江口聡
1.1. 『恐れとおののき』とアブラハムの物語
キェルケゴールが『恐れとおののき1 』を、自身の最高傑作と自負していたことはよく知られている。
私が死んでも、『恐れとおののき』だけで私の名を不滅にするに充分であろう。この本は広く読まれ、外国語に翻訳されるだろう。人々はこの本に込められた恐るべき情熱に震えるに違いない2。
日誌にこの一文が書き込まれた1849年は『恐れとおののき』出版の6年後、『死に至る病』が出版された年である。現在彼の主著とみなされるものがほとんど出版されたあとであるから、彼は『恐れとおののき』によほどの自信をもっていたと思われる。 しかし、この書の文学的価値は誰もが認めるものの、その哲学的・倫理学的意義が積極的に評価されることはまれである。その理由はなによりも、『恐れとおののき』のキャッチフレーズである「倫理的なものの目的論的停止」が受け入れがたいものに見えるためである。まずは、『恐れとおののき』のテーマとなった旧約聖書のアブラハムの物語を見ておくことにしよう。
『恐れとおののき』の主題は、創世記22章で描かれた、神と契約を結んだ族長アブラハムが、その息子イサクを生贄として神に捧げようとする物語である。
アブラハムは神から、彼の子孫は繁栄するであろうという約束を受けたが、子供に恵まれなかった。アブラハムもその妻サラも高齢であったため、誰もアブラハムに子供が生まれるとは信じていなかった。しかし、神の約束通り、イサクはアブラハムを与えられた。ところが神はアブラハムを試みて、モリアの山でイサクを燔祭として捧げよと命令を下した。アブラハムはその言葉どおり、三日をかけてモリアの山まで行き、そこでまさにイサクを殺そうとしたが、そのとき神の使いが再びあらわれ、アブラハムに子を殺してはならないと告げた。アブラハムが目をあげると、薮に角をかけた一頭の牡羊がいた。アブラハムはその羊をイサクのかわりに燔祭として捧げたのである。
この物語は、古代ユダヤ教における生贄の廃止の事情を表現したものだという合理的な説明がなされることがあるが、『恐れとおののき』の著者とされたヨハンネス・デ・シレンチオ3 は、このような解釈の可能性に興味を示さない。彼は物語を額面どおりに受けとめる。すなわち、アブラハムは信仰のために子供を殺そうとしたのだ、という。親は子供を守る倫理的義務を負う。ところがアブラハムは神の命令によってイサクを実際に殺そうとした。だがアブラハムは信仰の父と呼ばれ称賛されている。したがって、アブラハムは倫理的には殺人者であり、宗教的には聖なる行為を行なった、ということになる。このようなアブラハムの行為はまったく理解できないもの、すなわち逆説(Paradox)であり、アブラハムは不合理なもの(Absurd)によって信仰を持ったのだ、とヨハンネスは主張している。
ともに偽名で出版された『これか=あれか』や『不安の概念』、『死に至る病』などをキェルケゴール自身の思想の表明とみなす研究者たちも、『恐れとおののき』をキェルケゴール自身の思想であると考えることはない。それはもちろん、今述べたように、『恐れとおののき』の主張が極端で、リベラルな立場をとる研究者ならば、その思想に同意することを躊躇しなければならないようなものであるとみなされていることによる。信仰の名による子殺しを推賞するような立場をいったい誰がとることができるだろうか。そもそも「逆説」「不合理」を主張されては、我々は研究や批判を行なおうにも、手のつけようがない。そのために、ヨハンネスの直接の主張をくつがえし、『恐れとおののき』のなかに「より穏健な信仰の概念4」を見いだそうとする試みも多くなされてきた。またある研究者は、『恐れとおののき』はキェルケゴール自身の名前で出版されたのではなく、「沈黙のヨハンネス」の著作ということになっているのだから、キェルケゴール本人の思想とは程遠いものであり、単にヘーゲル哲学に対する攻撃として書かれたものである、したがって、『恐れとおののき』は『哲学的断片への結びの学問外れな後書』や日誌などのよりキェルケゴール本人の思想と近いと考えられる著作との連関においてとらえられるべきだと考える5 。
また、『恐れとおののき』を失敗作とみる研究者もいる。なかでも、キェルケゴールに対する否定的な態度で有名なブランシャードの論文は、キェルケゴールに対する読者の苛立ちを、ある面でよく表していると思われる。
結局キェルケゴールは、彼自身の人生と同じように、思想においても挫折者なのである。彼は、競争相手を非難し、返済できもしない約束手形で競争相手を仕事を買い取ることで、巨大会社を運営しようとしているビジネスマンのようなものだ。彼は理性を告訴し、また合理的な倫理学を告訴する。彼は人間的な愛と正義を告訴する。彼は、 彼のまわりで実践されているキリスト教を煽動的な侮蔑とともに起訴する。彼は皆を、偉大なる無限の約束と引き替えに、一方向へ導こうとする。しかし皆が要求を出すとき、銀行は空なのだ。・・・理性がどのように修正され、倫理学がどのように改変されるべきか、この重要な方向は、伝えられることがない。信仰は高く跳躍し、もはや思考と良心が呼吸できないような高さまで登ってしまったのだ6。
我々はこの書をどう評価するべきなのか。キェルケゴールがこのような問題の書を書いた理由を、彼の個人的な生活史から取り扱おうとする試みも少なくない。むしろ、キェルケゴールの個人史を語るなかでは欠くことのできない一冊となっている。ベック7 によれば、キェルケゴールの父親は、11才の頃に荒野で神を呪ったことがあった。のちに商人として成功した父親は、神を呪ったことを悔いて、子供たちには厳しい宗教教育をほどこした。なかんずくキェルケゴールには異常とも言えるほど、キリスト教の暗い面を強調した教育を行なった。キェルケゴールは、自分が父親によって神に対する生贄にされているのではないかと疑うことがあったという。キェルケゴールはアブラハムの物語に、自分と父親との関係を重ね合わせて見ていたのであるといわれる。また、有名なレギーネとの婚約破棄事件が濃く影を落としており、彼の婚約破棄の理由を第三者にはわからないような形で吐露しているのだということもしばしば指摘される。
このような心理学的・伝記的アプローチはキェルケゴールの著作の研究をする場合には、必要欠くべからざるもの、とされてきた。たしかに彼の生涯は、(彼の意図的な日誌の操作によって)興味深いものである。心理学的解釈もキェルケゴールがアブラハムの物語に執着する理由を、合理的に説明しているようにも見える。だがこのような伝記的アプローチで、ヨハンネスあるいはキェルケゴールの主張を合理化できたとして、いったいなにが説明できたのであろうか。『恐れとおののき』は不幸な生涯を送った一思想家の自己弁明にすぎないのか。これによって「倫理的なものの目的論的停止」や、アブラハムの物語の意味が明らかにされたのであろうか。また、キェルケゴールが『恐れとおののき』を書いたのは、彼の家庭事情という個人的な理由によるのであれば、我々はいったいなにを『恐れとおののき』から得ることができるのであろうか。我々はまず、ヨハンネスの主張は聞くに値するのかを率直に評価しなければならないと筆者は考える。 いったい何が逆説なのであろうか。我々は、信仰がいったいどんな意味で理性に反しているのかを問わねばならない。たしかにキェルケゴールがヨハンネスにそう語らせている箇所は存在する。たとえば、
さて私の狙いは、アブラハムの物語のうちにある弁証的なものを、いくつかの問題の形式で取り出して、信仰というものがいかに途方もない逆説であるかを知ろうというにある。つまり、殺人をさえ神の心にかなった神聖な行為とすることができるという逆説、イサクをアブラハムに返し与えるという逆説、この逆説は思惟のとらえるものではない。信仰とは、思惟の終るところ、まさにそこからはじまるものだからである(SV5, 50)。
