アンドレア・ドウォーキン メモ

WikiPediaでAndrea Dworkinの項読んでみたり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrea_Dworkin
恥ずかしながら、知らない重要な事実がけっこうあった。

  • ジョン・ストルテンバーグと20年以上同棲して、1998年ごろには結婚してた*1
  • 1999年にドラッグレイプ被害(妄想?)に会ったと主張して論争が起こった。

なんじゃこら。ううむ。

ちなみに編集ディスカッションもおもしろい。WikiPediaの編集フレームを英語で読むのははじめてだな。ニュースグループでのフレームに比べて読みやすい。それにしても英語圏のやつらは力があるなあ。キチガイが暴れてもなんとか水準を維持している。まあメインライターの力なんだろうが。日本語のWikiでここまで耐えらえれる人材はいるのだろうか。たしかにWikiPediaには新しい可能性(と困難)を感じるね。ま、このキチガイの言動を見るといわゆる「バッシング」というものが
どういうものかよくわかる。

まあ
精神的にもろい人だろうということは誰もがわかっていただろうが。先日読んだカミール・パーリア のVamps and Trampsが殺したんじゃないかとか想像してみたり。

さらに色々読んでると、米国では明らかにPagliaの影響を受けた世代のフェミニストたちがかなり力をつけてるんだな。たとえばSusie Bright。ううむ、保守化なのかどうか。こういうのぜんぜん紹介されてないよな。

まあこの人のインパクトを考えれば、『現代思想』あたりが追悼特集組むぐらいのことをしてもよかったんじゃないかと思うのだがすでにやったのかな。あといつまでもバトラーだのコーネルだのどんくさいフェミニストの紹介やってないで、若い世代を紹介してくれりゃいいのに。

まあ国内でももうちょっとすると出てくるかな。ここらへんやっている人びとでも、英語で直接どんどん読める人はそれほど多くないのかもしれない。

*1:はてなだと、 http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050510 ではゲイとレズのカップルと書いてるけど、そうじゃないと思う。

立岩真也先生『自由の平等』その後

立岩先生については、内容的にもけっこう難しい問題がはいっているので、内容について少し真面目に考えてみる必要があると思うようになった。時間がかかりそうだ。とりあえず

では他にこの規則を正当化する理由があるか。考えてみると、実はこの主張は「私の働きの結果は私のものである」という結論以上、以外のことを述べていないことがわかる(注6)。この主張はそこで終っている。その底抜けの原理を最初に立てている。そもそもその所有権をどのように正当化するのかが問題なのだが、それについては語らない。だからその主張をそのまま受け入れる必要はない。それ以外にこれの正当性を言う言い方があるかというと、この規則をとった方がうまくいくことがある・・・という理由以外にない。(pp. 41-42)

 

ここに付いている注。

(注6)このことを言ったのはロックだが、ノージック(Nozick [1974=1992:271-273])がこの立場を引き継ぐ。

彼の議論はゲームの展開のように見えるが、少なくともいくつかそれだけで進行していない部分がある。ゲームの「あがり」のように私には思える私的所有論は、論の最初に置かれる。ゲームから私的所有には行けず、そこで結局権利を最初に置くしかない。利口なノージックはそのことに気づいていて、そのような論の構成になったのだし、次の著書以降でこの種の議論がなされることがなかったのかもしれない。 (p.298)

これが非常に奇怪な注であることだけ指摘しておく。p.271-273はバスケットボール選手のチェンバレンがどうのこうの、というけっこう有名な部分ではあるが、ノージックが彼の原権理論のアウトラインを提出しているのも、ロック流の労働所有説を提出しているのもここではない。

 

「マーガレット・ミードの表」問題その後

マーガレット・ミードの名前を使ったニューギニアの3部族についての表問題。

Amazon から本が届いた。

まず、井上知子・新野三四子・中村桂子・長嶋俊介・志水紀代子『生き方としての女性論』嵯峨野書院、1989 ISBN:4782301375 では、この表はp.129にある。

内容は伊藤公雄先生の『男性学入門』のp.163と同一。ただし、気になっていた部族名はそれぞれ「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャムブリ」になっている。したがってこれは伊藤先生の本で単に誤植されただけかもしれない。

しかしショッキングだったのは、前にも述べたように伊藤先生の本では出典は

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

とされていたので、この表を作成したのは村田孝次先生で、彼の文章が『生き方としての女性論』に収録されているのだろうと思いこんでいたのだが、この本には村田先生の文章はなかった! この表が使われているのは井上知子先生の第5章「女性と男性のありかた」で、井上先生が村田孝次先生を引用しているのである。表には

(村田孝次、1979より引用)

とだけ書いてある。そして、さらに悪いことに、この村田孝次先生の文章がどこの論文であるか、『生き方としての女性論』には載っていない(!)のである。それに、表の上の方、「Mead, 1935」って書いてる! それは『サモアの思春期』ですがな・・・いや、違う。Sex And Temperament In Three Primitive Societies っていう本か( ISBN:0688060161 )。これは見てない。おそらく村田先生の論文は、『男性と女性』ではなく、この本の紹介か解説かそういうものなのだな。で、それを伊藤公雄先生は『男性と女性』だと思いこんだ、というのが真相に近いかもしれん。

とにかく伊藤先生は井上先生からの孫引き。伊藤先生の出典の書き方から孫引きだとは思いもよらかなったが、私の早合点だったか。

それにしてもこれは・・・。とにかく村田先生の論文はどこのなんという論文なのだろう?

続いて、諸橋泰樹先生の『ジェンダーというメガネ:やさしい女性学』フェリス女学院大学2003 ISBN:4901713027 では、『生き方としての女性論』での表と同様のものがp.44にある。ただし、左右が逆になっている。『女性論』で「男女」と表記されていたのが「女男」になり、「女性的」が「いわゆる女性的」のように語句が変更されている。出典は、

出所 マーガレット・ミード「男性と女性」 1935

これも「1935」!とりあえず諸橋先生は有罪。剽窃決定。真っ黒。

部族の表記は「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」。この表は奇怪で、他の三つの表では「パーソナリティー特性」に入れらているアラペッシュ族の「女男とも子供の世話をする」「きびしいしつけはほとんどしない」「子どもには寛大でむしろ溺愛する」「子どもの成熟を刺激しない」が「パーソナリティ」の方に入れらている。誤植?

伊田広行先生の『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店2004 (ISBN:4272350188)は、この本とミードの『男性と女性』が出典だと主張しているが、それを(「正しく」?)修正しているのだから、伊藤先生か井上先生か村田先生を参照して出典が怪しいことに気づいているのにそれを書いてない。おそらく幇助?

これひどすぎる。インチキ! 諸橋泰樹フェリス女学院大学文学部教授は剽窃野郎で有罪。伊田先生は出典を隠して灰色、井上先生はもっと薄い灰色というかほぼ白(村田先生の文献の参照を忘れただけかもしれない)。伊藤公雄京都大学文学研究科教授は無批判孫引き野郎で学者としてまじめに相手するに値しない。と考えてしまってはちょっと言いすぎかな。

まあしかし、ちゃんと自浄できないまま引用しあう学者社会はだめだ。

あんまりあれだから、伊田広行先生のブログにトラックバックしておこう。トラックバックってしたことないからわかんなけど、リンクするだけでいいのかな? http://blog.zaq.ne.jp/spisin/

最近スキャナを入手したので、PDFにしてあげておこう。あら、hatenaにPDFは上げられないのか。

  •  井上先生の表 ← 「和子」じゃなくて「知子」先生ごめんなさい。
  • 伊藤先生の表 
  • 諸橋先生の表
  • 伊田先生の表

ぐえ。井上先生は「知子」でした。

と、ふと本を読みなおすと井上先生は和子じゃなくて知子(ともこ)先生。こりゃひどいまちがいをしたなあ、と思って上は修正した。しかし、これ実は上の伊藤公雄先生の表がすでにまちがってるからだよ。なんなんだ。伊藤先生は井上先生の本の出版社や出版年も書いてないし、文献表にも出さないし、これくらい色々重なるとなにか出典を探しにくくするための意図的なものではないかとか思ってしまう。そういうことを考えさせられるのがたまらん。

