またはその後の数年の間に、博士論文を提出するというような人は、ほとんどいなかった。私たちの偉い先生たちでさえ、博士号をもたない方が多かった。課程博士という制度は、まだ定着していなかったのである。私も、博士課程での論文以外の所定の単位は修得して、一応課程を終えたが、すぐには就職の口はなく、1年目は非常勤講師の話もなかった。ただ、文学部には、助手のいない講座に配置されて教授の手伝いをする臨時教務員(報酬は月額1万円)という内部的な制度があり、私もこれを勤めさせてもらった。また、1年間だけであったが、日本学術振興会の奨励研究生(PDF)として、月に2万5千円の給費を受けることができた。2万5千円というのは当時の助手の給与に近い額であった。2年目は臨時教務員を勤めながら、近畿大学の夜間部や大阪芸術大学で英語を何コマか教えて、なんとか生活できるだけの収入を得た。

私が所属した西洋近世哲学史担当の西谷教授は、すでに定年で退職され、辻村教授が後任として来ておられたが、私は中世哲学史の高田教授の研究室に主として勤務することになった。当時、1年後に田中教授、2年後には高田教授が定年を迎えることになっており、雑務が多かったのである。高田先生はアリストテレスや中世哲学研究の権威であるが、少し前から、10人ばかりの弟子たちとともに、トマス・アクイナスの大著『神学大全』の翻訳という壮大な仕事(最初の計画では全36巻)に着手しておられ、ラテン語の読めない私も、自然にそれに関わることになった。担当者が作った訳稿の厳しい検討は、浄土寺にある先生宅で夜、行われるのが通例であった。検討作業が終わると、同志社女子大の英文学の教授である奥さんが、ビールやサンドイッチなどを出してくださるのが楽しみで、それから夜の更けるまで歓談が続くのだった。高田先生は人生を楽しむことにかけても達人であり、私にとっては、先生方の中でも、特に多くを教えられたし、親しみも感じた方であった。中世を専攻する学生は少なかったので、他の専門に属する若手研究者たちがこの訳業に参加していたが、そうした先輩たちとの交流からも、私は多くを学ぶことができた。

オーバードクターの2年目を終えるころ、先輩の紹介で、京都市北部に新設の私立大学のドイツ語講師に採用してもらえそうになった。当時は、大学の新設ブームで、哲学出身者も、教養のドイツ語とか英語の講師としてなら、専任で採用される例がかなりあったのである。ところが、これが正式に決定する前に、堺市にある大阪府立大学の助手という口が、別の先輩から舞い込んできた。こちらは教養部の助手のポストで、授業の負担はほとんどないし、哲学の講座所属ということだったので、こちらにお願いすることにした。実を言うと、英語の授業には多少の経験を積んでいたが、ドイツ語は教えたことがなく、内心で不安に思っていたのである。

それまで、私は、哲学は一種の道楽であると思っていた。家庭教師や英語の非常勤講師で稼いだ金を、哲学書の購入につぎ込んでいたのだから、これはまさに道楽であった。ただ、私の場合には、30歳を目前にしてのことではあったが、哲学を職として生きていく道が開けた。これは幸運であったし、非常にありがたいことでもあったと思う。

V 模索から自立へ(66年~70年代)

1 大阪府立大学で

大阪府立大学では、助手として4年間を過ごした。教養部であるのに講座制を採っていたこともあって、助手の仕事はほとんどなく、月給をもらい、本を買って勉強すればよいという、結構な職であった。京都から堺市にある大学までの通勤には片道2時間もかかったが、週に2,3回の出勤だから、大した負担ではなかった。帰りには、大阪女子大に勤める常俊宗三郎氏に紹介してもらった天王寺の飲み屋で、酒を飲んで帰ることが多かった。常俊氏は私の2年先輩で、博士課程のころから親しくなって、京都や大阪でよく一緒に酒を飲んだ仲であり、その後も研究と遊びの両方で長くお付き合いしている。

こうして、せっかく楽な職に就いたのだから、大いに研究業績を積み上げることができると自分でも期待していたが、実際にはそうはいかなかった。そのころの私は、哲学史の研究をこのまま続けることに疑問を抱くようになり、迷っていたのだと思う。助手在任4年間の成果としては、カントの実践哲学についての修士論文を書き直したものと、「道徳の前提」という論文を、教養部の紀要に載せてもらっただけである。ただ、後者は、哲学史の研究を離れて、ごく素朴な形ではあるが、社会認識のための手掛かりを模索しようとする試みであり、結果的に私の社会哲学の出発点になった。この論文では、テニエスのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの区別や、リースマンの伝統指向型、内部指向型、他人指向型、自律型という分類を社会の特徴づけに用い、哲学者としてはカントとラッセルに言及したが、哲学研究において普通である特定の思想家とか書物を主題にして論ずるという形は取らなかった。このことについて、後にある先輩から、このように一般的なテーマを掲げて論ずるのは生意気であるという忠告を受けた。確かに私の姿勢は不遜であったのかもしれないが、自分ではあまり反省もしなかった。結果的には、その後も個人を離れて問題中心の研究を進めることになり、哲学史専攻でスタートしながら、以後「だれだれの何々について」という形の論文は一本も発表していない。なお、そのころまで、ラッセルの社会思想関係の著書はかなり広く愛読していたが、彼についての研究をまとめるには至らなかった。

家庭生活では、助手になって間もなく、私の実家に2階を増築して住むことにした。狭いアパートでは、子どもを産むことも育てることもできなかったからである。なお、建築費に充てるため短期間に返済しなければならない借金をしたため、しばらくの間は、予備校や他大学で英語を教えて、相当額を稼がねばならなかった。近くの予備校では、1年だけの勤務であったが、大学の非常勤講師の数倍の時間給をもらってびっくりした。転居後、68年4月に長男が生まれ、助手生活が終わる直前の70年1月には、長女が生まれた。妻は私より1年早くから、龍谷大学の教養部に英語の講師として勤務しており、出産・育児との二重の負担でたいへん苦労していた。私も保育園への送り迎えなどはしたが、親としての責任を果たすという意味では、不十分であったと思う。なお、70年3月に、大阪万博が始まり、私も常俊氏と戸田省二郎氏(大阪府立大)と誘い合わせて出かけたが、大勢の人出に辟易して、禄に見物もしないで早々に引き揚げ、梅田で酒を飲んだ覚えがある。 助手勤務が4年目になったとき、先輩から、京都教育大学の助教授ポストへの転任の話が持ち込まれてきた。教育大は、京都の男子師範、女子師範、青年師範を母体として生まれた新制大学であり、父や祖母を始め、私の親族の多くに関わりの深い大学である。大阪を通り抜けて堺まで通うのが、多少負担に感じられてきた時期でもあり、喜んで応募することにしたが、自分の業績に自信がないので、うまくいくとは信じていなかった。この前後の数年間はいわゆる大学紛争の嵐が日本中に吹き荒れた時期であった。私の人事も学生との団体交渉のあおりを受けて、予定より遅れたりしたが、結局は無事に通った。それで、私は、府立大を退職して、70年4月から京都教育大に勤めることになった。それから99年に退職するまで、つまり33歳から62歳までの29年間にわたって、私は教育大に勤務した。この時点では、私は、この大学で平穏な研究・教育の生活を過ごすことができると期待していたが、その期待は見事に裏切られることになった。

2 暗中模索の状態から社会哲学へ

京都教育大は教育学部だけの大学であるが、主として中学校教員の免許の区分に対応する14の学科に分かれていた。私が所属したのは、第一社会科学科であり、教員スタッフは哲学、倫理学、社会学、法学、経済学を専門にする9人で構成されていた。第二社会科学科には歴史と地理の教員6人がいた。教養部はなかったので、私は、学科の学生相手の専門の演習や講義の他に、全学の学生対象の教養科目の哲学を1コマ担当した。教員養成主体の学部であるから、哲学を専攻すると言っても、半端なものに過ぎなかったが、中には、他大学の大学院に進学して、研究者を目指す学生もいた。結果論ではあるが、私にとっては、文学部の哲学講座というような場でなく、社会科学科の中にポストを得たということが、社会哲学という専門を形成していく上で、重要な意味をもったように思われる。

その研究面では、私の主たる関心事は現代の政治・社会に向かいつつあったが、これにどこから手をつけたらいいかわからず、歴史の研究に戻って、プラトンの政治論を英訳で読み始めるというような試行錯誤を繰り返していた。こうして、まったく論文が書けない時期が5年間に及んだ。毎年の業績が公表され評価される現在の大学であれば、厳しい批判に晒されるに違いないような状態が続いたが、私自身はそれで特に悩んだりすることはなく、5年のブランクを経た後、ようやく良心をテーマとする論文を書いた。この論文では、現代の私たちは、善悪を判断する先天的能力としての良心の存在を、もはや信ずることができなくなっているが、その現代においても、道徳が成立するためには、個人が良心的であるべく努めることがなお必要である、という見解を、英米の学者たちの論争を紹介しつつ述べた。これは、私たちがカントが想定したのとは異なる社会、つまり価値相対主義の社会に生きていることを前提した上で、そこで自律がどのようにして可能か、を問うことにつながり、これに答えることが、私のその後の研究においても、重要な課題になった。

その次に私が取り組んだのは、法と道徳の関係というテーマである。西洋のキリスト教社会においては、キリスト教的な道徳(自然法)が人為の法(実定法)の根底にあり、しかも、実定法の正しさを判定する基準になる、という自然法思想が、長期にわたって支配的であったが、キリスト教の影響力が衰えるとともに、実定法の宗教や道徳からの独立が強調されるようになった。しかし、実定法と社会道徳は、現代社会においても重要な役割を担っている二大規範であり、その関係がどうであるかは、社会生活のさまざまな局面で問題にならざるを得ない。この問題が顕在化するきっかけになったのは、1957年に提出された、英国の同性愛犯罪と売春に関する委員会の報告である。委員会は、他人に危害を及ぼさない限り、個人の行為に規制を加えるべきではない、というJ・S・ミルの私的危害原則を基本的に受け入れる。同性愛行為はキリスト教道徳では罪悪とされ、多くのキリスト教国では刑法上の犯罪とされてきたが、報告は、同意した成人間の同性愛行為は、他人への危害を含まないから、犯罪とされるべきでないと主張する。売春についても、その行為そのものは、刑罰の対象にすべきではないとされる。当時、欧米においては、個人の行動、特に性に関する行動の自由化という現象が顕著になりつつあった。先の委員会報告は、1世紀前にミルが『自由論』において述べた危害原則を採用して、このような風潮の正当化を試みるものであり、多くの自由主義者たちはこれを基本的に支持した。しかし、保守主義者たちは、急激な自由化が社会に混乱を招くと危惧し、伝統的な社会道徳にもなお果たすべき役割があると主張して、報告を厳しく批判した。こうして、両者の間の論争は、同性愛行為と売春の問題を離れて、もっと一般的なレベルで展開され、英米の多くの法律家、倫理学者、社会学者、宗教学者などが参加して、長期にわたって続いた。

私は、70年代の半ばごろ、この問題に関連する数冊の書物をたまたま見つけ、これに興味を覚えて、しばらくの間、この論争の経過を辿るという作業に専念した。これは、日本の哲学界では、ほとんど取り上げられたことのないテーマであり、当初は出てくる重要な概念の訳語にも迷う始末であった。法哲学、法社会学などの概論書を頼りに法規範の独自性を初めて学びつつ、大量の文献を読み進めたが、どのように論文にまとめたらよいか見通しがつかず、とにかく「法と道徳についてのノート」という形で書き始めた。結局、大学の紀要に76年から78年にかけて計6回、この「ノート」を連載した。そのときは明確に意識していなかったが、これが私の社会哲学の実質的な始まりになるのである。近年は哲学の世界でも、論文と(研究)ノートが峻別され、ノートの業績としての評価は低くなっているが、私自身の研究の展開にとっては、この「ノート」が他の論文よりもずっと大きな意味をもったと言える。

3 組合活動などについて

教育大に勤務するようになってようやく3年を過ぎた73年の春、私は教職員組合の委員長を勤めることになった。教育大の組合は、大学教員、7つの附属学校の教員、事務官を含めて400人ばかりの教職員の内、約8割が加入していて組織率は高かったが、要求を掲げて闘争するというよりは、むしろ学内の親睦団体という性格が強い組織であった。その役員は各単位から選ばれてきた代議員の中から互選で選ばれる。私は組合活動にはまったく未経験であったが、順番で学科の代議員を勤めることになり、代議員の会合に出席したところ、その場の成り行きで73年度の委員長を引き受けざるを得なくなった。先輩の教員たちからは、どうせ親睦団体的な組合であるし、委員長といっても名前だけで、実務は書記長らに任せておけばいいのだ、という意味の慰めのことばをかけてもらい、私自身も当初はあまり深刻に受け止めていなかったように記憶する。

ところが、この73年の秋に石油危機が勃発し、「狂乱物価」現象で、物価は約30%も暴騰した。このような状況を背景に、74年の春闘では、給与の値上げなどをめぐって労使が激しく衝突し、74年4月には、総評がゼネストを強行するという事態になるが、私たちの組合もその動きに巻き込まれていった。もちろん、公務員はストライキを禁じられているのだが、組合での批准投票の結果、僅差でストへの参加が決定されてしまったので、組合執行部としては、非合法であろうとも、ストをやらざるを得ないと決断した。ただ、私の素人的な予想とは異なり、ゼネストで交通機関もほとんどストップしている状況下で、大学に組合員を集めて決起集会を開くだけでも、大変な苦労とエネルギーが必要であった。私たちの組合はそうした経験をもたなかったので、京大の職員組合の執行部の人たちにしばしば来てもらって、指導を受けたりした。執行部に専従者などはいないので、夜とか祝日に会議や準備の作業をすることも、しばしばであった。私も日曜に二人の子どもを連れて大学に行き、子どもたちは研究室で遊ばせておいて、組合関係の雑務を処理したりした。

ストは一応、整然と行われ、その報いとして、私と事務官5人が1時間の賃金カットという処分を受けることになった。ただ、それよりも大きかったのは、組合がこのストによって自らの力を自覚し、同時に、その存在を学内に明確に示すことができたことである。私自身は、ストという手段で争うというようなことには、元来、向いていない人間であると自認しているが、哲学研究者は口ばかりで実行が伴わない、と悪口を言われるのが嫌で、やせ我慢をして任務を果たした、というのが正直なところであった。だが、このような経験を通じて、私は、多くの教職員、特に若い事務官たちと信頼関係を結ぶことができたし、また、7つの附属学校を含めた大学全体の事情もかなり把握できるようになった。

