九月朔。露国革命前帝室歌劇部の伶人、この日より十五日間帝国劇塲にてオペラを演奏する由聞きゐたれば、久米君にたのみて切符を購ひ置きたり。この夜の演奏は伊太利亜歌劇アイダなり。余は日本の劇場にて、且はかゝる炎暑の夕、オペラを聴き得べしとは曾て予想せざりし所なり。欧洲の大乱は実に意外の上にも意外の結果を齎し来れるものと謂ふ可し。余は此夜の混乱せる感想をこゝに記すこと能はず。 九月二日。此夕はトラヰヤタの演奏あり。炎暑九月に入りて卻て熾なり。劇塲内は恰温室に在るが如し。徃年紐育又里昴の劇塲にて屡この曲を聴きたる時、深夜雪を踏んで下宿に帰りし事を追想すれば、何とはなく別種の曲を聴く思ひあり。 九月五日。ボリスゴトノフの演奏あり。秋暑甚しき為身体大に疲労す。 九月六日。終日困臥す。 九月八日。月佳し。旧暦七月の望なるべし。 九月九日。夜、雨あり。九月に入りて始めての雨なり。 九月十日。風邪癒えず。 九月十二日。雨歇まず。残暑去つて秋冷忽病骨を侵す。この夜蚊帳を除く。 九月十三日。秋雨瀟々。四鄰寂寞。病臥によし。 九月十四日。雨晴れて残暑復来る。病苦甚し。 九月十六日。風雨甚し。陋屋震動して眠り難し。路地裏の佗住居にも飽き果てたり。外遊の思禁ずべからず。 九月十八日。薄暮木曜会に徃き諸子に会うて契濶を陳ぶ。旧雨一夕の閑談、百年の憂苦を慰め得たるの思あり。 九月十九日。雑誌花月廃刊以来、一時音信なかりし唖々子、突然来り訪はる。湖山人毎夕新聞社を去りたる由。 九月二十日。微恙あり、心欝々として楽しまず。たま/\旧妓八重次近鄰の旗亭に招がれたりとて、わが陋屋の格子先を過ぐるに遇ふ。 九月二十一日。俄国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りしが徃かず。 九月廿二日。後の彼岸といへばわけもなく裏淋しき心地せらる。此日空好く晴れ残暑猶盛なり。裏屋根の物干よりさし込む日の光、眩しきこと夏の如し。曾て大久保の村居に在りし時、今日のやうなる残暑の昼過ぎ、鳳仙花、葉雞頭の種を縁側に曝したりし事ども、何となく思ひ返されて悲しさ限りなし。折から窓の外に町の子の打騒ぐ声、何事かと立出でゝ見るに、迷犬の自働車にひかれたるを、子供等群れあつまりて撲ちさいなむなり。余は町の悪太郎と巡査の髭面とを見る時、一日も早く家を棄てゝ外国に徃きたしと思ふなり。 九月廿三日。芝白金三光町日限地蔵尊の境内に、頃合ひの売家ありと人の来りて告げ々れば、午後に赴き見たり。庭の後は生垣一重にて墓地につゞきたるさま、静にて趣なきにあらねど、門前貧民窟に接せし故其儘になしたり。現在の寓居はもとより一時の仮越しなれば、此の頃はほと/\四鄰の湫隘なるに堪へやらぬ心地す。軍馬の徃来大久保の如くに烈しからずして、而も樹木多き山の手に居を卜したきものなり。帰途芝公園瓢箪池の茶亭に憩ふ。秋の日早くも傾き、やがて黄昏の微光樹間にたゞよふさま言はむ方なし。曾て大久保の家に在りし頃には、市中の公園は徒に嫌悪の情を催さしむるのみなりしが、今はいさゝかなる樹木も之を望めば忽清涼の思をなさしむ。悔恨禁じ難しといへど又つら/\思返へせば、孤独の身の果如何ともすべからず。我が放恣の生涯も四十歳に及びて全く行詰りしが如し。携へ来りしレニヱーが詩集「 九月廿四日。俄国歌劇一座最終の演奏あり。パリアツチ及カワレリヤルスチカナの二曲なり。劇場を出で、久米松山の二氏と平岡君が采女町の画室を訪ふ。倶に精養軒にて晩餐をなす。食堂には仏国の軍服つけたる男、露西亜人とも見ゆる女四五人、各自の卓に坐するを見る。余は彼等の談話するさまを見るにつけて遊意殆ど禁ずべからず。翻つて今日衰病の身、果して昔年の如く放浪の生活をなし得べきや否や。之を思へば泫然として涙なきを得ざるなり。 九月廿五日。雨ふりて夜寒し。家に在りてセルの単衣を着る。 九月廿六日。秋晴の好き日なれど空しく家に留まる。夜松莚子の自由劇塲試演を観る。 九月廿七日。秋晴の空雲翳なし。高輪南町に手頃の売家ありと聞き、徃きて見る。楽天居の門外を過ぎたれば契濶を陳べむと立寄りしが、主人は不在なり。猿町より二本榎を歩みて帰る。 九月廿八日。午後神田三才社に徃く。途次駿河台に松莚子を訪ふ。夕刻自由劇塲出勤の頃まで款語す。 九月廿九日。東京建物会社々員某来り、小石川金冨町に七十坪程の売地ありと告ぐ。秋の日早くも傾きかけしが、社員に導かれて赴き見たり。金冨町は余が生れし処なれば、若し都合よくば買ひ受け、一廬を結び、終焉の地になしたき心あり。金剛寺阪を上り、余が呱呱の声を揚けたる赤子橋の角を曲り行けば、売地は田尻博士の屋敷と裏合せになりし処にて、鄰家は思案外史石橋先生の居邸なり。傾きたる門を入るに、家の雨戸は破れ、壁落ち、畳は朽ちたり。庭には雑草生茂りて歩む可からず。片隅に一株の柿の木あり。其の実の少しく色づきしさま人の来るを待つが如く、靴ぬぎ石のほとりに野菊と秋海棠の一二輪咲き残りたる風情更に哀れなり。門を出で近巷の模様を問はむと石橋先生を訪ふ。玄関先にて立話をなし辞して帰りぬ。余は先生の俄に老ひたまひし姿を見て、また多少の感なきを得ざりき。此の日目にするもの平生に異り、一ツとして人の心を動かさざるは無し。晩秋薄暮の天、幽暗なること夢のやうなりし故なるべし。 |