ちなみに諸橋先生の『ジェンダーというメガネ』も、あるアフリカの部族ではイニシエーションに失敗した男の子は「女」として生き男と結婚することがあるとか、別の部族では生まれる前から占いによって性別が決まってるとか、あやしい調査を出典出さずに紹介している。この本ではさまざまな文化人類学の知見が紹介されるのだが、実際に名前が出るのはミードだけ。(それも実は確認してないわけだ。)

なんというか、こういうことが重なると、「ジェンダーフリーバッシング」とかが起きるのはある程度しょうがないという印象を受ける。女性学とか男性学とかジェンダー論とかって科目名で大学の授業している人々は、いったん自分たちの研究を見直してダメな研究をちゃんと排除して浄化しなきゃならん。まあいわゆる学際的な学問領域が立ちあがるときは、伝統的な領域から難民のような人々がまぎれこもうとする傾向があるようだ。別の分野でもそういうのを見たことがある。そこでがんばれるかどうかがその分野がちゃんと成立するかどうかの分かれ目なのだろう。先行研究を信頼して参照できないのならば学問として一本立ちできない。まあ伊藤先生や伊田先生や諸橋先生が権威として信用されているわけではないだろうが。ジェンダーな人々もここは踏ん張り所だな。

 

立岩先生とI.バーリン

北田先生の立岩先生評

立岩真也先生は『自由の平等』(岩波書店、2004) のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

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幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。・・・本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことがから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(pp.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

立岩先生はバーリンを読んだか

立岩先生の本を議論しているとキリがないので、今日は私がそういう印象を抱いている根拠を一箇所だけ指摘しておく。

『自由の平等』の第1章では第1節では主にノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』→森村進先生のリバタリアニズムと、アイザイア・バーリン『自由論』での「消極的自由」/「積極的自由」の区別が取りあげられているのだが、ここが何度読んでもわからん(ので先を読む気にもなれない)。おそらくどちらも(少なくともちゃんと)読んでないんじゃないのかな。

((a)~(d)は私が勝手につけた)

(a)このように述べてくると、親切にも、「あなたは「消極的自由」と「積極的自由」の後者の方を言っている。それは評判のわるいものだ」と教えてくれる人がいるだろう。素朴には、積極的自由は「何かをする自由」であり、それが現実に可能であるための手段の提供が権利として求められる。消極的自由は「何かを妨げられない自由」だとされる。この対比において、私有派は消極的自由を優先すべきだとし、積極的自由は危ないと言う。(p.44)

ここに得意の注がつけられる。

(b)この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin [1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという —- なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。 (p.298)

「だということになっている」は気になるフレーズだ。また出典の好きな立岩先生がこのバーリンのフレーズに出典をつけてないのは気になる。まあ注の注はいやなのかもしれんが。

もうひとつ。

(c)消極的自由を積極的自由からはっきりと区別することができるだろうか。そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。「したいことを妨げらられない」のが消極的自由である。ここでは、したいことをする「能力」が欠けていてそれができない、選べない「事情」があるとしよう。それはどうなるのか。実際には実現不可能であっても、その不可能が他人の意図的な妨害によってもたらされない場合には、それについてその人は既に自由であると主張されるかもしれない。しかしこれはおかしい。(p.45)

これにも注。

(d)バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。(・・・)最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれくらい多くのドアが開かれているか」(Berlin [1969=1971:58)という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています」(井上[1998:23]) (p.299)

これもバーリンに出典がついてないのが気になる。「ドア」の比喩は私の知るかぎり、『自由論』のなかでこの一箇所しかない。またこのp.58は序文で、有名な「二つの~」ではない。それを補足訂正している文章。そもそもなぜ(a)でバーリンは関係ない、と言いつつ、ここでバーリンが出てくるのだろうか。

これから何が読みとれるか

私はこの二つの文章と注から、立岩先生はバーリンの『自由論』を本当に読んでない(!)と推測する。『自由の平等』とかって本を書き、消極的自由と積極的自由を論じるためにバーリンを読んでないというのはほんとうに驚くべきことだが、おそらく立岩先生は正直なのである。信じられないほどのことだが。

消極的/積極的自由

まず、ふつう言われている消極的自由と積極的自由の区別は、たいていの場合バーリンの『自由論』に由来する(バーリン自身はその区別がオリジナルなものではないと言う)。バーリンの『自由論』は序文と四つの論文(「二十世紀の政治思想」「歴史の必然性」「二つの自由概念」「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」)からできていて、序文は四つの論文より後に書かれており、特に「二つの自由概念」については序文で自説の部分的訂正と誤解の解消が行なわれている。

「二つの自由概念」でのバーリンの区別は、立岩先生の最初の引用に挙げられているようなものではない。(b)の注に出てくる形が正しい。「「積極的自由」の概念は評判が悪い」「危険だ」と言われるのは、この「自己実現」としての積極的自由の概念についてであって、「それが現実に可能であるための手段の提供」の権利としてではない。たとえば最低限の教育を受ける「権利」や最低限の文化的生活を送る「権利」(この権利をある種の人は「自由」と言う)をバーリンの立場の人が否定するはずがない。そういう権利(や「自由」)は政府が保証しなければならないという立場と、バーリンの立場はまったく矛盾しない。こんなのはバーリンの「二つの~」を直接読めばすぐにわかる。

バーリンが分析したのは、政治的な文脈における「自由」の概念が、さまざまな論者によって混乱されて使われており、そのうち特に二つ(上の区別であげられるもの)が特に重要な概念だということ。たとえばルソーやヘーゲルやマルクスその他の人々は積極的な意味で自由を使い、結果的に個々人の欲求や感じる幸福とは独立に全体主義的な社会を構想してしまう、それが「危ない」と言われるんだと私は理解している。

立岩の(b)

(b)で立岩は「なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない」と書くが、そりゃもし読んでいなければわからない。少なくともバーリンが(a)の形の区別をしたと思いこんでいるならわからないに決まっている。調べてみようと思わなかったんだろうか?

立岩の(c)

「そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。」こういう素人くさい文章が立岩先生のウリなのは認める。しかし「よい」「いけない」がどういう意味が考えたことがあるのだろうか。バーリンも(おそらく立岩先生に積極的・消極的の区別を指摘した人も)さすがに「よい」とかいきなり使わない。もしまともな人なら、「なぜ消極的自由は政治的に保護するべきで/保証されるべきで、それ以上は社会は保証するべきではない/保証しなくてもよい/干渉すべきではない(のどれ?)」と問うべきだろう。もしちゃんとそういう形で問えば、たとえばバーリンがどういう根拠でどう主張しているか調べようという気になるはずだ。むしろ、バーリンを一度でも読めば、「よくて~はいけないのか」なんて乱暴な問いは立てられない。

立岩の(d)

結局バーリンを読んでないから、こういう意味不明な問いが出てきてしまう。バーリンはまったく関係ない。(井上達夫先生の論文は未読)最低限の選択肢や他者からの承認(p.360ff)が人間が生きる上で必要なことはバーリン自身認めているし、必要なパターナリズムも認める(p.350)。バーリンの主張は、それが社会が保証するべき狭い「自由」ではないってこと。

 

リバタリアン vs 功利主義

ふつうに理解すれば、立岩先生が議論しようとしていることはリバタリアンと功利主義(そしてロールズ流の中道路線)の間で延々とやられている議論の一バージョンで、もちろん立岩先生は功利主義の方。(でも立岩先生はベンサムの「序説」もミルの「功利主義論」も読んだことがないだろう。文献表にも出てこないし。)

