大正十四年歳乙丑 荷風年四十七 正月元日。 快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客は独りも来ず。午下雑司谷墓参。帰途関口音羽を歩む。音羽の街西側取りひろげられる。家に帰るに不在中電話にて久米秀治氏急病。今朝九時死去せし由通知あり。老少不常とはいひながら事の意外なるに愕然たるのみ。 正月二日。 快晴温暖三月の如し。午下愛宕下岩島病院に赴き久米氏の住所を問ふ。震災後その住所を漏したれば弔問せむとするにも行くべき処を知らず。岩嶋病院について問ふに、今朝十時病院より葬式を出したり。住処は荏原郡矢口村の辺なりと。受付の看護婦が答に、今は如何とも能はず銀座を歩みて帰る。 正月三日。快晴。 正月四日。陰。雪ふる知らせにや腹痛む。 正月五日。快晴。 正月六日。快晴。寒の入。 正月七日。陰。 正月九日。くもりて風寒し。午後霊南阪上澄泉寺に林鶴梁の墓を展す。梅一株を栽へたり。夜雨ふる。 正月十日。午前雪ふる。正午既に歇む。午後青山墓地斎場にて久米君葬儀失効。 正月十一日。晴。太陽堂の根本氏来談。 正月十二日。晴れて風寒し。鈴木医師を訪ふ。 正月十三日。快晴。風あり。巌谷三一君来訪。午後軽震二回あり。 正月十四日。今日も北風すさみて寒し。炉辺読書。 正月十五日。午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、主人に面会して東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壱万円を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり。仲買片岡は磊落なる相場師肌の男にて、余の小説を愛読せり。かつて築地僑居のころ相識りしなり。夜木曜会新年句会。 正月十六日。故押川春浪の友人数名発起人となり、墓碑建立の寄附金を募集す。そもそも*予の初めて春浪と相識りしは明治三十二三年の頃、生田葵山が下宿せし三番町の立身館なり。春浪その頃神楽阪のビーヤホール某亭の女中お亀といふものと親しかりき。今日神楽阪右側演藝館の建てる処なり。余亾友唖々子と外神田の妓を拉し、根津の温泉宿紫明館に泊りゐたりし時、春浪子おかめを伴ひ、同じく泊りに来りしことありき。余が外遊中春浪子はおかめを妻とし、女子を挙げたり。余帰朝の後日吉町のカツフェープランタンにて、生田葵山、井上唖々、妓八重次、有楽座女優小泉紫影等と、観劇の帰途茶を喫しゐたりしに、春浪別の卓子にて余等の知らざる壮士風の男二三人と酒を飲みゐたりしが、何か気にさはりしことありと見え、唖々子に喧嘩を吹きかけし故、一同そこそこ*にプランタンを逃げ出したり。其夜春浪余等一同待合某亭に在りと思ひ、二三人の壮士を引連れ其家に乱入し、器物戸障子を破壊し、三十間堀の警察署に拘引されたり。春浪は暴飲の果遂に発狂し、二三年ならずして死亡せしなり。余はプランタンの事件ありてより断然交を立ちたれば死亾の年月も知らず。 正月十七日。風吹きてさむし。 正月十八日。快晴。 正月十九日。風邪の気味にて頭痛甚し。早く寝に就く。 正月廿一日。午前林敏氏来談。多年慶応義塾教務係をつとめたる人なり。目下は出版商国民文庫刊行会の事務員なる由。翻訳小説訂正のことにつき来談せらる。 正月廿二日。戯に石印二三顆を篆刻す。夜木曜会に赴く。小波先生今昔物語を朗読せらるる。明治文壇徃時の逸事を記したものなり。三一君戯曲二篇を朗読さらる。 正月廿三日。快晴。 正月廿四日。快晴。日暮地震。 正月廿五日。今日もまたよく晴れたり。この月十日頃に少しく雪降りしのみにて、晴天旬余におよびぬ。水道水切れのおそれありと云ふ。 正月廿六日。くもる。 正月廿七日。快晴。午後散歩。御成道文行堂にて狂歌若葉集を獲たり。金五円なり。 正月廿八日。夜松莚子の邸に招がる。岡池田川尻の三氏亦招がるゝこと例の如し。この夜寒気甚し。 正月廿九日。くもりて風なく、寒気甚し。午後散策。不在中川尻氏来訪せられしと云。 正月三十日。暁方より雪降り出で、薄暮にいたりて歇む。半輪の月雪を照し崖地の眺望甚佳し。 |