昭和16年6月
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『春宴帖』
『月佳夏夜話』
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『渋江抽斎伝』
『漁村文話』
『濁江』
『現代仏文学史』
『考証永井荷風』
『荷風と東京』
『荷風好日』
〓
あめりか物語
...
&aname(d19410607){六月七日。};晴。哺下散歩。池之端揚出しにして夕飯を食す。豆腐料理品切なり。この店にても既にかくの如し。市中に豆腐なきこと推して知るべし。 &aname(d19410608){六月八日}; {日曜/日} 晴。哺下銀座を過るにこの日は牛肉屋休みなれば天ぷら屋天国その他蕎麦屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。 &aname(d19410609){六月九日。};晴。哺下土州橋。浅草に飰す。寺嶋町を歩みてかへる。 &aname(d19410610){六月十日。};晴。午後房陽魚史来訪。閑話半日。黄昏共に出でて芝口の牛肉店今朝に飰す。牛肉雛肉いづれも品不足のため毎月四回休業。なほ午後は毎日閉店する由女中の談なり。 &aname(d19410611){六月十一日。};晴。哺下散策。浅草公園米作に夕飯を喫してオペラ館楽屋に至る。芸人某徴兵に取られ戦地に行くとて自ら国旗を贖来り、武運長久の四字をかけといふ。この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ばざれば直に書きてやりぬ。義勇奉公などいふ語も今は意義なきものとはなれり。凡て人間の美徳善行を意味する言語文字はその本質を失ひて一種の代用語となり終われり。あたかも人絹スフの織物の如し。深更俄に腹痛を催し苦しむこと甚し。 &aname(d19410613){六月十三日。};正午土州橋の医院に至り診察を請ふ。風邪いまだ痊えず急性肺炎を起さぬやう当分静臥養生すべしとなり。 [欄外朱署] 去年コノ日巴里独人ノ侵畧ニ遇フ。 &aname(d19410615){六月十五日}; [日曜/日] 病床無聊のあまりたまたま[[喜多村筠庭]]が『[[筠庭雑録]]』を見るに、[[其蜩]]の『[[翁草]]』につきて言へることあり。 ある日余彼菴を尋て例の筆談に余が著作の中にも遠慮なき事多く、世間へ広くは出しがたきことありなどいひけるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なればこの後著作も多かるべし。平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく実事のままに直筆に記し、これまで親類朋友毎度諌めていかに写本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いかなる忌諱の事に触れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといへど、この一事は親類朋友の諌に従ひがたく強いて申切てをれり。云々 余これを読みて心中大いに慚るところあり。今年二月のころ『[[杏花余香]]』なる一編を『中央公論』に寄稿せし時、世上これをよみしもの余が多年日誌を録しつつあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日ゝ如何なる事を記録しつつあるやを窺知らむとするものなきにもあらざるべし。余は万ゝ一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平墳惻の文字を切去りたり。また外出の際には日誌を下駄箱の中に隠したり。今『[[翁草]]』の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。 日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵略[田が上につく字]に始まる。日本軍は暴支鷹懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧州戦乱以後英軍振るはざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無知の軍人ら及び猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非ず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり。今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るようにして一稼なさむと焦慮するがためなり。元来日本字には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊申の革命も一般の人民にとっては何らの差別なし。欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ずから変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。 &aname(d19410618){六月十八日。};曇りて風冷なり。町の辻ゝに汪兆銘の名印たる立札を出し、電車の屋根にも旗を出したり。汪氏の日本政府より支給せらるる俸給一年五億円なりといふ。 町の噂 芝口米屋の男三、四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱入したり。