立岩先生がバーリンを読めば

立岩先生が問題にしている弱者の「することのできぬ状態 inability」については、バーリンは消極的自由の観念を論じている一番最初に出てくる。

ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だと言われる。この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができるしかしながら、強制とはすることのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。・・・単に目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。
・・・自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられているからなのである。いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているというのは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。」(pp.304-6)

もちろん「自由」と「できない状態」の区別は難しいかもしれない。しかしわれわれの多くはイナバウアーのポーズをとることはできないが、それがイナバアウアーする自由を妨げられているわけでもなければ、誰かが私にイナバウアーできるよう手配する責任を負っているわけでもないのははっきりしている。

もっと立岩先生の問題意識に近い文章もある。

ここでの問題に対する歴史的に重要なもう一つのアプローチがある。それは、自由の対立概念である平等と博愛を自由と混同することによって、同じく自由主義的でない結論に到達するものである。 (p.360)

おそらく立岩先生はこの混同の餌食になっている。もちろん、平等や博愛は非常に重要だし、バーリンの言うことが正しいかどうかはいろいろ議論の余地があるのはたしかだ。ある種の意味では、自由と平等や博愛は対立する概念ではないかもしれない(特にバーリンの言う「積極的自由」の意味では)。

 

しかしこんな立岩先生の論点にとって非常に重要なものを、もしバーリンを読んだことが一度でもあればふつうの学者なら無視できるはずがないと思う。バーリンのように優れた学者の書くものは明確で一定の訓練をすれば誰にでも理解しやすいものになる。ふつうの読者はそういう優秀な人がその鋭いナイフでいったん切り分けてくれたものをまたくっつけて議論しようなんて思わないものだ。すくなくともいったん切られたその切り口を意識せずにはいられない。

バーリンの『自由論』は本当に名著中の名著の一冊で、何度読んでも目からウロコが落ちるような思いがする。(学問的・政治的な立場を共有していなくても)一回でも真面目に読んでいれば立岩先生の本はまったく違う本になっていただろうと思う。訳文も立派だし。

もちろん、バーリンを読むか読まないかは立岩先生の自由だし、「関係ない」と言っているのだから本当に関係ないのだろう。彼は読んでないものを読んだと言っているわけではないので別に不誠実なわけではない。しかしいったい、まともな学者として、この手の問題をバーリンをまったく読まずに議論することができるか私にはわからない。(すくなくとも政治学とか真面目に勉強している人間にはそうだろうと思う。)

たしかに「まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。」のはたしかで、学者は常にその問題に悩まされつづけている。しかし、まともな学者である一つのポイントは、どこに豊かな思考のためのリソースがあるのかを知っていること、ある主題を論じるのに最低限どうしても読んでおかねばならない文献を知っていること、少なくともそれを嗅ぎわける嗅覚のあること、それを自分で確かめてみる労力と時間をかけてみる意欲があることだ。そしてそれは学者社会の伝統が教えてくれる。引用(a)の「親切」なひとたちは伝統にしたがって立岩先生にそれを教えてくれたのだろう。そういう伝統に敬意を払うことができない者は学者ではない。そういうひとに文献リストにバーリンの名前をあげたのは大学院生のこれからの仕事に役立てようと言われても、呼びかけられた大学院生は困ってしまうことだろう。(少なくとも政治学者の卵はあきれ、哲学者の卵は冷笑し、法学者の卵は律儀に怒るだろう。社会学者の卵はわからん。)

北田先生の文章に戻れば、立岩先生は正直に自分で認めているように、北田先生が言う「(2)+オレ流」で『自由の平等』を書いたのだろうし、北田先生は読んだのにたしかめもせず「(1)+オレ流」と判断したのだろう。少なくともバーリンに対する立岩先生の言及はただの儀礼だ。この調子でいちいちやってると1年かかるが、同じような個所は山ほどあるように見える。

北田先生は「引用学」とか唱える前に、『私的所有論』の権威(北田先生は他の「学者」の評価とは独立に自分でも評価しているのだろう)によりかからず、いったん立岩先生の引用が実際にどのように行なわれているか確かめるべきだったろう。馬鹿げている。とにもかくにも正直でたしかに(先例にこだわらないという意味で)オリジナルな(これは重要)立岩先生より、北田先生の方が問題が大きいかもしれない。

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北田暁大先生の立岩真也先生評

立岩真也先生は『自由の平等』岩波書店2004 ISBN:4000233874 のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。・・・本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たち*1に呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことがから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。
『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(p.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

*1:kallikles注:大学院生

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

 

伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

 

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

 

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。

性=人格論とか

セックスやセクシャリティまわりの社会学や哲学まわりというのはほんとうに難しい。私の頭が悪いからなのだろうが、よくわからない議論が多くて困る。

今日は「性と人格」まわりの議論を見てみようとしたのだが、これがまた泥沼。自分用にちょっとだけまとめを作っておく。

「性=人格論」という言葉がある。この「=」をどう発音するのかが非常に気になるのだが、まあそれは置いといて。華やかな人々がこの「性=人格」論をやっている。重要なものだけあげると

1992 (1995) 松浦理英子 「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」
1994 → (1998) 上野千鶴子 「『セックスというお仕事』の困惑」
1995 赤川学 「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
1998 浅野千恵 「『性=人格論批判』を批判する」
1994 (1998) 上野千鶴子 発情装置―エロスのシナリオ
1999 赤川学 セクシュアリティの歴史社会学
2003 杉田聡*1 『レイプの政治学』

とか。瀬地山・角田対談(1998)とかもあるんだが、まああとで。

赤川先生の言説分析

この「性=人格論」という「=」のはいった形の言葉を造語したのは、どうも赤川学先生のようだ(と浅野千恵先生が言ってる)。

売春が「人格」や「人間性」との関わりにおいて問題化されている。
こうしたレトリックの前提になっているのは、「性そのものが人格や人間性の中心に位置する」という認識である。これを性=人格論のレトリックと呼ぼう。
(江原由美子編『性の商品化』勁草書房1995, p175 )

これだな。

赤川先生は、その後超労作『セクシャリティの歴史社会学』の第11章でさらに詳しく性=人格論の源流をさぐっていらっしゃる。1995年の論文では「レトリック」と呼んでいたが、1999には「レトリック」ではなく「言説」と呼んでいる。(おそらく「レトリック」という言葉が与える「単なる表現上の修辞や工夫」といった印象を嫌ったのだろう)

んで、この赤川先生の研究は私にはけっこう問題があるように見える。

まず赤川先生は「人格」の概念を知るために佐古純一郎の『近代日本思想史における人格観念の成立』という本を参照して、ほとんど無批判に信用しているように見える。(佐古先生の本は持ってないのでわからん)

p.275で赤川先生は、

佐古によれば、「人格」という言葉がPersonalityの訳語として用いられるようになったのは明治二十年代前半

だという。これはもちろんOK。

それは当初は心理学の訳語として使われていたが、やがて中島力蔵・井上哲次郎らによって哲学・倫理学上の用語として定着していく。

ということらしい。これもOK。ただし、そっちの意味の「人格」はpersonalityの訳語ではなく、personの訳語のはずだ。これについてどういうわけか赤川はまったく触れていない。(そしてそれを柳原良江先生は博士論文でそのまま援用してしまっている。おそるべき劣化コピーの連鎖。)

この混同をしたのが佐古先生か赤川先生かははっきりとはわからん(おそらく佐古先生)が、非常に重大な混同だと思う。赤川先生はp.276でこう言う。

まとめると、近代日本において「人格」という観念は、(1)人間の中核にあるものであり、(2)「物」や「器械」ではなく、(3)手段として利用してはならないもの、という含意を持つ記号として生まれた。その意味で「人格」という観念は、現在私たちが通常の意味で使っている以上に、哲学的・倫理学的な負荷の高い概念であったようである。筒井清忠が論じているように、その事情は、「人格」概念が、「人格の向上」を旗頭とし明治末期に登場した修養主義=人格主義とも密接に関わっていたことで一層、強化される。