本論では、倫理的なものという観点から、『恐れとおののき』の再評価を試みたい。はたして『恐れとおののき』はキェルケゴールの自己評価どおり傑作なのか、あるいは彼の単なる狂信的な信念を表明したものに過ぎないのか、自ら「信仰の騎士」たろうとする読者にしか理解できないものなのか。
まず主題であると思われる「倫理的なものの目的論的停止」の問題を、ヨハンネスとともに考えてみたい。ヨハンネスは言っている。
アブラハムの行動を倫理的に説明し、彼が息子に対する倫理的義務を停止することを倫理的に正当化することができながら、しかもそれによって倫理的なものの目的論を越えてでることのないような表現が見いだされはしないかどうかを、見てみたいと思う。(SV5, 53)我々自身がこれを試みねば、『恐れとおののき』が伝えようとしていることを十分にとらえることはできないと筆者は信じる。
さて、「信仰というものがいかに途方もない逆説であるか」を明らかにするための問題とは、「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか」「神に対する絶対的義務というものは存在するか」「アブラハムが彼の企図を、サラ、エリエゼル、イサクに黙して語らなかったのは、倫理的に責任を問われるべきことであったか」の三つである。
まずは当然、ヨハンネスが「倫理的なもの」と呼ぶものがどのようなものであるのかを同定しておかねばならないのだが、これがなかなか困難な作業になる。『恐れとおののき』では、直接に「倫理的義務」と呼ばれるのは「親は子供を守らねばならぬ」という一例だけであり、全体を見渡しても、「倫理的なもの」がどのようなものをさしているのか、そして、なにが「倫理的なもの」の根拠をなしているのかははっきりしない。我々はアブラハムは倫理的なものには属さないというヨハンネスの論述のなかから、「倫理的なもの」が何であるのかを推測しながら読みとっていかねばならない。これがまず読者を困惑させ混乱させる問題なのだ。
ヨハンネスによる、倫理的なものの直接的な規定は、各「問題」の冒頭におかれる1パラグラフだけである。問題1の冒頭では次のように言われる。
倫理的なものは、倫理的なものである以上、普遍的なものであり、普遍的なも のである以上、すべての人に妥当するものである。これを他の面から言いかえ ると、いついかなる瞬間にも妥当するもの、ということである。倫理的なもの は、自己自身のうちに内在的にとどまっており、自己の目的(telos)ともいう べきものをなんら自己の外に有せず、それ自身が、自己が自己の外に有するも の一切にとって目的である(SV5, 51)。
「倫理的なもの」は、他の場所(SV5, 63)で、「義務」と言いかえられる。義務が普遍的なものであるといえば、すぐにカントの倫理学が思い起こされるが、ここで早合点は禁物である。 ヨハンネスは、アブラハムと対比するために、アブラハムと表面的には似通ってはいるが、依然として倫理的に正当であるとみなされる人びととして、「悲劇的英雄」を引き合いに出す。直接に彼の「倫理的なもの」の規定が何であるかを知ることは難しいが、これらの悲劇的英雄に注目することで、ある程度彼の「倫理的なもの」のヒントがえられる。
ここでは、三人の「悲劇的英雄」があげられている。古代ギリシアでのアガメムノン8 、旧約聖書でのエフタ9 、古代ローマにおけるブルータスである。彼らは共通に、倫理的なもの領域のなかで自らの子供を犠牲にしたと言われる。
トロイに対するギリシア軍の遠征隊長であったアガメムノンの船団は、荒れ狂う嵐のために出航することができなかった。アガメムノンは占者によって、嵐を起こした女神の怒りは、彼の娘イピゲネイアを犠牲にすることによってのみ鎮められると伝えられた。アガメムノンは国家のために、不本意ながらもイピゲネイアを殺すに至った。旧約聖書において、戦いに勝って帰ったあかつきには、家の門から最初に自分を迎えにでてきた者を生贄として捧げると神に約束したエフタは、心ならずも自らの娘を捧げることになった。ブルータスは、国法を守るために、法に背いた自分の息子たちの処刑を命じた。
ブルータスの場合は息子たちは無実ではなく、エフタの場合は彼の神に対する誓いが無分別であるように見えるため、うまくアブラハムと対比することはできないように思われる。しかし、アガメムノンの例は娘がまったく無実であり、またわれわれには残酷に見える神託が下されたという点でもよくアブラハムの事例と似ている。実際にヨハンネスがもっとも分析する魅力を感じているのもアガメムノンのケースなのだ。
さて、これらの悲劇的英雄の行動に共通に見られる特徴は、彼らが共同体のなかで高い地位にあるということ、そして、危機的な状況に面して、彼らは、私的な利害より公共の利益を目指した、ということである。個人より上位にあるもの、すなわち共同体、民族、国家のために、自らと子供たちを犠牲にしたのだ。
もちろん、我々にとっては、アガメムノンの行動を、無条件に肯定することは難しく感じられる。アガメムノンは、理由はどうあれ、無実の者を殺すという残酷な行為を行なったのではないだろうか。たとえば、このアガメムノンの物語がギリシアの神話や悲劇として残されるほど強烈な印象を当時の人間に与えたのは、彼の行為が偉大であったからというよりは、まさしく彼の行為が不正で残酷なものであったためだ、というような解釈もありえよう10 。だが、ヨハンネスにとって、アガメムノンの行動を正しいと評価することは自明であった。「およそ心の高貴な人なら、彼らの苦痛に対する同情の涙を、彼らの行為に対する賛嘆の涙を流さぬものは、この世に一人もないであろう。(SV5, 55)」ヨハンネスにとって倫理的なものとは、説明を要さないほど自明であったのだ。しかしなぜそれほど自明と言えるのと我々は問いたくなる。だがこの自明であるとする彼の態度が、若干のヒントとなるのではなかろうか。
ヨハンネスの用いる「倫理的なもの」の規定に近いと筆者が考えるものが、『恐れとおののき』に先立つ『これか=あれか』でヴィルヘルム判事によって提示されている。ヴィルヘルムは、倫理的なものが普遍的なものであるということに関して、次のように述べている。
・・・倫理的なものについては、外面的なものではなく、内面的なものが問題 なのだ。しかし、いかに外面的なものが変化させられようと、行為の道徳的価 値はそのままである。それゆえ、子供は自分の良心を憎むべきだと信じた民族 はなかった。しかし、懐疑の材料を提供するために次のような例があげられる かもしれない。あらゆる文明的な国民は、自分の親の面倒を見ることを子供の 義務であるとみなすが、未開人は年老いた両親を死に追いやるという習俗を実 践している、と。これはそのとおりなのであろうが、それによっては何も進ま ない、なぜなら、未開人がそれによって、何か邪悪なことをしようとしている のかという問題が残っているからである。倫理的なものはいつでもこの意識に 存しており、不十分な理解に責任があるかどうかは、別の問題である (SV2, 245)。
ここでは、我々のもつ道徳的信念が、「どの文化圏でも、またどの時代にも一般に認められている」という意味で道徳の普遍性が主張されている。なぜ我々がこのような普遍的道徳的感情をもつのかに関する根拠づけはさまざまであろうが、ヴィルヘルム判事にとっても、ヨハンネスにとっても、一般的な道徳が成立していることは自明だったのである。つまり、筆者の読みでは、ヨハンネスのいう「倫理的なもの」は、個々人のもつ格率や原則ではなく、すでに共同体において皆から現に認められているような客観的原則なのである。アガメムノンの物語を我々が悲劇として理解可能であるのは、我々もまたアガメムノンに課せられた義務を、なかば自明のものとして、直観的に理解できるからなのだ。
