&aname(d19300108){正月初八}; 晴れて寒気甚し、&ruby(こんこく){昏黒};[[三番町]]に徃かむとして谷町通にて電車の来るを待つ、悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆*と呌ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて呌び合へるなり、余は日頃日本の小童の&ruby(ぼうれい){暴戻};なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与えて去りぬ、三番町に至るに[[小星]]家に在らず、已むことを得ず銀座に出で[[オリンピヤ]]に飰して空しく家に還る、

&aname(d19300109){正月九日};快晴、北風吹きて寒気甚し、石井潜吉氏に短冊を郵送す、晩間[[オリンピヤ]]に飰して三番街に徃く、図らず一事件あり、之がために亦図らず[[小星]]の為人余が今日まで推察せしところとは全く異りたるを知り窃に一驚を喫したり、かの女その容姿は繊細にして、挙動婉順に見ゆれど、内心豪胆にして物に驚かず、天性&ruby(えいご){穎悟};敏捷にして頗権謀に富むこと男子に優る所あり、人は見かけによらぬとの諺はあれど余は今日まで斯の如く外見内心の相反したる女子を看たることなかりき、斯くの如き女子は不時の病にかゝりて夭死するか或は才気を恃みて却て生涯を誤るものなるべし、余は何とも知れず恐怖の念胸底に湧起るをおぼえたり、



&aname(d19300110){正月十日}; 快晴、風邪&ruby(がいそう){咳嗽};甚し、


&aname(d19300111){正月十一日}; 快晴、病床に在り、午後葵山氏来訪、


&aname(d19300112){正月十二日}; 晴天、病床に在り、午後伊東喜作夫人ラヂオ放送の事につき来談、この夜病勢甚険悪、体温四十度に昇る、


&aname(d19300113){正月十三日}; 朝来微雪[[須臾]]にして歇む、下女を中洲病院に遣し薬を請ふ、晡下小星来りて病を看護す、


&aname(d19300114){正月十四日}; 陰天、病褥に在り、詩経小雅北山を読む、


&aname(d19300115){正月十五日}; 晴れて暖なり、病少しくよし、


&aname(d19300116){正月十六日}; 快晴、一昨年読残したる詩経大雅の後半を読む、


&aname(d19300117){正月十七日}; 晴天、温暖春の如し、薄暮淡烟蒼茫、窓外の眺望晩秋の如し、夜に入り月光昼の如し、


&aname(d19300118){正月十八日}; 晴天、病褥に在ること既に旬日なり、終日詩経をよむ、


&aname(d19300119){正月十九日}; 晴れて風烈し、


&aname(d19300120){正月二十日}; 晴れて風なし、感冒既に痊えたれど未起出でず終日褥中に在りて詩経を読む、晩間小星夕餉の惣菜を携来る、

&aname(d19300121){正月廿一日}; 晴れて暖なり、病床読書また一日を消す、此日大寒、

&aname(d19300122){正月廿二日}; 晴、病臥、[[杏花]]子の書に接す、

&aname(d19300123){正月廿三日}; 晴、病臥、

&aname(d19300124){正月廿四日}; 晴れて暖なり、午下中洲病院に徃き冬牆博士の診察を請ふ、風邪既に痊えたりと云ふ、帰途牛陵の某亭に到り夕餉を食す、街上処々に衆議院議員選挙候補者の姓名を大書せるを見る、其中に三木武菊池寛等の名あり、三木は一昨年収賄罪を以て獄に投ぜられたるもの、今また立つて議員候補者となる、然れども世人之を見て毫も怪しまざるものゝ如し、正義の観念今や[[蕩然]]地を払ひたりと謂ふ可し、

&aname(d19300125){正月廿五日}; 快晴、風なくして暖なり、本年は寒に入りてより氷を見ず、杏花子再び郵書を以つて病を問はる、晡下小星来る、相携へて銀𫝶に徃き銀座食堂に夕餉を食す、松阪屋店頭にて河原崎長十郎夫婦の来るに逢ふ、

&aname(d19300126){正月廿六日}; 薄く曇りて風寒からず、午前平井辯護師を招ぎ借地証文文書替のことを依頼す、余が現住所の土地はもと広部銀行の有なりし処同銀行破産閉店の後、去年の暮より昭和土地株式会社の名義に変じ、改めて土地賃借証書を送り来りしなり、午後散策の途次牛陵の妓某に逢ひ誘はるゝがまま春日亭に抵りて浅酌す、日の暮るゝを待ち杏花子が駿台の邸に徃く、此夜例月の会あり、大伍子先に在り、鬼太郎清潭氏つゞいて暮る、席上の談話によるに、新橋の[[花月楼]]去年の暮より[[箱留め]]となり今は殆閉店のありさまとなれり、主人権八画伯毒薬を服して危く自殺せむとせしを家人の知る所となり幸に事なきを得たりといふ、此夜杏花子新に獲られたる一珍書を示さる、池田炭と題したる徘徊の一巻にて晋子其角自筆の点評あり、大名か又は旗本らしき人の其家臣を集めて附合をなしたるもの、幽闡銀濤などの俳名あれど何人なるや知り難し、款語夜半を過ぐ、


RIGHT:→[[昭和5年2月]]


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