山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

山形の解説のまずいところ (3)

いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。

もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、

嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)

とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。

むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる

「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」

っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。

昨日引用した山形の

この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。

という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。

だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)

 

あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。

なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。

山形の解説のまずいところ(2)

さて、んじゃ山形の解説が”Freedom of the will~”をもとにしたものなのかな、と読みなおしてみたけど、微妙に違うんだよな。これにも「自律性」とかって概念は出てこない? でもたしかに見覚えのある解釈なんだよな。この解説はどっから来たんだろう? 泥棒強迫とかが出てくる論文だったような気がするのだが・・・わからん。

あれ。困った。ほんとに私は頭が悪い。

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<username>論文のタイトルは</username>

<body>Alternativeではなく、Alternateではないでしょうか。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>そうです。なおします。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>昨日のもまちがってたので直しました。はずかしいなあ。</body>

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ウンコな議論: 解説のまずいところ(1)

山形浩生訳『ウンコな議論

「大学のレポートだったら落とされるだろう」とか書いてほっておくのはアレなので、一応解説を。

山形の解説のまずいところは、

・・・嘘がつけないこと、嘘をつくという選択肢を持たないことこそが道徳的責任の存在を示す。この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。したがって複数の選択肢がなければ道徳的責任がないという考え方はまちがいであり、選択肢がないことこそその人物の自律性なのである。(pp.69-70)

山形がこの文章に注をつけている “Altenate Possibilities andResponsibility”という論文では、まったくこういうことは言ってない。”Alternate”論文で言ってるのは、私なりにラフに解説するとこうなる。

ふつう、「ほかにどうすることもできなかった」という発言は道徳的責任をまぬがれる言い訳になると思われている。たとえば太郎が「お前も参加しないと殺すぞ」と脅迫されて集団レイプに加わった場合、われわれはその人に道徳的責任がないと思う傾向がある。しかし、太郎自身がもともと参加しようと思っていた場合を想定してみる。つまり太郎は脅迫されようがされまいが、レイプに参加したのである。こういうケースでは、たしかに太郎は脅迫されて「他にどうすることもできなかった」、つまり太郎がレイプに参加しないという別の可能性はなかったわけだが、だからといって太郎に責任がないということにはならない。だから、「ほかにどうすることもできない場合には道徳的責任はない」という原則はまちがい。道徳的責任が免除されるかもしれないのは、太郎
が「他にどうしようもなかった」という理由「だけ」からそうした場合、そして太郎がそれをするのを望んでいなかった場合なのである。

これだけ。「自律性」とかって概念はこの論文では出てこない。まあまともな英米系の哲学の論文一本なんてのは非常に単純で、肩すかしをくわせるようなやつが多いが、これもその一例。こういう細かい議論のつみかさねがちゃんとした哲学が哲学であるところだと思う。

山形があげている解釈は、むしろ”Freedom of the will and the concept of
a person”というもっと有名な論文についてのものかもしれんが、それについても誤解がありそうだ。レポートでまったく別の論文の要約を提出したら、ふつう教師は「パクリだな」と判断して単位を与えないものだ。とにかく読んでない論文を注にあげて、一般読者を圧倒しようとするのはどうもブルシットの雰囲気がある。

フランクファート先生も分析しておられる。

ウンコ議論や屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである。したがってそれらの生産は、何かの話題について語る義務や機会が、その話題に関連した事実についての知識を上回る時に喚起されるのである。(p.51)

続く。

 

山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が
言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。
しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。
日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。
「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。
そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。

山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

大庭健「時-間における人-間の性」

同じシリーズの『原理論 (シリーズ 性を問う)』所収。

珍しい日本の哲学者によるセックス論。(ほかに大物(?)でこういうのを扱ってるのは神戸大の宗像恵先生ぐらいか・・・いや、大物中の大物の森岡正博さんがいた。でもあの人が狭い意味での哲学者かどうか・・・ 1)哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

どうやら独力でネーゲルの「性的倒錯』とほぼ同じような地点に辿りついているようだ。

えらいものだ。ただしいろんな概念もちだしてぶんまわしているので難解でわたしの頭ではよく把握できない。規範についての議論は直観的すぎて、彼と同じ直観もってない人間にはほとんどわからんだろう。

References   [ + ]

1. 哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

細かいところつっこんでも無駄

馬鹿げた記述を見るとつっこみたくなるのだが、こういうクセはどうなんだろう。たとえば『シリーズ〈性を問う〉 (2)』の「性差」の赤川学「ジェンダー・セクシュアリティ・主体性」

