正月元日旧十二月二日 空隈なく晴渡りしが西北の風吹きつゞきて寒し、日も亭午?のころ起出で下女の持来る年賀の郵便物を檢す、菊池寛及び雑誌文藝春秋社より送来りし年賀の葉書あり、菊池等より新年の賀辞を受くべきいはれなければ其趣をしるして其等の葉書を各差出人に返送せり、日の暮れてより三番町に徃く、四隣寂然絃歌の声なし、たまたま*太神楽?の来りて銭を乞ふのみ、松の内色町のさびしさは例年のことなれど今年は殊に甚しく火の消えたやうなり、藝者の衣裳も今年は平生の如く紋付裾模様をきるに及ばざる由新橋はじめ各地とも申合をなせしと云ふ、帰途車上駄句を得たり、
正月初二 陰、深更雨あり。 正月初三 陰、 正月初四 凍雲暗澹たり、昨年より銀行取附騒ぎ起るべしとの風説頻なれば万一を慮り朝の中京橋第百銀行に徃き預金を引出して三菱銀行に移し入る、帰途太訝に憩ひ昼餉をなす、女給のはなしに昨三日の夜富商武藤某なるもの女給十余名を引連れ北廓?の山口巴に徃き更に太鼓藝者をつれて稲元楼に昇り飲めや唄への大さわぎをなしたりといふ、 正月初六 晴れて寒し、此日小寒、 正月初七 晴れて寒し、午後丸の内三菱銀行に徃く、晩間銀座オリンピア?亭に飰す、適花月食堂主人?高橋氏小星を携来るに逢ひ卓を倶にして語る、小星は旧酒肆太訝の婢、今は土橋の向に 正月初八 晴れて寒気甚し、 正月九日快晴、北風吹きて寒気甚し、石井潜吉氏に短冊を郵送す、晩間オリンピヤに飰して三番街に徃く、図らず一事件あり、之がために亦図らず小星の為人余が今日まで推察せしところとは全く異りたるを知り窃に一驚を喫したり、かの女その容姿は繊細にして、挙動婉順に見ゆれど、内心豪胆にして物に驚かず、天性 正月十日 快晴、風邪 正月十二日 晴天、病床に在り、午後伊東喜作?夫人ラヂオ放送の事につき来談、この夜病勢甚険悪、体温四十度に昇る、 正月十三日 朝来微雪須臾にして歇む、下女を中洲病院に遣し薬を請ふ、晡下小星来りて病を看護す、 正月十五日 晴れて暖なり、病少しくよし、 正月十七日 晴天、温暖春の如し、薄暮淡烟蒼茫、窓外の眺望晩秋の如し、夜に入り月光昼の如し、 正月十八日 晴天、病褥に在ること既に旬日なり、終日詩経をよむ、 正月十九日 晴れて風烈し、 正月二十日 晴れて風なし、感冒既に痊えたれど未起出でず終日褥中に在りて詩経を読む、晩間小星夕餉の惣菜を携来る、 正月廿一日 晴れて暖なり、病床読書また一日を消す、此日大寒、 正月廿三日 晴、病臥、 ●正月廿四日 晴れて暖なり、午下中洲病院に徃き冬牆博士の診察を請ふ、風邪既に痊えたりと云ふ、帰途牛陵の某亭に到り夕餉を食す、街上処々に衆議院議員選挙候補者の姓名を大書せるを見る、其中に三木武?菊池寛等の名あり、三木は一昨年収賄罪を以て獄に投ぜられたるもの、今また立つて議員候補者となる、然れども世人之を見て毫も怪しまざるものゝ如し、正義の観念今や蕩然地を払ひたりと謂ふ可し、 正月廿五日 快晴、風なくして暖なり、本年は寒に入りてより氷を見ず、杏花子再び郵書を以つて病を問はる、晡下小星来る、相携へて銀𫝶に徃き銀座食堂に夕餉を食す、松阪屋店頭にて河原崎長十郎夫婦の来るに逢ふ、 ●正月廿六日 薄く曇りて風寒からず、午前平井辯護師を招ぎ借地証文文書替のことを依頼す、余が現住所の土地はもと広部銀行の有なりし処同銀行破産閉店の後、去年の暮より昭和土地株式会社の名義に変じ、改めて土地賃借証書を送り来りしなり、午後散策の途次牛陵の妓某に逢ひ誘はるゝがまま春日亭に抵りて浅酌す、日の暮るゝを待ち杏花子が駿台の邸に徃く、此夜例月の会あり、大伍子先に在り、鬼太郎清潭氏つゞいて暮る、席上の談話によるに、新橋の花月楼去年の暮より箱留め?となり今は殆閉店のありさまとなれり、主人権八画伯?毒薬を服して危く自殺せむとせしを家人の知る所となり幸に事なきを得たりといふ、此夜杏花子新に獲られたる一珍書を示さる、池田炭と題したる徘徊の一巻にて晋子其角自筆の点評あり、大名か又は旗本らしき人の其家臣を集めて附合をなしたるもの、幽闡銀濤などの俳名あれど何人なるや知り難し、款語夜半を過ぐ、 一月廿七日 晴れて風なし、午後麻布区役所に用事あり、それより銀𫝶に出で髪を刈り薄暮三番町に徃き夕餉を食す、三田英児来る、 一月廿八日 曇りて寒し、平井辯護師の意見により麻布住宅の登記をなさんとて三田通りなる地方裁判所出張所に徃き其手続をなす、帰途銀座風月堂にて食事をなし酒肆太訝に憩ふ、雨降り来りしかば日暮家に帰る、夜小星来る、笄阜子書あり、居宅の梯子段より落ちたりといふ、 一月廿九日 晴れて風なし、隣家の梅花星の如し、立春前梅花の満開するを見る、気候の温暖例年の比にあらざるを知るべし、 一月三十日 晴れて後に曇る、風寒からず、晩間番街の小星を訪ひ夕餉を食す、小星数日前一口阪電車通にて、一匹の子犬の路に迷ひたるにや又は人に捨てられしにや、其の裾にまつはりて追へども去らず、憫れみを請ふが如く鼻を鳴らしてつき来るを見、その儘家に留めて飼ひ置きたりとて、勝手よりつれ来りて示しぬ、此犬砂糖チヨコレート焼麺麭などを好み人の膝の上に抱かれて眠る、又湯を汲みてやれば自ら盥の中に飛び入るなど屋外に飼はれたる犬にてはなきやうなり、思うに西洋人の家に飼馴らされたるものなるべし、 |