当時、大学内で深刻化しつつあったのが、非常勤職員の問題である。国家公務員の定数は行政改革の一環として、長期にわたり計画的に削減されてきたが、そのことが教育大の運営にも重大な影響を及ぼし始めたのである。大学と附属の教員を減らすと、教育に直接的な差し支えができるので、それ以外の職員の定数が削減の主要な対象にされた。門衛とか公用車の運転手などの不補充で削減のノルマを達成できた間はまだよかったが、削減計画の進行とともに、大学・附属の運営上どうしても必要な部署に配置されている職員さえも補充できなくなり、これを非常勤職員の採用で埋め合わせることになった。だが、非常勤職員の雇用には、いくつかの問題点があった。第一は、そうして採用される職員の待遇が低く、また身分が不安定なことである。これは現在のパート・アルバイト・派遣などの非正規労働者のケースと共通の問題であると言える。第二に、非常勤職員の人件費は、本来は研究・教育に充てるべき経費の流用で賄わねばならないので、非常勤職員の増加は研究・教育水準の低下をもたらす。組合としては、主として非常勤職員の待遇改善に絞って、いくつかの要求を掲げてきたが、一大学の内部で解決できる性質の問題ではないので、いつも空しい努力に終わるのであった。

私の組合活動は1年で終わるが、大学生活の他の面でも、同僚や学生との緊密な交流があった。教育大は1学部の中に多様な専門分野を抱えており、しかも、文科系、理科系だけでなく、美術、音楽、体育などの分野の教員が多いことに特色がある。夏には、小学校課程の学生対象に、天橋立での5泊6日の水泳訓練があり、200名以上の学生が参加する。体育学科の教員だけでは指導・監督に手不足であるので、他学科からの協力が求められた。私も海が好きなので、毎年のようにこれに参加した。体育の教員たちとも親しくなって、それが縁で、冬にはスキーにも連れていってもらった。最初は学生向けのスキー合宿に同行したが、学生と一緒だと、夜に酒を飲んだりするのに不便なので、やがて、正月休みに教職員だけで志賀高原に行くのが慣わしとなった。スポーツはもともと苦手で、スキーもあまり上達したとは言えないが、なんとか転ばずに滑れると爽快感を味わうことができるし、しかも、夜の食事とビールやワインが格別にうまくなるのが魅力であった。二人の子どもを連れていったこともある。美術や音楽は、スポーツ以上に不得意であるが、専門の教員たちとの交流を通じて、鑑賞の機会には恵まれるようになった。こうしたこともあって、私は教育大での勤務にすっかり馴染んでいったのである。

学生の教育は大学教員にとっても本業であるから、できるだけの努力はしたと思う。哲学専攻を選ぶ学生がいつも多すぎない程度にいたから、一人一人の個性を把握した上で接することもできた。社会科学科の中の哲学専攻であるから、私が研究し始めていた現代社会の問題を、授業に生かすことができたのは、私にとって幸いであった。学生のコンパなどには、誘われれば欠かさず参加しただけでなく、私から言い出して、会を催すこともあった。卒業式の日には、卒業生が学科単位で謝恩会をしてくれるので、二次会では、教員有志が全員をバーに連れていき、歌を歌って騒ぐのが慣習になっていた。教育大の学生全体では、男女がほぼ同数であり、哲学専攻にもいつも女子学生が数人いたので、男女相互が自然に理解し合えるという点で、よかったように思う。私が就任初期に教えた学生たちについては、特に鮮明な印象が残っている。近年の年賀状では、校長になったとか、定年退職が近いなどという消息を知らされることが多くなり、月日の経つのが早いことを痛感するのである。

なお、73年の秋、初めての海外旅行を経験した。ブルガリアの黒海沿岸の町ヴァルナで国際哲学会の大会が開かれ、日本哲学会などの関連学会の依頼に応じて、日本交通公社が大会参加を組み込んだツアーを企画したので、私もそれに加わったのである。もちろん旅費は自己負担であり、貯えのなかった私は、共済組合から借金をして旅費に充てた。当時、海外に行くことはいまほど容易ではなく、まして社会主義国への旅行には、不自由なことが多かったので、約50人の哲学・倫理学の研究者がこのツアーを利用して学会に参加した。その行程はモスクワ経由でヴァルナに向かい、学会終了後は空路でソフィア、アテネ、ローマをめぐり、ローマからは、列車でフィレンツェ、ミラノ、チューリッヒ、ハイデルベルク、パリを歴訪するという25日間の大旅行であった。学会がブルガリアで開かれたせいもあって、ソ連を始めとする社会主義諸国の研究者の発表が多く、言葉とイデオロギーの壁のために学問的交流は乏しかったが、学会終了後の西欧の諸都市での見聞は、快適で楽しいものであった。また、長い旅を通じて、関西以外の多くの研究者と知り合う機会が得られたことも、非常に有益であった。

4 学内行政との関わり

私が勤務し始めた70年ごろ、教育大は師範学校から大学に昇格してようやく20年を経過したところであった。そのころは大学紛争の時代であり、国立・私立の多くの有名大学では、学生団体が、大学の研究・教育の根本的な見直しを求めて、暴力を含む熾烈な闘争を展開していたが、やがて紛争は、混乱と荒廃だけを残して、成果を挙げることのないまま終わろうとしていた。70年の秋には、三島由紀夫らが、市ヶ谷の自衛隊施設に乱入して自決するという、衝撃的な事件があった。教育大では、紛争はそれほど深刻化しなかったが、民青系が支配的であった学生自治会は、寮生の寮費負担、授業料の値上げ、教育実習の改革など、学生の生活に密着した問題については、執拗に自分たちの主張を通そうと頑張るので、教授会としては、これへの対応にかなりのエネルギーを費やさねばならない、という状況にあった。

また、教育大は教授会内部にも、いろいろな問題を抱えていた。他の府県にある国立の教育大学・教育学部と同様に、京都教育大は新制大学としての発足当初は学芸大と名乗っていたが、66年に、文部省は、教員養成学部としての性格を明確にするため、各大学・学部に半ば強制して、教育大学・教育学部に名称変更させた。これは広く学芸を学ぶという理念を捨てて、師範学校時代の教育に戻るというニュアンスを含んでいたため、師範の教育についてどちらかと言えばマイナスのイメージを抱いていた中堅・若手の教員や学生たちには、素直に受け入れ難いことであった。私自身も、教育大を、教員養成に特化した大学にするよりも、大学らしい大学にする方が先決である、と考えていた。

また、師範時代から在職する年配の教員には、京都師範や東京高等師範(新制になってからは東京教育大学、現筑波大学)出身の人が多かったが、助教授クラスでは京大などの一般大学出身者が多数を占めてきており、両者の間には、大学のあり方についての意識・考え方に微妙な違いがあった。教授会は各種委員会を中心に運営されており、その中で人事、企画、学生部などの委員会が特に重要な役割を担っていたが、人事と企画の委員には、各学科の長老級の教授が選ばれることが慣例化していたし、学長、図書館長、学生部長などの選挙に際しては、教授たちの学閥意識が露骨に表面化することもあった。そして、これに反発する若手の教員たちの間では、大学改革の機運が高まりつつあり、私自身も、他学科の教員たちとの交流を深めるにつれて、この改革運動に関与していくことになった。

ただ、改革運動といっても、堅苦しいものではなく、最初は月に1回、学外で有志が集まって、一緒に酒を飲みながら自由に語り合うという形で始まった。この会合には名前がなかったので、仲間内で「例の会」と呼び慣わしていたが、そのうちそれが会の名称になってしまった。この会合以外にも、授業や会議が終わった夕方から、私の研究室などに有志が集まって、酒を飲みながら、談論風発して過ごすことがよくあった。ただ、酒が入ると長くなりがちであるし、ろくな食べ物のない研究室でウイスキーなどの強い酒を飲むのは健康上もよくないので、ある時点から、私の研究室での飲酒はやめることにした。

中堅・若手の教員たちが、親睦のための付き合いという枠を超えて、積極的に行動し始めたのは、管理職や委員の選挙をきっかけにしてであった。こんな人が要職に就いたら、大学が無茶苦茶になってしまうという危機感があり、もっと信頼のおける人を選ぼうという動きになったのである。教授会は教授と助教授で構成されていたが、教授にも良識のある人はいたから、私たちの運動は予想以上に効果的で、やがて、学長選でも、私たちの推す候補を当選させることができるようになった。当時は、大学の管理職のポストを名誉職のようにみなして、研究も教育も一人前にしていないのに、年功を積んでいるというだけで管理職になりたがる教授がかなりいたので、こうした運動も必要であったのである。

だが、大学をめぐる情勢は日に日に厳しくなりつつあった。大学紛争を大きな混乱もなく乗り切った教育大も、解決困難な課題に次々に直面した。その一つは、第一次、第二次のベビーブームと、その後にやってきた少子化が、教員養成系の大学・学部に及ぼした影響である。教員養成は長期的な見通しのもとで安定的に行われるべきであるが、教員の需給関係が短期的に激しく変動し、文部省の政策もそれに連動して豹変することが多かったので、大学はそれに振り回された。もう一つは、小学校教員の養成と中学・高校教員の養成という方向性において異なる両者を、どのように整合的に結びつけるかという、宿命的な課題であり、やがて、この課題は、少子化の進行に伴う教員採用の激減や、教育現場における暴力、いじめ、登校拒否などの病理現象の出現に、教員養成大学としてどう対応するかという新しい要因とも絡み合っていくので、状況は非常に複雑になる。ただ、私は、組合活動の後は、学生部委員として、学生への直接的な対応に追われており、これらの問題には深く関わることがなかったので、私自身が直接的に関与した同和教育のあり方をめぐる紛争についてだけ、ここでやや詳しく述べておくことにする。

そのころ、関西の多くの大学で、部落問題への対応が紛糾の種であったが、特に教員養成学部においては、同和教育がどうあるべきかが深刻な問題点になってきていた。部落解放運動の中では、部落解放同盟と共産党系の運動団体との対立が激化しつつあり、74年秋には、兵庫県立八鹿高校の教職員多数が部落解放同盟の同盟員に暴行を受けるという事件が起こった。教育大の内部でも、共産党系の学生自治会・部落問題研究会と解放同盟系の解放研究会とが対立し、厳しく批判し合う、という状況になっていた。そして、75年度末に、「同和教育の研究」という授業科目を担当する非常勤講師の適格性について、自治会が疑問を投げかけたのをきっかけにして、大学側の姿勢と対応が学生たちから徹底的に批判されることになる。それまでの同和問題に対する大学の姿勢は、原則をもたない事なかれ主義であった。問題が起こったときの処理は少数の「同和に詳しい人」に任せきりであり、しかも秘密主義で、教授会に正確な情報が伝えられることもなかった。また、そのような姿勢が外部団体の介入を許容する結果をも招いていた。これらの点についての学生自治会代表と教授会側との交渉は、何度もの徹夜を含めて、延々と続いたが、学生側の厳しい追求に対して、教授会側はほとんど反論もできず、ただ過去の誤りと無責任な対応についての自己批判を繰り返すばかりであった。

私自身も、学内の管理職等を網羅する同和教育促進協議会に、学生部委員の代表として加わっていたので、終始この交渉に出席したが、新米であるから、過去のことに関係している長老級の委員たちに比べて、やや気楽な立場にあった。それでも、教師と学生の立場が逆転するという状況が長く続くと、これがなんとか治まっても、もとの師弟関係に戻れるだろうかという不安につきまとわれ、局面をどう打開するか、夜も眠れずに考え込むことがしばしばであった。そして、私なりに考え抜いた末の結論は、今後、大学がこうした過ちを繰り返さないようにするための原則を確立し、これを学生側にも示して、信頼の回復に努める、というものであった。これはやがて、大学の「同和問題に対応する基本姿勢」(76年3月)としてまとめられ、これによって学生との交渉も無事に終わった。原則の具体的内容は下記の通りであるが、これらは、学生との長い交渉の過程で、その必要性と妥当性がおのずから明らかになってきたものである。第一に、大学は研究・教育において当面する問題を、自主的に検討・処理する。(大学の自主性。言い換えれば、外部団体の介入を許さないこと)第二に、大学としての意志決定には、できるだけ、(学生を含めて)大学構成員各層の意志が反映されるように努める。(学内民主主義)第三に、外部団体との公式的交渉は文書によって行い、かつその経過は公開することを原則とする。(情報公開)私自身は気がつかなかったのであるが、この三原則は、原子力平和利用についての自主・民主・公開という三原則と同一であることを、同僚から後に指摘された。いま原子力発電をどう位置づけるかが深刻な課題になっているが、問題がこれほど紛糾する原因の一つは、この三原則が順守されなかったことにあるとも思われる。とにかく、私がこの苦しい経験から学んだのは、第一に、どんなに厳しい状況におかれても、逃げないで、それに正面から取り組んでいけば、おのずから道は開けてくるということであり、第二に、難しい問題に直面するときほど、原則をもって当たることが重要であることであった。

なお、同じ76年の秋、大学祭に際して、自治会側に属する部落問題研究会が、八鹿高校事件を批判的に扱った映画の上映を企画し、解放研究会が、事件を主導したA氏を招いて、これに抗議する集会を開く、という事態が発生した。しかも、A氏はこの事件の主犯として刑事係争中の身であったので、パトカーが同伴してくるという騒ぎであった。他の多くの大学では、この映画の上映は暴力的な衝突を招いていたから、大学としては、できれば上映を回避したかったが、学生の自主性に委ねられている大学祭の行事であるので、これを認めざるをえなかった。だが同時に、上映に抗議の意志を表明する自由も尊重されるべきであり、大学祭期間中は、学外者の立ち入りは自由であるので、学外者が多数参加しての抗議集会も許可した。結果として、一触即発の緊張の中ではあったが、映画会と抗議集会は、流血の惨事を招くことなく、無事に終了した。これによって、京都教育大が直面する同和問題に関する試練は、一つの山を越えたように思われる。