ではその「主体性」とはどのように定義されるのか。『広辞苑第三版』にあたってみる。

しゅたい‐てき【主体的】

(1)ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。「〜な判断」「〜に行動する」
(2)(→)主観的に同じ。

しゅたい‐せい【主体性】
主体的であること。また、そういう態度や性格であること。「〜に欠ける」

いずれの定義の中にも「主体」という概念が中心的な要素として織り込まれ、ほとんど同語反復となっている。

p.143 (表記は変更している)

とかって平気で書く。そりゃそうだろう。しかしそれにしても、なぜついでに「主体」も辞書ひかないんだっ!

しゅ‐たい【主体】

(1)[漢書東方朔伝「上以安主体、下以便万民」]天子のからだ。転じて、天子。

(2)(hypokeimenonギリシア・subjectイギリス) 元来は、根底に在るもの、基体の意。

(ア)性質・状態・作用の主。赤色をもつ椿の花、語る働きをなす人間など。

(イ)主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。⇔客体。→主観。

(3)集合体の主要な構成部分。「無党派の人々を?とする団体」

ふつうの理解では、「主体的」っていうのは(2)の(イ)の意味で「主体」であるのに必要な特徴をそなえているってことで、主体性ってのは主体であるのに特徴的な性質だろう。ぜんぜん循環してない。まあ辞書的な定義についてどうのこうのいってもしょうがないわけだが、そもそもこんなこと考えるのに広辞苑とか論文の最初に持ちだすのは勘弁してほしい。

こういう細かいことが気になって読めない。やっぱりこういう分野の文章読むのは向いてないなあ。

ていうか、なんというか、自分のケツの穴の小ささを感じてしまうね。向いてない向いてない。

ウンコな議論


私には大きな誤訳は見つけられなかった。いろいろ訳しにくいところをうまく処理するものだし、今これを訳出するってのも(売れはしないだろうが)山形の主張が出てる(この論文だけで出版されているのは知らなかったISBN:0691122946)。ただしp.52の「反現実主義」anti-realistだけは「反実在論」「反実在主義」と訳してほしかった。「ウンコ議論」はどうなんだろう。私の語感では「糞話」だけどな。まあブルシットはそもそも「議論」や「理屈」でさえないんだろうが。もっとブルシットなユルさと大量さにぴったりな言葉はないかな。

それにしても、こんな誰も読まず誰のなんの役にも立たない*1本を山形先生の名前だけで筑摩から出版できるってのはすごいな。ほとんど哲学やら思想やらに興味があるブロガーがブログに「読んだ」と書くためだけの本。まあそういう役に立っているわけか。山形先生が自分で書けばいいのに、と思うのだが、そういうもんでもないんだろうな。微妙な位置の人だ。

あと細かいが、訳者注2であげているFrankfurtの論文 “Alternate possibilities and Moral Repsonsibility”はたしかにJournal of Philosophyに載ったわけだが、注3であげられているThe Importance of What We Care About: Philosophical Essaysにも再録されているし、そもそもこの”On Bullshit”もこの本に入っていて、そこですでにBlackの本にも言及されているわけだが・・・。

“Alternate~”の要約はまずくて、大学の哲学の授業でレポートとして提出したら「ちゃんと読め」と単位落とされてしまうと思うだが・・・誰かこれ読んで知ったかぶりして恥をかくひとが出てくるんではないだろうか。まあいいか。

おろ、

フランクファートが原著執筆後三〇年もたったいまになってこの著作を自分の名前で発表するに至った一つの理由も、そうした研究機運の高まりを願ってのことではあるまいか。(p.104)

だから1986年にRaritanという雑誌に載ったらしく、さらに88年に本に収録してるってば。70年代に匿名文書として配布されたという話は、The Importance~本には書いてない。うーん、山形先生、やっぱりThe Importance of What We Care Aboutには目を通してないな。そういう目でみなおすとpp.71-78の(おそらく)論文”The Importance of What We Care About”の要約(?)もあやしいな。論文(Syntheseに載ったらしい)だけを見たか、あるいは誰かのどこかの解説を参考にしただけなのか。哲学業界人がこれやると叩かれるだろうが、外部の人間ならしょうがないということになるのかどうか。

まあ日本の哲学者たちが怠惰でここらへんの議論の紹介とかちゃんとしてないからこういうことになるんだろうなあ。”Alternate Possibilities~”や”Freedom of the will and the concept of person”なんて超重要論文さえ翻訳がないなんておかしいよな。