またこのような道徳的義務が、全体的に見て、共同体の福祉を目指すものであることも、それほど論を必要としないであろう。このような法や習俗など、客観的に規定された原則を遵守することを倫理的であることの条件であると考えたのは、近代ではやはりヘーゲルである。おおまかに言えば、ヘーゲルの体系では、正しい行為とは社会の福祉に貢献するような行為であった。たとえば、父親が息子や娘に対して一定の義務を負うのは、家族という共同体が、個人に対して「普遍的なもの」としてあるためである。同様に、家族の集合体である民族は、家族より普遍的なものであるから、その福祉が目指されるべきなのである。個人は、普遍的なものとしての共同体の意志が設定されれば、各人の個別性を放棄して、普遍的なものを自ら体現しなければならない、とされる。「倫理的なもの」は、実際に共同体の成員が認めているところのものなのである。
さて、一応のところ、ヨハンネスの言う倫理的なものとは、習俗や法などの既成道徳であるという特徴をつかまえた上で、アブラハムの物語に含まれていると言われる「倫理的なものの目的論的停止en teleologisk Suspension af det Ethiske」を考えてみよう。
まず「停止Suspension」とはどのような意味であろうか。「停止」の指すものについては、先のアガメムノンの例を考えれば分かりやすい。「自分の子供を守る」すなわち家族の安寧を図る、という義務は、通常、普遍的に妥当するものであり、いついかなる時にも守られるべき倫理的義務であるとみなされる。しかしまた、国家の福祉を考えることもアガメムノンの義務であった。特に彼は国家の長たるものとして、他の人以上にこの義務を遂行せねばならない。どちらも一応、さまざまな文化で共通に見られる義務であると言うことができるだろう。ところが、アガメムノンの特殊な状況では、父としての義務と、長としての義務が衝突してしまった。このように、時には複数の倫理的義務が互いに葛藤する状況がありうる。そこで、アガメムノンは、国家に対する義務を娘に対する義務よりも優先した。ヨハンネスの言葉によれば、アガメムノンは、「娘と父とのあいだの倫理的関係を・・・一種の感情に引き下げている。」通常負っている娘に対する義務は、この状況ではもはや義務ではなく、単なる娘に対する愛情と哀惜に姿を変えるのである。しかし感情へと引き下げられた義務も、放棄されたのではない。アガメムノンの特殊な状況ではいったん「停止」されることになったが、娘への義務もまた普遍的である。その特殊な状況が解決されれば、再び普遍的なものとして効力をもつのである。これが義務の「放棄」ではなく「停止」と呼ばれる理由である。アガメムノンは倫理的義務の一つを停止したのである。
もっとも、アガメムノンのケースでは、国家に対する義務を娘に対する義務よりも優先するという彼の判断自体が、共同体に認められうるものであった。むしろ、それが共同体全体の意志であったといえる。それゆえ共同体の誰もがアガメムノンの判断は正当であると認めることができたし、また犠牲者であるイピゲネイア本人も、自らの不幸を嘆き悲しむが、最終的には自ら犠牲を望むに至る。アガメムノンのような状況で、国家の長たる者が、娘に対する義務よりも国家に対する義務を優先することは、むしろあらかじめ「倫理的なもの」の原則に組み込まれていたのである。それゆえアガメムノンは娘を自らの手で犠牲にしながらも、「倫理的なものの領域内にいる」といわれる。アガメムノンはひとつの倫理的義務を別の倫理的義務に優先したのであり、そしてこの行為もまた倫理的であったといえる。
これに対して、アブラハムがイサクを生贄にしようとしたのは、悲劇的英雄たちのように、共同体の幸福を目指してのことではない。イサクを犠牲にすることによって、民族の安全が保証されるわけでも、国家が危機から脱出するわけでもない。彼はただ自らの信仰のためにあの行為をなしたのである。したがって、アブラハムは倫理的なもの(倫理的義務)となんらかかわりをもたないと言われる(SV5, 55)。アガメムノンが倫理的なもののためにもう一つの倫理的義務を停止したのに対し、アブラハムが行なったことは、倫理的なものそのものの停止だったのだ。
「個人的信仰のために、息子を生贄にせよ」というような原則を含む既成道徳は考えがたい。アブラハムの行為にある種の「倫理的なものの停止」が含まれていることは、「倫理的なもの」が既成の法や道徳を指すならば、当然認められねばならないだろう。
ただし、次のことは注意しておかねばならない。たしかに、アブラハムが自分の「利益」のためにイサクを殺そうとしたのであれば、彼に非があることは否定できないであろう。たとえば、自分が富を得るために、子供をいけにえにしようとしたのであれば、誰もアブラハムが(「宗教的」にせよ)正当化されるべきだとは考えないだろう。それは、たとえばアガメムノンが、単に私利を得るため、あるいは世間的な名声を得るためだけに、イピゲネイアを殺害しようとしたら、おそらく非難されることになるのと同様である。だがアブラハムが自己の単なる欲望を満足させたり、私利を得たりするためにイサクを殺そうとしてたのではないことも、また明らかなのではなかろうか。
そこで、アブラハムの行為が、「目的論的」停止、すなわちより高い目的のための停止であると呼ばれるためには、神に対する特殊な義務というものが考えられねばならない。そして、この神に対する義務は、非倫理的義務でなければならない。神に対する義務が、倫理的義務であれば、アブラハムのケースはアガメムノンのケースとなんらかわらないことになってしまうからである。したがって、ヨハンネスの問題1「倫理的なものの目的論的停止は存在するか」は、問題2「神に対する絶対的義務は存在するか」に依存するのである。
上では「倫理的なもの」は、一応、既成道徳による義務であると規定した。そのような義務は、一般的な原則として、誰にでも妥当するようなものであった。さらに、どのような文化でも見られるものである。一般的な道徳律は、このような意味で普遍的であり、それゆえ「神的なもの」と呼ばれることもある。それでは、「人は神にしたがうべきである」というような義務もまた、普遍的な義務ではないのか。もし「神にしたがえ」が倫理的義務であるとみなされれば、アブラハムの物語には「倫理的なものの目的論的停止」は含まれていないことになるのではないだろうか。
たとえば、普遍的な義務として、「盗むな」という戒律は誰にでも妥当するようなものである。すでに既成のものとなった道徳においては、このような戒律や義務は、それが神からの命令であるから、あるいはそれは神聖なものであるから、という説明がなされることがある。このような意味での「神からの命令」は、抽象的に神を道徳の根拠として用いているに過ぎない。もしこれが神の命令であると言えるとしたら、それは人間全体に対する命令なのである。
ところが、アブラハムのケースでは、「イサクをささげよ」という神の命令は、ただアブラハムただ一人だけに個別に下されたものである。それは、族長としてのアブラハムや、父親としてのアブラハムではなく、アブラハムがアブラハムであるがゆえに下されたのであり、また、あの時一回かぎりで与えられたのだ。
このような特殊なケースに対する導きは、神から直接に啓示が下ることは通常ありえないために、一般的な道徳には含まれていない。また、神の直接の命令にしたがうことは、共同体の福祉にも貢献しない。このような事情から、ヨハンネスは、神に対する義務は普遍的(一般的)ではありえず、もし神に対する直接の義務というものがあるとしたら、それは倫理的義務ではないと結論したのだと考えることができる。
だが、神に対する義務があるとするならば、それはまったく理解不可能なのであろうか。また、神からの命令が試練であるがために、イサクを捧げるのだ、というアブラハムの意図は、それほど理解不可能であるだろうか。
