&aname(d19300108){正月初八}; 晴れて寒気甚し、&ruby(こんこく){昏黒};三番町に徃かむとして谷町通にて電車の来るを待つ、悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆*と呌ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて呌び合へるなり、余は日頃日本の小童の&ruby(ぼうれい){暴戻};なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与えて去りぬ、三番町に至るに小星家に在らず、已むことを得ず銀座に出で[[オリンピヤ]]に飰して空しく家に還る、
&aname(d19300101){正月元日};旧十二月二日 空隈なく晴渡りしが西北の風吹きつゞきて寒し、日も[[亭午]]のころ起出で下女の持来る年賀の郵便物を檢す、[[菊池寛]]及び雑誌文藝春秋社より送来りし年賀の葉書あり、菊池等より新年の賀辞を受くべきいはれなければ其趣をしるして其等の葉書を各差出人に返送せり、日の暮れてより三番町に徃く、四隣寂然絃歌の声なし、たまたま*[[太神楽]]の来りて銭を乞ふのみ、松の内色町のさびしさは例年のことなれど今年は殊に甚しく火の消えたやうなり、藝者の衣裳も今年は平生の如く紋付[[裾模様]]をきるに及ばざる由新橋はじめ各地とも申合をなせしと云ふ、帰途車上駄句を得たり、

>寐静る巷の風や松飾~
元日や宵寐の町を風の音




&aname(d19300102){正月初二}; 陰、深更雨あり。


&aname(d19300103){正月初三}; 陰、


&aname(d19300104){正月初四}; 凍雲暗澹たり、昨年より銀行取附騒ぎ起るべしとの風説頻なれば万一を慮り朝の中京橋第百銀行に徃き預金を引出して三菱銀行に移し入る、帰途太訝に憩ひ昼餉をなす、女給のはなしに昨三日の夜富商武藤某なるもの女給十余名を引連れ[[北廓]]の山口巴に徃き更に太鼓藝者をつれて稲元楼に昇り飲めや唄への大さわぎをなしたりといふ、


[[●]]&aname(d19300105){正月初五}; 晴又陰、


&aname(d19300106){正月初六}; 晴れて寒し、此日小寒、


&aname(d19300107){正月初七}; 晴れて寒し、午後丸の内三菱銀行に徃く、晩間銀座[[オリンピア]]亭に飰す、適[[花月食堂主人]]高橋氏小星を携来るに逢ひ卓を倶にして語る、小星は旧酒肆太訝の婢、今は土橋の向に&ruby(デアナ){嫦娥};とよぶ酒亭を営めるなり、断髪洋装なれど肉付豊にてせい高く脚細き故さして醜からず、食後誘はれて溜池の舞蹈場に赴く、余は未一たびも都下の踊場に出入りせしことなきを以つて此夜図らず場内の景況を&ruby(もくと){目覩};し感ずる所少からず、場内に雇はるゝ舞妓凡四五十人、大半は断髪洋装なれど色彩に乏しく貧相に見ゆ、&ruby(かつまた){且又};警察の干渉過酷にて男女席を同じくして笑語する事能はず黙々として舞蹈するのみなれば場内更に活気というものなく先は女学校の体操場に似たりと謂ふべし、十一時過歩みて家に帰る、



&aname(d19300108){正月初八}; 晴れて寒気甚し、&ruby(こんこく){昏黒};[[三番町]]に徃かむとして谷町通にて電車の来るを待つ、悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆*と呌ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて呌び合へるなり、余は日頃日本の小童の&ruby(ぼうれい){暴戻};なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与えて去りぬ、三番町に至るに[[小星]]家に在らず、已むことを得ず銀座に出で[[オリンピヤ]]に飰して空しく家に還る、

&aname(d19300109){正月九日};快晴、北風吹きて寒気甚し、石井潜吉氏に短冊を郵送す、晩間[[オリンピヤ]]に飰して三番街に徃く、図らず一事件あり、之がために亦図らず[[小星]]の為人余が今日まで推察せしところとは全く異りたるを知り窃に一驚を喫したり、かの女その容姿は繊細にして、挙動婉順に見ゆれど、内心豪胆にして物に驚かず、天性&ruby(えいご){穎悟};敏捷にして頗権謀に富むこと男子に優る所あり、人は見かけによらぬとの諺はあれど余は今日まで斯の如く外見内心の相反したる女子を看たることなかりき、斯くの如き女子は不時の病にかゝりて夭死するか或は才気を恃みて却て生涯を誤るものなるべし、余は何とも知れず恐怖の念胸底に湧起るをおぼえたり、