*1:bullshitなんて概念はそもそもふつうの日本人はもってないわけだし、おそらく英語圏の哲学やら思想やらを専門にしている人間ですらも、ダメな議論やお話をbullshitだとはとらえてないと思う

加藤秀一他『図解雑学 ジェンダー』

読んでみたが、コンパクトで平明な表現なのに目先が利いていて非常に優れた入門書。これ1冊あれば他の入門系の本はいらんのではないか。

しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスという境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的ではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法も広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。 p.24

「生物学的な性差」まで社会が作りだしているとか言われるとやっぱるうっと来る。

それになぜ「ジェンダー」の方を優先するのか? それならもうセックスでいいじゃん、と言いたくなるよな。まあ日本語で「セックス」使うと性別より性行為を指しちゃうからしょうがないのかな。

・・・けれども、そんな風に勝ち負けにこだわること自体が、偏狭な — 男性中心・プロ中心・米国流中心の — スポーツ観に毒され過ぎているのかもしれない。カラダを動かす爽快感を純粋に楽しみ、他人との競争よりも自分との戦いを重んじること — アマチュア中心の女子スポーツや障がい者スポーツの盛り上がりは、そんなスポーツの原点を再認識させてくれるように思う。 p.54

ほんとうにそういうことを考えているのだろうか? ふつうの競技スポーツの基本はやはり競争にある。競わないスポーツはスポーツではないような気がする。まあ定義の問題なのだろうか。女子スポーツや障がい者スポーツが盛んになるのは、まあすてきなことなんだろうが、なぜ女性だとか障害者だとかでカテゴリ分けして競うんだろう。やっぱりそういうふうにカテゴリ分けた方が力が接近しておもしろいからなんだろうと思うんだが。

被害者の主張が事実に即しているならば、彼女がそれを強制だと感じる限り、加害者がどう自分勝手な意味づけをしようと、それは不当な性暴力なのである。性暴力を定義するのは被害者の視点である。 p.126

しかしなにが「強制」であるかを明確にするのは非常に難しい。

おそらくこういう場合の「強制」には、脅迫や誘惑や懇願や操作や欺瞞や取引がはいってることになるんだろうが、ふつうの人びとのセックスに”一切の”(こういう広い意味での)強制がはいっていないときってのはどれくらいあるんだろうか。まあ「強制」を狭く解釈すりゃいいのかもしれんが、気になる。これはそのうち関連論文紹介したい。

ジェフリー・ウィークス

このジェフリー・ウィークス(『セクシュアリティ』)というひとの議論は、その筋(社会学者?)のひとびとにどのように読まれてるんだろうか。ふつうの読書経験からすると、あまりにも生物学まわりの情報が古すぎて使いものにならないんじゃないだろうか。

考えをまとめるために、第3章から抜き書きしてコメントしてみる。

私たちはいまだに、ジェンダーを考慮に入れずにセクシュアリティを考えることはできないでいる。 p.73

それはどうかな。セクシュアリティの核みたいな部分だけを考えるならジェンダーとかってものとは関係なくやれるような気がするけど、まあよかろう。

生物学的男性と生物学的女性の間に存在する生殖と出産に関わる差異は、男女の間で異なった性的欲求と性的欲望が存在していることに対して、必要かつ十分な説明として理解されてきた。p.73

とりあえず「欲求」と「欲望」の区別がわからん。desireとappetiteかな?あとで調べてみるが、こんな訳するんだったら原語を提示するべきだと思う。

とにかく「必要かつ十分な」の意味が私にはわからん。どういう説明が「必要かつ十分」と言えるんだろうか?

たしかに生物学や進化心理学は繁殖成功率という観点から人間(あるいは生物一般)の欲望なり欲求なりを説明することにトライしているんだと思うが、生物学者も進化心理学者も、それが十分な説明となっているとは思っていないだろう。(もしすでに説明したと思ている生物学者がいたらそれはキチガイである。)人間の意識内容まで生物学のレベルに還元するのは困難だし、それ以前に性淘汰や(もしかしたらあるかもしれない)群淘汰の話もあるし、まだまだわからんところだらけだってのが普通の理解だろう。誰もマウスが感じているような世界を人間が感じているなどと主張しようとしているわけではない。なんらかの連続性があるだろうと言っているだけのはずだ。