神に対する義務が、誰にでも(つまり信仰の騎士ではない人間にとっても)妥当するものではないことはうなずける。そもそも、一人の人間が、神と直接の関係をもつことが可能であるということすら、信仰をもたない人間には信じられないことであろう。「おれは神から直接の命令を受けたのだ」というような理由で、一般的な道徳的義務を停止しようとする者がいたとしたら、疑いの目で見られることは当然である。
しかし、アブラハムのおかれた状況を十分に知った人ならば、アブラハムの行動を承認できるのではないか。イサクがアブラハムのおかれた状況を知るならば、彼はイピゲネイア同様、犠牲になることを認めることはありえないだろうか。少なくとも、アブラハム同様の「信仰の騎士」であれば、「試練」という形で神から信じられないような命令が下ること、そして、アブラハムが神に対する絶対的義務、すなわち他のあらゆる義務に優先するような特殊な義務を感じたということを理解し、彼の行動に同意するのではないだろうか。ところが、ヨハンネスの主張は、このような当然の解釈に反対しているように見える。
個別者は、同じ境遇にある他の個別者にならば、自分を理解させることができると想像されるかもしれない。今日のように、あの手この手と狡知を働かせて、偉大なもののなかに忍び込もうと試みられることがなかったならば、そういう考えは思いつかれもしなかったであろう。一人の信仰の騎士は、他の信仰の騎士を助けることはできない。(SV5, 66)
というのは、「アブラハムは語ることができない」からである。
神に対する義務が道徳的に理解可能であるかという問題に答える前に、問題3「アブラハムがサラ、エリエゼル、イサクに自分の意図を黙して語らなかったことは、倫理的に責任を負わねばならないか」を見てみたい。ここにヨハンネスのとった倫理観の特徴があらわれていると思われるからである。
「問題3」では、倫理的なものとは、明らかなもの(det Aabenbare)であり、アブラハムは彼の意図を家族に語らなかったことがすでに、倫理的には非とされねばならないという。ここが彼の倫理的なものの規定でもっとも分かりにくいところである。ここで再び、ヨハンネスの「倫理的なもの」の規定を考えてみなければならない。なぜ倫理的であるためには自分の意図を明らかにしなければならないのか?
これについては次のような解釈が可能であろう。たとえばアガメムノンのように、既成道徳の一部を一時的にせよ停止しなければならない状況におかれた人間は、自分の意図を明らかにしなければならない。なぜなら、そのようなときに、我々は「なぜそのようなことをするのですか」あるいは、「なぜあんなことをしたのですか」と尋ねるからだ。たとえば、もしアガメムノンが彼の状況や意図を、他人に意図的に隠しつつ、イピゲネイアを殺そうとするならば、だれもアガメムノンの行動を理解することはできなくなる。そしたがって、倫理的であるためには、少なくとも自分の意図を明らかにすることができることが条件になる。
ところが、アブラハムは語ることができなかったとヨハンネスは言う。このテーゼは、『恐れとおののき』でくりかえし語られている。
アブラハムは媒介されえない。このことはまた、アブラハムは語ることができない、というふうに言い表すことができる。私が語るや否や、私は普遍的なものを言い表すのである。そして私が語らないならば、誰も私を理解することはできない。そこでアブラハムが普遍的なものにおいて自己を表現しようとするや否や、彼の立場は試みである、と彼は言わざるをえない。彼が踏み越える普遍的なものの上にあるような普遍的なものを表すこれ以上の高い表現を彼はもたないからである。(SV5, 56)
ヨハンネスの語り口は、一見ヘーゲルの「個物は語られない」というテーゼを信奉しているように見える。我々が個物に言及する場合には、もちろん言語を用いなければならない。しかし言語は本質的に普遍的なものであるために、個物に言及する際にも、それを普遍的なものによって媒介してしまう。したがって、個物そのものを語ることはできない、というわけだ。そのために、アブラハムは自分に下された命令と、自分のおかれた状況を、人に語ることができないと主張しているように見える。
ここには広範な哲学的問題がからんでいるために、簡単に取り扱うことはできない。ただこの解釈には無理があることを指摘しておくにとどめる。もし、個別のものは理論的に語ることができないということがヨハンネスの主張であるならば、ヨハンネスや我々がアブラハムについて語ること自体はどうなるのであろうか。そもそもアブラハムについて『恐れとおののき』を書くことすらできなかったはずではないか。また、ヨハンネスに与えられた命令は、誰にも理解できないような形で下されたのだ、という解釈も無理であろう。この場合にも、ヨハンネスが、アブラハムは神からの命を受け云々、といった言説を行なうことすら不可能になってしまうのではないだろうか。我々は神の命令がアブラハムただ一人に秘密の方法で下ったために、アブラハムは語れないのだ、という解釈は受け入れられない11 。
しかし、当然別の解釈も可能であろう。ヨハンネスは次のように言っている。「アブラハムは沈黙を守る----しかし彼は語ることができないのである。この点に、苦悩と不安がある、すなわち、私が、語ることによって、私を人に理解させることができないとき、たとえ私が明けても暮れても間断なく語ったにしても、私は語っているのではない、これがアブラハムの場合なのである(SV5, 102)。」
このような意味でなら、ヨハンネスの「信仰の騎士は助け合うことはできない」という考え方は理解できるものになる。ある人に神から直接の啓示が下ったかどうかは、その人自身しか判断することができない。いかに信仰の騎士であろうとも、他人の受けた啓示が本物かどうかをどのようにして判断するのか。アブラハムが理論的には彼の状況や意図を伝達することが可能であるとしても、実際には自分が神からの啓示を受けたと他の人びとに伝えることは非常に困難であることは想像に難くない。また、仮に啓示のなんらかの客観的規準があったとしても、神からの命令が直接本人にのみ下るのであれば、それが本物かどうかは、実際には本人しか知りえないであろう。したがって、「アブラハムは語ることができない」というヨハンネスの主張は、現実の伝達の困難に関するものであると解釈してよかろう。そうであれば、アブラハムが神の直接の命令にしたがう決断をなしたことは、少なくとも信仰の騎士にとっては正当な行為とみなされる可能性はあるが、実際に誰かの同意をえることは非常に困難であった、ということになる。
アブラハムの状況が特殊で、実際にそれを人に十分説明することが困難であるために、アブラハムは語ることができなかった。だが、ある人間の意図が、他の人びとに明らかにされがたいからというだけで、その行為の正当さが影響を受けるとは考えにくい。状況が十分に知られれば、同意をえることができるはずであるとみなすことができれば、それで十分なのではないだろうか。もしそうであるならば、神に対する義務は倫理的に理解可能であることになるのではないか。
このように考えることができるとすると、ヨハンネスの前提はやはり奇妙であると思われる。実際の伝達の困難さによって、アブラハムは倫理的には非難されるべきであると結論できるとすれば、ヨハンネスの言う倫理に行動するということは、もはや、実際に社会の同意を得て行動するということと、まったく同じことになってしまう。たとえば、アガメムノンが自分の意図を物理的に(たとえば時間不足や身体の損傷などで)語ることができなかった、というようなケースを考えてみれば、伝達が実際に行なわれるかどうかということが、倫理的であるかどうかの規準になるという前提の奇妙さがよくわかるであろう。
これはまったく奇妙であるように思えるが、とにかく先に進んでみよう。
