七月初一。(旧六月朔)陰晴定まらず溽暑甚し。腹痛稍 七月初二。乍晴乍陰。溽暑宛ら温室に在るが如し。腹候未佳からざれば終日門を出でず。夜も亦家に在り。鬼太郎氏の鬼言冗語をよむ。
七月初三。晴溽暑退かず静座するも脂汗出るほどなり。午後野田書店主人来談。薄暮銀座に往き銀座食堂に飰す。店先に池をつくり多く鮎を養ふ。通行の人歩を留めてこれを見る。尾張町角の竹葉亭にては大なる鯉と緋鯉を養ふさま金魚屋の如し。現代人の趣味幼稚俗悪なること斯くの如し。或る人の説に東京市中の飲食店にて其店頭に硝子張の棚を設け、料理したる飲食物を陳列し、一皿ごとに定価をつけるやうになりしは大阪市中の洋食また支那料理屋に始まり、三越其の他百貨店の食堂この風を学び、遂に蕎麦屋汁粉屋にまで及びしなりと云ふ。銀座通地震前には見ざりし奇風なり。この夜松坂屋前夜店の古本屋にて文芸倶楽部明治三十年前後のもの十余冊を購ふ。最高きものの一冊四十銭。廉きも十五銭を下らず。口絵写真版の満足なるは少し。 七月初四。朝来大雨。午後に至って車軸を流すがごとし。薄暮雨忽歇み星出づ。麹町秋草舎?に飰す。 七月初五。晴れたる空には雲多く風の声飄々として秋の如し。植木屋二人来りプラターン樹の刈込みをなす。京屋印刷所?の人来り冬の蠅六月分売高金参百六拾四円ほどなりと云ふ。黄昏尾張町竹葉亭に飰す。段四郎杉野安藤南地?の妓稲千代?等と烏森の縁日を歩む。家にかへれば一時半なり。
七月六日。終日大雨歇まず。空中演習にて市街点燈を禁ずといふ。暗黒歩みがたきを以て門を出でず。早くより臥蓐に横り文芸倶楽部の古本を読む。明治卅一年七月号の誌上に大町桂月が楠正成の自殺を論ず文あり。〔以下十三行弱抹消〕 七月七日。陰。再び腹痛あり。正午岡崎(西銀座二丁目酒肆)中元の進物を持ち来る薄暮不二氷菓店に到り卵とオートミイルを食しきゆうぺるに一茶す。週刊朝日余に対する讒謗の記事を掲ぐ。(この日日曜日なり) 七月八日。晴。長崎の増田氏長崎県立図書館長に任ぜられし由葉書あり。晩間尾張町竹葉亭に飰す。
●七月九日。晴れて風さはやかなり。梅雨も既に明けたるが如し。早朝下痢一回驚いて薬を服す。晡下渡辺来る。この日は鴎外先生の忌日なれど下痢を催したれば墓参もせず終日家に在り。 七月十日。晴れて風涼し。燈刻銀座食堂に飰す。この夜銀座表通のみならず裏通にも制服の学生泥酔放歌して歩むもの多く裏通の小料理屋の二階にも学生乱酔して喧嘩するものあり。諸学校この頃暑中休暇に入りし為なる由通行人の話なり。銀座は年と共にいよ/\厭ふべき處となれり。此日八笑人の著者滝亭鯉丈の法会小石川小日向第六天町称名寺にて営まれしと云ふ。世話人は鳶魚筑波森銑三其他なりと云ふ。 七月十一日。くもりて風冷なり。午後五時頃強震あり。程なく号外出で静岡市の被害を報ず。 七月十二日。くもりて風なく肌寒きこと暮秋の如し。終日家に在り。 七月十三日。陰。冷風昨の如し。終日困臥為すことなし。石榴夾竹桃共に花開く。鳳仙花また開く。秋海棠秋を待ずして又花あり。 七月十四日。晴れて風涼し(日曜日) 七月十五日。晴れて俄に暑し。早朝窓外の樫の木に蜩鳴く。蝉より早く蜩の声きこえ秋風たたぬ中に秋海棠の花さくこと毎年の例にて今は珍しからず。世の有様につれて草木鳥虫の生活も変るものと見えたり。終日窓に凭りて森銑三氏の近世文芸研究を読み日の暮るゝを待ち銀座に往き竹葉亭に飰す。邦枝完二其近著高橋阿伝を贈らる。 ●七月十六日。快晴。風ありて暑気未甚しからず。ピヱールロチの日記を読む。夜渡辺夫妻来る。供に烏森の芳奈加に往きて飲む。月明にして風涼し。 七月十七日。昼晴。夜陰。 七月十八日。陰。風冷去年の夏に似たり。終日読書他事なし。台湾に強震ありと云。此日始めて蝉を聞く。 七月十九日。くもりて風冷なり。午後日高氏来訪。晩間銀座竹葉亭に飰す。 七月二十日。曇りて風もなく雨も降らず唯ひや/\として肌寒し。腹候佳ならず。横臥ロチの日誌を読む。ドオテ[「ドオテ」はママ]との往復の所感尤趣あり。夜に入りて俄にあつし。此夕両国川びらきなりと云ふ。 七月廿一日。