昭和十年歳次乙亥正月起筆

荷風散人年五十又七

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&aname(d19350101){正月一日};。雨霽れて一天拭ふが如く暖気四月に似たり。三時過雑司ヶ墓地に往き[[先考]]の墓を拝す。墓地を出るに三ノ輪行の電車線路に行当りたれば、来合はす電車に乗る。尾久停車場近くに大いなる神社あり。参詣の人[[雑遝]]せり。三ノ輪終点より日本堤を歩み、吉原を通り抜け、市電龍泉寺町停留所前に出ず。大音寺をたづねて境内に入るに子安地蔵尊及安政震災遊女供養の碑あり。電車にて新橋に至り金兵衛に入りて夕餉を食す。内儀出で来り屠蘇をすすむること去年の春の如し。初更家に帰る。この日早朝余の睡眠中[[鷲津郁太郎]]年賀の名刺を留めて去れり。&br;〔欄外朱書〕旧十一月廿六日。


[[●]]&aname(d19350102){正月二日};。昨来暖気例ならず。今朝も火の気なき書斎の寒暑計を見るに華氏六十八度を示したり。名古屋の[[安藤]]氏『汲古』第六巻を贈らる。午後旧稿を添削す。昏暮銀座に至り不二氷菓店に夕餉を食す。大入にて空席殆なし。真砂屋に立ち寄りて帰る。

>元日やひそかに拝む父の墓

>行くところなき身の春や墓詣

>門締めて寐るだけ寐たりけさの春

>若水にまづ粉薬をのむ身かな

>初夢を見よと物食ふ寐しな哉


&aname(d19350103){正月三日};。晴れてあたゝかなり。[[カルコ]]の小説Mémoires d'une autre vieを讀む。燈刻銀座に往き竹葉亭に飰す。本年三個日とも銀座通の[[雑遝]]去年よりも甚し。浅草公園の人出もおびたゞしき由なり。東京の人口激增したる故ならん歟。茶店亜凡にて[[歌川]][[高橋]]の二氏に逢ふ。~
〔朱書〕[[鷲津郁太郎]] 田園調布三ノ三七八~
〔朱書〕[[澤田卓爾]] 小石川雑司谷町三十四番地~
〔朱書〕[[阪井清]] 神戸須磨區寺畑町三番地


&aname(d19350104){正月四日};。今日も晴れてあたゝかなり。眠を貪つて午後に覺む。書齋の塵を掃ひ終りて煙草のめば日は早くも晡なり。晩間銀座食堂に飰して後亜凡に至るに[[安藤]][[竹下]][[萬本]][[樋田]][[歌川]][[杉野]]の諸氏あり。[[三更]]家に還る。

[[●]]&aname(d19350105){正月五日};。くもりて西北の風強し。正午起き出でヽ舊稿を[[刪定]]す。晡下[[渡邊春子]]來る。車にて雷門に至り鳥屋金田にて夕餉をなす。向嶋の連込宿夢香莊といふ家スチームを引きありて暖なりといふ事、兼ねて聞きたれば、車を倩うて行く。言問橋をわたり土手を越れば一筋の廣き道あり。三階建の連込宿こヽかしこに電燈を輝したるさま大森海岸の色町に似たり。十一時頃歸る。[[春子]]といふ女年二十三四なるべし。十七八の頃活動役者[[岡田利蔵]][「利」はママ]の情婦となり一時同居せし事あり。利彦は××××××のみにて正しき交接をなさず。この習慣つきし爲春子は今だにまともの交接にては快感をおぼえず、××××られる事を望む由當人の述懐なり。昔の人のはなしに狐の美男に化けて女をたぶらかす時は必ず××××××と云ふ。[[蜀山人]]が[[壬申掌記]]にもこの事あり。左に抄録す。
>武藏國神奈川の在鄕に關宿といふ所あり。此村に寡婦あり。あるとき隣家の男途中にて戯言をいひて、あすの夜はよばひわたらんなどいふ。女は誠と思いしが男はたゞ一時のたはぶれごとなりしを、狐きゝて、つぎの夜隣の男となりてしのびて行けり。女まことゝ思ひてあひしに、それより夜ごとにかよひけり。(畧)さても狐にあひしはいかなる様にやと寡婦にとひしに、房中の味美なる事人の及ぶ所にあらず。狐にもあれ今一たびあはまほしといふ。又驗者をしてよりを立てしめ、狐をせめていかなれば人の婦を犯して金をも取りしといふに、狐は人を犯す事なし、唯口をもてねぶる也といへり。金はかのつかふものゝ爲に取りてやりぬといふ。かの男の名は常右衛門といひしよし。師走五日府中にて間宮氏のまのあたり關宿のものに聞きしとて語りしまゝこヽに書きつく。清人の說部の一條を補ふべし十二月六日記

美童岡田は狐の化身なりしにや。さてまたこの[[春子]]の時折逢ふことを樂しみとする男には、[[前田男爵]]あり、画工×××あり。×××しかたにも色々秘術ありと云ふ。

&aname(d19350114){正月十四日};。半陰半陽。[[セネシャル]]の『現代仏文学史』を読むに、戦後著名の作者多くは余と同庚、また余よりも年少なるものあり。[[アポリネール]]、[[マルクオルラン]][マルクオルランに「〔ママ〕」の注記]、[[ウィルドラック]]、[[ジュール・ロマン]]、[[カルコ]]、[[ブノワ]]の如き名家皆余よりも年少にして、すでに[[翰林院]]学士たるもあり。日仏その国情を異にすといへども、余は才藻の貧弱なるを省み嘆息せざるを得ざるなり。燈刻銀座食堂に至りて飰す。茶店亜凡を過るに[[竹下]]氏[[菊池姉妹]][[萬本]][[浦上]]の諸氏あり。オリンピックに少憩してかへる。細雨そそぎ来る。


RIGHT:→[[昭和10年2月]]

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