5 生命倫理との出会い

私にとって、70年代終わりごろの大きな事件は、生命倫理との出会いであった。生命倫理に関する最初の体系的な英語の大事典は、78年に出版されていたが、79年の初めごろ、教育大の図書館がこれを購入し、偶然の成り行きで、図書館報に私がその紹介文を書くことになったのがきっかけである。生命倫理の研究は、英米では70年前後から行われてきていたし、日本でも、医療技術の進歩とライフサイエンスの画期的な発展がもたらす社会的・倫理的問題についての論議が盛んになりつつあり、大きな書店には、これに関する書物を集めたコーナーが特設されていた。私はこのような動きについては、それまで無知であったが、生命倫理が、安楽死、人工妊娠中絶、臓器移植などの事例が示すように、「法と道徳」にも密接に関連する論議領域であることと、このような研究が今後、社会的に重要になるであろうことは、すぐに理解することができた。続く80年代には、私は、私の社会哲学研究の一環として、生命倫理の研究にある程度まで専念することになる。

当時の家庭の状況に触れておくと、父は77年秋に、77歳で亡くなった。胃がんの手術を受けたりもしたが、死の数年前まで、学校図書館の仕事を続けることができたのだから、本人としても思い残すことはあまりなかっただろう、と私は勝手に推測している。母は健在であり、母と私たちは1階と2階で、それぞれ独立の生計を営みながら、たえず顔を合わせて無事を確かめあうという関係を保っていた。妻は相変わらず大学の勤務と家事に忙殺されていた。子どもたちは特に病気をすることもなく、元気に小学校に通っていた。 そういう中で、私は、79年の秋から1年間、文部省の在外研究員として、留学することになった。主な留学先はロンドン大学で、10月からの8カ月は英国に滞在し、翌年6月からの4カ月は、西ヨーロッパ諸国を回るという予定であった。留守のことも心配であったが、そうした気持ちは無責任に振り捨てて、10月1日、私はロンドンに向けて旅立った。

VI 多様な経験の時期(79年~92年)

1 ロンドンでの生活

ロンドンでの住まいは先輩の紹介で事前に予約していたので、ロンドンに着くと、北部のゴールダース・グリーンにあるその住まいに直行した。3階建の家の3階が居間と寝室、キッチン、バス・トイレという屋根裏部屋になっていて、そのフラットを借りたのである。家主はフランス系の老夫婦であった。家賃はやや高かったが、便利な場所にあるし、家具付きで、台所用品まで完備していたから、結局、8ヶ月間そこに住みつくことになった。ロンドンでの外食はまずいと評判であったので、着いた翌日から、ス-パーや日本食品店に行って、自炊のための食糧を買い込んだ。少し落ち着いてから、私を受け入れてくれたロンドン大学教育学部哲学講座のP教授に挨拶に行き、教授の勧めで、社会人大学院生向けに夕方開講されている、政治思想関係の二つの演習に出席させてもらうことにした。言葉の壁があるので、そこでの論議に加わることは難しかったが、演習の進め方などについては、学ぶところがあった。演習の担当者は中年の男性講師と女性講師であったが、社会人の学生には、小学校の校長であるという老人女性がいたりした。教師と学生が互いにファースト・ネームで呼び合う関係にあるというのも、新鮮な経験であった。

やはり教師をしている中年の学生は自宅に招待してくれたので、私も彼夫婦を招いて、手料理でもてなしたりした。私は炊事には便利なフラットに住んでいたし、料理にも自信がついたので、日本人の留学生たちを招いてよく一緒に食事をした。前菜に適したものは、スーパーのデリカテッセンのコーナーに豊富に揃っていて、便利だった。酒類はビール、ワイン、シェリーなどをいつも用意していたが、スコッチ・ウイスキーは、案外に高いので、あまり飲まなかった。留学中の日本人研究者の勉強会も定期的に開かれていたが、会の終了後は、有志が、安くて実質的な中華料理屋で飲食を共にしながら、それぞれの英国経験を語り合い、また、さまざまな情報を交換し合うのだった。日本人を妻にしている英国人とも、偶然に知り合い、よく付き合った。彼は地方公務員であったが、休日には公園のコートで、テニスのレッスン・コーチをしていたので、テニスを教えてもらい、代わりに、私は彼に碁を教えた。

クリスマスから正月にかけての時期には、妻と二人の子どもが、ロンドンに1週間ばかり滞在するというツアーに参加してやってきた。クリスマス寒波の襲来とかで、雪が降って非常に寒い時期であったが、子どもたちはハイド・パークやハムステッド・ヒースではリスを見つけて喜び、動物園や自然史博物館でも自分なりの関心事を見出して、短い滞在を楽しく過ごしたようであった。友達へのお土産にと選んだ文房具が、よく見たら日本製と分かって、がっかりするというようなこともあった。

こうして私の留学生活は無事に過ぎていった。私はもともと、留学先で特定の先生から親しく何かを学ぶというような必要性は感じていなかった。研究の内容は、日本に居ても、書物を通じて学ぶことができる。私の関心事からは、滞在する各地で実際に社会生活を体験し、見聞を広めることの方が大事であると思われた。主たる留学先をロンドンにしたのも、そういう点での便宜を考慮したからである。だから、私のロンドンでの生活は、週に2,3回、大学に通うことと、フラットで、暇があるときでなければ手をつけにくいような大著を読み進めること以外は、ロンドン市内を歩き回り、また、英国内のそれぞれに個性的である地方や町へ旅行することに費やされた。その点で非常にありがたかったのは、ブリティッシュ・カウンシルが外国人留学生のために、1ポンド程度の低廉な参加費で催してくれるさまざまな行事であった。週末には、オックスフォード、ケンブリッジ、カンタベリーなどへのガイド付きの日帰りバス旅行があり、田園風景を楽しみながら、英国の文化と伝統に触れ、他の国々からの留学生との交流を深めることができた。音楽、演劇の切符も特別に安く手に入ったので、長い冬の夜には、しばしば出かけていって、無聊を慰められた。ただ、当時は、サッチャー政権が成立して、財政再建のために大ナタを振るい始めた時期であり、大学もブリティッシュ・カウンシルも、予算を大幅にカットされて、対応に苦慮していた。円で支給される私の出張費用も、サッチャー政策によるポンド高の進行の影響をまともに受けて、大きく目減りしたのだった。

英国での生活で特に触れておきたいのは、パブのことである。私が英国で無事に過ごすことができたのも、一つにはパブのお蔭である。食事のまずい英国では、外での食事にどこへ行くか迷うことが多いが、多くのパブは軽食を用意しているので、昼でもビールを飲みながらサンドウイッチなどを摘まんでいると、あまり腹を立てずに済んだ。田舎では、パブと食堂とホテルを兼ねる店が多いから、非常に便利であるし、食べ物も予想外においしかったりする。地下鉄の駅ではゴールダース・グリーンの南隣りになるハムステッドは、大都会の中にある広大な丘陵地帯であるが、その周辺には、いくつかの歴史的に有名なパブがあり、町中のパブとは異なる雰囲気を味わうことができた。こうして、パブで飲むことにかなり慣れ親しみ、バーマンがにこりともせずに言う冗談を理解できるようになった頃には、英国を離れる日が近づいてきており、残念に思った。ただ、その10年後、あるいは25年後に訪れたときには、パブの雰囲気は、かなり変わってしまい、詰まらなくなっているような気がした。私が年老いて、広く楽しむ能力が衰えてきたせいかもしれないが。

秋から冬にかけての英国では、午後3時を過ぎると暗くなり始めて、長い夜になるが、3月の春分には、もうサマータイムが始まる。私にはまだ肌寒く感じられるのに、パブの戸外の席でビールを飲む人たちを見て驚いたこともあった。また、少し天気がいいと、昼休みに多くのサラリーマンが屋上に出て、裸で日光浴をしている光景も見かけた。私も春が来るのを待ちかねて、国内の旅行に出かけた。多くは一人旅であったが、ロンドンで知り合った日本人研究者たちと同行したこともある。旅行先は、ロンドン近郊に始まって、北は、ヨークシャーからスコットランド、西はコーンウォール半島、ウエールズ、湖水地方、南東部はカンタベリー、ドーヴァー、ブライトン、ワイト島などであり、観光地ばかりでなく、マンチェスター、リヴァプールなどの都市にも出向いた。汽車に乗り、目的地に着いたら、ほとんど徒歩で歩きまわり、見聞し、飲食し、泊るだけのことであったが、楽しかったし、なによりも、ロンドンだけが英国ではないことがよくわかって、いい経験になった。

研究に関わってここで触れておくべきは、私が英国に着いて間もなくの79年11月、内務大臣の諮問による「猥褻と映画検閲に関する委員会の報告」が発表されたことである。これは文学、ショウ、写真、映画などにおける猥褻な表現がどこまで許されるかを問うものであり、端的に言えば、「ポルノの法規制」というテーマである。この報告は、前に紹介した「同性愛犯罪と売春に関する委員会の報告」の考え方と、それを契機にして長期にわたって展開された、法と道徳に関する学術的・社会的論議の経過を踏まえて作成されていたので、批判的な検討に耐えるだけの内実を備えているし、同様の問題を抱えている日本の私たちにとっても、参考になるように思われた。それで、これに関連する資料を集めてもち帰り、帰国後にこれを紹介することにした。

以上、思い出すままに述べてきたが、こうして英国での8か月の留学生活は終わり、6月初めには、英国のベスト・シーズンといわれる6月を体験することなく、4か月の西ヨーロッパ諸国への旅に出かけることになった。

2 西ヨーロッパ一人歩き

旅の最初の目的地はスペインであったので、まず、マドリッドまで飛んだ。文部省の規定では、移動には原則として航空機を利用することになっているが、それでは小回りが利かないので、それ以降は、ユ-レイル・パスを使ってもっぱら汽車で動くことにした。言うまでもなく、私は国費で留学している身であるから、留学希望の申請書に記した詳細な計画通りに動く必要があるのだが、季節は夏であり、大学などの研究機関を訪ねても無駄であった。だから、英国で試みたように、限られた期間を活用して、できるだけ多くの町を見て回ることにした。まず、スペインでは、マドリッド、トレド、南の方ではコルドバを訪れた。イスラムの影響が色濃く残るコルドバでは、私たちがヨーロッパ的であると感じるものとはかなり異質なものに接して、強烈な印象を受けたが、暑さにも閉口した。セビリャ、グラナダなどに行けなかったのが残念であった。最後にバルセロナに行き、そこから寝台列車で、パリに向かった。私は、観光が目的ではないので、観光名所についての予備知識のないままに、目的地に行って歩き回ることが多く、それで失敗することもあった。バルセロナでサクラダ・ファミリア聖堂を見損ねたのが、その例である。しかし、逆に、期待もしていないところで、しばしば素晴らしい体験をすることができたし、また、長い旅ならではの、人との予期せぬめぐり会いにも何度か恵まれた。

パリでは、1か月滞在することになっていたので、まず活動の拠点になる宿を探した。一人旅は自由で快適であるが、大きな荷物を抱えていると、活動がかなり制約される。私は荷物は最小限にし、しかも、スキー用の車付きのザックで背負うこともできるようにしていたが、長期の一人旅には、荷物を預けることのできる拠点がどうしても必要であった。ちょうど運よく、モンパルナスの近くのカトリックの学生寮が、夏休み中は個室を安く貸してくれるという話があり、そこに決めた。ここを根拠地にして、まず、パリ市内のあちこちを見て回り、次には、日帰りで近郊に足を延ばし、さらには、国内ではリヨンから、地中海岸のマルセイユ、ニースまで、国外ではブリュッセル、アムステルダムなどに、数日間の旅行を楽しむことができた。

パリ滞在中には、75歳になる私の母が長姉と一緒にツアーで来たので、ヴェルサイユ宮殿、シャルトル大聖堂、ロワールの古城めぐりなどに同行して、初めて少しばかり親孝行をした。このときは、日本食レストランへも何回も行ったし、母が外に出かけるのは億劫だと言うときには、何でも売っているお惣菜屋で食欲の出そうな料理とワインを買ってきて、ホテルの部屋で食べたりした。母はその後も比較的元気に長生きして、孫たちの成長も見届けてから、父の死後、20年を過ぎた98年に93歳で亡くなった。

なお、ロンドンでは、食事は自炊が基本であったので、何も問題はなかったが、スペインからの4カ月はすべて外食になるので、バタ臭い食事を受けつけなくなったらどうしようかと懸念していた。また、日が長い夏の季節だったので、1日のスケジュール、特に食事の時間をそれに合わせる必要があった。当時の典型的な1日の過ごし方を思い出してみると、まず、朝は早めに起き、ホテルはすべて朝食付きであったから、朝食をとる。朝食は多くはコンチネンタル・スタイルで、パンとコーヒーだけであったが、英国はもちろん、北欧やイタリアでも、卵やハム・ソーセージなどがつくことがあった。移動する場合には、できるだけ早い時間に次の目的地に汽車で向かい、着いたらまずホテルを探す。宿はほとんど予約していなかったが、探すのに困ったことはなく、適当なホテルをすぐに見つけることができた。ただ、二人部屋が基本なので、一人だと多少高くつくのはやむを得ないことであった。宿を決めると次は昼食である。中華料理屋があれば、なるべくこれを利用した。中華は一皿の量が多いので、一人では行きにくいのだが、昼はいくつかの料理を組み合わせたランチが何種類か用意されているので、便利であった。国や地域によって、中華料理といっても、かなり違うのが興味深かった。水分補給を兼ねて、ビールも少し飲んだ。昼食後はホテルに帰って、できれば昼寝をする。その後、シャワーを浴び、それからゆっくりと外出する。はっきりとした行き先がある場合と、そうでなく無計画に歩き回る場合とがあった。夕方、歩き疲れると、戸外にあるカフェやバールなどでまたビールを飲む。夜暗くなりかけるのが8時とか9時であるし、レストランのディナー・タイムも始まりが遅いので、それに合わせると、自然にこうした流れになる。さいわい日が長く、夜になってもまだ明るいので、一人歩きをしていても、危険を感じるようなことはなかった。

