昭和十八年十月念五日。細雨空濛たり。凌霜子黄橙のジヤムを餽らる。晡下瓦斯会社の男来り警察署より民衆の瓦斯風呂いよいよ禁止の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。 * 昭和十八年十月念六日。 積雨漸く霽れて日の光もうらゝかなり。午後浅草に行きオペラ館に小憩し新橋に夕餉を喫して帰る。窓外再び虫声あり。
昭和十八年十月念七。晴れて好き日なり。ふと鷗外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋傘家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨(はぜ)の紅葉花より赤く芒花(すゝき)と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて「禅林寺」となせし扁額を挂けたり。「葷(くん)酒不許入山門」となせし石には「維(この)時文化八歳次辛未春禅林寺現住旹宗(=時宗)謹書」と勒(ろく)したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧(かや)かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷(のき)辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に「元禄九年丙子朧月」の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飯す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。 |