[われわれは]つねに、自分自身のセクシュアリティが、最も基本的で自然なものであり、男女関係は鮮明な指紋のように、生来の本能の命令によって永遠に決定されたものであるという幻想に耽りたがる。 (p.74)

「本能」なんて久しぶりに見た用語だな。本能ってなんだろう。ローレンツの時代じゃあるまいし、いまどき「本能」なんてものにコミットしている生物学者はどれだけいるんだろうか。このウィークスの本は1986年、今から20年も前だからしょうがないのか。こういう言葉を見ると、この人は70年代後半からの社会生物学ブームを無視したままでこの本を書いたのがわかる。(いや、「本能」という言葉も使われてたのかもしれないけど。自信ないな。)

たとえ社会生物学がいくつかの事象を説明できるとしても(ひと目惣れは、自分とはまったく異なる組織適合抗原の組み合わせを持つ個体の匂いに対する身体の強力な反応にすぎないのかもしれない、とか、同性愛は血縁の兄弟姉妹の子孫に対する愛他的な情を促進するのに必要と言えるかそれいない)、このような説明は他の事象(例えば、なぜ異文化にはそれほどの多様性が存在するのか、あるいはなぜ歴史は急激な社会変動をたびたびくぐり抜けることになったのか)を普遍的に、あるいは説得力を持って説明することができない。p.81

ここらへんでぜんぜん社会生物学とかを理解していないことがわかってしまう。われわれが世界各地で大きな違いを見せるような「文化」を持つようになったのはおそらくたかだか1万年、へたをすると数千年、世代にするたかだか4、500世代でしかない。こういうスケールで社会生物学が「文化の多様性」について言えることってのはほとんどない。また、ジェフリーは文化の多様性を主張したいようだが、われわれのもっている文化の基本的な側面(たとえば婚姻制度)にどの程度の多様性があると考えてるだろうか。わたしの理解では、現在確認されている文化のほとんどは一夫多妻か実質的な一夫多妻制度で、ほどんと多様性なるものは見られない。思春期のああいうやつ(自粛)とか、ほとんどの文化で見られる現象のはずだ。むしろ、表面的には非常に多様な文化での重要な部分での一律性の方がずっと驚くべきことだと思われる。(そういうのが「構造主義(文化人類学)」とかの一番大きな成果だったと理解しているのだが、まちがっているかもしれない。)

また社会生物学的アプローチは、究極的に、その含意において根強い保守性がある。というのは、私たちが社会的かつ性的に行なうことがすべて遺伝子の偶然の衝突から説明されるのならば、人間が物事を変更する余地はほとんどないからである。pp.81-82

これ以前にも以降にも「生物学的決定論」という言葉を何度も使っているところを見ると、社会生物学が「決定論」だという思いこみがあるらしい(でもどんな意味で?)。まあ80年代にはこういう粗雑な議論が行なわれていたという歴史的な資料としては価値があるのかもしれない。

「われわれが男性と女性を比較観察したときに見うけられる、大きく異なった性的態度をもたらす強い根本的な生物学的源泉」が存在するならば、フェミニストの要求も、あるいは自由主義的改革も絵空事にすぎないものとなる。p.82

われわれは社会生物学的に見ればおそらく人殺しの素質をもっていることになるんだろうが、だからといって人殺しが悪いことであるのはもちろんのことだと思う。いつまでこういう「事実と価値は違います」といった「倫理学の基礎」のような話をしつづけなければならないのだろうか。

かつてキンゼイは次のように述べた。

ホルモンが生殖腺で生産されているという事実は、ホルモンが性反応の基になっている神経系の許容反応を制御する第一次的な機関であると信ずるに十分な根拠にはならない。

ホルモンは遺伝子に劣らず、社会的・心理的な性差を形成する際に決定的とは言えない。p.90

そらその通りだが、キンゼイの文章の使い方がミスリーディングだ。というかほとんど意図的。キンゼイのこの文章をふつうに読めば、「仮に男性の場合テストステロンのほとんどが男にしかない睾丸で生産されているからといって、無根拠にそれがセックスに関係していると思ってはだめだ」ということで、まったく正しい。だからといって、男性ホルモンその他がわれわれの感覚や欲求に重大な影響を与えていないと考える必要はない。男性ホルモンの量が攻撃性その他に影響を与えることは証明されていると思うが、まちがっているだろうか。