神に対する個別的な義務が理解可能であるとしても、依然としてアブラハムの状況が困難であることは理解できる。子供を殺すことは、それがいかに神からの命令であるとはいえ、我々のもっている道徳感情に反している。アガメムノンの状況でさえ、ふつうの人びとにとっては、十分に困難であった。熟慮の末に、娘を犠牲にするべきだと判断されたとしても、それを実行するためには、多大な精神的エネルギーが要求される。それゆえアガメムノンは英雄なのだ。ただしアガメムノンには「倫理的なもの」の助けがある。制度化された道徳は、制約として働くこともあるが、広い目で見るならば、我々の行動を導くよい手助けになっている。また、我々は道徳的困難に出会うとき、他人の(あるいは人によっては神の)助言や助力を求める。正しいと判断できても、自分一人では成し遂げられないと感じられることが、他の人びとの自分の意図への同意によって可能になることは、我々が日常的に経験していることではないだろうか。アガメムノンは、これらの「倫理的なもの」「普遍的なもの」に助けられることによって、彼の困難な状況を生き抜くことができたのである。それに対して、信仰の騎士アブラハムの状況は一層困難である。アブラハムには既成の道徳による導きは一切与えられていなかった。さらに、他人の助けや判断を期待することもできない。したがってアブラハムの状況は、アガメムノンの状況より苦悩に満ちたものであった。ここにヨハンネスのポイントがあることは理解できる。
ここまでの議論をまとめてみよう。アブラハムの物語には「倫理的なものの目的論的停止」が含まれていると主張されるのは、ヨハンネスの「倫理的なもの」の前提が狭すぎることにその理由があるようだ。彼の「倫理的なもの」は、それが既成の一般的なものであるがゆえに、アブラハムのような特殊なケースにおいてはまったく無力である。なぜなら、神から命令を受けた時点で、アブラハムは既成の道徳と神の命令のどちらをとるべきかという問題に直面したのでありから、再び既成の道徳に頼ることはできなかったからである。アブラハムには、彼の行為や判断のよりどころとなる、あらかじめ定められたルールはなかった。それゆえ彼は新たな原則を作らねばならなかったのである。そこでは確かに通常の道徳的原則が停止されるようなことになりうるが、この地点ではそもそも、通常の道徳によっては彼の行動を評価することはできないのである。
そこで、アブラハムは共同体の同意をとりうるか、という点だけにポイントを絞ってみると、アブラハムに与えられた神からの命令が、信じ難いものであったために、彼は自分のおかれた状況と、彼の意図を他の人びとに語ることが困難であったと思われる。それゆえアブラハムには実際の社会的正当化の道が閉ざされている。それゆえ彼はほとんど誰にも実際の同意を期待できないような状況で、自らの正しいと信じた行為を行なわねばならなかった。熟慮の結果アブラハムがなした決断は、「信仰を既成道徳に優先させる」というものであった。それゆえにアブラハムは「信仰の騎士」なのだ。ここにアブラハムの苦悩がある。イサクを犠牲にせよという命令が、試練であるのは、たんに一般的な道徳に反するだけでなく、自分の愛する一人息子を殺さねばならないからである。そしてこれは、神との私的な関係によって正当化されることがあるとしても、恐ろしいこと(det Forfærdige)であることにかわりはない。
また、既成の道徳や、思弁哲学に基礎づけられた倫理と、信仰が背反する場合がある、というヨハンネスの主張も、神から直接の命令がありうること、実際アブラハムにそのような命令が下ったことが確かならば、妥当であるとみなさねばなるまい。またたとえばルカ伝14章24節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」を文字通り読む(SV5, 66)かぎりそうなる。
ところが、このように結論できるとするならば、『恐れとおののき』の「信仰は反理性・不合理である」というテーゼは、ごく限られた意味であることが分かる。確かに、一見、先行するアブラハムとの約束と矛盾しているように見える神の命令を、真に神からのものであると判断するのは、ほとんど不合理にさえ見える。しかし、アブラハムに下された命令がほんとうに神のものであったと前提するならば、他にアブラハムの行動に「理性に反する」ものは見あたらない。
ここで我々は当惑してしまう。この議論はいったいどういう意義をもつのか。ヨハンネスの議論はあまりにも奇妙であると思われる。ヨハンネスは「目的論的停止」を主張しながら、結局アブラハムが正当かどうかさえ論じていないのである。
まず、ヨハンネスの倫理的なものの規定自体、条件つきで提出されているに過ぎない。三つの問題はそれぞれ、「倫理的なものは普遍的なものである」ではじまり、次のパラグラフで「もしこのことが正しければ」と論述がはじまる。ではヨハンネス本人のほんとうの倫理観はどのようなものなのか。つまりヨハンネスは、アブラハムがいかに行為すべきであったと考えているのか、という問題が提出されるのは当然のことであろう。
そして、アブラハムのケースは、あまりにも特殊すぎる。神の直接の命令と、既成の道徳とが葛藤するような状況におかれたのは、アブラハムただ一人の個人的問題である。そのときに、アブラハムが苦悩と不安にみまわれたであろうことも理解できる。しかし、いったい、アブラハム以外の誰が神と個人的な関係を結ぶことができるというのであろうか。確かに、一人の身に起こったことは誰の身にも起こりうる。しかし上のような議論の進み方では、「それではいったいどうしたら神と直接話し合うことができるのですか」などという問いを発したくなる12 。そしてもちろん、『恐れとおののき』にはそれに対する解答はない。
それとも、『恐れとおののき』全体は、「もし倫理的なものに関するヘーゲルの規定が正しければアブラハムは正当化されない。しかし、アブラハムは正当である。したがってヘーゲルは誤っている。」という後件否定の議論に過ぎないのであろうか。『恐れとおののき』が、法や習俗による「個と普遍の統一」を説くヘーゲルへの攻撃の第一弾であったことは、研究者によってしばしば指摘されることだ。しかしそれならば、キェルケゴールは正面から勝負するべきだったのではないか?そのような議論を行なうためには、アブラハムの正当化を行なわねばならないはずだ。しかしこれも『恐れとおののき』には見あたらない。むしろ彼は、アブラハムを十分に理解しながら、不十分な倫理的なものの規定をとることによって、アブラハムを正当化する可能性を避けているようにさえ見える。
ここで我々は、アブラハムを評価することが『恐れとおののき』のテーマであるのだろうかと疑わずにはいられない。
研究者によってほとんど問題にされたことはないが、注意深い読者は、テクストにはアブラハムの「苦難Nød」「苦悩Qval」「不安Angst」については実に饒舌に語られているが、「恐れFrygt」と「おののきBæven」という言葉は、ほとんど用いられていないことに気づくであろう。ここに「沈黙のヨハンネス」自身の「沈黙」があると見るのは読み込みすぎではないだろう。
これを手がかりに新たな問題を立て直して、『恐れとおののき』全体を見渡してみよう。恐れとおののきを感じるのは誰なのだろうか。アブラハムだろうか?おそらくそうだろう。そして、もちろん、ヨハンネス本人でもあるのだろう。「アブラハムの物語を一言一句残らず暗記したという人は数え切れぬほどあった、しかしこの物語のために眠れなくなったという者が幾人あったろうか?(SV5, 28)」
しかし何に対して?ヨハンネスは自分がアブラハムの状況におかれるかもしれないという恐れに悩んでいたのか?彼が実際にアブラハムの状況におかれることなどありそうもないことではないか。あれはアブラハムの一回かぎりの個別的事件ではなかったのか?彼自身が自覚しているように、単なる神経衰弱か不眠症にかかっているのではないのか?あるいは彼の家庭事情がこの物語に固着する原因なのか?それは読者とどんな関係にあるのか。あるいは「アウトサイダー」にしか理解できないような、人間の内奥の秘められた苦悩を表現しているのか?筆者のように宗教的センスのない人間は、次のように言うかもしれない。「ねえ、ヨハンネスさん、そんな滅多にないことを、いま考えていても仕方ないのではないですか。あれはアブラハムの物語で、あなたの物語ではないのです。あなたが信仰を持とうとしているとしても、アブラハムのような目にはあうことはないでしょう。いまあなたは神様からあんなことを要求されたわけではないのですから、安心して寝てください。もし子供を殺せという命令がくだってしまったら、そのときに考えたらいいでしょう。だいたい、あなたはまだ独身ではないですか。それとも、よいお医者さんでも紹介しましょうか?」
