二月朔 [旧正月三日]曇りて寒し、夜半に至り雪降る、 二月初二 正月雪歇みしが空霽れず、後雨となる、 二月初三 節分、晴れて風あり、正午中洲に徃く、此日より一週間二回づゝ春季の注射をなし始む、家々豆をまきて鬼を追ふ日なれば此日より注射をなすは体内の病魔を駆逐するには大に縁起よかるべし、帰途牛門の春風亭に昼餉をなし夕刻番街を訪ふ、 二月初四 快晴、甚寒し、小波先生自ら還暦を祝し狂詩六十一年行を賦し之を知人に配布せらる、辞句の妙藝術家を以て自認する当世文士の到底模しべきものならず、先生が滑稽*の才に富めるは 二月初五 曇天、寒気甚し、正午近き頃朝日新聞記者醍醐某刺を通じて謁を請ふ、病に託して会はず、晩間番街に徃きて夕餉をなすこと例の如し、帰途雪灰の如し、 二月十四日 番街の小星昨夜突然待合を売払ひ再び左褄取る身になりたしと申出でいろいろ利害を説き諭せども聴かざる様子なれば、今朝家に招ぎて熟談する所あり、余去年秋以来情欲殆消磨し、日に日に老の迫るを覚るのみなれば女の言ふところも推察すれば決して無理ならず、余一時はこの女こそわがために死水を取ってくれるものならめと思込みて力にせしが、それもはかなき夢なりき、唐詩に万事傷心在目前、一身憔伜対花眠、黄金用尽教歌舞、留与他人楽少年、といへるもの当に余が今日の悲しみを言尽したり、曾て野口寧斎先生この詩を講じて次の如くに言へるもの、其著『三体詩評釈』に在り、 楽天年老いて風疾を得、妾を放たんとす、樊素なるもの有り、惨然として涙下りて去るに忍びず、楽天も亦悠然として対する能はず、しかも終に情を忘るゝ能はず、是亦一箇の一身憔伜対花眠の人にあらずや、顧况に宜城が琴客を放つの詩あり、序に曰く、琴客ハ宜城の愛妾なり、宜城老を 余満腔の愁思を遣るに詩を以てせむと欲するも詩を作ること能はず、僅に古人の作を抄録して自ら慰むるのみ、此日晴れて風寒からず、午下中洲に徃き牛門の妓家を過訪して帰る、明月皎々たり、* |