&aname(d19300110){正月十日}; 快晴、風邪&ruby(がいそう){咳嗽};甚し、


&aname(d19300111){正月十一日}; 快晴、病床に在り、午後[[葵山]]氏来訪、


&aname(d19300112){正月十二日}; 晴天、病床に在り、午後[[伊東喜作]]夫人ラヂオ放送の事につき来談、この夜病勢甚険悪、体温四十度に昇る、


&aname(d19300113){正月十三日}; 朝来微雪[[須臾]]にして歇む、下女を中洲病院に遣し薬を請ふ、晡下小星来りて病を看護す、


&aname(d19300114){正月十四日}; 陰天、病褥に在り、[[詩経小雅北山]]を読む、


&aname(d19300115){正月十五日}; 晴れて暖なり、病少しくよし、


&aname(d19300116){正月十六日}; 快晴、一昨年読残したる[[詩経大雅]]の後半を読む、


&aname(d19300117){正月十七日}; 晴天、温暖春の如し、薄暮淡烟蒼茫、窓外の眺望晩秋の如し、夜に入り月光昼の如し、


&aname(d19300118){正月十八日}; 晴天、病褥に在ること既に旬日なり、終日詩経をよむ、


&aname(d19300119){正月十九日}; 晴れて風烈し、


&aname(d19300120){正月二十日}; 晴れて風なし、感冒既に痊えたれど未起出でず終日褥中に在りて詩経を読む、晩間[[小星]]夕餉の惣菜を携来る、

&aname(d19300121){正月廿一日}; 晴れて暖なり、病床読書また一日を消す、此日大寒、

&aname(d19300122){正月廿二日}; 晴、病臥、[[杏花]]子の書に接す、

&aname(d19300123){正月廿三日}; 晴、病臥、

●&aname(d19300124){正月廿四日}; 晴れて暖なり、午下中洲病院に徃き[[冬牆]]博士の診察を請ふ、風邪既に痊えたりと云ふ、帰途牛陵の某亭に到り夕餉を食す、街上処々に衆議院議員選挙候補者の姓名を大書せるを見る、其中に[[三木武]][[菊池寛]]等の名あり、三木は一昨年収賄罪を以て獄に投ぜられたるもの、今また立つて議員候補者となる、然れども世人之を見て毫も怪しまざるものゝ如し、正義の観念今や[[蕩然]]地を払ひたりと謂ふ可し、

&aname(d19300125){正月廿五日}; 快晴、風なくして暖なり、本年は寒に入りてより氷を見ず、杏花子再び郵書を以つて病を問はる、晡下[[小星]]来る、相携へて銀𫝶に徃き[[銀座食堂]]に夕餉を食す、松阪屋店頭にて[[河原崎長十郎]]夫婦の来るに逢ふ、

●&aname(d19300126){正月廿六日}; 薄く曇りて風寒からず、午前平井辯護師を招ぎ借地証文文書替のことを依頼す、余が現住所の土地はもと広部銀行の有なりし処同銀行破産閉店の後、去年の暮より昭和土地株式会社の名義に変じ、改めて土地賃借証書を送り来りしなり、午後散策の途次牛陵の妓某に逢ひ誘はるゝがまま春日亭に抵りて浅酌す、日の暮るゝを待ち杏花子が駿台の邸に徃く、此夜例月の会あり、[[大伍]]子先に在り、[[鬼太郎]][[清潭]]氏つゞいて暮る、席上の談話によるに、新橋の[[花月楼]]去年の暮より[[箱留め]]となり今は殆閉店のありさまとなれり、主人[[権八画伯]]毒薬を服して危く自殺せむとせしを家人の知る所となり幸に事なきを得たりといふ、此夜杏花子新に獲られたる一珍書を示さる、池田炭と題したる徘徊の一巻にて晋子其角自筆の点評あり、大名か又は旗本らしき人の其家臣を集めて附合をなしたるもの、幽闡銀濤などの俳名あれど何人なるや知り難し、款語夜半を過ぐ、

&aname(d19300127){一月廿七日}; 晴れて風なし、午後麻布区役所に用事あり、それより銀𫝶に出で髪を刈り薄暮[[三番町]]に徃き夕餉を食す、[[三田英児]]来る、

&aname(d19300128){一月廿八日}; 曇りて寒し、平井辯護師の意見により麻布住宅の登記をなさんとて三田通りなる地方裁判所出張所に徃き其手続をなす、帰途銀座[[風月堂]]にて食事をなし酒肆[[太訝]]に憩ふ、雨降り来りしかば日暮家に帰る、夜[[小星]]来る、[[笄阜]]子書あり、居宅の梯子段より落ちたりといふ、


&aname(d19300129){一月廿九日}; 晴れて風なし、隣家の[[梅花]]星の如し、立春前梅花の満開するを見る、気候の温暖例年の比にあらざるを知るべし、

&aname(d19300130){一月三十日}; 晴れて後に曇る、風寒からず、晩間番街の[[小星]]を訪ひ夕餉を食す、小星数日前一口阪電車通にて、一匹の子犬の路に迷ひたるにや又は人に捨てられしにや、其の裾にまつはりて追へども去らず、憫れみを請ふが如く鼻を鳴らしてつき来るを見、その儘家に留めて飼ひ置きたりとて、勝手よりつれ来りて示しぬ、此犬砂糖チヨコレート焼麺麭などを好み人の膝の上に抱かれて眠る、又湯を汲みてやれば自ら盥の中に飛び入るなど屋外に飼はれたる犬にてはなきやうなり、思うに西洋人の家に飼馴らされたるものなるべし、

&aname(d19300131){正月卅一日}; 晴れて暖きこと既に三月の如し、午後[[文選]]を読む、昏黒番街に徃く、[[奥平武彦]]英国より絵葉書を寄す、

RIGHT:→[[昭和5年2月]]


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