十月初一。(旧九月四日)晴れて好き日なり。秋蝉の声いつか断え果て虫の音も俄に細くなりぬ。読書また午睡。日の暮るゝを待ちて銀座散策例の如し。 十月初二。雨霏〻。午後小山書店主人来談。晡下新小説社島氏来談。終日彼理提督の東亜航海志を読む。夜銀座久辺留にて偶然池田大伍君に逢ふ。 ●十月三日。晴。午後銀座三越百貨店中央公論社主催維新前後より今日までの雑誌陳列会を見る。夜驟雨雷鳴。 十月五日。晴。午後小山書店主人拙著すみだ川校正摺持参。晩食後、浅草田原町雇人口入宿昭和屋?より電話にて実直なる老婆見当りたれば、これより連れ参るべしといふ。散歩に出る頃なれば此方より見に行くべしと 十月六日。(日曜日)晴また陰。燈刻尾張町竹葉亭に飰して後茶店久辺留に至る。武林君来る。諧語夜分に及ぶ。 十月七日。空くもりがちなり。夕方より風吹き出で俄に寒くなりぬ。 十月八日。陰。午後小山書店主人来訪。終日提督ペルリの遠征記をよむ。小笠原群島の記述宛然冒険小説を読むが如く銅板の挿画また人をして夢想の世界に遊ばしむ。 十月九日。晴れて風冷に鵙の鳴く声頻なり。萩の花は既に落尽し秋海棠の葉も萎れがちになりぬ。山茶花は赤きも白きも皆二三輪開きはじめたり。終日旧著夏姿を筆写す。燈刻尾張町竹葉亭に飰し久辺留に憩ふ。高橋邦氏雑誌笑の古本を購ひたりとて示さる。 十月十日。十三夜なり。月色清奇露気甚冷なり。残蛩なほ声あり。 十月十一日。雨霏々。終日門を出でず。晡下野田書房主人来談。夜交遊諸家の書牘を整理す。 ●十月十二日。晴。読書及曝書。本年立秋後雨多かりし故曝書する事能はざりしなり。燈刻鼎家に飰して後茶店久辺留を過ぐ。この夜土曜日なれば銀座裏通酔漢多し。九月十五夜の月あきらかなり。 十月十三日。(日曜日)昏黒小山書店主人来りてすみだ川校正刷表紙見本其他を示す。食後散髪せむとて銀座に行きしが日曜日にて休みなり。独逸人ぱん屋?に小憩してかへる。空くもりて月影くらし。蟲声雨の如し。 十月十四日。晴。燈刻銀座に往き庄司にて理髪。茶店久辺留に一茶してかへる。 十月十五日。くもりて風なし。軍部対政府の国体問題今に至るも猶囂々たり。[以下四行弱抹消]
十月十六日。微雨。夜に至って歇む。虫の声猶盛なり。 十月十七日。陰。終日読書。燈刻銀座食堂に飰して直にかへる。露しげきこと雨のごとし。中央公論社より同社営業五十周年記念品(白地縮緬ふくさ)を贈来る。 十月十八日。晴。読書。夜に至り風俄に寒し。 十月二十日。(日曜日)小春日和の好き日なり。荻の葉猶落ちず、虫の音あはれに静なり。初夜黒ぱん買ひにと銀座に行き茶店久辺留に憩ふ。髪の毛振り乱したる青年文士と見ゆるもの数名頻に新作家の評論をなせるを見る。歌川大和田の二氏と車を同じくしてかへる。 ●十月廿一日。晴。山茶花満開なり。米国彼理の東亜遠征記を読了す。夜銀座散歩。尾張町不二あいすに一茶す。人の噂によれば今春以来其筋の取締きびしき為銀座通に辻君なくなり怪し気なるカフヱーも閉店するもの多し。辻君は新橋を渡り片側汐留倉庫にて道路暗く人通稀なるあたりに出没し露地または人家のひあはひに客を引き込み春を鬻ぐといふ。 十月廿二日。晴。仏蘭西海軍士官アルフレド、ルツサン著下関海戦志を読む。此書慶応二年の版なり。 十月廿三日。晴。晡下のぶ子?来訪す。昭和三四年頃まで多年銀座尾張町タイガアといふ酒楼にはたらきゐたる女なり。