佐古先生はおいといて、これはとりあえず赤川先生の解釈と受けとめていいのだろう。(赤川先生は「=」が好きなのね。たしかにこの人が造語したように見えるな。)(あと赤川先生が「記号」や「観念」や「概念」をどう使いわけているのかも興味あるが、まあいいや)

このまとめは、(1)の心理学でのpersonalityと、(2)と(3)の(カント的な)倫理学でのpersonを混同してしまっているため、使いものにならないように見える。たしかにカント先生は、価格をもつ「物」と、尊厳をもつ「人格」をはっきり区別しているし、

「あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。」

のような形で人格を単なる手段として利用することを戒めている。

でも、カント的な意味では、「人格person」は(1)人間の中核にあるものではない。カント的な意味だったら、それは人間性Menschheitだ。さっきの1995年の論文では正しく「人間性」にも触れているのに、なぜ『歴史社会学』では落としたんだろうか。

「まとめ」の(1)や、修養主義で言われるのは性格特性character traitや人間性や道徳性をさす「人格」で、けっきょく赤川先生の「人格」は日本語で同じ訳語になる複数の概念をごっちゃにしたものでしかない。

赤川先生は日本の社会学者のなかでも抜群に明晰な方なので、もちろんそんなことには気づいている。大正~昭和の恋愛至上主義と性教育を概観して、次のように言う。

性=人格論とは、恋愛至上主義のフィールドにおけるカント的用法、つまり「人格である性を、道具・モノ・機械のように扱ってはいけない」という倫理命令と、性教育のフィールドにおける性の重要性の強調、つまり「性は人間生活の中核に位置する重大なものである。」というフロイディズム的用法との二つの要素からできあがっている。

これは、非常に重要な主張だ。ただしカントが恋愛についてどう考えていたかというのはおもしろい問題で、カント自身は恋愛至上主義からはもっとも遠い場所にいるはずだ。赤川先生は「恋愛至上主義」がカント議論の流れにあるというが、カントというよりはゲーテ→ショーペンハウエル→トルストイ→ロマン・ロランとか続くロマン派からヒューマニズムの議論なんじゃないだろうか。文学上の自然主義に対する反動もあるわけで、ここらへんもっと難しい対立があるように見える。

まあそこらへんの細かい議論はおいといて、問題は、こういうまったくちがった源流から来ている(原語が違うはずの)「人格」という訳語が、いっしょくたに議論されてしまっている点にある。赤川は少なくとも源流が違うのだからこれらの「人格」がまったく違う概念であることも理解しているはずなのに、それをはっきり述べない。むしろ積極的に混同してしまう。上で引用した文章に続いてこう言う。

そしてこの二つの要素は、戦後の純潔教育において合流・合併することになる。

このようなところに、赤川の「性に関する言説の歴史社会学的記述」という方法論そのものの重大な欠点があるように見える。心理学的なpersonalityと倫理学的なpersonが混同されたのは歴史的な必然ではなく、偶然にすぎない。ぶっちゃけて言えば、personalityとpersonが混同されたのは、どちらの派閥も日本語で「人格」という訳語をつかってしまったために、頭の悪い人々がその二つを混同してしまったからにすぎない。しかし赤川の方法論では、「とりあえずこの時代にはこういうふうに言われていたのでこうだったのだ」としか言えず、批判することができない。赤川先生は、ここで混同があったことを指摘し批判するべきであって、同じ「人格」という日本語を使っていたからといって、それを無批判に受けいれてしまうのが非常に奇妙に見える。彼の方法でわかるのは、せいぜいのところ、「混乱した思考のなかで日本人の文筆家たちが「人格」と性のつながりについてどう考えていたか」でしかない。そしてそれはふつうの人々の生活や意識からも乖離してしまっているかもしれない。(あら、うまく表現できない。私の頭が悪い。)

なんかだめ。わからん。赤川先生はp.286-7で吉本隆明まで持ちだしてごちゃごちゃやるのだが、わたしには理解できない。うう。

上野千鶴子

赤川先生の方法論については上の記載はなんかおかしいので考えなおすです。

で上野先生なんだが、上野先生が『発情装置』の序文でやっていることは、赤川先生や加藤秀一先生の研究に影響を受けているんだと思う。(90年代後半から上野先生は親分になり、子分たちの研究を十分参照するようになった。これは「フェミズニムの社会学」があるとすれば非常に重要な一面なんだけど・・・*2上野先生は、

セクシュアリティの歴史的研究があきらかにするところによれば、性と人格の結びつきは、「近代パラダイム」というべきものです。もちろんここには男にとっては性と人格の分離が可能だが、女にとっては性と人格との分離は不可能だ、という「性の二重基準」が組み込まれています。(p.23)

とかって言ってしまうわけだが、ここで上野先生が「人格」という言葉で何を言おうとしているのかが曖昧でわからん。少なくとも赤川先生のいう(1)の意味か、(2)(3)の意味かをはっきりさせる必要があるんだろうが、これではどうしようもない。社会学者でこれほどまでに自分の使っている概念に無批判な人はめずらしい。おそらく、とりあえずただ書いてみたのだろう。

そもそもカントからロマン主義的な「人格」が近代的なものだってことはそうなのかもしれないが、もっと注意が必要に見える。セックスははるか古代から重要だったと思うのだが。

浅野千恵先生の「性=人格論批判」批判」

浅野先生というひとは上野先生とかと比べるとずいぶん真面目な人のようだ。深刻すぎて困ってしまう。「『性=人格論批判』を批判する」という論文は腰のすわったフェミニスト的意識に根差したよい論文だと思う。(私はこの人が書くものを非常に高く評価している。論文は先生のホームページから手に入るのだが、浅野先生、ディレクトリが丸見えですよ。 )

浅野先生は(1)赤川流の「性=人格論は近代固有だ」」という見方を否定。フーコーはインチキ。(2) 「性=人格論」批判は、たんなるレトリックである「性=人格論」を実体化してしまっているのでダメだ、(3) 「性=人格論批判はフェミニスト的でない。」の三点を主張したいようだ。ここでは議論しないけど、(1)と(3)はその通りだと思う。問題は(2)が何を主張しているか。

私がとりあえずの疑問として提示しておきたいのは、「性=人格論批判」の言説が、むしろレトリックレベルで提出された議論~を実体視するところに成り立っているのではないかという疑問である。

と言うわけだが、この周辺の部分が読みにくくてよくわからない。もし非常におおざっぱな解釈をしてもよいのなら、浅野先生が主張したいのは、「性と人格が結びついているなんてのは、売買春を非難したり規制するためのたんなるお話。だから、そんな議論をまじめに受けとって議論するのはだめだ」ということになる。これでいいのだろうか。

浅野先生も「人格」ということでなにを言おうとしているのかはっきりせてくれないから、せっかくの気合の入った論文もだいなし。もったいない。

杉田聡先生の上野批判。

んで、「性=人格」論者の代表が杉田聡先生なわけだが(NHKビジネス英会話の先生とは別、のはず)。

あんまり好きな人じゃないけど、とりあえず上野先生の「性と人格のむすびつき」が多義的であることを正しく指摘している。さすが哲学専攻(というか、そういう分析ができないようでは哲学勉強している価値がない)。杉田先生によれば、上野先生の「人格」概念は少なくとも

