一二月十五日。快晴。晡下鷲津貞二郎病気危篤の電報来る。貞二郎久しく肺を病みこの夏より枕につきゐたりし趣兼ねて大久保の母上より聞きゐたれば、電報には危篤とあれど、既に亡き人の数に入りしものなるべしと思ひつつ、急ぎ自働車を 一二月廿一日 。晴れて風なし。午後大島隆一氏成島未亡人と共に来訪せられる。 この日午前西大久保の母上より電話にて、貞二郎初七日なれば谷中墓地に墓参すべき由言越されしが、成嶋家の人々わざわざ神戸より上京して来訪るべきはずなれば、墓参には赴かず。夕刻配達の郵便物の中に浅草区浅草町に住する山田某なる者の封書あり、開きて見るに、僕は一介の労働者だが原稿の添削をしてもらひたいから日雇ひの仕事を一日休んで徃訪する、家にゐて面会せられたい、と言ふが如き事を認めたる原文一致体の書状なり。何となく穏かならぬ語気おのづから文字に顕われたり。近頃かくの如き書面を送り来て面会を強要するもの年と共に増しゆくなり。余はこれに対して如何なる方法を取るべきや殆その処置に苦しむなり。一旦面会してその持参する原稿を受取る時は、重て訪来りて、書肆または雑誌社への推挙を請ひ、結局その思ひ通りに行かぬ時は忽奮怒して暴言を放つ。これ余が今日までの経験にて明なること火を見るが如きなり。余つらつら思ふに、もしこれら文学志望者来訪の跡を根絶せしめんと欲すれば余はまづ筆を焚き全然文壇に名を出さぬやうにするがよろしかるべし。雑誌新聞に文章小説を出さざればこれらの輩の来りて余が閒居の門を叩くこともあのづから絶ゆるべし。近年震災後に至りて世のありさまのまた更に甚しく変化せし事、実に驚くの外はなし。文筆の事業は直接世間には関係なきものなりしが、今は然らず。小説かく者はあたかも政治家弁護士などと同じく毎日見も知らぬ人々と面談せねば事がすまぬやうになりたり。これ世の如何にするとも堪へ得ざる所なり。来年五十歳の春を迎うるを機とし、売文の事は本年にてよろしく切り上げとなすべきなり。両三日前より『中央公論』に送るべき短編小説四、五枚ほど書始めしが、山田某生の手紙を見て執筆の興忽消滅せり。草稿を引裂きて屑籠に押込み、薄暮壺中庵に赴きて夕餉をなす。 一二月廿三日 。朝来微雨、午後に至って歇む。夕餉の後壺中庵を訪ひお歌のすすむるがままに愛宕下の年の市を歩む。押絵羽子板に男女活動写真の訳者似絵を細工したるもの尠からず。見物の人気は歌舞伎役者の似絵よりもかへつてこの方盛んなるが如し。当今の世はカッフェーの女給芸妓と嬌名を競ふ有様なれば、活動俳優の似絵羽子板歌舞伎役者を圧倒するも敢て怪しむに及ばざるなり。帰途虎の門に出で江戸見坂を昇るに、下町一帯の燈火淡烟蒼茫の間に明滅するさま、あたかも江湾の夜景を望むに似たり。家に帰りて後執筆、三更を過ぎて寝に就く。この日冬至なり。 十二月卅一日 。午近く起き出で、お歌を板倉通に送りて家に帰る。晴れて暖なり。郵便来状を一閲するに東京市教育局長藤井利誉の署名にて左の如き文言を活版摺にしたるものあり。
余はこれに対して迷惑この上なき次第なりと葉書を以て拒絶す。凡そ何事に限らず返答なきものは承知せざるものと見做すべきが当たり前なるべきに、返事なければ承知したものとなすとは如何なる次第ならん、心得がたき事なり。そもそも東京市役所は贓吏の巣窟ならずや。藤井某なる者葉書一枚を投じて猥に人の姓名を取つてこれをその製作する名簿に載せんとす。無礼極りなきものといふべし。日の暮るると共に、七、八日頃ともおぼしき弦月の光照り渡りて、夜色蒼然たり。初更お歌来る。炉辺に茶を喫して静に年を守るに、遠来の如き康衢の車声もこの夜ばかり平日とは異りしやうなる心地せらる。除夜の鐘鳴りやみし時、お歌の帰るを送りて門外に出でて見るに、上限の月は既に没し淡烟蒼茫として四鄰の樹木を籠めたり。家に入り沐浴して後本年この日の日誌を書きをはれば、夜は早くも四更を過ぎたり。 [欄外朱書] 昭和九年二月教育界収賄事件アリ藤井利誉引責辞職セリ。 |