三四年前より伊太利亜大使の婢女となり其邸内に住むなりと云ふ。夏は毎年鎌倉なる大使の別荘に行き乗馬のけいこをもなすとて、ハンドバツクの中より写真数葉を取り出して見せたり。タイガの女給数百人の中玉の輿に乗りたるものはこの女と紅組の光子二人なるべし(のぶ子は紫組に属したるなり)一人は伊太利亜大使の婢一人は 十月廿四日。晴。英国公使フレーザー夫人の日本遊記二巻を繙く。書中の記事は明治廿二三年頃にして、出版はそれより十年後(明治卅三年西暦千八百九十九年)なり。深夜二時頃蓐中読書する時枕元の硝子窓にがさ/\と音するを聞く。鼠か鼬ならむと思ひて枕より頭を
十月廿五日。晴。三時過丸ノ内三菱銀行に徃く。電車にて浅草雷門に至り公園を散歩す。千束町を過る時この春一個月ばかり余が家に雇置きたる派出婦に逢ふ。松竹座向側なる浅草ハウスといふアパートに住へりといふ。誘はるるままにその室に至り茶を喫す。右鄰の室はダンサア。左鄰の室にはカフヱーの女給。向側は娼妓上りの妾にて夜十二時過になれば壁越しに艶めかしき物音鳴声よく聞ゆといふ。日は早くも暮れかかりたれば外に出で、公園裏の大通りを歩み待乳山に登る。山の側面は目下セメントにて工事中なり。聖天町に接する崖下は洋式の新公園となりぬ。山上の聖天の殿堂は既に新築落成したれど今はお百度踏むものなし。樹木は桜の若木二、三十本を植えたるのみ。石段を下り聖天町猿若町を歩みたれど町の様子全く変りて旧観を思返すべきよすがもなし。新築の今戸橋際より山谷掘の北岸に沿ひて歩む。掘は四、五町行きたるところにて尽きその先は土管にて地中に埋められたり。掘には新築の橋多し。第一は今戸橋、第二は聖天橋、第三は吉野橋、第四は正法寺橋、第五は山谷堀橋、第六は紙洗橋、第七は地方新橋、第八は地方橋、第九は日本堤橋にて、堀はこの橋の下より暗渠となるなり。即左図の如し。又今戸橋北詰もと慶養寺の樹木繁りたるあたりには曹洞宗潮江院、霊亀山慶養寺、本龍寺などの門札を掲げたる寺ありて、其亜鉛塀の外には肥料桶数知れず置れたり。霊亀山の額かけたる門のみセメントづくりにていかめしきものなり。吉野橋に至る河岸通には今猶××の住家多しと見え皮屋の店または太鼓を売る店もあり。(南岸に瓦屋釣舟屋あり)山谷掘川口のあたりも光景一変し地図を参照するも新旧の地勢を明瞭に比較する事能はざるなり。日本堤東側に裏町を歩み行く時、二間ほどの間口に古雑誌つみ重ねたる店あるを見たれば硝子戸あけて入るに、六十越したりと見ゆる坊主の亭主坐りゐて、明治廿二、三年頃の雑誌頓智会雑誌十冊ばかりを示す。開き見るに宮武外骨の編輯する処小林清親のポンチ絵もあり、外骨氏〔この間二字切取、約七字抹消〕重禁固三年の刑に処せられたる記事もあり。禿頭の亭主が様子話振りむかしの貸本屋も思出さるるばかりの純然たる江戸下町の様子なれば、旧友に逢ひたる心地し、右の雑誌その他二、三種を言値のままにて購ひ、大通りに出ればむかしの大門に近きところなり。日は全く暮れ果て廓内の燈火輝き出したれば衣紋坂を過ぎ大門に入る。五十間に在りし引手茶屋大半閉店し小料理屋となりしものあり、吉徳稲荷の跡は空地となり、何とやら云ひし名所の井戸もなくなりたり。大門を入りて仲の町右側大門際の茶屋西の宮は他の名称と変じ、隣の山口巴はわづかに其名を納簾にとゞめたり。桐佐大忠?などむかしのまゝなる名前は残りたれど、店先に水兵服きたる少女脛を出して 乙●十月廿七日。