ヨハンネスの真意と、彼自身の倫理観すなわち「人はいかに判断し行為するべきかべきか」という問いに対する考え方を探るために、ここで問題1−3に先行する予備的陳述13 に戻ってみなければならない。筆者はここで、単なる挿話のように見える、「悲劇的で喜劇的な(SV5, 28)」説教師と男の話に注目したい。
平凡な牧師も、アブラハムの物語を用いて説教し、アブラハムを称賛することができるだろう。「アブラハムは最善のものさえ捧げようとしたことは、偉大なことであった」というように。だが、その場に不眠症の男がいあわせてしまえば、恐ろしく、悲劇的で喜劇的な誤解が起こりかねない。つまり、その男はアブラハムの物語に感動し、家に帰りつくなり、最善のもの、すなわち自らの子供を神にささげようとするかもしれない。件の牧師がその場を通りかかったら、もちろん彼は威厳をふりしぼって男を非難するにちがいない。そして自分の怒りの真剣さと、自分の口調の激しさに、アブラハムの物語を語ったときには覚えなかった感動を覚え、喜ばしく感じるであろう。「私はひとかどの説教者なのだ。」と。だが、あわれな男が、「これはまさしくあなた自身が日曜日に説教したことです」と答えたら、いったいどうなることであろうか、とヨハンネスは言う。
ヨハンネスの矛先は、説教師の「矛盾」に向けられている。ヨハンネスは、このエピソードのあとでこう語っている。
この説教者の陥ったような矛盾はどう説明すればよいのであろうか?アブラハムは偉大な人であるということになってしまっているのであるから、彼のすることなら何でも偉大であるが、他の人間なら同じことをしても、それは罪であり、天人ともに許さぬ罪である、とでも説明すべきであろうか?それなら、私はそんなあさはかな賛辞に与しようなどとは望まない。ことによると、自分の考えを貫くだけの勇気が、つまり、アブラハムは人殺しだった、と言い切るだけの勇気が、ないのかもしれない(SV5, 29)。
説教師のどこに滑稽なところがあるのかはまったく自明だが、肝要な箇所であると思われるので、すこし詳細に見ておく。まず、あの説教者は、イサクを「最善のもの」と呼ぶことによって、イサクが一人の人間、それもアブラハムのただ一人の息子であることを忘れてしまっているのかもしれない、とこの文章の前で語られている。確かにイサクは、「最善のもの」であるのだろう。だが、何度も述べてきたように、アブラハムの行為は、客観的には、息子を殺そうとした、ということなのだ。いかに正当な子殺しであろうと、子殺しは子殺しである。
さて、ある人間が称賛されるのは、その人がその人であるからであるとか、あるいは、その人が偶然手に入れたなにか、あるいは生まれつき持っている何かがすばらしいものであるから、という理由であるはずがない。「たまたま私の身に起こることが私を偉大にするのではなく、私の行なうことが私を偉大にするのだ(SV5, 59)。」
したがって、アブラハムが偉大であるのは、アブラハムのなしたことがすばらしいものであったからである。もちろん、アブラハムの行動が称賛されるのは、それがアブラハムの行動であるからという理由であるはずもない。つまり、我々がある人を称えるならば、その人の一回かぎりの個別的な行為を称えるわけにはいかず、同じような行為であればすべて称賛しなければならない。アブラハムを、彼が自分の息子を殺そうとしたことによって偉大であると評価するのならば、同様に子供を殺そうとした男もまた偉大であると評価しなければならないはずだ。
もう一つ肝心なのは、称賛するということは、それと同じことを(物理的・心理的に可能であるかぎり)しろ、という命令を含んでいるということである。 「アブラハムがとるに足りない人物、架空の人物であり、うさばらしのための飾り物でないならば、あの哀れな男がアブラハムのまねをしようとしたことに、誤りがあるはずがない。」のだ。このことは、牧師がアブラハムを称えるということがどういうことを意味しているかを考えればよくわかるだろう。あの不眠症の男が、子供を殺そうとしたのは、牧師の称賛の言葉が命令として働いているからなのである。不眠症の男は、牧師の言葉を正しく理解している。だからヨハンネスは不眠症の男に共感的なのである。
さて、アブラハムは偉大であると判断し語るのならば、同じことを誰もがするべきなのであるから、同様の状況に自分がおかれたら、自分もまたアブラハムのように行動することを認めなければおかしい。さらには、自分がどの立場(アブラハムの立場であろうと、イサクの立場であろうと、あるいは他の人の立場であろうと)アブラハムの行為は正しいと認める覚悟があるはずだ。そうでなければ、その判断はまがいものに過ぎないといえるだろう14。
もしこういった覚悟をもたずに、アブラハムは偉大であると語るのであれば、その言葉は不誠実なものと言えるだろう。このような不誠実な判断を下す人は、一般にはアブラハムは偉大であるということになっているのだから、称賛しておこうといったふうに称えているだけで、自分の判断に責任をもっていないのである。これでは、もはやオウムが人間の言葉をまねているのと同様だ。ただ人の言うことをまねるだけのオウムであるよりは、アブラハムは人殺しであると正直に語るべきなのだ。
このことを理解すると、簡単に「アブラハムは偉大であった」とは言い難くなる。いまあれやこれやとアブラハムについて「語る」こと、すなわちアブラハムを評価しようとすることが、アブラハムの状況におかれてしまったときの覚悟を今すぐに要求することになる。「この物語は、当時の事情にもとづいてみると、まったくちがったものであった、とでもいうなら、それなら、アブラハムのことなど忘れてしまおうではないか。だって現在のものとなりえないような過去のこと(det Forbigangne)など追憶してみたところで、何の骨折りがいがあるだろう。」といわれる。アブラハムを称えることは、いまその人の行為を導くものでなければならない。すなわち、アブラハムの状況に追い込まれたときに、アブラハムと同様に行為することを今現在覚悟していなければならないのである。アブラハムを称えるならば、それはアブラハムを評価することによって、我々は過去のことを、現在のこととして受けとめねばならないのだ。
アブラハムの状況はまったく特殊な状況であった。自らの子供を生贄にせよ、というような異常な命令を受けたのは、アブラハムただ一人に過ぎない。このような状況におかれることなどは、宗教的な人間でも、ほとんどありそうにない。ところが、アブラハムを称えるには、自分がその立場におかれた時にはアブラハムと同様の判断を下す、という覚悟が必要である。アブラハムの苦境を思い起こそう。一見矛盾した神からの命令を前にし、誰にも理解されず、自分のもっとも愛する息子を殺さねばならない。信仰の騎士であることによって、正当化が見込めるとしても、それによって子供に対する愛情が和らげられるわけではない。社会的な是認を得られることは見込めない。「子供を殺すことは残虐な行為である」という我々のもつ強く一般的な道徳感情に踏みにじらねばならない。さらに、自分がイサクの立場におかれ、父によって神への生贄とされることも覚悟していなければおかしい。アブラハムについて語ろうとするならば、我々は今すぐに、自分がそれほどまでに強い覚悟をもつことができるであろうかと問わねばならない。誠実にアブラハムを称えることは、これほどまでに強い要求を我々につきつけるのだ。