(日曜日)晴れて風涼しきこと大暑に近き頃とは思はれぬばかりなり。 ●七月廿二日。青空に雲多く浮びて風涼しきこと立秋のやうなる心地す。夜新富町市場通の角に立てる正金アパートに尾台文子といふ女を訪う。西向四階の部屋にて京橋より銀座通の夜景窓より一目に見渡さるるなり。部屋は六畳ばかりの畳敷にて長火鉢茶箪笥鏡台などを置き、壁には肌襦袢浴衣?などをかけたるさま、建築の様式とまた窓外の景色に対して何等の調和もなし。折〻廊下に下駄の音きこゆるを窺い見れば、洋風寝衣をまとひたる断髪の女の脛と腕とを露出し何やら物買ひに出で行くなり。震災前新富町あたりには下町固有の風俗ありしが今日たま/\アパートの内部を見れば生活の外形には審美的興味をひくべきもの全く其跡を断ちたり。朝の中は豆腐屋煮豆屋など鐘を鳴して廊下を歩むと云ふ。 七月廿三日。晴。いよ/\夏らしき暑さになりぬ。午後曝書。雑誌維新記者来りしが会はず。夜きゆぺるに往く。高橋広瀬酒泉竹下喜尉斗[「尉」はママ]安藤杉野其他の諸子在り。 七月廿四日。晴れて暑し。午後曝書。日暮驟雨あり。夜涼水の如し。谷町電車通福吉町に近きところの路傍に十字架の紋つけし小挑灯を持ち、若き女二、三人引連れ辻説教をなせる老人あり。汚れたる白飛白の浴衣を着たる貧しげなる老人なり。通行の人〻と共に佇立みて見るに震災の頃まで偏奇館北鄰の貸家にゐたる牧師なり。震災の当夜はその妻なる人幼児二人を抱き余が庭の木の間に蚊帳つりて暁を待ちたり。その頃にはこの宗旨もなほ今日の如く衰微せず、救世軍の如きは太鼓叩き讃美歌うたひて大通を練り行きたり。昭和六年満州戦争起りてより世の有様は一変し、街上にて基督教を説く者殆後を絶ちたり。この夜図らず十年前見知りたる牧師に遇ひ何となく気の毒なる心地せしがまま顔見られぬ中に行過ぎぬ。 七月廿五日。くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。薄暮尾張町竹葉亭に飰す。飰後きゆうぺる茶店に憩ふ。偶然ラヂオの放送鴎外先生の作山椒大夫を浪花節につくり替えたるものを演奏するを耳にす。作者は大阪の脚本家大森癡雪なりといふ。鴎外先生は生前薩摩琵琶師のために長宗我部 [空欄はママ]の一曲を草せられしことあり。されど浪花節は宴席においてもこれを聴くことを好まず、しばしばその曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。浪花節語り雲衛門大に世に持囃されし頃のことなり。今日浪花節は国粋芸術などと称せられ軍人及愛国者に愛好せらるるといへども三、四十年前までは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道芸に過ぎず、座敷にて聴く、ものでは非らざりしなり。梅坊主のかつぽれよりもさらに下品なる芸となされしなり。現代の日本人は芸術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唄ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。河東節一中節も浪花節と同じくその趣味風致において差別なきものとなすなるべし。今夜鴎外先生地下にありてラヂオの浪花節をきき如何なる感慨に打たれ給ふや。〔以下七行弱抹消〕* 七月廿六日。晴。夏らしき暑なり。午後丸内三菱銀行に往き丸ビル内丸善書店にてNoël Nouëtの絵本東京?を購うて帰る。平井程一氏来りて雑誌日本橋第二号を示さる。 ●七月廿七日。晴天。暑気未烈しからず。蝉声稀なり。午後美代子来りし故烏森の芳中に往きて昼飯を食す。晡時帰宅。一睡を試む。燈刻銀座食堂に夕餉を食し茶店きゆぺるを過ぎてかへる。 七月廿八日。(日曜日)晴。涼風秋の如し。黄昏頻に蜩の鳴くを聴く。銀座竹葉亭に夕餉を食す。 七月三十日。晴れ。暑焼くがごとし。曝書又読書。初夜銀座に往く。途上乗合自動車にて巌谷撫象氏及其細君に逢ふ。金沢今村君書あり(金沢彦三町五丁目八十二番地) |