  • 人となり
  • 尊厳を有する人たるペルゾーン
  • 愛もしくはそれに類する心情・内面

の三つの意味で使われているという。最初のが赤川先生の言う(1)のpersonality、二番目が赤川先生の(2)、正しい。三つ目を「人格」と呼ぶのはかなりむずかしいのだが、上野先生が斎藤美奈子のインタビューに答えたものなどを見ると(浅野論文参照)、たしかにそういうルーズな使いかたをしているようだ。「愛」や「親密性」が基本的に「人格的なまじわり」なので、そういう使われかたをするようになるんだろうな。ルーズすぎるが。

わたしだったらこれに加えて「人間の価格」という意味を付け加えたいと思うけど。たとえば貞操を失なうことによって失われると考えられていたのは、私には女性の市場価値そのものに見える。「売春すると人格が損われる」「強姦は女性の人格を損なう」とかって発言で意味されているのは、「売春する女/強姦された女は価値が下る」のように見えるし。(言うまでもないが、私はこの判断にコミットしない。)

杉田先生の分析によれば、上野先生は、(I)性が「人となり」に重要だという考え方と、(II)性(の自由)は人権の一部だという考え方の二つを混同してしまっているという。さらに杉田先生は、上野は(III)ある種の性は人となりを汚す という考え方を採用してしまっているという。

あとで議論するけど実は杉田先生は上のIIIを受け入れているはずで、これが問題を複雑で泥沼にしてしまっているのだが、今日はまあよかろう。

まとめ(られん)

飽きた。上野先生も赤川先生も浅野先生も、「人格」の意味をちゃんととらえておらんというかなんか混同しているというか、明晰化しようという努力のあとが見られない。杉田先生はそこらへん努力している(が、ぜんぜん自分ではダメな議論をしていると思うが、それについてはまた後日)。

おまけ。加藤秀一先生のショッキングな主張

ついでにメモだけ。加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』はよく書けていると思っていたのだが、よく読むとなんかあやしいところがたくさんある。性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって? — 可哀相に — もう処女じゃないのか….でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。バトラーとかの悪い影響がある。

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?男性も暴力的な犯罪の被害者になったときに強い屈辱感を味わうと思うが、それと強姦の被害はどう違うか?
  2. 強姦の被害者の女性はいまだに「汚れたもの」と扱われているのか?
  3. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?
  4. 処女とか貞操とかっていうのはこの本が出た90年代にはこういうふうに扱われていたのか?
  5. 強姦された女というスティグマを貼るのはまさに加藤先生のような考え方じゃないの?「社会がそう思う」は往々にして「私はそう思う」しか意味していない。上の文章で加藤先生が「存在そのものの否定に等しい」とするのは、たんに「社会が一般にそう考えている」という記述には読めない。
  6. 「少しは感じたんじゃないの?」と加藤先生の言う「屈辱」との関係が、往々にして見逃されている巨大なポイントだ。今すぐには議論できないけどそのうち書く。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為の場合もあるだろうが、必ずしもそうでなければならないわけではない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

松浦理英子先生の「嘲笑せよ」論文の影響力が90年代にいかに強かったのかがわかる。あとブラウンミラーやエストリッチ。私にはレイプ犯の内面を見ることは難しいけれども、想像することはできると思う。私の内省によれば、彼らが「女性を侮辱しよう」なんてことを第一の目的にしているはずがないと思う。たとえば京大ギャングスターズのギャングレイプ犯は、女性が寝ている間にセックスしようとしたんだし、気づかなきゃそのままにしようとしてたんだろうから、直接に「侮辱」しようとしたなんてことはないだろう。(文字通り侮辱するためには相手がそれを意識する必要があると思われる。)彼らに「女性を侮辱するつもりだった?屈辱を味あわせるつもりだった?」とたずねても、「そんなこと思いもしなかった」と答えるんじゃないかな。(もちろん、それが問題なのだが)レイプは暴力でもあるが、とりあえずはセックスだ。性暴力を他の暴力と区別するのは、その動機の性欲にほかならない。この点でも杉田聡先生は正しい。

感想

まあ今日あげたような華やかな人びとの研究ってのは、ちょっとおかしいところがあるような気はするがインチキではない。偉い。攻撃しているわけではないつもり。

 

杉田聡先生の人格論アゲイン

杉田先生の『レイプの政治学』の議論は、全体としてよくできていると思う。80年代のフェミニストたちによる「レイプはセックスじゃなくて暴力」という議論を叩く。これはOK。人格は尊厳を持っていること、性的な自由は人格の尊厳の維持のためにも、個人の幸福の追求ににとっても核心的部分であることを主張、これもOK。上野千鶴子の反「性=人格」論を曖昧だとして叩く、OK。

新レイプ神話や上野を攻撃しているときは明快なのだが、彼自身の立場を擁護する肝心の部分になるととたんに歯切れが悪くなるのが難点だ。

杉田が自分の立場を弁護しなければならない点として (1)強姦被害をどう見るか、性的インテグリティのようなものをあまりにも人格の中心部分とみると、強姦被害者は回復不可能な傷を負ったことにされてしまうのではないか、 (2)売春も性的自由の一部ではないのか、というのがありそうだ。杉田先生は明晰な方なのでもちろんこれに気づいてる。

強姦被害の問題

まあそもそも上野が松浦の尻馬に乗って「性と人格を分けよう」と主張したのは、やっぱり強姦被害の問題がある。なぜ強姦は特別な種類の犯罪、人格に対する犯罪とみなされなきゃならんのだ、他の犯罪とどこが違うのだ、というのはもっともな疑問に思える。

杉田先生は、まず、松浦→上野の「意味づけ」を変更しようとする試みは役に立つことはあるかもしれんが社会的にダメだという。p.234-236。たとえば息子が自動車に轢き殺されたときに、「それはたいしたことがないことだと考えよう」なんてのはナンセンスだ。OK。よい議論。また、「レイプは女性を侮辱するために行なわれるのだから、性と人格を切りはなしてしまえばよいのだ」という上野の議論がレイプ被害を少なくする戦略にはならないという指摘も正しい。でもこれだけでは杉田先生は「性犯罪のなにが特別か」に答えていない。これに対するこたえがどこにあるか私は見つけることができない。もしあるとすれば、

たとえば、強力な貞操モラル・・・が成立しているところでは、強姦被害は貞操を破るものとして、女性にとってたしかに「特別な侵害」となっているであろう。・・・弱化したとはいえ「貞操」モラルの残渣、あるいはそのある種の変種・・・でさえ、依然として強姦が女性にとって特別な侵害となる原因になる。人権が意識された社会っではことのほかそうであろうが、そうした意識がなくてもまた同様なのである。
だから、性と人格とを切り離したとしても、そうした根強いモラルが生きる社会では・・・強姦が女性にとって特別な侵害になるという事実は、何ら変わらないのである。(p. 243-4)

ここしかない。つまり杉田先生は、社会のモラルがそうだから強姦は女性にとって特別な侵害なのだ、と主張したがっているように読めてしまう。もしこの読みが正しければ(あんまり自信がない)、松浦や上野の議論と大きな距離があるわけではないように見えてしまう。おかしすぎる。杉田先生はもっとはっきりと性犯罪が特別な犯罪である根拠を提出しなければならないと思う。

私だったら、性的な侵害を受けることは文化とは独立に、実際に被害者にとって心理的に特別な経験なのだ、それは人間に共通の経験だ、と主張して終わりにするんじゃないかな。それで十分なはずだ。誰でも頭を殴られればいやなのと同じように、レイプされることはそれよりイヤなことなのである。(そして進化心理学もそれを支持するはずだ。Randy Thornhill and Craig T. Parmer, A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion, The MIT Press, 2000やDavid M. Buss, The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating, Basic Books, 2003とか。)

これに対して社会構築主義とかって馬鹿な立場を原理主義的に採用すると、強姦を受けた女性の嘆き悲しみも社会的な条件づけや文化に依存することになってしまうから、「女性が現にそう感じるから」という主張の威力が薄れてしまう。まったく馬鹿な立場だと思う。

売買春は?