ヨハンネスは、アブラハムが理解できない逆説であると何度も語った。「信仰は途方もない逆説である」「アブラハムを理解することはわたしにはできない。ある意味においては、私は驚嘆することしか彼から学ぶことができない。」「誰がアブラハムを理解することができるだろう?」『恐れとおののき』でくりかえされるこれらの言葉は、アブラハムの状況を理解できないとか、アブラハムの意図が理解できない、という意味ではないのだ。そのようなことはヨハンネスはすでに十分に理解していた。
アブラハムを理解できないと彼が語るのは、自分はアブラハムの状況にはたえられないであろう、信仰を道徳よりも優先し、孤独な戦いを行なう力が自分にはない、アブラハムのように決断することは自分には不可能である、と感じられるということなのである。信仰の騎士ではないヨハンネスには、アブラハムの勇気と情熱が足りないのだ。もはやヨハンネスはほんとうの意味でアブラハムを称えることができない。「逆説」や「不合理なもの」は、論理的矛盾や、倫理的正当化の不可能を指すものではないのだ。
2章の最後で質問したセンスのない人間に、ヨハンネスはおそらくこう答えるだろう。「うん、僕がアブラハムと同じ苦境におかれることなどないだろう。別に今僕が困った状況にあるわけでもない。しかし、今僕は信仰はもっていないのだが、信仰をもつことがすばらしいことだということは信じている。きっとアブラハムは偉大なことを行なったのだ。けれども、僕はアブラハムと同じように行動することはできそうにないのだ。僕だったら、あんな状況で信仰をもち続けることはできそうにない。それでは僕はアブラハムを称えるべきなのか、そうではないのか。それを考えるとやっぱり眠れないよ。この前の日曜日に説教していた牧師は、どうしてあんなに平気でアブラハムを称えることができたのだろう?」
以上のポイントに注目して、もう一度ヨハンネスの問題の解釈を試みてみよう。
前にも述べたように、ヨハンネスの「倫理的なもの」つまり既成の道徳体系では、アブラハムのような特殊な状況を導くことができない。というのは、アブラハムが、既成の道徳に反してイサクを神に捧げるべきか、という問いに直面したときには、「子供を殺してはならない」という原則自体が問われているのであるから、この原則自体にに頼ることはできないのである。アブラハムは道徳と信仰のどちらを優先するかという高次の原則を新たに立てねばならなかった。アブラハムによって、信仰の騎士は信仰を優先する、という既成の原則が一応できたことになる。この原則は、一応、キリスト教内部においては、既成の原則になったわけである。だから、先の牧師は、「アブラハムは偉大であった」と口先だけにせよ、評価することができる。しかしこれだけでは、ほんとうの意味での評価ではないことは、すでに述べた。それではそれを評価する我々は、いかなる原則に頼ることができるのか。
ここでも我々は選択の問題に直面することになる。信仰をとるならば、我が子を神に捧げることを認めることになる。そして、既成道徳をとるならば、アブラハムを称賛することはできない。そしてこのどちらを選ぶのか、つまり、信仰をもちアブラハムを称えるのか、あるいは既成道徳の立場にたち、アブラハムは殺人者であると判断するべきなのか、という原則は、やはり、我々自身が選択するまで与えられていないのである。したがって信仰をもたないが、もちたいと願うヨハンネスが、アブラハムを正当化できないのはある意味で当然なのである。むしろ、我々自身が、アブラハムをどう評価するのかという問題をヨハンネスによって問われているのである。
また、アブラハムのような宗教的な危機的状況に限らず、既成道徳がもはや役目を果たさないような状況は想像可能である。そのような状況では、アブラハムが信仰を既成道徳より優先するという新たな原則を立てたように、各人が新たな選択を行なわねばならない。だからこそアブラハムは「悩めるものの導きの星」となるのだ。もちろん、それは勝手気ままな判断してよいものではない。ヨハンネスは言う。
ふつう人びとは・・・個別者が個別者としてふるまうことを得意がるようなことになったが最後、最悪のことが起こりかねないことを恐れる。さらに人びとは、個別者として存在することはなにより容易なことである、それだから、普遍的なものとなるようにこそ、人びとを強制すべきである、と考えている。私はそのような恐れにも、このような意見にも、与することができない。・・・世には、強制を必要とする者、自由の身になると、手に負えない動物みたいに利己的な快楽を求めて駆け回るような者がいるということは確かである。しかし自分がそういう輩に属しないことを示そうと思うなら、不安とおののきをもって語ることをこころえるべきである。そして損失をまねくことを恐れるあまり、偉大なことが忘れられることのないように、偉大なものに対する尊敬の念をもって語るべきである。そのような損失は、それが偉大なものであることを知り、その恐ろしさを知った上で語られるならば、きっとまねかれずにすむであろう。しかも、この恐ろしさがなければ、その偉大さもまた知られないのである。(SV5, 69)(下線筆者)
「不安とおののきをもって語る」ことが、先に指摘したような評価の誠実さを意味しているのは、このパラグラフでは明瞭であろう。この「語る」ことにおける誠実さ、あるいは、真剣さ、あるいは情熱が、我々の行動を導くのである。
上の引用は、『恐れとおののき』でただ一度だけ「恐れFrygt」という言葉が用いられるパラグラフである15 。ここにヨハンネスのもっともいいたいことがあらわれているとみなしてよいのだろう。彼の関心が、「語ること」にあるのは明瞭であろう。ヨハンネスの関心は、アブラハムが正当かどうかではなく、アブラハムを称えることが我々に何を要求するか、ということだったのだ。
題名となった「恐れとおののき」は、単にアブラハムが感じたであろう苦悩や不安ではない。また、特殊な宗教的危機に面した人間がよりどころにする神を畏れる心でもない。恐れとおののきは、そのような特殊な状況でだけ感じるものではないのだ。まさに、平穏無事な毎日を送る我々が、倫理的判断を、誠実に行なおうとするたびに避けようもなく感じるものである。
『恐れとおののき』は、「商業界ばかりか思想界までが、当節はほんとうの大売出しの時代である。」の序言ではじまり、オランダで下落した香料の値段をつり上げるために積荷を海中に投じたエピソードを語る「結びの言葉」で終る。もし上の解釈がなりたつならば、ヨハンネスは信仰の値段は恐ろしいほどに高いことを示そうとしたのだと考えることができるだろう。そして、先の説教師のモデルとなった、信仰の値段を下げてしまうような、口先だけでアブラハムを称える人びとこそ、まず恐れとおののきを感じるべきなのである。
最後に、この解釈の可能性をサポートするために、書名の「恐れとおののき」の出典箇所についてコメントしておきたい。
この言葉の出典は、筆者が目を通したかぎり、すべての研究者によって、新約聖書のフィリピ人への手紙2章12節「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」から取られていると指摘されている16 。「恐れとおののき」は、神や天使の顕現を前にしての宗教的畏怖(horror religiosus, SV5, 57 )を表すために用いられるパウロの好んだ言葉である。もちろん、神に対する畏れを持ち続けたアブラハムと彼の行動だけに注目するならば、この出典箇所は実にふさわしい。もしこの箇所が出典であれば、筆者のこれまでの解釈の試みには、あまり可能性がないように思える。だが、単純に「常に神を畏れよ」というようなメッセージが『恐れとおののき』にないことはすでに明らかであろう。