フランスの次の目的国はドイツであった。ドイツでは、拠点になる町としてミュンヘンを選んだが、1か月も借り切るような宿は見つからず、結局、駅前のホテルを定宿に決めた。ミュンヘンは東西南北に鉄道が伸びていて、交通至便な位置にあるので、このホテルに大きな荷物を預け、身軽になって旅行をしたのである。肩かけのかばん一つで、ドイツ国内の小旅行だけでなく、国境を越えて10日以上の旅をすることもあった。イタリアからギリシャへの旅と、北ドイツから北欧への旅とを比較すると、同じ西ヨーロッパであっても非常に対照的で、風土が社会と個人に及ぼす影響について、いろいろと考えさせられるのだった。ライン下り、ロマンティック街道のバス旅行、エーゲ海クルーズなどは観光として楽しく、ヴェネツィアや北ドイツのハンザ同盟都市リューベックでは、町そのものの独特なあり方が印象的であった。こうして、駆け足でではあるが歴訪した西ヨーロッパの町は、50以上になる。結局、帰国直前まで、ミュンヘンを根拠地にして四方八方へ動くことになった。ミュンヘンはドイツの中ではユニークさが目立つ町だが、その特徴を端的に表現するのは難しい。駅前とか盛り場は猥雑な感じがするが、他方で、整然とした都市美を示している地区もある。しばらく旅行して帰ってきたときには、その猥雑な部分に接して、かえってほっとし落ち着きを感じたのは、どういうわけであろうか。巨大なビヤホールや秋のビール祭りオクトバー・フェストもそれなりに面白かった。

断片的になるが、思い出すままに、他の地域や町についても、私なりの印象を述べておく。オーストリアのウィーンやザルツブルクは、美術、建築、音楽が市民の生活と渾然と融け合っているところがよかった。スイスは自然が美しいが、プロテスタント的な禁欲が支配的な人間社会にはあまり魅力を感じなかった。北欧は、短期間の周遊で瞥見しただけであるが、自然条件の厳しいところで高度の福祉国家を維持していくのは、至難であろうという印象を受けた。アムステルダムの第一印象は暗いという感じであったが、歩き回ると、いいところも目についた。ベルギーのブルージュでは、研修旅行で来ていた友人と会って、こじんまりとした町の景観と料理を楽しんだ。イタリアは、そのころ、スリなどの被害が多発すると言われていて、あまりゆっくり楽しむことができなかったが、ローマから1泊のバス・ツアーで行ったソレントやカプリ島が特に印象に残っている。

こうして、私の1年間の留学生活は無事に終わった。その間、健康に関しては、多少の故障はあったが、予定を変更するほどのこともなかったのは、幸運であった。前述のように、最後の4カ月については、計画の旅程通りに移動しなかったので、帰国してから、大学の事務担当者からさんざんに油を絞られ、長文の始末書を書くことになった。ただ、私自身は、国費によるせっかくの機会を最大限に活用できたと思っているので、悔いはまったくない。とにかく、このような留学の機会が与えられたことは、疑いもなく、私のその後の研究に大きなプラスになった。

3 ポルノから生命・環境へ

80年秋に帰国後、最初にまとめたのは、前述の「猥褻と映画検閲に関する委員会の報告」についての研究ノートである。報告の内容をできるだけ詳細に伝えるとともに、これに対する英国内での反応、評価、批判なども紹介した。さらに、この委員会報告が提案するポルノの法的規制を日本の現実に適用することの是非を主題にして、「性表現と社会」と題する別の論文を書いた。日本でも、『チャタレイ夫人の恋人』、サドの『悪徳の栄え』、『四畳半襖の下張』などをめぐる裁判において、芸術と猥褻の関係が問われてきたし、写真や映画における性表現の実態とその法的規制についても、英国によく似た状況があったからである。ただ、この論文を日本倫理学会の機関誌に投稿したところ、没とされた。その当時は、「応用倫理」的な研究は評価してもらえなかったのである。やむなく、別の学会誌に掲載してもらったが、発表の時期はかなり遅れてしまった。

なお82年春には、ポストが空いて、私は教授に昇任した。業績は質量ともに不十分であったが、紀要に連載した「法と道徳についてのノート」が内容的に評価されて、どうにか最低限の基準を充たしたようである。助教授時代には、現在の基準でも高く評価されるような研究発表の機会は、ほとんどなかったが、教授になってからは、学界の風潮が変わったせいもあってか、仕事が外から舞い込んでくるようになった。ポルノの法規制の問題を一応片付けた後、私が次に取り組んだのは前に触れた医療の問題である。80年代になって、医療技術の高度の発展と、ライフサイエンスの画期的な展開が、社会にこれまでにはなかったような難問をつきつけている、という状況はようやく顕在化し、世間でも生命倫理への関心が高まりつつあった。私がこの問題に取りかかってからすぐに感じたのは、医療のあり方について突き詰めて考えていくと、最終的には文明論的考察が必要になるということである。この考えはいまも変わっていない。医療だけでなく、現代の多くの重要課題についての探究が、私たちを現代文明の批判的考察に導く、という経験を、その後、私は何度も繰り返すことになる。日本哲学会の84年度の大会が同志社大学で開かれた際の、シンポジウムのテーマは「現代文明と人間の問題」であった。私は提題者の一人として、マイクロ・エレクトロニクス、バイオテクノロジー、医療などの現代文明を特徴づける科学技術が、私たちの日常生活をも大きく変えようとしているが、そのような変革が社会全体の福祉と個人の幸福に実際に寄与しているか、について論じた。私の恩師である野田又夫先生が、地方新聞の短いコラムで、この発表について好意的な論評をしてくださったことがなにより嬉しかった。

そのころ、先輩の竹市明弘氏からの紹介で、もち込まれたのが、ルソーの伝記の翻訳である。理想社の伝記叢書はドイツの写真入りの伝記叢書の翻訳であるが、それのG・ホルムステン著の『ルソー』を竜谷大の高田信良氏と一緒に担当することになった。ルソーについては、主要な著作を翻訳で読んでいただけだし、原著は不慣れなドイツ語であるので、楽な仕事ではなかったが、内容の面白さに魅かれて、滞りなく訳業を進めることができた。この仕事の予想もしなかった副産物は、これがきっかけで、『新潮45』という、当時は伝記と日記を主な内容にしていた雑誌の85年9月号に、「ルソー『告白』の真贋」という文章を執筆したことである。ページ当たりの原稿料は私が受けた最高の額であった。商業誌の編集者との接触はこれが初めの最後であり、興味深い体験であった。

次いで、同じ竹市氏から依頼されたのが、80年代に世界思想社から刊行されつつあった「哲学の現在」シリーズの一冊として、生命倫理に関する論文集を編集するという仕事である。竹市氏は、京大大学院時代からの親しい先輩であり、私が教育大に移ったのも、彼の紹介によってであった。彼は、76年に京大教養部に転任してきてから、現代哲学研究会を組織し、中堅・若手の研究者を集めて、従来の京大の哲学には見られなかったような、積極的な研究活動を主導しており、このシリーズの出版企画もそのような活動の一環であった。この研究会の学問傾向そのものは私とは縁遠いものであったが、留学から帰国後は、勉強と親睦を兼ねて、しばしばこれに出席していた。また、この出版の企画自体は時宜に適したものであると思われたので、喜んで引き受けることにした。ただ、関西の哲学・倫理学研究者で、生命倫理について学んでいる者はごく少数であったので、86年秋に論文集としての構成を決め、多数の若手の研究者にも担当のテーマを割り当てた上で、まず始めたのは生命倫理の基礎からの勉強会であった。そして、10数回にわたる熱心な勉強会の成果として、予想よりも早い89年6月に、阪大の塚崎智教授と私の共編による『生命倫理の現在』は刊行された。この論集に関連して、編者の一人として嬉しく思っていることが三つある。第一に、生命倫理は時論的な要素が大きい分野であるが、この書物は刊行後20年以上を経過したいまも、内容の改訂はほとんどないまま、生命倫理の教科書として広く採用され、毎年のように刷を重ねている。第二に、これに参加した若手研究者たちは、いま関西の主要大学で重要なポストを占めて活躍している。第三に、勉強会は、多くの新しいメンバーの参加を得て、「京都生命倫理研究会」という名称で存続し、生命倫理以外のテーマも広く視野に入れて活動を続けている。研究会の近況については、後で紹介する。

この研究会の若手のメンバーの協力を得て、生命倫理関係の翻訳も手がけた。体外受精などの新しい生殖技術が社会に及ぼす影響について詳論した、P・シンガーらの著書『生殖革命』を、私が翻訳し、88年に晃洋書房から出版してもらったのがきっかけである。次いで、若手研究者たちに分担してもらって、M・ロックウッド編の論文集『現代医療の道徳的ディレンマ』を90年に、J・レイチェルズ著の『生命の終わり』を91年に、いずれも晃洋書房から刊行した。このような作業も、私たちの生命倫理に関する知見を広く深くするのに役立ったと考える。

常俊宗三郎氏(大阪女子大から関西学院大)及び戸田省二郎氏(大阪府立大から福井大)とは、院生時代以来の長い付き合いであり、若いころから3人でヘーゲル、アリストテレス、マルクスなどの読書会を続けてきた。この3人の唯一の共同作業として訳出したのがJ・W・メイランド、M・クラウス編『相対主義の可能性』(産業図書、89年)である。私自身は何冊かの翻訳に関わったが、内容的にはこの翻訳がもっとも難しく、正直に告白すると、よくわからないまま訳した部分もある。 なお、私個人の活動としては、80年代に生命倫理について書いた論文を集めた論文集『生命倫理と現代社会』を世界思想社から、また、70年代から90年ごろまでに発表の生命倫理以外の論文を集めた『社会哲学の諸問題――法と道徳を中心にして――』を晃洋書房から、いずれも91年に刊行した。また、「同性愛犯罪および売春に関する委員会報告」に始まる「法と道徳」問題の英国における展開を概観したS・リーの著書を、90年の短期留学の際に、たまたまロンドンの書店で見つけ、これの翻訳『法と道徳』を世界思想社から93年に出版してもらった。

88年には、日本生命倫理学会が創設され、私も誘われて入会した。医師、看護師などの医療関係者が会員の半数を占め、それに加えて、哲学・倫理学、法学、経済学、社会学、宗教学など多様な専門分野の研究者が参加する学際的な学会であるので、新鮮な体験があり、他分野の人たちとの交流も有益であった。私も選ばれて評議員や理事を勤めたが、創設時からの理事たちの間で役職をめぐって争いがあったりして、気が重いこともあった。学際的な学会であることに起因して、会の運営や学問的水準の維持についても、さまざまな困難があるが、これをどのようにして克服していくことができるであろうか。

また、このころから、環境問題が、学界でも社会でも、いっそう重要な課題として浮かび上がってきた。私たちの研究会も、90年代には、環境を主要な研究対象にするようになった。生命・医療の研究の場合と同じく、最初は英米の文献を学ぶことから出発した。まず、勉強を兼ねて、アメリカの環境倫理の標準的なテキストである、K・S・シュレーダー=フレチェット編の大部の論文集を、研究会のメンバー24名が分担して翻訳し、これを『環境の倫理』上下2冊(晃洋書房、93年)として刊行した。私が担当したのは編者自身による「農薬の毒性」という長い論文であり、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』と同様に、環境破壊を招く農薬問題の深刻さをよく理解させてくれた。私たち独自の研究成果をまとめる試みは、予想以上に難航したが、『環境思想を学ぶ人のために』(世界思想社、94年)に一応結実している。ただ、私自身は、このころから、大学の管理職に専念することになり、不徹底なままにこの研究を中断せざるを得なくなった。

4 80年代から90年代へ

留学から帰国後の研究活動については、前節で述べた。この節では、同じ時期に私に起こったその他の出来事について述べておく。82年に教授に昇任したこともあって、私が大学内で担うべき仕事はいっそう増えてきた。当時の教員養成大学は、一方では、教員需要の激減に伴い教員養成課程の学生定員の一部を、新設のいわゆるゼロ免課程に転換することが求められており、他方では、現職教員の研修を受け入れるために、教員養成課程を強化して大学院を創設することが急務とされていた。これは方向性が異なる二つの企てを同時に遂行することを意味し、両者を限られた年月の間に達成するためには、全学的な協力が必要であった。私はそれまで教務関係の仕事にはあまり関わってこなかったし、大学院の創設にも消極的であったが、否応なしにこれらの仕事に関与することになった。それまで、教授会が抱える学内の懸案は、同和問題であり、それに次いでは障害児教育の問題であったが、80年代以降は、学生への対応よりも、教務関係の改革とそれに関連する教員の配置の変更がいっそう重要な課題になってきていた。その最中の86年2月からの2年間、私は教授会で選ばれて学生部長を勤めることになった。当時の教育大には、学長以外の管理職は、7人の附属学校長を別にすると、図書館長と学生部長しかなかった。学生自治会や寮に関しては、それほど深刻な問題はなくなっていたが、学生部長は教務の仕事も管轄しており、入試や教育実習の責任者でもあるので、学長以上に忙しい職とされていた。さらに、88年度には、教員養成課程から95名の定員を移すという形で、総合科学課程(ゼロ免課程)が創設されたので、これに関連して処理すべき仕事も多くあった。学生部長として出席すべき委員会、特に夕方から始まる会議がいくつもあり、その上、会議の終了後、大学近辺の居酒屋などで教員や事務官たちと飲み、さらに四条まで帰ってきて、木屋町あたりではしごをすることが、週に何度もあった。その数年前から、関西倫理学会や関西哲学会の委員を勤めており、前述の生命倫理研究会の世話や現代哲学研究会関係の付き合いもあって、昼も夜もやたらに忙しかった。さいわい健康にも恵まれて、無事に学生部長の任期を終えた後には、大詰めを目前にした大学院創設の仕上げの仕事が待っていた。大学院修士課程は90年春に無事に発足し、私も数人の院生の指導を担当することになった。

私事にも少し触れておくと、84年夏には、ソ連の事情に詳しい同僚に誘われ、10人ばかりのグループで、2週間のソ連旅行を体験した。敦賀からナホトカまでは往復ともソ連の船、ナホトカからハバロフスクまでは往復とも一昼夜の寝台列車であり、ハバロフスクからモスクワ、キエフ、サンクト・ペテルブルクなどへは、空路という旅であった。これには高校1年になった長男を連れていった。当時のソ連は、雪解け以後で少しは自由化してきており、73年にブルガリアでの学会出席の際に寄ったモスクワの印象に比べると、かなり雰囲気が明るくなっていたが、西ヨーロッパで勝手気ままな旅行をしてきた私には、不自由なことばかり多く感じられた。たとえば、旅行中のホテルはもちろん、三食をどこで食べるかまで、事前にソ連の交通公社にあたるインツーリストによって指定されており、これの変更は非常に難しかった。しかし、歴訪した町にはそれぞれに立派な文化・歴史遺産があり、興味深く観光し、見学した。帰途、ハバロフスクでアムール川の舟遊びを楽しんだが、これが黒竜江であり、その対岸に私の住んでいた旧満州国があるということは、夢想もしなかった。私たちの世代は、小学校・中学校の時期に、社会科と言えば新憲法のことばかりで、地理をまったく学ばなかったので、こうして恥を掻くことがよくあるのである。

