三月朔。細雨糸の如し。風暖にして花壇の土は軟に潤ひ、草の芽青きこと染めたる如し。 三月三日。午後より明治座惣ざらひなり。余寒の時節芝居小屋に出入するは余の恐るゝ所なり。されど幸にしてまだ風邪ひかず。 三月四日。明治座舞台稽古なり。帰途風月堂にて晩餐をなし家に帰る。疲労甚し。炉辺更に葡萄酒を傾けて寝に就く。 三月六日。晴天。昨夜明治座初日、二番目出揃ひに至らざりし故今日重ねて見に行きぬ。 三月八日。木村錦花明治座脚本礼金参百円持参す。夜有楽座に徃く。図らず大石冬牆君に逢ふ。 三月九日。蜀山人随筆?を閲読す。松莚子依頼の脚本資料を得むがためなり。夜九穂子と三十間堀に一酌す。春宵漸く暖なり。 三月十一日。曇りて風静なり。 三月十二日。春雨暖なり。満庭の草色碧きこと油の如し。案頭の桜草花既に落つ。 三月十六日。晩餐後明治座に赴く。松莚君令閨の鶉にて自作の狂言を見る。 三月十八日。此日彼岸の入にて風寒し。 三月二十日。西南の風烈しく塵埃烟の如し。夜に至り雨ふる。 三月二十一日。春分。天気晴朗。 三月廿二日。風月堂にて夕餉をなし、有楽座に立寄る。久米氏風労にて顔面いがみ元気なし。花月主人もこの頃持病に悩まさるといふ。 三月廿三日。雁来紅の種をまき、菊の根分をなす。晩風冷なり。木下杢太郎その全集第一巻を贈らる。 三月廿四日。晴天。母上鷲津貞?同道にて来訪せらる。倶に銀座の風月堂にて食事をなし、余は別れて木曜会に徃く。春月朦朧たり。 三月廿六日。寒風冬の如し。春陽堂店員歓楽?別本製本を持ち来る。 三月廿九日。春酣にして風猶寒し。松莚子に招がれて八新に飲む。 三月三十日。瑞香の花満開なり。夜外より帰来つて門を開くや、香風脉々として面を撲つ。俗塵を一洗し得たるの思あり。 |