杉田先生のもう一つの弱点は、売買春の自由のようなものをどう扱うか。性的自由が認められるんなら、なんで売買春しちゃだめなの、というのはもっともな疑問だ。これで非常におかしな議論をしている。

「ある種の性的自己決定は、法的な厳しい制約を課されるべきである。・・・自己決定権は、それ自体尊重されるべきであるとしても、その行使は他者を害するかぎりはっきりと制限されなければならない。」

これはまともな議論である。危害原則。また、

「他者を害する」とはいかなる事態を指すのか。他者に対する身体的危害はもちろんだが、精神的危害を加えることもここに含まれるであろう。またより広く、他者の有する権利・・・に対する侵害も含まれるだろう。」(p.180)

これもOKである。しかし杉田はここから次のように論を進める。

ある人が、他の人と比べて不当に差別され、それによって「同等に扱われる権利」(平等権)を侵害されたとき、たとえその人が精神的苦痛をこうむらなかったとしても、それは他者を害する行為とみなされなければならない。(pp.179-180)

ここでかなり異常な議論になってしまっている。

言論の自由—これはふつう「精神の自由」として公権力による侵害を受けない権利であるが、一方でより積極的な行動の自由を含意している—の行使の結果、たとえば黒人やユダヤ人、さらには同性愛者、「内縁」者といったマイノリティ集団に対する偏見や憎悪が助長されるとき、そうした自由の行使は無制限ではありえない。(p.180)

上は主張はわからないでもないのだが、かなりホットな議論の対象となっている問題である。少なくとも自明だと言えるような事例ではない。

次に問題の多いパラグラフが続く。

「自己決定権」は、前記のように結婚の自由を含むと理解することができるが、これがたとえば同性愛者や「内縁者」に対する差別をもたらしうることは、明らかであろう。

「明らかであろう」と言うがまったく明らかではない。

人はそれぞれ個人として現われるが、多かれ少なかれある種の規定性を背負った類(たとえば異性愛者、制度的結婚の肯定者として現われる。そして私たちは、その種の規定性を理由に、しばしば人を差別しがちである。差別(平等権の侵害)は、ふつう個人に対する行動にうちに現われるとはいえ、その実差別は、ある種の類的規定をもつ人々に、したがって集団に、向けられるのである。だから「他者」に対する侵害は、個人を越えて集団に及ぶと言うのである。

非常にわかりにくい文章だが、言いたいことはおそらくこうだ。われわれはもちろん個人ではあるが、同時に常になんらかの特徴をもったグループの一員でもある。たとえば私はkalliklesという偽名を持つ個人であるが、同時に「男性」であり「京都市民」であり「日本人」であり「血液型B型」であるように、特定の特徴によってあるグループに入れることができる。

「差別」は常にあるグループに対してなされる。「差別」は私が理解している意味では、「当の問題に無関係な特徴を根拠として扱いを変えること」である。企業が新入社員を採用する際に重要なのは、「その新入社員がその企業にとって有用な人間であるか」であるはずで、そこでは男女の差はとりあえず重要な違いではない。だから「女性だから」という理由で入社を認めないのは「差別だ」と言われる。同様に「生まれた地域」もまたふつうの企業にとっては重要ではない特徴のはずだ。

もちろん、銭湯の女湯に男は入ることができない。なぜなら、われわれは一般に異性に裸を見られることを恥ずかしいと思うことが多いので、銭湯での性別は重要だからである。

さて、差別はある特徴をもとに扱いを変えることなので、ある特徴を共通にもつグループに対してなされる。「おまえはノビタだから仲間に入れない」という「差別」は考えられない。むしろ、差別は「おまえは男だから」「おまえは北海道出身だから」という形になる。「女だから~」という差別は女性というグループに対して、「アジア人だから~」はアジア人に対してなされる差別である。つまり、差別は常にグループに対するものである。ここまでは杉田の言うことはわからないわけではない。

一般に行動は、それが担いうる意味・・・に対して、即自的(無自覚的)でも対自的(自覚的)でもありうるが、ここで問われるべきは、即自的な行動であるよりは対自的な行動である。いま「同性愛者」差別にふたが、たとえば異性との結婚は、即自的な行動として、自らを異性愛に—サルトル流に言えば—アンジガジェ(拘束)するが、それは同時に世界全体を異性愛にアンガジェすることであり、したがって時として同性愛差別を招きうる。しかし、仮にそれを招いたとしても、その差別は、源泉が即自的な行動であるだけに、ふつうは暗示的implicitなものとして許容しうるであろう。

ここから議論は泥沼に入る。こういう難解な文章や独特の術語が出てきたときは用心しなければならない。下敷になっているのはサルトルの『実存主義とは何か』の悪名の高い個所。

「異性との結婚はみずからを異性愛にアンガジェする」。サルトル自身がこういうことを言っているのだが、この文章が何を言おうとしているのは非常にあいまいである。「アンガジェ」に説明されていないさまざまな意味が含まされており、文章の意味を画定することが非常に難しい。「異性愛に拘束する」と解釈しても不明瞭である。異性との結婚が自分を異性愛に拘束するとはどういう意味か?「拘束する」という言葉を文字通りに解釈すれば、おそらく「異性と結婚したら、それからずっと異性を愛するということに自分を拘束し約束したことになる」と解釈するべきなのかもしれないが、いったい結婚することのどこにそういう意味あいがあるのだろうか。なぜひとが異性と結婚したらそれ以後ずっと異性を愛さねばならないということになるのだろうか。わたしにはさっぱりわからない。

さらに悪いことに、そういう異性との結婚は「世界全体を異性愛にアンガジェ」することになるらしい。「世界全体を異性愛にアンガジェ」することがなにを意味しているかわたしにはまったく見当がつかない。「他人も異性を愛するよう拘束する」のだろうか?このようなタワゴトにつきあっている暇があるひとはそれほど多くないだろう。

好意的に解釈すれば、「異性と結婚することは、そのひとの「私にとっては異性との結婚が価値のあることに思える」という価値判断を表明することになる」ということだろう。しかしこれのどこが問題なのだろうか。

さらに、これが「同性愛差別」になる理由がさっぱり見当がつかない。なぜ私が異性と結婚することが同性愛差別と関係があるのか。杉田は差別を招き「うる」としているが、どういう場合にどういうタイプの差別を招くのかわからない。

さらに「ふつうは暗示的なものとして許容しうるであろう」の根拠も明白でない。たんに杉田がそう思いこんでいるだけである。

全体としてこのパラグラフはひどい文章である。意味不明。

だが、対自的な行動から発する差別はそうではない。一般に対自的な行動は、即自的な行動に対してはもちろん、単なる言葉の使用・・・よりもはるかに明確に、自らを、そして世界全体をある方向にアンガジェし、それを通じてより明確なマイノリティ差別を生むのである。」

自覚的な行動は世界全体をアンガジェする力が強いらしい。しかしアンガジェとはなにか?