この家には美しき娘二人あり。医師夫婦は壺に入れたる金銀貨を日本兵に与へ、娘二人を助けてくれと嘆願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛って井戸に投込みたり。かくの如き暴行をなせし兵卒の一人がやがて帰還せし留守中母と嫁とを預け置きし埼玉県の某市に至りて見しに、二人の様子出征前とは異り何となく怪しきところあり。いろいろ様子をさぐりしがその訳分明ならず、三ヶ月半ほど過ぎし或日の事、嫁の外出中を幸その母突然帰還兵に向ひ、初めは遠廻しに嫁の不幸なることを語り出し、遂に留守中一夜強盗に「ために母も嫁もともども縛られて強姦せられしことを語り災難と思ひ二人の言甲斐なかりしことを許せよと泣き悲しむところへ、嫁帰り来てこれも涙ながらにその罪を詫びたり。かの兵士は漢口にて支那の良民を凌辱せし後井戸に投込みしその場の事を回想せしにや、ほどなく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところもなくかたりつづくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送くらるるに至りしといふ。市川の病院には目下三、四万人の狂人収容せられいる由。 &aname(d19410620){六月二十日。};雨昼近き頃漸く歇む。去年銀座の岡崎よりたのまれし色紙に句を書して返送す。伊太利亜の友と称する文士の一団より期間雑誌押売の手紙来る。時局に便乗して私利を営むなり。本郷の大学新聞社速達郵便にて突然寄稿を請求し来る。現代学生の無智傲慢驚くの外なし。余の若かりし頃のことを思返すに、文壇の先輩殊に六十を越えたる[[耆宿]]の許に速達郵便を以て突然執筆を促すが如き没分暁漢は一人とてもあらざりしなり。現代人の心理は到底窺知るべからず。余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て鄰国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよ。 &aname(d19410621){六月念一。};晴後に陰。午後浅草に行く。下谷辺のある菓子屋にてその主人店の者に給金の外に慰労金を与へしこと露見し、総動員法違反の廉にて千円の罰金を取られし由。使用人に賞金を与へて罰せらるるとは不可思議の世の中なり。 &aname(d19410622){六月念ニ};日曜日。くもりて蒸暑し。寒暑計忽華氏八十度に昇る。黄昏芝口の[[金兵衛]]に至りて夕食を食す。煮肴あいなめを食す。魚介払底の時なれば珍味となすべし。[[歌川]]君来合わせたれば食後共に銀座を歩む。号外売独魯開戦を報ず。偶然[[菅原]]夫婦[[安東]]氏らに逢ひ八丁目[[千疋屋]]に入るに、九時閉店といふにやむをえず席を立ち、尾張町の[[ブラヂル]]に入り笑語す。ここは十一時まで客を迎ふ。 [欄外朱書] 独魯交戦。
タイムスタンプを変更しない
&aname(d19410607){六月七日。};晴。哺下散歩。池之端揚出しにして夕飯を食す。豆腐料理品切なり。この店にても既にかくの如し。市中に豆腐なきこと推して知るべし。 &aname(d19410608){六月八日}; {日曜/日} 晴。哺下銀座を過るにこの日は牛肉屋休みなれば天ぷら屋天国その他蕎麦屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。 &aname(d19410609){六月九日。};晴。哺下土州橋。浅草に飰す。寺嶋町を歩みてかへる。 &aname(d19410610){六月十日。};晴。午後房陽魚史来訪。閑話半日。黄昏共に出でて芝口の牛肉店今朝に飰す。牛肉雛肉いづれも品不足のため毎月四回休業。なほ午後は毎日閉店する由女中の談なり。 &aname(d19410611){六月十一日。};晴。哺下散策。浅草公園米作に夕飯を喫してオペラ館楽屋に至る。芸人某徴兵に取られ戦地に行くとて自ら国旗を贖来り、武運長久の四字をかけといふ。この語も今は送別の代用語になりしと思へば深く思考するにも及ばざれば直に書きてやりぬ。義勇奉公などいふ語も今は意義なきものとはなれり。凡て人間の美徳善行を意味する言語文字はその本質を失ひて一種の代用語となり終われり。あたかも人絹スフの織物の如し。深更俄に腹痛を催し苦しむこと甚し。 &aname(d19410613){六月十三日。};正午土州橋の医院に至り診察を請ふ。風邪いまだ痊えず急性肺炎を起さぬやう当分静臥養生すべしとなり。 [欄外朱署] 去年コノ日巴里独人ノ侵畧ニ遇フ。 &aname(d19410615){六月十五日}; [日曜/日] 病床無聊のあまりたまたま[[喜多村筠庭]]が『[[筠庭雑録]]』を見るに、[[其蜩]]の『[[翁草]]』につきて言へることあり。 ある日余彼菴を尋て例の筆談に余が著作の中にも遠慮なき事多く、世間へ広くは出しがたきことありなどいひけるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なればこの後著作も多かるべし。平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失ふこと多し。翁が著す書は天子将軍の御事にてもいささか遠慮することなく実事のままに直筆に記し、これまで親類朋友毎度諌めていかに写本なればとて世間に漏出まじきにてもなし、いかなる忌諱の事に触れて罪を得まじきものにもあらず、高貴の御事は遠慮し給へといへど、この一事は親類朋友の諌に従ひがたく強いて申切てをれり。云々 余これを読みて心中大いに慚るところあり。