また、90年の夏には、短期の在外研究員として、約8週間の留学を許された。10年前の留学のときと比較して、ヨーロッパ社会にどのような変化があるかを調べることを課題にしたので、訪問先は、英国、フランス、ドイツ、オーストリアに限定した。ロンドンで滞在した、北部の住宅街にあるB & Bには、日本人の若い人たちが何人か住みついていて、彼らから新しい情報を得ることができたが、それによっても、また、自分自身の見聞でも、ロンドンが随分変わってしまったという感じを強くした。この感じを具体的に表現することは難しいが、たとえば、パブの雰囲気にしても、無味乾燥なものに変わったように思われた。これはもちろん、一旅行者の無責任な感想にすぎない。当時は、ベルリンの壁の崩壊(89年11月)の直後、ソ連邦消滅宣言(91年12月)の直前であり、世界が大きな転換期を迎えていた時期であるから、国際都市ロンドンが変わったのも当然であろう。ただ、同宿の日本の若い人たちを誘って、日曜の昼に訪れたハムステッドの古いパブでは、子ども連れの家族が屋外でランチを楽しむという、以前と同じ風景が見られて、ほっとした。

フランスでは、パリを中心にして、前には行けなかった南部や西部のいくつかの町を訪れてみたが、特に印象に残るような体験はなかった。私自身が年を取って、もともと鋭敏とは言えない感受性が、さらに鈍くなっていたのかもしれない。ドイツでは、また、ミュンヘンの駅前ホテルに落ち着いたが、当時のドイツは、東西ドイツの再統一(90年10月)を目前にして、解決すべき多くの課題を抱えていた。私は、統一した場合、たとえば、人工妊娠中絶の法規制はどうなるかに関心があり、現地で専門書の輸入業をしている日本人に特に頼んで、現地の事情を教えてもらったりしたが、状況の全体的な把握は難しいと思わざるを得なかった。オーストリアでは、ウィーンで、留学中の昔の教え子夫婦の世話になり、オペレッタを楽しんだことが印象に残る程度である。

VII 学長時代(93年4月~99年3月)

1 学長就任

私が京都教育大の学長に就任したのは、93年の4月である。23年前にこの大学に赴任したときには、まったく予想していなかったことである。私はもともと内気で、大勢の人の前で話すことは苦手であったし、管理職などには、もっとも不向きな人間であると自認していた。父が2度も中学の校長を勤めながら、自ら求めて平教員に戻ったということも、思い起こしていた。だが、組合の委員長になったり、同和問題で苦労したりしたころから、生き方の軌道修正をせざるを得なくなった感じがあり、学生部長を勤めたころからは、それが決定的になったように思われる。そして、成り行きとは言え、自分の意志で重要な職を引き受けた以上は、難しい課題でも、それに正面からぶつかっていくしか道はない、と考えるようになった。だから、同僚の中には、学長になるのはもう少し後の方がいいのではないか、と忠告してくれる人もいたが、私自身は、どうせやるのなら、健康状態に自信がもてる、少しでも若いうちの方が望ましい、と考えた。当時は国立大学、特に教育系大学は、生き残りを賭けて多難な時期を迎えており、学長は名誉職ではなく、激職であることが常識になっていたからである。

学長選は推薦投票と本投票の2回に分けて行われる。93年の1月中旬に推薦投票、その3週間後に本投票が実施されたが、有力な対立候補もなく、私は学長に選ばれた。教育大の教員の定年は63歳であったので、70年に33歳で赴任したときから、ちょうど2000年に退職だと思い込んでいたが、学長になると一期目4年、二期目2年で、最長6年なので、遅くとも99年には退職することになる。こういう瑣末なことで、少し残念なように感じた。しかしとにかく、こうして私の学長としての任期は始まったのである。

この時期の家庭の状況を述べておくと、妻は京都大学医療技術短期大学部に勤務していた。長男は京都府立大学の文学部で国文を専攻した後、東京の美術の専門学校に在学中であった。長女は大谷短大の国文科を出た後、大阪のファッション・スクールで学び、これを終えて、大阪のアパレル・メーカーに就職が決まったところであった。母は米寿を迎えて、やや老化が進んだので、神戸の長姉にしばしば預ってもらい、京都の西南の方にある老人保健施設にも短期の滞在をお願いしたりした。また、在宅の場合には、家政婦さんに来てもらうようにしていた。学長になると、東京をはじめ各地への出張が格段に増えるので、公職をもつ妻に、いっそうの負担をかけることになった。

2 学長の職務

国立大学では、学長は教員ではないとされていたので、研究室を整理して、明け渡す必要があった。教員としての研究費もなくなり、管理職に専念すべきだということを、嫌でも感じさせられた。そのころは、論文の執筆や翻訳、一般向けの公開講座などかなり広範囲に活動していたが、学長としての職務を最優先するため、他の仕事は最小限に減らすことにした。在任中の6年間に、曲がりなりにも研究を続けることができたのは、学会等からの依頼で発表や執筆をする機会が多少はあったことと、生命倫理研究会の会合に欠かさず出席して、若い人たちの活動から刺激を受け続けていたことのお蔭である。

当時は国立大学にも、副学長という制度ができつつあったが、教育大のような小さな大学におくことは、まだ認められていなかった。教育学部だけの単科大学であるから、学長は学部長を兼ねるが、評議会とか執行部にあたる機関がなく、重要なことも小さなことも、一人で判断して決めたり、委員会、教授会に諮ったりする必要がある。また、京都教育大の場合には、附属学校が特に多くて7つあり、その教員総数は大学教員より多い約150人、生徒総数も約2,500人であった。附属のあり方が多面的に問題にされ始めた時期でもあり、それまでは教育実習を通じてしか接触のなかった附属に、もっと深く関わることが求められた。入学式や卒業式のシーズンには、大学以外に、4つぐらいは附属の式にも出て、挨拶するのが通例であった。挨拶の原稿は用意して行くのだが、養護学校や幼稚園の場合には、原稿を見ながら話すというのは適切でないので、かえって難しく感じた。とにかく、私にとっては、大勢の人の前で話をするのは、いつまでたっても、緊張を要する仕事であった。

当然のことであるが、対外的な用事も予想以上に多くあった。4月1日には早速、日帰りで文部省に赴き、辞令を交付され、関係部局に挨拶回りをした。翌日からは、学内の用務の合間を縫って、京都の国公立の大学や、密接な協力関係にある近畿の教育系大学等に挨拶に出向いた。学内の主要な委員会には、学長の出席が望まれており、学生寮の入寮式などにも、慣例的に出ることになっていたから、就任後の1月は、あちこちに顔を出し、挨拶をするだけで、あっという間に過ぎ去っていった。

教育大の学長室は広く立派であったが、秘書は一人もいなかった。用事があれば、少し離れた所にある庶務課に頼むことになる。昼食は事務官が尋ねてくれるので、出前の丼などを注文していたが、やがてそれも煩わしくなり、暇を見つけて以前のように生協の食堂に行くようになった。出退勤も最初は公用車の世話になったが、貧乏症のせいか、かえって窮屈に思えて、早々にこれも辞退することにした。長年続く定員削減のため、運転手の数は減り続け、私の就任当初は二人であったが、退任前には一人になっていたから、いずれ遠慮することになったであろう。出張の手続きなどは、事務局でやってくれるので楽になったが、宿や切符の手配はいつも自分でした。長年の習慣で苦にもならなかったし、人に説明して頼むよりも、自分でやる方が手間が省けたからでもある。

そのころまでの国立大学には、国立大学同士の交流関係はあったが、私立大学との付き合いはほとんどなかった。100近い国立大学の協議機関としては日本国立大学協会(国大協)があった。春と秋には2、3日かけての総会が東京であり、それに合わせて文部省召集の学長会議も催された。国大協にはいくつかの専門委員会があり、各学長は最低一つはその委員になっているので、その委員会にも出席しなければならなかった。また、近畿の14国立大学の会議も各大学が回り持ちで当番校になって開催された。国立の教育大学・教育学部の連合組織としては、日本教育大学協会(教大協)があって、同じく年二回の会議が開かれ、また近畿の支部としての会合もあった。平時には、会議は難しい問題もなく簡単に済むのであろうが、そのころからは、国立大学の法人化、入試方法の改革、国家財政の窮乏化にともなう人件費や研究費の削減、教員養成大学・学部の学生定数の削減計画など、重要な課題が目白押しに迫ってきて、会議の内容も深刻になってきていた。

このことに関連して重要になるのが、外での会議等で得た情報を大学構成員に正確に伝えることである。正確な情報に基づく事態の把握なしには、大学としての適切な意志決定ができないからである。教授会では、議題の審議・決定の後で、報告が行われるが、そのころから学長からの各種会議の内容についての報告が質量ともにかなり増加した。報告はそれまで口頭で行われるのが普通であったが、正確な伝達と時間の節約のため、要約を作って資料としても配ることにした。ただ、長時間にわたる会議の内容をすべて要約に盛り込むことは不可能であるから、私の価値判断で取捨選択をしなければならない。それが間接的な学内世論の操作になるという危険性については、当時から意識していたが、その解決策を見出すことはできなかった。私の退任の5年後の2004年に、大学は法人化され、学長の権限もやや強化されたようであるが、当時は、学長が独断で決められることは限られていた。学長に期待されるのは、リーダーシップを発揮して、学内の民主主義的な意志決定をよりよい方向に導いていくことであったし、私自身もそのような大学運営が望ましいと考えていた。だから、私が重要と思う情報は詳しく伝え、その線に沿って改革を進めたが、結果的にうまくいかなかったこともあった。

だが、私が自分の判断で積極的に進めてよかったと思える事業もある。京都市と京都の有力私立大学の主導で92年ごろから進められていた「大学コンソーシアム京都」への参加は、その一つである。他の国立大学は、当初、私学との連携について消極的であったが、教員採用が慢性的に減少しているために、教員養成学部としての存続が危ぶまれているわが大学としては、私学との連携によって、なんらかの活路を見出すことを期待したのである。ただ当初は、国立大学には、経費の支出や単位互換に関して窮屈な制度的縛りがあるために、私学と対等の立場でお付き合いすることができず、97年度になってようやく正式に加盟することができた。21世紀になってから、教員養成学部を母体として、現職教員を主な対象とする大学院教職教育研究科をいくつか設置するという計画が文部科学省から提起された。京都教育大は京都の有力私学との連合でこれを設けるという、独創的な構想を掲げて認められ、2008年度からこの新しい研究科を発足させたが、これを実現可能にしたのは、コンソーシアムを通じて私学との信頼関係を築いてきた実績であったと思われる。

3 国際交流と地域交流

そのころから大学が果たすべき重要な役割になってきたのが、国際交流と地域社会との交流である。まず国際交流についてであるが、京都教育大学は、私の学長就任の直前、93年1月に、中国の上海師範大学と初の交流協定を結んでいた。私が就任してまもなく、上海側から、交流の内容についていくつかの具体的な提案が寄せられたが、それを検討してみると、主として経費の点で、当時の教育大では実行不可能なことばかりであった。文部省は大学が国際交流をすることを奨励しており、外国人のための国費留学生制度などは設けていたが、個々の大学に対する国際交流のための一般的な予算措置はまったくなかった。もともと少額の研究旅費や事務旅費も、使途は国内に限られていて、国際交流に流用することは不可能であった。上海側としては、豊かな日本の国立大学に期待するところが大きかったと思われるが、むしろ先方の方が大学の裁量で自由に動かしうる予算をもっているようであった。やむを得ず私は、こちらの状況を正直に説明し、交流を具体化するためには、学外にある各種の制度を活用するしかないので、そのための努力をする、と伝えた。

ここで他大学の状況を見ると、大きな大学、伝統のある大学では、大学独自の基金をもっていて、基金からの利子収入を国際交流に充てているところが多いように思われた。また、名目はいろいろであったが、新しく募金活動を始める大学も目立ってきていた。師範学校から昇格したわが大学には、1876年の京都府師範学校創設以来の長い歴史はあるが、基金に類するものはほとんどなかった。そこで私は上海との件があってからすぐに、基金作りを一つの目的として、96年の創立120周年を記念する事業を企画するべきだと考えた。そのことについては、節を改めて述べることにする。

上海師範大学との交流は、その後、学生を語学研修のために派遣することなどで具体化した。また、費用負担の原則を決めて、双方の教職員が訪問し合うことにより、相互理解を深めることができるようになった。私も任期中に2回、上海を訪れる機会があった。先方の執行部との相互理解が深まり、国際交流の責任者と通訳(どちらも女性)が非常に有能であったことにも助けられて、実りのある取り決めをし、交流を進めることができた。さらに、こちらの国際交流を担当する教職員の努力で、学外の制度を利用して、たとえば、上海の各大学の代表団を日本への視察旅行に招聘するという事業を実現させ、大いに喜んでもらった。

95年には、タイの教員養成系の大学と交流協定を結んだ。経済的な発展が進み、それに伴って初等・中等教育の充実が課題になっていたタイへは、少し前から、教育大の理科系の教員たちが、国際協力事業団(JICA)などの事業で、現地に滞在して理科教育の指導を行ったという実績があり、さらに教育行政学のH教授が、タイの教育省の顧問として、初等・中等教員養成の充実に向けて活躍中でもあった。ただ、タイの教員養成を主とする地域総合大学は、大学という名前はついているが、施設設備や教員の質の点で、まだまだ他の大学よりも遅れており、しかも、全国各地に散在する36大学が、組織としては一つであるという、きわめて特殊な事情があった。京都教育大学だけで36大学を相手に援助を主体とする交流をするのは実質的に無理であったので、こちらでも、京都教育大学を幹事校として、大阪教育大学、奈良教育大学、滋賀大学、和歌山大学の5大学連合の形をとり、複数の大学同士で協定を結ぶことにした。日本側の各大学はそれぞれ独立した組織であるから、協力を依頼して協定に合意してもらうにも、多少の困難があったが、主としてH教授の努力でなんとか構想通りに交流の枠組みを作ることができた。この計画の進展に合わせて、私も大阪教育大の学長とともに、2回タイを訪問し、大学の管理運営について関係者相手に講演をしたり、協定に署名したりした。