買春は、対自的な行動である。・・・買春は、ふだんなら望んでも容易に手に入らない女性の身体を、金の力により自由にし、玩弄する行為である。それは、明確な女性支配の行動である。・・・また買春によって男性は、女性を(個々の女性のみか類・集団としての女性を)、男性の欲望に奉仕すべき性的モノ(セクシャル・オブジェクト)であり、金で支配してよい対象であるとする見方の方向に、己れを、したがって世界全体を明確にアンガジェ(拘束)する。それ故、買春者が実勢に女性一般(類・集団としての女性)を差別視する蓋然性は、非常に高い言うべきであろう。ある女性たちを、金で支配してよい存在と見るなら、そもそも一般に女性を、したがって他の女性を支配すべき存在と見ることは、彼にとって正当なのである。(p.182)

この何度も繰り返されるサルトル流の「世界全体をアンガジェする」の意味が明確でない。ある男性が買春するかどうかで世界全体が変化するというのはわかりにくい。おそらくもっとふつうの言い方をすれば、「買春することによって、その男性は女性を支配すべき存在と見るような世界観を手に入れることになる」ということだろう。

構造的・集合的な関係においてみたとき、買春は(ポルノ視聴とともに)「男権主義的セクシュラリティ」や同パーソナリティを作り、女性の性的モノ化、女性に対する支配・統制・差別を生み出さずにはおかない。・・・買春が右のような行動であるとしたら、買春は女性の平等権を侵害する営みであると言わなければならない。それ故、仮にそれが自己決定権の行使とみなされようと、買春はこの故にまったく権利性を主張できない。 (p.183)

これまた難解な文章だが、おそらく言いたいことは、「買春やポルノ視聴は女性に対する支配や差別の心理的原因になるからだめだ」ということなのだろう。

よくわからんよな。たとえばある女性が、留学するためのお金をためるため、一時的に風俗嬢として生きることを主体的に選択し、自分のセックスとひきかえに男性から金を要求することを決断したときに、この女性はいったい何にアンガジュするんだろうか。この女性の決断によって世界はどうなるんだろうか。この女性はおそらく、自分の実存のために、自分の性的な魅力を金銭的な価値に還元し、男性をたんなる財布とみなし、できるかぎり客から金をむしりとることにしたのかもしれない。男性を「モノ化」することによって、この女性は主体性を獲得するのかもしれない。これは杉田先生の言う「平等権」についてはどういう影響をもたらすんだろうか。そういう選択は主体的でも実存的でもない、とか言うんだろうか。

自由と平等のどっちが優先するのかってのはたしかに難しい問題だけど、杉田先生のようになんでもかんでも平等が優先する、というような主張をするのは難しいだろう。

こんな曖昧で怪しい議論をしなければ売買春を非難することができないのは、杉田先生としても無念であろう。

気になるのは、このような文章で杉田は男性あるいは人々の心理や思想を直接に統制しようとしていることである(これに杉田がどの程度自覚的であるかはわからない)。われわれは人々の行動を制限することがあるが、人々の思想をコントロールすることはつつしむべきであるということが近代社会の大原則の一つである。杉田はそのような内面や思想の自由にたいした価値を認めていないのかもしれない。(そうではないと思うのだが)

まあよくわからん。むずかしい。

*1:はてなキーワードになってないのがかわいそうだからブレースでくくってみた。

*2:もし上野先生にあれほど強力な弟子筋(特に赤川先生と加藤先生)がつかなければ、上野先生はカミル・パーリアの路線に乗ってたんじゃないかと憶測している。ラジフェミ路線やフーコー路線より、パーリアのラインの方が上野らしい。でもただの憶測。

『性現象論』

浅野千恵のかなり優れた論文「『性=人格論批判』を批判する」(『現代思想』第26巻11号、1998)を読んでいたら、加藤秀一の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』にぶつかった。あれ、性暴力について書いてたんだ。でちょっと『性現象論』該当個所を読んでみるが、なんだかすごい。
性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?
  2. 男も暴力的な犯罪の被害者になったときに非常に屈辱感を味わうが、それとは違うか?
  3. 強姦の被害者の女性はいまだに汚れたものと扱われているのか?
  4. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。明日ちょっと批評書きたいのでメモだけ残しておく。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為であるはずがない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

性暴力を他の暴力から区別するものはなにか。私には答は明白に見える。それは性欲だ。

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二瓶由美子先生のすばらしい研究

二瓶由美子「ポルノグラフィーと性犯罪~暴力的AVが性犯罪に与える影響について」『桜の聖母短期大学紀要』第28号2004 というのも見てみた。

これはもっとすばらしくて、誰がどういう調査を行なったのかがそもそも不明。

1999年12月に結成されたポルノ・買春問題研究会(Anti-Pornography-Prostitution Research Group 以下APP研究会とする)は、(略)日本におけるポルノグラフィーと買売春の被害実態を調査し、それらの社会的根絶のための理論的・実践的方向性を提示しようとするものである。

APP研究会は~2003年には、「ポルノグラフィーの被害」の全体像を明らかにするべく、全国の女性の弁護士、婦人相談員、フェミニスト・カウンセラーなどを対象とするポルノグラフィー被害実態調査(科学研究費基盤事業)を行った。

アンケートに対する回答の中で、ポルノと性犯罪についての分析を担当した経緯があり、本論文においてはこのアンケート結果について言及する。

注のなかで

2001年度から2002年度にかけて、日本学術振興会の科研費事業の認定を受けて実施。2500人にアンケートを送付し、311通の回答を得た。そのうち、ポルノに関連した相談を受けたとするものは167人だった。

ということらしい。APP研が科研費受けたのかと思ったが、中里見博先生が基盤研究でもらったらしい。なるほど。でもあれは「認定」なのかなあ。

荒木菜穂さんのすばらしい研究

ポルノと性意識の実証調査というのは実はあんまり数がない。

もうちょっと若い世代の研究も見てみた。

荒木菜穂「ポルノグラフィ文化におけるホモソーシャルな構造~大学生へのアンケート調査を通して」『鶴山論叢』第5号、2005

荒木さんは発表時点で神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程後期課程に在籍していらっしゃるようだ。

この論文ではどういう対象にどうやって調査したのかも記されていない。

関西の2大学、関東の1大学において、2002年6月21日、7月12日、2003年1月15日の全4回、SWASH (Sex Work and Sexual Health)の協力により荒木が実施。回収数240部、内訳女性131人、男性101人、不明8人。

ということだが、どの程度配ったのか、その他知りたいことはたくさんある。

で内容だが、まず、この論文も質問用紙がどのようなものであるか明示していないのが気になる。

 

(1)まず「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」という設問を行なったらしい。

出てくるのは、

  • 男性では順に「エロ本」(65.1%、以下数値は略)「アダルトビデオ」「成人向け込みっく」「ポルノ小説」「成人映画」「男性週刊誌」「アダルトサイト」「ヌード写真などを使った広告」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」、
  • 女性では「アダルトビデオ」(61.4%、以下略)「エロ本」「成人映画」「成人向けコミック」「ポルノ小説」「男性週刊誌」「ヌード写真などを使った広告」「アダルトサイト」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」

ということらしい。質問が選択式なのか記述式なのかわからない。それに、「やおいマンガ・小説」が入っていないのはどうしたことだ。若い(おそらく)女性研究者が、やおいを選択肢に入れないなんて考えられない。

で、さらにまずいことに、次の質問で「ポルノグラフィを目にしたことがあるか」「自主的にポルノグラフィを見ることがあるか」をたずねてしまっている。で、クロスをとる。たとえば次のよう(これも技術的問題から表記を変更してある)

表3 性別と自主的にポルノグラフィを見ることがあるかのクロス表

yes no 無回答 合計
男性 75 (90.4%) 8 (9.6%) 83 (100.0%)
女性 15 (14.2%) 86 (81.1%) 5 (4.7%) 106 (100.0%)
合計 90 (47.6%) 94 (49.7%) 5 (2.6%) 189 (100.0%)

当然の問題は、表3が何を表現しているか、ってことだわなあ。
この質問に答えた人はなにをポルノグラフィだと思って答えたんだろうか?最初の設問で「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」があれほど多様だったのだから、さまざまなものをポルノグラフィと思って答えてるんだろう。荒木菜穂さんはポルノグラフィを定義もせずにこんなことを尋ねてなにか意味があると思っているのだろうか。