そこで筆者がこの言葉の出典として提案したいのは、エフェソ人への手紙6章5節「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい17 。」である。この一節では、パウロは奴隷たちに、世俗的支配者にも誠実に従えと命じている。パウロは、世俗的生活(ヨハンネスの言う「倫理的なもの」の領域)においても、信仰をかかわる場合でも、同じ「恐れとおののき」と誠実さ(「真心をこめて」)を求めている。ここで言われている「真心をこめて」が、語ることと実践することの一致を求めていることは明瞭だろう。これこそ、キェルケゴールが晩年の国教会攻撃に至るまで主張しようとしたことであった。我々はまず、なによりも、自分の下した判断にしたがわねばならない。
キェルケゴールがその生涯に亙って批判を続けたのは、語ることと実際に行なうことがまったく矛盾しているような人びと(それが学識者であれ、あるいは既成宗教の説教者であれ)であったのだ。キェルケゴールが当時のデンマーク国教会に見たのは、語ることと実践することがまったく関係なくなっている、「真心」のない人びとだったのではないか。『死に至る病』では次のような箇所(そしてもっとも読者の注意を引く場所)がある。
「ここにある人が立って口では正しいことを言うとする−それゆえそれを理解しているのだ、しかしいざ行動すべき段になると、不正なことをするとする−こうして彼がそれを理解していなかったことが明らかになる、実際このようなことこそ無限に滑稽なのである18。 」キェルケゴールの立場は、何よりも、「汝の信じるごとく汝になれ19 」なのだ。
ともあれ、『恐れとおののき』は、上のような解釈が可能であれば、優れて「倫理的」な書であると評価しなければならない。ヨハンネスの立場は、通常言われているように、信仰を理解不能なものにするようなものではなく、真の意味で倫理の立場であると筆者には思われる。そして、その文学的な質とあいまって、まさしくキェルケゴールの最高傑作の一つであると評価できるのである。
(えぐち さとし 博士後期課程1回生)
1Søren Kierkegaard, Frygt og Bæven, 1843. キェルケゴールの著作に関して、たとえば、(SV5, 100)とあれば、それはキェルケゴール全集第3版(Søren Kierkegaards Samlede Værker, Udgivet af A. B. Drachmann, J. L. Heiberg og H. O. Lanage, Gyldendal, 1963.)第5巻100頁のことを表す。本文中の引用では、筑摩書房世界文學大系27巻「キルケゴール」1962における桝田啓三郎氏の訳を参照したが、原典にもとづき、筆者の判断と責任により訳文を適宣変更している。
2キェルケゴールの遺稿、Papirer X 2 A 15, Søren Kierkegaards Papirer. Udgivne af P. A. Heiberg og V. Kuhr og E. Torsting, I - XI, 1909-48.
3 Johannes de Silentio、沈黙のヨハンネス。キェルケゴールは、キリスト教講話以外の著作を偽名で出版するのが常であった。
4 Paul Dietrichson, "Introduction to a reappraisal of Fear and Trembling" Edward Mooney, "Abraham and Dilemma: Kierkegaard's Teleological Suspension Revisited", International Journal for Philosophy of Religion, 1986.
5 Ralph McInerny, "The Teleological Suspension of the Ethical', The Thomist, Vol. XX, 1957.
6 Brand Blanshard, "Kierkegaard on Faith", The Personalist, 49, 1968, p.5-22.
7 Samuel J. Beck "Abraham, Kierkegaard, Either, Or", The Yale Review vol. LXII October 1972, No.1
8ギリシアの古伝説だが、キェルケゴールのアガメムノンの描写は、多くをエウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』に負っている。
9 士師記11章
10D. D. Raphael, Moral Philosophy, Oxford,1981, p.51.
11 この点はC. Stephen Evans, "Is the Concept of an Absolute Duty toward God morally Unintelligible?', Kierkegaard's Fear and Trembling: Critical Appraisals, ed. by Robert L. Perkins, The University of Alabama Press, 1981.で指摘されている。
12 実際この問いは、他の点では優れた上述のEvansの論文でも提出されている。
13 Foreløbig Expectoration. あらかじめ心情を吐露するという意味。桝田啓三郎氏は「序想」と訳している。
14 現代の哲学者による評価語のメタ倫理学的分析では、R.M.Hare Language of Morals, 1951, Freedom and Reason,1963, Moral Thinking, 1983, Oxford U.P. などがキェルケゴールの思想と密接な関連をもっていると思われる。Hareの立場-普遍的指図主義-とキェルケゴールの思想の間に、親和性を認めうることは、すでにJohn Donnelly, "Kierkegaard's Problem I and Problem II: an Analytic Perspective", Kierkegaard's Fear and Trembling: Critical Appraisal.(前出p.239)でも触れられている。もっともDonnelly自身は、いわゆる記述主義に共感を感じており、指図主義の文脈でキェルケゴールを読むことを拒否している。
15「おののきBæven」に至ってはタイトルに一度用いられているに過ぎない。 "Frygt"の出現箇所を確実に把握するために、The Kierkegaard Indices, Vol. II, Fundamental Polyglot, Konkordans til Kierkegaards Samlede Værker, compiled by Alastair McKinnon,Leiden, E. J. Brill, 1973.を用いた。『恐れとおののき』のなかでは"Frygt"は3回用いられており、一回はタイトル、そして残りの2回がこのパラグラフ内で用いられている。
16 『恐れとおののき』と同時に出版されたキリスト教講話では、明らかにこのフィリピ人への手紙の語句を用いている箇所もあることは、確かである。たとえば、SV4,167.
17 キェルケゴールが用いたと思われる当時のデンマーク語の聖書ではつぎのようなっている。"J Tjenerre! lyder Cders Herrer efter Kiødet, med Frygt og Bæven, i Cders Hiertes Eenfordighed, som Christo. " 貴重な当時の聖書は、大阪教育大学の桝形公也先生にお貸しいただいた。ご厚意を感謝する。
18 SV15, 143.翻訳は、山下秀智氏訳の創言社キェルケゴール著作全集12巻による。
19 SV15, 146