抜き書きして読むのがいやになってきた。この人の論拠となるのはおなじみのジョン・マネーやマーガレット・ミードや精神分析で、生物学の知見はほとんどとりいれておらず、この手の話をする資格がない。読むだけ時間の無駄。性差についてちゃんと考えたいなら、まずこんな本は葬り去るなり、国内でこの本を持ちあげてた人びとは「あのころはこう考えてるひともいたんだよね」ぐらいに一定の精算をしておく責任があると思う。

田崎先生はクールだ

本のタイトルに「セクシュアリティ」を使っている田崎英明はどういう意味で使っているのかを調べてみようとジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア) をめくってみるが、少なくとも最初の30ページぐらいには特に定義らしいものは見つからなかった。まあそれはかまわんのだが、序文では次のようなことを書いている。

剥き出しになったかぎりでの生を、人々は幾つかの名前で呼んできた。たとえば、マルクスであれば、それを(労働と区別された)「労働力」と名づけるであろうし、ナショナリストならそれを「ネーション」と呼ぶ。人種主義者にとっては、それは「人種」である。そして、「セクシュアリティ」も、また、そんな名のひとつなのだ。(p. v、 句読点は改めた。)

ということらしい。労働力とネーションと人種とセクシュアリティは同じものを指しているんだろうか。わけわからん。

最初の30ページでいちばんクールだと思った文章は、

生の根源的な受動性、そして、内在性は、いわば se vivre (「生きられる」とでも訳しておこうか)というかたちで表現しうるだろう。vivre (生きる)の再帰形 se vivre は、いま手元にある仏和辞典には載っていないし、フランス語ネイティヴが参照する標準的な辞書であるプチ・ロベールにも載っていない。要するにこんなかたちは存在しないのだが、そんなことはかまわない。いま、ここで考えたいのは、生がはらむ、「生きられる」「自らを生きる」「自らによって養われる」というようなニュアンスのモメントである。そのようなモメントを、生の根本に置きたいのだ。 (p.13)

かっこよすぎて腰ぬかすほどシビれた。この方は「生きる」ということを考えるときに、「これを表現するならvivreではなく・・・むしろse vivreでも表現しなければならないようなそういう受動的な側面が・・・」とたしかに実感しておられるのだろう。ちょっと前の日本の哲学者だったら「生きるではなく、生かされるという受動性が生の根源的な内在性を示しているのである~」「「生まれる」という言葉にある受動の側面が生の~」とか書くところだが、フランスな感じがとてもよい。さらに文法も無視するのがよい。「ニュアンス」はともかくとして、「モメント」がどういう意味かも曖昧なのもなんともいい感じ。もちろん「内在性」もわからん。「受動性」はまあわかるような気がするんだけどね。

セクシュアリティってなんだろう

どうでもいいことだが、加藤秀一の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』という本の第3刷では奥付の発行年が「1996年1月20日 第1版第1刷発行」になっている。正しくは1998年らしい。ついでに書くと、p. 121で大澤真幸を引用しているが、 大澤[1990]という本は巻末の文献リストにない。第3版まで売れてるのにこういうのが直ってないというのは、ほんとうに皆ちゃんと読んでるんだろうか。(加藤さんのホームページ見たら、奥付についてはちゃんと訂正していた)

どうでもいいのだが、「ジェンダー」だけでなく、「セクシュアリティ」を定義するってのはなかなか難しそうだ。

おもしろいのは上野千鶴子で、『差異の政治学』の最初の方で延々「セクシュアリティ」の定義について考えているのだが、有斐閣版の『新社会学辞典』の「セクシュアリティ」とは「男女の別のあることから生じるさまざまな現象、異性に対する行動、傾向、心理、性的魅力など、性的なことを意味する」という定義をとりあげて、この記述は結局「セクシャリティ」を「性的なもの」と言いかえているだけで、たんなる同語反復にすぎないとする。これは「性現象」として定義するのと同様に、「内包のない、空疎な概念である」と一蹴してしまう。上野は定義ってものをどう考えてるんだろうか?「定義」の一つの意味では、そりゃ定義が同語反復になってしまうのはしょうがない。内容豊かな「定義」をしてしまえば、その内容に合わないものは被定義語が示す概念に含まれないことになってしまう。たとえば「セクシュアリティ」を「文化によって規定された性欲」とか内容豊かに定義してしまうと、文化によって規定されない性欲はセクシャリティに含まれなくなってしまって困ってしまうだろう。同じことが「ジェンダー」についても起こっていて、非常に困ったことになっているのはよく知られている。まあだいたい、なんにしても「定義」についてごちゃごちゃやるのは筋が悪いと思っている。(必要な場合も多いが、過剰な「定義」は有害であることも多い。)