97年には、オーストラリア南海岸の風光明媚な町アデレードにある南オーストラリア大学と交流協定を結んだ。この大学には、外国人に英語を学ばせるための大規模な教育組織がある。日本の大学の学生がこの英語研修に参加するように斡旋する仕事をしている、アデレード在住の日本人女性の熱心な勧誘がきっかけで、すでにそれまでから、夏休みに数十名の希望する学生を研修に送り込んでいた。信頼できる相手であると見込み、さらに広い範囲の交流を期待して、正式な交流協定を結んだのである。アデレードでの協定締結に出席した南オ大学の学長は女性であったが、いろいろ聞いてみると、オーストラリアでは、学長、副学長などの管理職は、それまで研究・教育にあたってきた教員出身者ではなく、大学の管理運営を専門にしてきた行政畑の人材から選ばれるようであった。研究・教育に専念してきた教員が、ある日突然に大学行政の最高責任者になって戸惑うという、日本の実態を見聞し、体験もしている私にとっては、大いに考えさせられる話であった。なお、アデレードの南西にあるカンガルー島は、語学研修の学生がエクスカーションで行く目的地であったので、私たちも訪れてみた。定員10人ばかりの小型プロペラ機で行く島の大部分には、人は住んでおらず、カンガルーやワラビーなどが伸び伸びと動き回っていた。

このような国際交流活動の充実・発展は、教育大が受け入れている留学生数を激増させたが、それに伴って、さまざまな問題が派生してきた。責任をもって受け入れるには、留学生の量よりも質を重んずるという方向への転換が当然、必要になった。世話にあたる教職員の人手不足と、予算の窮屈さという難問はその後も解消せず、いまも国際交流は、留学生の指導と世話を担当する教職員の献身的努力によって支えられている。その中で、特に嬉しかったのは、私の任期が終わる少し前の98年春に、単身用、夫婦用、家族用などの40数室を備えた、懸案の国際交流会館を建ててもらったことである。

なお、120周年記念事業を推進する過程で、大学が地域社会にしっかりとした基盤をもつことの大事さが遅まきながら認識されるようになった。これは当然のことだが、それまでの大学は、「象牙の塔」に閉じこもるというような意識はなかったにしても、地域社会との緊密な関係を作り上げようと努力することはほとんどなかった。その怠慢ぶりを思い知らされたのが、大学のすぐ近くにJR奈良線の新駅ができることになったときである。その駅名をたとえば「京都教育大前」にしてほしいという運動を、前学長の任期中からしていたが、地元の支持が得られなかったために、結局、実現しなかったのである。

このような実態への反省を踏まえ、120周年記念事業の推進に並行して、まず、一般向けの公開講演会を年に数回、開催するようにした。講演のテーマとしては、京都・伏見の文化、藝術、歴史、産業などに関するものが多かったが、現代の教育問題なども取り上げられた。学外から各界の権威である多数の方々に講師をお願いしたが、文学、美術、体育などを含めて多彩な学問領域を網羅する学部組織を活用して、学内の教員による特色あるテーマでの講演も行われている。また、もっと少数の受講者を対象に、特定のテーマについて複数回にわたって指導する公開講座も、数多く開かれるようになった。これらの事業の企画・運営にあたる機関としては、地域・社会交流委員会が、国際交流委員会に並ぶものとして設けられ、こうしてようやく、「開かれた大学」への改革は進み始めたのである。

4 120周年記念事業

前に触れたように、学長に就任してまもなく、私は創立120周年記念事業を具体化することが必要と考え、学内にこれを構想し推進するための委員会を設置して検討を始めてもらった。ただ、この事業、特に基金創設のための募金活動の遂行には、容易に想像できるように、多くの障害があった。第一に、京都教育大学は師範時代以来、教員養成を主体とした教育機関であり、卒業生の大部分は教職に就いている。大学が募金活動をする際に大口の寄付が期待できるのは企業であり、法・経、理・工、医・薬などの学部は企業と密接な関係にあるから、協力を求めやすいが、教育大の企業との直接の関係はきわめて限られているので、積極的な賛同・支援は得られにくい。第二に、卒業生たち自身からの寄付についても、金もうけとは縁遠い教員生活を送っている人たちに、多額の寄付をお願いするのは無理である。附属学校の卒業生には、京都の各界で活躍している名士が多いが、各附属は独自に記念事業を行っていたりするので、附属関係からの協力に多くを期待できない。第三に、募金事業を始める以前に、バブル景気は崩壊し、なおも不景気が慢性的に続いていた。また、募金活動最中の95年1月17日に起こった阪神大震災の影響も深刻であった。

このような状況の中で記念事業を推進することには、予想以上の困難があった。この事業は、基金創設という言わば不純な動機に発するものであったが、世間に向けて趣旨を説明して賛同を得るには、京都教育大学の過去および現在における教育理念と教育活動について、暫定的であるにしても大学としての統一的な見解をまとめることが必要であった。そして、そのことは、大学が師範学校時代以来の歴史を振り返り、教員養成を通じて地域社会にどのように貢献してきたか、社会に害悪をもたらすことはなかったか、また、現状はどうであるか、について、反省し総括をすることを要求する。だが、教職員の間でも、師範学校と学芸大、さらには教育大との連続性については、意見が分かれているのが実態であった。さいわい、事務局長はじめ事務局が実務面では熱心にサポートしてくれたので、このような問題を試行錯誤的に克服しながら、なんとか事業を進めていったのである。

学外からの協力をお願いする前に、まず学内の教職員自身が積極的な姿勢を示すことが必要であったので、大学教員に対しては、委員会で月給の額に応じた基準を設定して、寄付を募ることにした。寄付者の名前と金額は公表しなかったが、かなり多数の教員の自発的な協力を得ることができた。師範時代以来の同窓生諸氏からも、暖かい支援をいただいた。財界への働きかけについては、同窓会長のF氏の尽力により、京都の有名企業のリストを作ってもらい、それに基づいて、主に私と事務局長が出向いて、趣旨を説明し、支援を要請した。有力な会社等のトップの方々には、記念事業後援会の役員になってもらい、また相応の寄付をお願いした。かなり無理なお願いであったが、苦しい経営状態の中で支援してくださった企業に対しては、本当に感謝している。

寄付金の募集事業は97年5月に終了した。もともと無理は承知で目標を高く設定していたので、寄付金の総額は、目標の6割にも達しなかったが、ともかく、経費を差し引いて約1億500万円を基金に充てることが可能になった。これに協力してくださった各方面の皆さんには、心からお礼を申し上げたいと思う。私個人としては、お金集めの苦労を初めて体験したのであるが、苦労のし甲斐はあったと感じている。

なお、これに先立つ96年6月には、120周年記念式典が、国の内外からの多数の来賓を含め約500人の方々に出席していただいて、盛大に挙行された。また、国際交流基金からの助成金を得て、記念式典の翌日に、交流している上海、タイ、オーストラリアの大学の代表を交えての国際環境教育シンポジウムが開催された。その他にも、記念の美術展や「第九を歌おう会」のコンサートなどの協賛の催しがあり、記念事業はにぎやかに幕を閉じた。だが、その後、21世紀にかけても、政治・経済・社会の激動と混乱は続き、その中で、教育の果たすべき役割は何か、教員養成はどうあるべきか、という課題の解決に向けての模索は、今も続いている。教育大学はこれからどこに向かうのであろうか。

5 学部改組の試み

初等・中等教員の採用数は、90年代にも減少が続き、京都教育大の教員養成課程卒業生の教員への就職率も50%を下回るようになった。また、いじめ、不登校、校内暴力などの病理現象が、深刻な社会問題になり、これに対応できるだけの実践的能力を備えた教員の養成が強く求められるようになってきた。大学では、このような社会的要請に応えるため、95年に学部改組委員会を設けて検討を開始し、学内での白熱の論議を経てまとめた、次のような改革案を97年度から実施に移した。①教員養成課程の学生定員を325名から280名に減らし、総合科学課程の定員を95名から140名に増やす。②小学校教員養成課程と幼稚園教員養成課程を統合して、初等教育教員養成課程を設け、学生定員も増やす。③理科、美術・工芸、保健体育にあった特別教科教員養成課程をなくし、中学校教員養成課程に統合する。④学校教育における深刻な課題に対応できる能力を身につけた教員の養成を目指して、教員養成課程のカリキュラムを改定する。⑤学生定員の増えた総合科学課程の5コースについては、社会的ニーズの変化に合わせて、各コースの内容・構成を改める。

国立大学における教員養成に関しては、師範学校時代以来の伝統もあって、すべての府県に単科の教育大学または総合大学の1学部としての教育学部のどちらかが設置されているが、当時は、教員採用の減少と一般大学・学部卒業生の教職への進出などの状況を踏まえて、国立の教員養成学部を各府県におくという原則の見直しが取り沙汰されていた。学生に他府県出身者が多く、また、地域に教職資格が取れる一般大学・学部が多くあるために、京都府・市の教員採用に占めるシェアが構造的に低い京都教育大学としては、存亡の危機に直面していると、掛け値なしに実感していた。だから、97年度からの改革は、大学が生き残りを賭けて、多くの犠牲を払いつつ、自発的な努力でまとめたものであった。ところが、この直後、突然、文部省から国立の教員養成学部の定員を大幅に減らす計画が公表され、これがやがて実施されて、上記の改革は実質的に無駄骨に終わった。私の退任後のことになるが、学部学生定数は420名から300名へと減らされ、総合科学課程はやがて廃止された。大学としてできるのは、大学院の充実を図り、教員スタッフを質的・量的に維持することによって、学部の教育水準を低下させないように努力することだけであった。

このような経験を通じて私が痛感したのは、国立大学、特に京都教育大学のような弱小大学にとっては、大学の自治とか自主的な運営は「絵に描いた餅」に過ぎないということである。大学の自主的な企画が、たまたま文部省の目指す方向と一致する場合には、取り上げてもらえるが、そうでなければ、今回のようにいったんは認められても、実質的に否定されてしまうことがある。文部省(現文部科学省)自体が弱小官庁であるから、一貫した政策を推し進めることができず、予算の都合、政局の動き、有力政治家の思いつきなどに左右されて、しばしばその姿勢が豹変してしまう。私自身は、そうした制約を意識しつつ、なお大学の教育の向上を目指して愚直に努力してきたつもりであるが、任期の終わりに近づくにつれて、反省とともに、空しさを感じることも多くなったのである。

6 退任前後

こうして99年3月、無事にとは言えないが、私は2期6年に及ぶ学長の任期を終えた。国立大学を法人化するという動きはすでに始まっていたが、私の退任の5年後の2004年に実現した。法人化によって、大学の学長や執行部の権限はやや強化され、また、予算の執行などの大学運営上の制約もいくらか緩和されたようであるが、同時に、短期あるいは中期の目標を立て、それがどれだけ達成できたかを細部にわたってチェックするというシステムが取り入れられた。このシステムは他の大学との比較を可能にするから、大学間の競争による教育の質の向上を意図するものであり、これまで自己満足と事なかれ主義に陥りがちであった国立大学の実情を考慮するならば、ある程度の有効性をもつと思われる。ただ、それがもたらすマイナス面をも無視してはならないであろう。その第一は、文部省や評価機関に提出する書類作成等の、外向けの仕事に莫大な労力を要することである。前述のように、大学の事務職員の定数は限度を超えて削減されてしまっており、優秀な事務官がこのような作業に忙殺されてしまうことは、教育・研究を支えるという本来の業務を大きく妨げる結果になる。第二は、大学としての教育・研究の目的が、外部から評価されやすいもの、その成果が短期的に目に見えやすいものに、誘導されていくことへの懸念である。大学の教育・研究は社会にとって有用なものであることが求められるが、それの価値は、短期的な成果だけで判断されるべきではない。目先の効用の大小だけで大学の教育・研究が評価され、大学自身もそれに左右されて活動するようになることは、大学にとっては自殺行為になると考える。

これに関連して述べておきたいのは、オーストラリアでの見聞として前に言及した問題、つまり学長には教員と行政職のどちらが適任か、についてである。行政職出身の学長の方が、一定の方針にしたがって大学の効率的な運営を行う能力は、おそらく優れているであろう。効率は確かに重要である。だが、効率ばかりを求めるならば、小さくまとまった教育・研究の成果は量産されるとしても、長期にわたるスケールの大きなプロジェクトは実現困難になる。当事者にもその価値が十分に理解されないまま始められた研究が、しばしば予想外の大きな成果をもたらす、ということの意味を考慮する必要がある。何人かの副学長が学長を補佐するという体制が整い、執行部が強化されてきているのが現状であるから、教員出身の学長に手腕を発揮する機会を与える方が望ましいのではないだろうか。

この6年の在任期間中に、大学を少しでもよくするために、私としては最善の努力をしてきたつもりであるが、法人化の問題を含めて、大学にも、次期の学長にも、いっそう克服困難な諸課題を残す結果になった。18歳人口が減少し続け、国家財政はますます窮迫している現状であるから、大学の経営が難しくなるのは、京都教育大学に限ったことではないのであるが、あの時点でもっとこうすべきであった、というような悔いは、今も私の心につきまとうことがある。

学長在任中には、京都府・市の教育委員会など、学外からの仕事を依頼されることがよくあり、自分は不適任だと思いつつも、積極的に引き受けることにしてきた。主要なものだけ取り上げると、まず、京都市「幼児教育センター(仮称)基本構想策定委員会」の委員長である。この委員会は、子育て困難に自治体として対応するためのセンター構想について、審議・答申することを職務とした。教育学の研究者、幼稚園教育・保育関係者、幼児の保護者などの各層から選ばれた委員が、95年秋から翌年夏まで、熱心に論議を交わし、報告をまとめた。この構想は99年12月、京都市「子育て支援総合センターこども未来館」の創設により実現し、私はその初代館長を3年余りにわたって、勤めることになった。