瀧の如き大雨十五分置きくらゐに振り来りては歇 み、歇みてはまた降る。昏黒小山書店主人来りて小石川諏訪町あたりの道路雨水踵を没し歩行すること能はざりしと云ふ。七時頃雨歇み星出づ。銀座にて物買ひ鼎亭に夕餉を食してかへる。燈下フレザアー英国公使夫人の日本遊記を読む。国会開始の前年都下壮士の横行するもの多きを痛論せし一章あり。大に我意を得たり。安政以後壮士の暴行は日本の社会に於いて特殊の減少となれり。昭和六七年来の世態を見るに文久慶応の世と異るところなし。 甲十月廿六日。燈刻杏花君招飲の約に赴く。池田川尻岡の三君来る。帰途雨。 丙十月廿八日。晴。歌舞伎座構内に坪内博士の銅像建てられし由。或人曰くこの劇場に博士の像を建つるは元よりあしからず。されどこの劇場の最紀念となすべき人物を挙ぐればまづ第一に福地桜癡を推さざるべからず。座主竹次郎は大阪者にて無学文盲の徒なれば福地源一郎などいふ人の世にありし事は知らざるなるべしと。これあるいは然らむ。呵〻。終日読書。夜銀座に徃く。 昭和十年十月廿九日。晴れて好き日なり。今春以来腹候甚佳ならず。午後土州橋の病院に赴き厚木医学士の診察を請ふ。厚木氏は故大石君の門人なり。この度論文を呈出し博士の学位を授けられたりと云ふ。風静なれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。午後五時を過ぎたるばかりなるに暮霞既に糢糊たり。水上に大なる汽舩の泛べるを人に問へば大島通ひの新造船にて四千五百トンなりと云ふ。河岸通りに聳る三菱倉庫の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかゞなりしやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。境内は広く掃除も行きとゞきたり。堂は二棟あり。大なる堂には田宮神社の額をかけ見影石の鳥居には於岩稲荷の額あり。昭和九年十一月建之亀戸町松田定一?と刻したるは如何なる人ならむ。小なる堂の軒には白狐堂の額をかけ前なる鳥居には明治三十年一月吉日田岡栄造建之と刻したり。大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向ひの貸家にたしか荒川とやら言ひし淫売宿あり。わかき後家人妻など多き時は七八人も集りゐたることもありき。今日も猶このあたりの貸家には囲者らしきもの多く住めるがごとし。於岩稲荷の裏手に新築の小祠あり。通行の子供に問ふに金比羅をまつれるものなりと云ふ。祠前の横町を燈火明るき方へ歩み行けば越前堀二丁目の電車停留場に出づ。銀座に赴き銀座食堂に夕餉を食し、茶店久辺留に立寄りしが、今宵は慶応義塾野球勝負の後にて泥酔せる学生の出入多ければ一茶して後家にかへる。川尻清潭君よりたのまれし歌舞伎俳優芸談筆記集の序を草す。 十月三十日。晴。この頃新聞紙上の論文に欧禍といふ新文字を見る。非常時の語は満州事変の際[此間三字抹消。以下行間補]軍人の[以上補]造り出せしもの。この度は欧禍の語となる。[以下六字抹消]
俳諧人名録二編東都惟草庵惟草輯(天保十年頃刊本)といふ本に余が祖父もしくは曾祖父とおぼしき人の句あり。左の如し。
同書に
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