上野は一方で、カルデローンとカーケンダールの「セックスは両脚のあいだに、セクシュアリティは両耳のあいだにある」って文章をひきあいにだして、「次のように簡潔に定義されている」とか言ってしまう。おいおい、大丈夫なのか。いったいこれのどこが定義なんだ。単に特徴のひとつをあげているだけで定義になってない。両耳のあいだには目も脳味噌もあるぞ。「定義」っていったいなんなんだ。

話はそれるが、上野は、

「古代のセクシュアリティ」や「中世のセクシュアリティ」というものは、存在しない。なぜなら、その時代には、「セクシュアリティ」というもの自体が存在しないからである。(p.32)

とかって言ってしまうのだが、これってどうなんだろう。「セクシュアリティ」という概念を当時の人が持ってなかったからセクシュアリティもなかった、と言いたいんだろうか。「感染症」という概念をもっていなかった時代には感染症はないんだろうか。そもそも上野が言う意味での「セクシュアリティ」なんて、フーコーがこの言葉を使うまで存在してなかったんだから、「フーコーの本が出るまでセクシュアリティは存在していなかった」と言う方がいいんじゃないか、とか。

赤川学も『セクシュアリティの歴史社会学』で同じような議論をして困っている。まあ「セクシュアリティの歴史学」とかやるんだったら、通時的に「セクシュアリティ」と呼ばれるものがあると言えないと困るわけだもんな。上野の顏を立てながらそういうことをするのは難しいだろうから、赤川の困り方は理解できる。

上の加藤は「他者との身体接触にかかわる快楽や欲望を軸として、社会的に編成された一群の観念や行動様式」をセクシュアリティとしている(p.35)。まあそれでよいのだと思う。

でも

「われわれのセクシュアリティは、自己と他者のジェンダーの組み合わせによって、正常な関係と逸脱した関係を区別している。前者が異性愛、後者が同性愛と名づけられているわけだが、いま問題にしているのは・・・そもそもセクシュアリティがこの二種類に分類されるということそれ自体、すなわちセクシュアリティがたちまち自己と相手のジェンダーの組み合わせという「性的志向」の問題に還元されてしまうことなのだ。」と言う。それで、セクシュアリティが「根底からジェンダーを媒介として構造化されているということ・・・これこそが、われわれの常識的なセクシュアリティ、すなわち〈性〉の特徴のひとつだと言えるだろう」

と言うのだが、なんだか勝手な仕方で「セクシュアリティ」と性的志向を結びつけてしまっているように見える。同性愛ってのはそんなに特殊なことなのかな。常識的なレベルでも、性とかってのがほとんど異性に向うものだってのはうそくさい。

どうも日本の社会学者は、いきなり「セクシュアリティ」を直接に「定義」しようとして困っているようだ。これはなんだか奇妙だ。sexualityはsexualから派生した語なんだから、「セクシュアリティ」を定義する前に、まず「セクシュアル」なり「性的」なりをぼんやり示すなり規定するなりが本道だろう。もちろん、最初は現代のわれわれが抱いている「性的」の観念の例示なり分析なりでよい。「性的欲望」「性的快楽」での「性的」という形容詞がどういう意味をもって、性的欲望や性的快楽を他の欲望や快楽と区別するものを指ししめせばよい。で、その共通する特徴や性質をセクシュアリティと呼びますよ、と定義なり宣言なりすればよいのではないのだろうか。特に「セクシャルハラスメント」の「セクシャル」がなにを意味するのかとかってのは実践的にもけっこう意味があるような気がする。もちろん、「性的~」という語にすべて共通するはっきりした「性的」の意味があるとは言えないかもしれないが、まあとりあえずは「なにが「性的」かってことは、とりあえずみんな知ってるでしょ」ぐらいではじめてもかまわんのではないかという気もする。まあ社会学者ってのは、実証的であろうとすれば、「セクシャリティ」とかを操作的に定義しておく必要はある。でも哲学的に概念を分析したいのであれば、最初はぼんやりしていてもかまわんだろう。日本の社会学者の一番よくない点の一つは、実証社会学したいのか、あるいは哲学的な概念分析をしたいのか自分たちでよくわかっていない点だ 1)日本の「社会学者」の多くは私の観点では実証社会学ではなく思弁的哲学をしている。加藤はその優秀な例 。

加藤が「セクシュアリティ」からすぐに性的志向の話をしてしまったのがまずいと思うのは、フーコーの議論にひっぱられたからか、この「セクシュアル」「性的」についてちゃんと考えていないように見えるからだ。

