二月初一。舊十二月廿八日 晴又陰。暮れがた美代子來りし故共に銀座に逝き、穩[「穩」はママ]行家に飰す。この店震災前には名高かりしが、此夜久しぶりにて行きて見しに二階には客一人もなく火の氣乏しく、さながら空家にて物食ふが如き心地なり。この頃銀座邊の飲食店は大小善悪の別なく繁盛するに、この店ばかり不景氣なるは氣の毒の至なり。都て震災前繁盛したりし店は今日は大柢衰微せり。風月堂の如きも晩方には殆客なし。時勢の推移まことに是非もなき事なり。 二月二日。陰。午後佐藤春夫氏門人某を伴ひ来り訪はる。日本橋と題する雑誌のことにつきてなり。黄昏銀座竹葉亭に飰し茶店亜凡を過ぐ。竹下広瀬高橋の三氏に逢ふ。蕎麦屋よし田に小憩してかへる。 二月初三。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至って歇む。終日困臥為すことなし。燈刻銀座に行き銀座食堂に飰す。三越百貨店に入り日の丸の旗竹竿つき一円六十銭を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また角松立てし事もなし。されど近年余の有様を見るに〔此間約三字切取、約十字抹消〕祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由屡耳にするところなり。依って万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服を着る必要はなきわけなり。されどこれも余の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去年銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。 二月五日。立春。雪解の点滴終日絶えず。曇りし空晩に晴る。銀座風月堂に晩餐を食す。喫茶亜凡に立寄りしが知る人在らざれば直にかへる。
荷風曰。鰻を裂きて之を焼く状景説き尽くして余す所なし。この文を読めば鰻屋が掌にて渋団扇をパタ/\叩く響をきくが如く覚えず人をして垂涎せしむるものあり。されど今日にては鰻屋の店先を通るも渋団扇の音を聞くことなし。 二月六日。快晴。西北の風吹き荒れて寒し。去年末東京日〻新聞職業案内欄に家政婦の口を求むる者ありたれば、面談の上雇入るべし由返事せしに(尤も先方は姓名住所を記さず牛込郵便局留置となしたり)二三日前左の如き艶しき手紙を送り来りぬ。
好奇の心に駆られ其時間に万世橋停車場側なる汁粉屋三好野の店先まで行き、三十分近く待ち居たりしかど、それらしき女の姿も見えず、吹きすさむ北風のあまりに寒ければ、地下鉄道ストアに入りやがて銀座に出で竹葉亭にて夕餉を食し、黒麵麭など購ひて家にかへりぬ。三日月の影箪笥町の崖上なる樹木の上に懸りて風の音物すごきばかりなり。 ●二月七日。昨夜余寒凛冽。残雪猶解けず。風また強し。夜まさご屋に飰す。 二月八日。晴れて寒気甚し。終日辱中に在りて其角の花摘其他を読む。燈刻尾張町竹葉亭に飰して亜凡に憩ふ。広瀬女史在り。某書店発行芭蕉全集編集の事に与れりと云ふ。 二月九日。快晴。寒気昨日に比すれば稍寛なり。午後土州橋の病院に至る。大石君亡後厚木学士患者を診察す。帰途上野松坂屋古本売立の市を見る。広小路点燈頃の雑沓銀座通に劣らず。手相判断また売薬の商人当世風の演舌をなすさま浅草公園の如し。銀座食堂に飰して帰る。 二月十日。(日曜日)春雨霏霏。森先生の妄人妄語を読む。燈刻雨歇みて暴に暖なり。不二氷菓店に飰して亜凡に憩ふ。竹下高橋広瀬の三子に逢ふ。帰途月おぼろなり。道源寺の犬余の跫音をきヽつけ従ひ来りし故バタとパンを与ふ。即興の句を得たり。
●二月十一日。くもりて暖なり。晡下美代子来る。倶に銀座竹葉亭に往き晩餐をなす。 二月十二日。雪まじりの雨夜に入りて 二月十三日。晴。帚葉子書あり。晡下散策。九段上平安堂?にて細筆数枝を購ひ銀座に飰してかへる。雨に逢ふ。 二月十四日。晴。春日漸く暖なり。午睡例の如し。日の没するを待って銀座に行き松喜に飰してかへる。燈下執筆二三枚にして歇む。不在中阪井清氏来訪。 二月十五日。晴。午後笄阜子来訪。夜銀座にて竹下広瀬神代の三子に逢ふ。春月朦朧。 二月十六日。晴また陰。夜ふけて雨。 二月十八日。晴又陰。 二月十九日。晴。春風日に/\暖なり。初めて鶯語を聞く。夜銀座に往き竹下安藤広瀬歌川の諸氏に逢ふ。 二月二十日。晴。夜に入りて風甚寒し。銀座にて酒泉杉野神代高橋の三子に逢ふ。 二月廿二日。午後より雨降り出して夜に入ります/\甚し。午後三菱銀行に行く。偶然瓜生氏に逢ふ。曾て三田文科の学生なり。後澤村宗十郎の弟子となり澤村遮莫といふ。土州橋の病院に至り薬を請ひてかへる。 二月廿三日。晴。烈風歇まず。春寒料峭たり。去冬以後の草槀を整理し冬の蠅と題して出版せんと欲す。 二月廿五日。晴。夜銀座亜凡にて岡竹下田嶋小出?神代酒泉の諸氏に逢ふ。風暖なり。 二月廿六日。春雨霏〻。隣家の梅雪の如し。
二月廿七日。陰。午後写真版製作商井澤の工場(日本橋槇町)に赴きしが事弁せず、空しくかへる。夜暖にして雨静なり。燈下執筆。
〔欄外朱書〕八丁堀地蔵橋の辺 〔欄外朱書〕深川区内黒江町黒江橋の辺 * ●二月廿八日。晴。落梅梅の如し。薄暮まさご屋に飰す。米子かをる?来る。奇談あり。 |