もう一つ市教委から頼まれたのは、「中学生の健やかな成長を目指す望ましい食生活と昼食に関する検討委員会」(97年~99年)の委員長である。この委員会は実質的には、京都市の公立中学校で学校給食を実施すべきかどうかを問題にしたが、審議の過程で、中学生の食を中心に生活全般にわたる、かなり詳しい調査を行った。そして、その結果、中学生の生活が私たちの予想以上に乱れていることが明らかになった。この委員会での結論に基づき、希望者を対象とする中学校給食が、段階的に実施されることになった。私はこれらの委員会の委員長として、まとめ役を勤めただけであるが、この経験を通じて、現代の教育問題の深刻さに触れることができ、それが後に社会哲学のテーマとして教育を取り上げるきっかけになった。また、生命・医療関係では、京都教育大に隣接する国立京都病院(現京都医療センター)の倫理委員会や受託研究審査委員会の委員を長年にわたり勤めた。  研究面についても、少し触れておく。前述のように、89年刊行の『生命倫理の現在』はなお版を重ねているが、生命と医療をめぐる状況は大きく変化しているし、これに応じて理論的な追求もたえず新しい展開を示しつつある。研究会では、これに対応して、さらに多くの研究者に参加してもらって、生命倫理の新しいテキストを編纂することにした。こうして新しい構想のもとに出版されたのが、当時、京大の倫理学講座の教授であった加藤尚武氏と私の共編著『生命倫理学を学ぶ人のために』(世界思想社、98年)である。さいわい、この論集も前著に劣らぬ好評を得て版を重ねている。 また、学長退任にあたって、任期中に発表した論文等をまとめて『社会哲学の現代的展開』(世界思想社、99年)を出版した。在任中は、新しい文献を探し求めて読むという作業はほとんどできなかったが、発表の機会を与えられることはあったので、なんとか最小限の研究を継続してきた。講演の要旨や雑誌等に掲載した短文なども入れて、ようやく1冊の論文集になった。この論文集で取り上げている領域・テーマは、前の二著よりも広くなっているが、それに応じて、執筆の姿勢が、学問的な精密さよりも、問題状況の大まかな把握に重点をおく方向に変わってきている。これは、私の関心が、現代社会の諸課題の個別的な検討よりも、それらの総合的把握を目指す、という方向に変わってきたこととも結びついており、プラス・マイナスは別にして、その傾向は以後も続くことになる。

VIII 京都女子大で(2000年4月~10年3月)

1 1年間の休養

学長退任があと1年余に迫ったころ、京大での先輩から、京都女子大に2000年春、現代社会学部が新設されるので、そこで契約教授として再就職する気はないかというお話があった。当時、私はまだ学長としての職務に忙殺されていたが、この勧誘は、熟慮する必要もないほど、私にとっては魅力的であり、すぐに承諾した。その理由は、第一に、現代社会を直接の研究対象にする学部は、私の教育・研究の場として、文学部などよりも適していると思われる。第二に、京都女子大は東山七條にあり、自宅のある京都市北部からの通勤には、伏見にある京都教育大以上に便利である。大学の経営や学生の質というような面でも、良好な水準を保っているように思われる。第三に、契約教授という職は、普通の教授よりも、給料はかなり安いが、73歳まで勤めることができる。2000年春の時点で、私は63歳であるから、心身の健康が許せば、10年間の勤務が可能である。さらに、99年春の学長退任後、1年間の休養がとれることも、望ましいと感じられた。当時は女子大に社会科学関係の学部を設けることが流行りになっていたらしく、その後にも、大阪や神戸の女子大から、学部創設や改組に伴う、同じような勧誘があったが、地理的条件などを考慮して、丁重にお断りした。

学長退任当初は、残務整理があったり、退官記念の講演会やパーティを催してもらったりで忙しかったが、やがて束の間の平穏な日々が訪れた。休養に努めながら、現代社会学部創設のための準備の会合にときたま出席し、また、新しく担当する授業の準備をする、という生活であった。海外へも学長の任期中は公用による出張でしか行けなかったので、暇な間に何度か気楽な旅に出たいと願っていたが、結局は、6月に中央ヨーロッパへの10日間のツアーに参加しただけに終わった。このツアーはベルリンからプラハ、ウィーンを経てブダペストに至るバス旅行で、ウィーンを除いては、約10年前までは東の社会主義国に属していた地域を訪れた。だから、何度かの滞在や旅行で親しんだ西ヨーロッパ諸国と比較すると、共通する部分もあるが、かなり異質な要素も感じられて、興味深かった。

また、教育大時代に、40歳を過ぎてからであるが、同僚に誘われて、テニスを始めていた。基礎から習ったわけではなく、昼休みとか休日にダブルスを楽しむ程度であったが、退職後はそれもできなくなったので、岩倉の方にあるテニスクラブに入会した。そこでは、コーチが指導してくれるので、健康のためという実益を兼ねて、週に1,2回、午前中に通うことにした。会員には、さまざまな職種・経歴の老若男女がいて、私にとっては新鮮な経験であった。テニスの練習は、その後の10年余も、細々とではあるが、続けている。

なお、学長在任中に、北海道大学文学部の倫理学担当の坂井昭宏教授から、大学院生対象に研究講義をしないかというお誘いを受けた。そのときは、制度的に難しいという理由でお断りしたが、退職して暇になったので、私から申し出て、9月末から5日間の集中講義をさせてもらった。北大では、哲学・倫理学関係のスタッフとの楽しい交流があり、院生たちも熱心に受講してくれたので、無事に任務を終えることができた。夜は毎晩のように薄野あたりを飲み歩いていたので、坂井教授に呆れられたが、彼との研究上の交流はいまも続いている。札幌まで、飛行機を避けて、列車であちらこちらに寄りながら往復するという贅沢をしたので、5日間の講義のために10日以上も旅をすることになった。

2 新しい学部で

2000年4月、新しい世紀とともに、京都女子大学の現代社会学部は発足した。初年度は、大学がかなり力を入れて宣伝してくれたので、定員の220人を大きく超える約300人のレベルの高い入学生を受け入れることになった。専任の教員は約30人であったが、ほとんど全員が外部からの新採用であり、また、学部の特色を出すためであろうか、タレント的な研究者やかなり個性的な人材が多く選ばれていた。30人が急に集まって一つの組織を作り、教育・研究という重要な業務をスムースに進めていくことには、容易に想像できるように、多大な困難が伴う。メンバーの中には、組織内のまとまりよりも、争いを好む教授たちもいて、派閥を作り、屁理屈をこねて、反対のための反対をすることもあった。学部が完成するまでの4年間を待たず退職する教員が何人かいたので、その補充の人事が重要な議題になったが、妥当と思われる人事が通らなくて、学部長以下が大慌てすることもあった。学部長たち数人の準備にあたった教員が、創設時のスタッフを選んだのであるが、間もなく、自分たちが選んだ個性的な教員たちをコントロールできなくなった。新設学部の学部長は、完成年度を終えるまでの4年間は代わらないのが原則であるが、3年目を終えるころ、混乱を収拾しきれなくなって辞任する、という最悪の事態に陥った。

前述のように、私は契約教授という立場であったので、そうした混乱に巻き込まれなくてすむと考えていたが、現実はそう甘くはなかった。京都女子大の契約教授と普通の教授との違いは、給与と定年(前者は73歳、後者は65歳)の違いを除くと、担当授業数のノルマのわずかの差だけである。他の私立大学における特任教授などと呼ばれる制度では、授業をいくつか担当するだけで、学内・学部内の役職や入試等の雑務の負担は免除されるという例が多いようであるが、京都女子大の場合には、前述の点以外では、普通の教員とまったく同じ扱いであった。教授会のメンバーとしていくつかの委員職を割り当てられるだけでなく、悪くすると管理職にも選ばれてしまう。実際に、初代の学部長が任期途中で辞任するという非常事態において、新しい学部長に選ばれたのは、契約教授のH教授であった。そして、彼の3年余にわたる大変な努力で、学部の運営はしだいに正常化されていった。私自身は、学部内の役職はなんとか免れたものの、その1年後の04年春から3年間、学長指名の図書館長を勤めることになった。H教授が、学部の内外で孤軍奮闘していたので、私だけが勝手を言うわけにはいかなかったのである。

ある程度は予想していたが、京都女子大の管理職の忙しさはそれ以上であった。図書館長という職は、図書館に関する仕事は比較的少なく、その点では学部長よりはずっと楽であるが、学内の部局長の一人としての多種多様な職務があった。毎週開かれる部局長会議と、学内のその他の各種委員会への出席があるだけではない。入試の実施、判定等の最終的な責任を負うのも部局長から構成される入試委員会であるので、多種多様の入試の期間中は、ずっと待機することが求められるし、全国各地で行われる地方試験には実施責任者として出張しなければならない。どういうわけか、センター試験のときには、各試験室での監督責任者を部局長が勤めることになっていた。地方で夏に行われる高校相手の入試説明会に代わり合って参加することも、部局長の義務であった。夏には、育友会の地区懇談会が全国各地で開かれるので、それに出席するための出張も毎年2回はあった。さいわい健康状態には恵まれたし、旅行も嫌いではなかったので、うんざりしたり、楽しんだりしながら、なんとか勤めを果たすことができた。

館長2年目の05年からは、幼稚園、小・中・高等学校をも含めた学校法人京都女子学園の理事も勤めることになったので、さらに多忙になった。理事会は、学園全体の運営についての最終的な意志決定機関であり、その審議事項には、学園の教育方針、教育組織の改革、施設・設備の拡充計画、教職員の人事、学園の財政などに関わって重要な事項が網羅されている。短期間にせよ、それらが決定されていく過程に参加したことは、国立大学との比較という点で、非常に興味深い体験であった。比較の結果として到達したのは、どちらかが格段にまさっているわけではなく、それぞれに一長一短がある、という平凡な結論であるが、それぞれの長所を取り入れて活用するならば、国立、私立のどちらにとっても、運営上、また、教育・研究上の、実りある改善が期待されるように思われる。

3 現代社会学部で何を学ぶか

学部学生の教育は、その間にも比較的順調に進められていた。学生は、1,2回生の間は、現代社会の理解に必要な社会諸科学の基礎を広く学び、また、語学、情報リテラシー、社会調査などのスキルを身につける。目新しい授業科目もいくつかあり、私も「ジェンダーと社会」とか「紛争管理論」というオムニバス科目の一部を担当したので、新しい勉強をすることになった。ゼミに関しては、1,2回生の間は15名程度に分かれての基礎的な演習を履修し、3回生からは卒業論文の執筆に向けて、選択した教員による演習で指導を受ける。教員の多くは、ゼミで指導する学生の卒論のテーマを自分の専門に近い領域に限定するが、特定の専門領域をもたない私は、そうした限定をしなかったので、現代社会に関する雑多なテーマを抱えた学生を受け入れることになった。それで責任をもって指導できるのかという疑問あるいは批判には、とにかく学生側にそのようなニーズがあるのだから、教師としてはそれに応える努力をすべきであろう、と答えるしかない。この問題は、根本的には、現代社会という領域の学問性あるいは専門性と関わっている。現代社会に関する学問的追求が、法学、経済学、政治学、社会学などの既成の社会科学に還元されてしまうのであれば、新しくこのような学部を作ることも不必要だったであろう。現代社会の構造が複雑化するにつれて、既成の科学では対処しきれない課題が増えてきて、新しいタイプの学問領域が次々に生まれてきている。現代社会学部ができたのも、そのような社会的要請に応えてのことである。だが、学部教員の大部分は既成のさまざまな専門学部の出身者であり、そのことも影響して、現代社会という学問の専門性あるいは特性をどこに求めるかについての、学部としての統一見解は得られないままであった。私としては、学生が選んだテーマについて、これを広く位置づけることを可能にするような、わかりやすい文献をまず紹介し、後は学生自身の学習の深まりに応じて助言する、というような指導に留まっていた。就職状況が次第に厳しくなり、3回生の秋ごろから4回生にかけての大事な時期に、就職活動が忙しくなるから、それ以上のことを学生に求めることは難しかったのである。

だが、学部が完成して、04年度に大学院現代社会研究科が設置されると、専門性の問題はもっと深刻になる。修士課程への数少ない入学者は主として学部新卒者であり、希望する修士論文のテーマは学部におけると同様にさまざまであった。退職までの6年間に私が指導した学生は3人であるが、そのテーマは、「子育て支援」、「子どもの居場所」、「消費社会論」であり、いずれも私がそれまでに扱ったことのない問題であった。私にできるのは、それぞれのテーマに関する文献を蒐集し、問題を多面的に検討した上で整理する、という作業の手助けをすることだけであった。それでも、本人たちの努力でかなり面白い論文が完成したし、私にとっても大いに勉強になったが、現代社会研究科の修士論文とはどのようなものであるべきか、それは他の研究科の論文とどう違うのか、などの専門性に関する課題は未解決のまま残された。

さらに2年後の06年には、博士後期課程の設置が認められた。この課程への入学者は主として社会人であり、その指導には修士課程以上の困難が予想されたが、私は成り行きで、不適任を自覚しながら、在任最後の4年間に2人の学生を受け入れることになった。だが、この2人の研究テーマも、私がやってきたこととは、縁遠いものであった。また、博士論文を提出して審査を受けるための前提条件として、査読制のある学会誌などに論文を発表することが求められるが、そのテーマに関係する学会は私が所属する哲学や倫理学の学会ではもちろんなく、このことが指導をいっそう困難にした。社会人相手であるから、指導の日時も学生の都合で決まる。学生の強い勉学意欲に応えるべく、私としては、できるだけの努力をし、研究内容や論文のまとめ方についても本人と十分に話し合ったが、博士論文執筆の見通しは立たないままに定年を迎え、後任の教員に多くを委ねることになった。