ホモセクシュアルだろうがヘテロセクシュアルだろうが(そういう分け方が妥当かどうかは疑わしいが)、ふつうははっきりと他の欲望と区別されたものとしての「性的欲望」にあたる観念をもっていて、そういう「性的」なものは他とはっきり区別されたものとして経験されている。誰も食欲と性欲を混同することはない。また、「性的」快楽を痒いところを掻く快楽と混同するひともいない。それらははっきり「性的」なものとして経験される。一方、女性の身体に対する欲望と、男性の身体に対する欲望があまりにも似ていて困っているひとはけっこういるだろうし、猫の身体に対する愛着が男性の身体に対する愛着に似ていると感じるひともいるかもしれない。でもこういう意味ではなにが「性的」かってことはかなりはっきりしているんで、それをとっかかりにすればよい 2)「性的快楽」を「性的欲望」への言及なしで分析するのはおそらく無理だろうと思う。つまり、「セクシュアリティ」については「性的な欲望」が基本概念だろうが、まあ詳しい分析はまた後で

もちろんこうなってくると、いろんなボーダーラインケースがでてきて「性的」と呼ばれるものが主観的でぼやけたものになってしまうわけで、パラダイムケースというかそういうとその周辺の事象がごちゃごちゃしてくるわけだが、まあそれはわれわれが関心をもっているものがそういうものだからある程度しょうがない。

(これがネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』にはいってる「性的倒錯」という論文でやろうとしたことなんだと思う。)

日本ではほとんど紹介されてないが、英米で「セックスの哲学者」として有名なAlan SobleやRobert Solomon、 Alan Goldmanとかはそういう方針をとってる。どうも国内に入ってくる情報というか議論は一部の社会学者の好みにかたよりすぎていると思う。フーコーの影響もでかすぎるんじゃないかな。そんなに崇めたてまつる必要はない。

加藤が「セクシュアリティ」の定義で「欲望や快楽を軸として」と曖昧に書いたのは、実はそういう事情がぼんやりとわかっているんだと思う。このふたつ、つまり「性的」欲望と「性的」快楽は「性的」という形容詞が用いられる一番重要なケース 3)性的遊戯や性的虐待は性的欲望や性的快楽にもとづいて定義されることになる で、その意味で「性的」の意味を決定するような事例なわけだ。先に「セクシュアリティ」を定義してしまうのがまちがっていたのだと思う。まず、性的欲望とはどんなものか、性的快楽とはどんなものか、何が「セクシュアル」「性的」かを分析しよう。そうすれば、「セクシュアリティ」とかっていう変な言葉にまどわされることもなくなるはずだ。

 

(おそらくこの項つづく。痴漢の話とかしてみたい。)

References   [ + ]

1. 日本の「社会学者」の多くは私の観点では実証社会学ではなく思弁的哲学をしている。加藤はその優秀な例
2. 「性的快楽」を「性的欲望」への言及なしで分析するのはおそらく無理だろうと思う。つまり、「セクシュアリティ」については「性的な欲望」が基本概念だろうが、まあ詳しい分析はまた後で
3. 性的遊戯や性的虐待は性的欲望や性的快楽にもとづいて定義されることになる

マーサ・ヌスバウム、ジュディス・バトラーを批判する

それでは、バトラーはいったい誰に向って語っているのだろうか。彼女は若いフェミニスト理論家たちにむかって話しているように見えるかもしれない—そのフェミニスト理論家たちというのは、アルチュセールやフロイトやクリプキが本当はなにを言ったのかをちゃんと気にかける哲学の学生でもなければ、問題の本性について情報を必要としており、また自分の価値についてはっきりとしたことを知りたいアウトサイダーたちでもない。ここからすると、読者たちは驚くほど御しやすいと想像されているのだ。バトラーのテキストの預言者的な声にお追従をし、高度な概念の抽象性の緑青に目をくらまされて、想像上の読者たちは質問もせず、議論を要求もせず、言葉の定義も要求しないのである。(Martha Nussbaum, “The Professor of Parody”, The New Republic, Feb 22, 1999. Vol 220 Iss. 8.)