今年二月のころ『[[杏花余香]]』なる一編を『中央公論』に寄稿せし時、世上これをよみしもの余が多年日誌を録しつつあるを知りて、余が時局について如何なる意見を抱けるや、日ゝ如何なる事を記録しつつあるやを窺知らむとするものなきにもあらざるべし。余は万ゝ一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平墳惻の文字を切去りたり。また外出の際には日誌を下駄箱の中に隠したり。今『[[翁草]]』の文をよみて慚愧すること甚し。今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。 日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵略[田が上につく字]に始まる。日本軍は暴支鷹懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄かに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧州戦乱以後英軍振るはざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無知の軍人ら及び猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非ず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり。今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るようにして一稼なさむと焦慮するがためなり。元来日本字には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊申の革命も一般の人民にとっては何らの差別なし。欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ずから変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。 &aname(d19410618){六月十八日。};曇りて風冷なり。町の辻ゝに汪兆銘の名印たる立札を出し、電車の屋根にも旗を出したり。汪氏の日本政府より支給せらるる俸給一年五億円なりといふ。 町の噂 芝口米屋の男三、四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱入したり。この家には美しき娘二人あり。医師夫婦は壺に入れたる金銀貨を日本兵に与へ、娘二人を助けてくれと嘆願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛って井戸に投込みたり。かくの如き暴行をなせし兵卒の一人がやがて帰還せし留守中母と嫁とを預け置きし埼玉県の某市に至りて見しに、二人の様子出征前とは異り何となく怪しきところあり。いろいろ様子をさぐりしがその訳分明ならず、三ヶ月半ほど過ぎし或日の事、嫁の外出中を幸その母突然帰還兵に向ひ、初めは遠廻しに嫁の不幸なることを語り出し、遂に留守中一夜強盗に「ために母も嫁もともども縛られて強姦せられしことを語り災難と思ひ二人の言甲斐なかりしことを許せよと泣き悲しむところへ、嫁帰り来てこれも涙ながらにその罪を詫びたり。かの兵士は漢口にて支那の良民を凌辱せし後井戸に投込みしその場の事を回想せしにや、ほどなく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところもなくかたりつづくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送くらるるに至りしといふ。市川の病院には目下三、四万人の狂人収容せられいる由。 &aname(d19410620){六月二十日。};雨昼近き頃漸く歇む。去年銀座の岡崎よりたのまれし色紙に句を書して返送す。伊太利亜の友と称する文士の一団より期間雑誌押売の手紙来る。時局に便乗して私利を営むなり。本郷の大学新聞社速達郵便にて突然寄稿を請求し来る。現代学生の無智傲慢驚くの外なし。余の若かりし頃のことを思返すに、文壇の先輩殊に六十を越えたる[[耆宿]]の許に速達郵便を以て突然執筆を促すが如き没分暁漢は一人とてもあらざりしなり。現代人の心理は到底窺知るべからず。余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力を以て鄰国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ。速に起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよ。 &aname(d19410621){六月念一。};晴後に陰。午後浅草に行く。下谷辺のある菓子屋にてその主人店の者に給金の外に慰労金を与へしこと露見し、総動員法違反の廉にて千円の罰金を取られし由。使用人に賞金を与へて罰せらるるとは不可思議の世の中なり。 &aname(d19410622){六月念ニ};日曜日。くもりて蒸暑し。寒暑計忽華氏八十度に昇る。黄昏芝口の[[金兵衛]]に至りて夕食を食す。煮肴あいなめを食す。魚介払底の時なれば珍味となすべし。[[歌川]]君来合わせたれば食後共に銀座を歩む。号外売独魯開戦を報ず。偶然[[菅原]]夫婦[[安東]]氏らに逢ひ八丁目[[千疋屋]]に入るに、九時閉店といふにやむをえず席を立ち、尾張町の[[ブラヂル]]に入り笑語す。ここは十一時まで客を迎ふ。 [欄外朱書] 独魯交戦。
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