4 現代社会の総合的把握を目指して

京都女子大学に在職中に、私は研究面でも同じ問題に突き当たっていた。法と道徳に始まり、生命・医療を経て環境へと、私の社会哲学の主たる研究対象は次々に変わっていったが、それは単に時代の潮流に乗って新奇なものを追い求めたからではない。たとえば医療制度の改革は現代の重要な課題であるが、現代社会の多様な構造や仕組みと複雑に絡み合っているために、その十全な解決は医療という領域の内部では難しく、政治的、経済的観点を含めた、多面的な検討を要求する。現代社会学部における教育が最終的に目指すのは、きわめて複雑な構造をもつ現代社会を全体的・総合的に理解することであろうが、それこそが私が研究面で直面していた難問でもあった。それで、京都生命倫理研究会でも、2000年の春ごろから、このような課題を主要なテーマとする共同研究に着手した。その出発点になるのが、研究会メンバー28名の分担執筆による論文集『社会哲学を学ぶ人のために』(加茂直樹編、世界思想社、2001年)である。  また、01年度からは、科学研究費補助金による「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究」を組織した。これは科研費のテーマとしては、曖昧で不適切であるという意見もあったが、研究会のメンバーだけでなく、広い範囲の研究者多数に分担者あるいは協力者として参加してもらったお蔭で、幸いにも3年間にわたり研究費の支給を受けることができた。研究は、A「家族・ジェンダー・教育」、B「医療・環境・福祉」、C「科学・技術・情報」、D「国家・民族・宗教」という4つの分科会に分けて進められ、各分科会での研究内容を全体会で報告し論議するという形をとった。問題があまりに大きいので、期待したような成果は得られなかったが、D分科会の研究は、『公共性の哲学を学ぶ人のために』(安彦一恵・谷本光男編、世界思想社、04年)にまとめられている。とにかく種はまいたので、若い世代の研究者によっていつか実を結ぶことを期待している。

なお、生命倫理研究会の例会は、科研費による共同研究の終了後も、多くは京都女子大を会場として、年4回開かれている。遠方からの参加者、新しい参加者も含めて、毎回30人前後の出席があり、活発な論議を繰り広げている。終了後の懇親会においても、酒を飲みながらの文字通りのシンポジウムが、院生などの若手研究者も多く加わって、賑やかに展開されるのが通例である。研究会の運営は、事務局担当者が会の発足以来のメンバー数人と相談しながら行っている。発表のテーマは新しく現れてきた問題や最新の研究成果を扱っているものが多いので、私にとっては貴重な学習の場である。規約も会費も役職もない研究会であるが、このように活発な活動が続く限りは存続し、活動が衰えれば、自然に消滅するであろう。それが研究会のあり方としては望ましいと考える。

前述の科研費による共同研究の3冊の報告書には、「現代社会の総合的把握について」と題する研究ノート(02年~04年)を連載したが、これは問題の解決の方向性を模索するに留まっている。私個人では、子育てと教育について新しく学び始めたが、やがて、これに密接に関連するテーマとして、家族をも研究対象とするようになった。教育や家族の問題に関心をもつようになったのは、現代社会学部の同僚や学生との交流によるところが大きい。これらについての論文・研究ノートを集めて、05年に、『現代社会論ノート』(晃洋書房)を刊行した。70歳前後になり、加齢により思考力と記憶力の減退が著しいので、とにかく著書の形にまとめておくことが、自分自身のためにも必要になったのである。

その後、教育や家族の研究が不十分なまま、私自身にとってのおそらくは最後の研究対象として選んだのが、社会保障である。社会保障という問題には以前から関心があったが、容易に手を出せるテーマではないこともよく認識していた。だが、教育や家族がいま抱えている難問の考察を深めていくと、それらの難問の解決が社会保障に大きく関わっていることに改めて気づかざるを得ない。それだけでなく、社会保障は現代社会のほとんどすべての領域に直接・間接に関係する。だから、社会保障の制度と実態を考察することは、私自身にとっての宿題である「現代社会の総合的把握」にもつながると思われた。だが、そうであるからこそ、社会保障を学ぶことは、これまでのさまざまなテーマの研究以上に、困難であった。第一に、社会保障の学問的解明に向けては、社会科学のさまざまな専門分野からの多様なアプローチがすでに展開されている。私が目指すのは、これらの成果を踏まえた上での、社会保障の総合的把握であるが、それはどのようにして可能であろうか。第二に、社会保障がどうあるべきかは、現代日本における大きな政治的・党派的争点になっており、しかも、その制度と実態はたえず変動している。それに伴って、関連する文献・資料が大量に流通するから、情報は過剰なほどあるが、学問的あるいは長期的な吟味に耐えるようなものは少ないと思われる。だが、素人同然の私が、何を基準にして情報を選別したらよいのであろうか。他の哲学研究者から、社会保障が哲学の研究テーマになるとは考えていなかった、という感想を聞かされたが、私自身もそれに同感しないでもなかった。

それはともかく、私は社会保障の研究を、社会保障の歴史を学ぶことから始めることにした。現行制度の複雑な構造を理解するには、まずその歴史的発展過程を辿る必要があると考えたからである。それで、まず社会保障の先進国である英国を中心に、欧米における制度形成の過程を概観し、次いで、日本における社会福祉活動の歩みと、近代におけるそれの制度化について、まとめてみた。これはいくつかの専門的文献に全面的に依拠しており、研究と言えるようなものではないが、少なくとも私自身にとっては、有益な作業であった。ただ、現代に近づくほど、事態は複雑になり、論及すべきことも増えてくるので、社会保障を取り巻く政治、経済、社会の現代的状況についての理解と整理を試みている間に、10年春の二度目の定年を迎えるに至った。それで、研究生活の一応の区切りとして、5冊目の論文集『現代日本の家族と社会保障』(世界思想社、2010年)を出してもらったが、現在および近未来の社会保障がどうあるべきかという課題は、残されたままである。

5 京都女子大での10年を振り返って

京都女子大での10年間は、私にとっては、予期せぬ苦労もあったが、多くの同僚や学生たちとの人間関係に支えられたお蔭で、全体として楽しく有意義なものであった。学生との付き合いについては、女性ばかりでもあり、ゼミの人数も多かったので、教育大における場合とは異なる形をとったが、こちらが真面目に応対すれば、それに十分に応えてくれるという点では、変わりがなかった。このような乱世の中で、卒業後さまざまな方面に進んでいった彼女たちが、たくましく生き抜いていってほしいと願っている。

同僚との関係においても、私は非常に恵まれていたと思う。前述のように、最初は学部の運営についてのごたごたがあったが、じょじょに正常化されていったし、抜けていった教員の補充が、公募によって適切に行われたことも大きなプラスであった。水曜の夕方に教授会などの会議があることが多かったので、その後、同僚の何人かと四条あたりに飲みに行くことも、楽しみであった。ただ、親しくしていた同僚の多くが、学部の運営を当初から懸命に支えてきた人たちであったので、飲みに行っても、話題が教授会の延長のような真面目なものに偏りがちなのが、「玉に瑕」であった。彼らとの夜の交流は、「水曜会」という名でいまも続いていて、それに参加させてもらうことが、私の退職後の平板な生活の中では一つのアクセントになっている。

私の京都女子大での10年間は、大まかに3つの時期に分けて特徴づけることができる。最初の4年間は、学部の運営面で、当初の混乱を収拾するための努力が続き、教育面では、学部学生の指導について、手探りの状態から、ようやく見通しがつき始めた時期である。私個人は、新しく教育問題の研究に取り組み、また、3年間の科研費による共同研究に忙殺されていた。学外では、子育て支援こども未来館の館長としての職務があった。

続く3年間には、教育に関しては、学部学生に加えて、大学院修士課程の学生をどう指導するかが課題になった。私の研究上の主たる関心事は、子育ての問題を介して、教育から家族に移っていった。また、図書館長として、さらには学園の理事として、大学・学園の管理運営にも、僅かではあるが、関与するようになった。学外では、関西倫理学会の委員長をこのころ2期4年にわたり勤めた。教育、研究、組織の管理運営というこれら3者は、まったく別のことではなく、同じ現代社会の出来事として、相互に密接に関連し合っている。このような観点から見ると、私が体験したことは、研究の進展にとっては回り道であるとしても、まったく無駄な経験ではなかったと言える。

最後の3年間は、定年を前にして、外面的には比較的平穏な時期であったが、教育に関しては、博士後期課程の学生の指導をどうするかが深刻な問題であった。研究面では、最後の課題として、社会保障を学び始めた。ただ、定年を半年後に控えた09年秋、喀痰の培養検査で微量の結核菌が検出され、幸い授業は休まないですんだものの、同僚や学生たちには、たいへん迷惑をかけることになった。

海外へはしばらく行くことがなかったが、05年7月に久しぶりにパリとロンドンに出かけた。パリで3日ほど過ごした後、ロンドンへユーロスターで向かったが、その直前にロンドンで爆弾テロ騒ぎがあったことが影響して、始発の北駅では、空港並みの厳しい検査があった。しかし、乗ってしまえば快適な旅で、昼時であったので、食事とビールやワインが供され、いい気持で寝ている間に、トンネルを抜けてロンドンに着いてしまった。相変わらず、妻とは別行動であることが多いが、このときは、別の目的でイギリスに来ていた妻と、短期間だけロンドンで行動を共にし、シェークスピアの劇を見に行ったりした。

加齢につれて、一人旅は不安になってきたので、その翌年からの旅では、ツアーに参加することにした。一人旅には、思うままに動けるというかけがえのない価値があるが、移動や荷物の持ち運びなどに伴う不便さがあり、その不便さの多くは、ツアーでは解消する。06年はイスラムの影響が今も残るポルトガルへ、07年には、フランスのアルザス、ブルゴーニュ地方へのツアーに参加した。08年は、イタリア北部のドロミテ峡谷やコモ湖などを訪れ、09年は、パルマやシエナ、アッシジなど、イタリア北部から中部の小さな町を歴訪した。いずれも独特の景観、風土、食べ物があって、印象深く快適な旅であり、他のツアー参加者とも、一緒にワインを飲んだりして、楽しく付き合うことができた。退職後の10年夏には、クロアチアを中心に旧ユーゴスラヴィアの数カ国に行った。アドリア海の景色などはよかったが、まだ社会主義国時代の窮屈な面が垣間見られることもあった。

これは観光旅行ではないが、11年2月には、教育大時代の同僚である沢田誠二氏の誘いで、ラオスに行った。沢田氏は化学が専門で、教育大在職中も退職後も、タイやラオスでの教育援助活動に携わっていたが、06年からNPOを立ち上げて、東南アジアの最貧国ラオスに校舎、寄宿舎などを寄付するという事業を継続的に行っている。私も多少それに協力しているので、実地に出かけてみたのである。ここで見聞したことで、特に強烈な印象を残したのは、ヴェトナム戦争における米軍の空爆の後遺症である不発弾処理と、北部山岳地帯の住民たちの貧困の問題である。私も子どものときに、旧満州国での避難民生活や、宮崎の田舎での井戸も電気もない生活を経験したが、ラオスの山中に住む人たちの生活は、それとは比較にならないほど厳しく貧しいものである。このような地域で、さまざまな困難を克服しながら、校舎建設などの援助を粘り強く進めている沢田氏の努力には、敬服するばかりであった。彼の事業の協力者には、学生団体がいくつか含まれており、日本の若い人たちが自分で稼いだ金で積極的に支援に参加している、と聞いて、頼もしくまた嬉しく思った。そうした協力者の支援を無駄にしないで活用するための沢田氏の苦労も、大変なものであろうことは容易に想像できる。

なお、11年の夏には、ヨーロッパとアジアの接点に位置するトルコに行きたいと考えていたが、急病のため叶わなかった。今後、健康がどこまで回復するかによるが、トルコ、その他の未踏の地にまた出かけていきたいと願っている。

おわりに

10年3月に二度目の定年を迎えてからは、ほとんど何にも縛られない自由な生活を享受できるようになった。図書館に行って小説を読んだり、テニスに行ったりで、のんびり過ごす時間がある。(ただし、テニスはハードなので、退院後はまだやっていない。)酒を楽しく一緒に飲んでくれる仲間もいる。入院前に始めたばかりで、いつまで続くかはわからないが、家では、週7日のうち、3日間は私が食事を作ることにしている。原則として、買い物から後片付けまですべてである。食べることは好きで、料理にも関心はあるから、結構楽しくやっている。レパートリーは限られているが、マンネリと言われないように、新しい献立を取り入れる努力はしている。食材を無駄なく活用することにも頭を使うので、ボケ防止にもなるかもしれない。今後については、癌の再発の可能性はかなりあるようなので、予定は立てにくいが、余生はもうけものとみなして、できるだけ楽しむようにしたいと思う。

退職後は時間と気分にようやく余裕ができてきたので、社会保障関係以外でも、買い溜めてあった雑多な本を手あたり次第に読むことがある。歴史関係では、塩野七生の『ローマ人の物語』全15巻(新潮社)を再読し、また『興亡の世界史』全21巻(講談社)を卒読した。前者については、著者とローマ人の双方に、改めて敬意を表したいと思う。後者は、全体の構成に関しても内容的にも、従来の世界史がヨーロッパ中心に偏っていたのを、大きく修正する野心的な企画であり、興味深く、また、教えられるところが多かった。もっとも、具体的な内容はすぐに忘れてしまい、残るのは漠然とした印象だけであるが。

学会や研究会には、出張という形でなく、理事とか委員とかの役職もなくなっているので、気が向いたときだけ参加することができる。研究そのものも、もう打ち止めと思っていたが、社会保障についてまとめ直す機会が与えられたので、11年の春から少しずつ執筆を進めていた。だが、7割ぐらいは書きあげて、肝心な結論的部分を残すだけになったころ、急病で中断せざるを得なくなった。その直前、3月11日に起きた東日本大震災の甚大な被害が日本の社会に計り知れない影響を及ぼし、社会保障をめぐる政治的・経済的状況はいまなお、きわめて流動的である。半年間の入院生活を終えて11年暮ごろから、そうした状況をどのように把握するかについて試行錯誤を重ねながら、改めて執筆に取り組んできた。まだ明確な方向性を見出せないままであるが、とにかく私見をまとめたので、初めての書き下ろしとして、近く出版してもらう予定である。

そうした中で、このような文章を書きとめるに至った動機は、「はじめに」で述べた通りである。この作業が自分にとっては一生を改めて見直し、総括する助けになったことは確かである。お世話になった親しい方々に読んでいただき、忌憚のないご批判、感想などを聞かせていただくことを期待して、筆を擱くことにする。(2012年8月)

<著者紹介>

加茂直樹(かもなおき)

1936年 中国長春市(旧満州国新京市)に生まれる 

1964年 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学

1970~99年 京都教育大学に助教授・教授・学長として勤務

2000~10年 京都女子大学現代社会学部教授

主要著書

『生命倫理と現代社会』世界思想社、1991年

『社会哲学の諸問題』晃洋書房、1991年

『社会哲学の現代的展開』世界思想社、1999年

『現代社会論ノート』晃洋書房、2005年

『現代日本の家族と社会保障』世界思想社、2010年


EGUCHI Satoshi <eguchi.satoshi@gmail.com>

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