バトラーに関しては、私も同意見だな。そういやドゥルシラ・コーネルという人もいた。彼女も非常に曖昧でカントとラカンだのといった有名人を使ってほとんど意味を把握できないようなことを言っていると思う。日本でバトラーやコーネルをもちあげている人びとは、いったいどういう理解をしているのだろうか。多くの場合、そういう人びとは政治哲学や法哲学や文学の専門家で、バトラーやコーネルを「哲学者」と見ているような気がする。正統の哲学の人びとは彼女たちを哲学者とは認めないだろう。

そういや私はマッキンノンも曖昧で嫌いなのだが、ヌスバウムはそれなりに評価しているようだ。まあマッキノンはバトラーのように有名人たちの名前だけ借りてくるようなことはないからな。マッキノンの議論の迫力と実効性は認めざるを得ない。

『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。

山形浩生訳 自由は進化する 誤訳さがし

f

p.228 「生物には両方の装置が備えられていて」

←An organism can have both sorts of machines

「両方の装置が備えられている生物もいて」。なにも選択できない生物もいるわけだし。

p.228「原始的な実践理性機能」

←practical reasoningをこう訳すのは抵抗があるなあ。

「実践的推論」だけど、まあ読みやすさのためにしょうがないのか。

p.229 「かれらには難を逃れる機会はたっぷりあったのだが」

← They had plenty of bare opportunities

bare opportunityはキーワードだからちゃんと「空機会」と訳さないと。

p.230の1行め「鳥」の種が訳し忘れ。

p.230 「かれらはこのような疑問を自問できないため」

← they cannot actually ask themselves these questions 「実際には」訳しわすれ。

p.238の最後の行、「(たとえば、重力とは違って)」訳し落し。

p.240 「あるいは一般用語で人々と呼んでもいい。」

←Or we could use the vernacular and call them persons (イタ).

「人々」じゃpeopleかと思ってしまうから「人格」なり「パーソン」なりとしたいところ。イタリックになってるし、まあpersonってのは向うの人には色々思い入れのある言葉なんだろう。

ところでGibbardはやっぱりギバードが正しいという話あり。なんでギボードだと思いこんでいるんだろう。

解説まちがいさがし

p.232の著者自身のまとめ「人間の文化は奇跡ではないし、遺伝子が自分の

適応力を増すために提供した追加ツールでもない」を読んで、やっと

山形さんが「自由はシミュレーションのツール」っていう一行まとめで言いたかったことがほんのりつかめたような気がする。しかしそれなら「シミュレーションの」は

不要。むしろ、「自由は決定論的世界での適応のためのツール」の方がまとめとしてよかろう。

ちなみに原文は Human culture is neither a miracle nor a straightfoward addition to the tool kit provided to us by our genes to enhandce their own fitness.

straightforwardが訳し落されている。けっこう重要。だっていちおう遺伝子によって(まわりまわって)与えられているツールなんだろうから。

解説まちがいさがし

メモだけ。「自由とはシミュレーションのツールである」って一行まとめ、意味がよくわからん。特に「ツール」ってときにどういうことを言ってるのか私の頭では理解できない。私が一行でまとめるなら、「われわれは決定論的な世界で自由に選択できるように進化してきた」かな。

p.450~451のラプラスの悪魔についての議論への感想もよく意味がわからない。まあ単なる印象なのだろうが、哲学とかってものはおそらく印象でものを言う分野ではない。

山形浩生訳 自由は進化する 誤訳さがし

第3章の後半はよく訳せていると思う。

p.132「すべての傾向は永続的である—性質は一般的には変えられない—人は未来の方向性や運命や性質を変えることはありえない」

← All trends are permanent, character is by and large immutable, and it is unlikely that one will change one’s ways, one’s fortunes, or one’s basic nature in the future

trendsは「流れ」、characterは「性格」だろう。basic natureの方は「基本的性質」訳し落し。

「人生の希望とかれが呼ぶものを、決定論がなぜか潰してしまう」

← determinism would somehow squelch ….

「なぜか」じゃないだろう。「決定論というものはともかく潰してしまう」

p.134 「一部の決定論的世界では、時とともに性質が変わるのだ」

←In some deterministic worlds, there are things whose natures change over time..

ここよりちょっと前ではa thingを「個体」を訳していたから、

「時とともに性質が変る個体もあるのだ」

p.201「若手指揮者の作戦」

← for respect訳し忘れ

p.216 「だから種には多数の遺伝子が必要だ」

← Thus a species must have many chromosomes

遺伝子じゃなくて染色体。これはなんで遺伝子が多数の染色体に乗ってるのかってのを説明している文脈なので、かなり顏が赤くなるタイプのまちがいだと思う。(生物学の理解がうたがわれる)