断腸亭日乗 断膓亭日記巻之四大正九年歳次庚申 正月元旦。間適の余生暦日なきこと山中に在るが如し。午後鷲津牧師来訪。この日風なく近年稀なる好き正月なり。されど年賀に行くべき処なければ、自炊の夕餉を終りて直に寝に就く。 正月二日。快晴和暖昨日の如し。 正月三日。快晴。市中電車雑遝甚しく容易に乗るべからず。歩みて芝愛宕下西洋家具店に至る。麻布の家工事竣成の暁は西洋風に生活したき計画なればなり。日本風の夜具蒲団は朝夕出し入れの際手数多く、煩累に堪えず。 正月六日。春陽堂主人和田氏年賀に来る。夜唖々子と電車通の宮川に飲む。 正月七日。夜、微雨あり。アナトオル・フランスの L'Anneau d'Amethyste を読む。 正月九日。晴天。全集第四巻の原稿を春陽堂に送る。この日より再び四谷のお房を召使ふことにす。 正月十日。晴天。アンノオ、ダメチストを読む。篇中の主人公迷犬を書斎につれ来りて打興ずるあたり最面白し。七年前大久保の旧宅改築の際、一頭の牝犬、余が書斎の縁側に上り来りて追へども去らず、已むことを得ず玉と名づけて其儘飼置きし事など思起しぬ。それより家畜小鳥などにつきての追憶を書かばやと想ひを凝らす。 正月十一日。晴れてあたゝかなり。 正月十二日。曇天。午後野圃子来訪。夕餉の後忽然悪寒を覚え寝につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。 正月十三日。体温四十度に昇る。 正月十四日。お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて来り余の病を看護す。 正月十六日。熱去らず。昏々として眠を貪る。 正月十八日。渇を覚ること甚し。頻に黄橙を食ふ。 正月十九日。病床万一の事を慮りて遺書をしたゝむ。 正月二十日。病况依然たり。 正月廿二日。悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹るもの多く死する由。余は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。 正月廿八日。褥中全集第四巻校正摺を見る。 |