この論文ではいっさいの検定を行なわないと決めていらっしゃるようだ。ただクロス表を並べるだけ。

なんか面倒になったからやめる。神戸大学総合人間科学研究科は、ちゃんと社会調査の方法を学生に教えるべきだと思う。

荒木さんはポルノの享受には「ホモソーシャルな構造」があると言いたいようだけど、やおいだのボーイズラブだのってものも視野に入れれば、ぜんぜん研究が違ってきたのに。とくに女子はそういうものを交換して楽しむ傾向があるように見えるから(証拠ないけど)もっとおもしろかったのに。

この方はblogももってるようだ。そっちは実感のこもったおもしろいこと書いている。上の論文は調査としてはダメダメだけど、フェミニズムの視点からのポルノ批判のまとめはよく書けていると思う。研究がんばってほしいものだ。

佐々木輝美先生のすばらしい研究

佐々木輝美「性的メディア接触が大学生の性意識に与える影響に関する研究」『国際基督教大学学報I-A 教育研究』46号2004 という文献を見る機会があった。

佐々木輝美先生は国際基督教大学准教授、メディアと暴力の専門家で、テレビでの暴力の問題などをあつかっていらっしゃるようだ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326601108/qid=1141351466/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-7411419-2233126 という著書もある。(一部でよく引用されているようだ。私は杉田聡先生の著書でお名前を知った。)

この論文は、大学生が性的メディアに触れた経験と性的な態度の間には相関関係があることを統計的に証明しようというもの。結果はポジティブ。さらに、メディアでの歪んだ情報が受け手の意識のなかに受けいれられてしまうということらしい。

しかし、この研究を見て驚いた。

質問票は明示されていないが、次のようだ。

  1. 性的メディア接触(ポルノコミック、グラビア雑誌・ヌード写真集、ティーン雑誌、アダルトビデオ、テレクラ・ツーショットダイヤル、インターネットのアダルトサイト、裸やセックス描写のあるゲーム、スポーツ新聞のエッチな記事、出会い系サイト、など)
  2. 「同じ年くらいの人がセックスすること」についての考え
  3. 「同じ年くらいの女性が、見知らぬ人(知り合ったばかりの人)とセックスすることについての考え
  4. 「お互いの同意があれば、誰とセックスしてもかまわないかどうか」 (そう思う、そう思わない、わからない)
  5. 「罰せられる恐れがないとしたら、同意が得られなくても、好意を持っている相手にキスするかもしれない」と思うか (そう思う、そう思わない)
  6. 「罰せられる恐れがないとしたら、同意が得られなくても、好意を持っている相手にセックスをせまるかもしれない」と思うか (同上)
  7. 「キスをしてもいい時期と考えるはいつ頃から」だと思うか (小6-中3、高校、高卒後、わからない)
  8. 「セックスをしてもいい時期と考えるはいつ頃から」だと思うか (同上)

2002年6月に、埼玉県にある私立大学生350人(男子104名、女子246名)に調査したらしい。

で、いきなり表が次のようにして提示される。(私の技術的な問題から若干表
記を変更してある)

表4 「性的メディア接触」と「同意があれば誰とセックスしてもかまわない」

そう思う そう思わない 分からない 合計
接触あり 51.0% 26.0% 23.1% 100% (104人)
接触なし 34.6% 27.5% 37.9% 100% (240人)
全体 39.5% 27.0% 33.4% 100% (344人)

x^2=9.76, p<.01

なんといってもすばらしいのは、回答を男女で分けていないことである。すばらしすぎる。

ちなみに設問(1)の回答がどうだったのか論文では触れられていない。上の設問を見れば、「接触あり」が344人中の104人しかいないなんて信じられない。「接触あり」が104人なのは、男子104名なのと関係があるのだろうか。ないのだろうか。せめて頻度その他、どの程度接触するかで割らないとどうしようもない。

表7 「性的メディア接触」と「罰されなければ同意がなくてもセックスをする」

そう思う そう思わない 合計
接触あり 14.3% 85.7% 100% (91人)
接触なし 3.7% 96.3% 100% (218人)
全体 6.8% 93.2% 100% (309人)

x^2=11.42, p<.01

「そう思う」と「そう思わない」の二択に強制したため無回答が出たのか、なんの断りもなく(!)回答総数が減っている。さらに、論文の最初の方では「セックスをせまるか」だったのに、表や分析では「セックスをする」になっている。そりゃ「好意を持っている相手に同意がなくてもセックスを「せまり」ますか」と言われればイエスと答える男子はいるだろう。ポルノと関係なく「せまる」のは同意をもとめる努力の一部だと解釈する学生もいるだろうし。もし「好意をもっている女性にせまる」のが佐々木先生がおっしゃるように「性暴力」なら、世の中は性暴力に満ちている。(まあ実際に満ちているのは認めざるをえないし、それはよくないことだ。)しかし、両者が相撲の仕切りのように最初から同意してやる気満々なんてケースはめったにないと思うぞ。

しかし「同意がなくてもセックスしますか」だったらイエスと答える人間はぐっと減るはずだ(これにイエスと答えるのはたしかにレイプ犯予備軍なのは認める)。だいたい「好意をもっている」がどの程度効いているのかもわからんし。佐々木先生は「罰されなければ強姦しますか」の婉曲な質問のつもりで作ったんだろうが、どうせだったら「あなたが性欲を感じたらなんの好意ももってない相手と強制的にセックスをすることがあると思いますか」とでも質問したらどうなんだ。(このタイプの質問に「俺はそんなことはぜったいしない」と言いきれる奴は、それはそれで問題があるかもしれないのだが、それはそれで別の話。)

こういうデータをもとにして、「性的メディア接触により歪んだ性情報や性行動を現実のものとして受け入れ、半ば性暴力的な態度が形成されているかもしれない」とおっしゃる。

もちろん用心深く、

本研究では、Gerbnerのカルティベーション論を援用し、性的メディア接触が歪んだ性情報の受容を促進し、その結果として青少年の性に対する態度が寛容になっているのではないかと推測した。大学生350名に対する調査から得られたデータを分析したところ、上記の仮説を支持する結果を得ることができた。しかしながら、関連性は示すことができたものの、これによって因果関係が証明されたわけではない。

とおっしゃる。まあ統計だけから因果関係を言うのはたしかに難しい。だいたい性的に寛容な人間の方が積極的に性的メディアに接触するだろうし。女性の場合そういうメディアに接触するのは男性と性的な関係を持ってからの場合が多いということも言えるかもしれないし。

しかし問題はそれじゃなくて、明らかに性差が相関の強い要因であると推測され、他にも色んな先行研究があるときに性で分けてみないってのはどういうことなんだろうか、ってことだよな。それに性体験の有無や頻度その他や年齢も大きく関係しそうなのに。

それに、上の設問からどうやれば「歪んだ性情報の受容」だの「性に対する態度が寛容」だということが読みとれるんだろうか。「キスしてよい年齢、セックスしてよい年齢」がどういう意味があるかわらかんし 1)ちなみにこの二つは有意差なし。 。こんな質問を入れるくらいなら、せめて、「強制的にセックスすることは許されると思いますか」「強制的なセックスをした人にはどれくらいの罰が適当だと思いますか」「女性は時にはセックスを強制されるのを望むことがあると思いますか」のような設問にするべきだろう。

設問(3)が「同じ年の女性が」になっているのも気になる。なぜついでに「同じ年の男性が~」を尋ねないのだろうか。女性はよく知らないひととセックスしてはだめで、男性はOKというのが正しい情報なんだろうか。このアンケートがそういうメッセージを回答者に伝えてしまうかもしれないことをどの程度認識しているんだろうか。

こんなものを論文として流通させている国際基督教大学というのはどういう大学なのだろうか。こういう人に授業ならっている学生は大丈夫なのだろうか。

あとちょっとだけこの方の考察に触れておくと、こんなことを言っている。

大人を介さずに得られたメディア情報の中には歪んだ性情報が多く含まれていることが予想され、青少年の間に歪んだ性情報が偏って存在している可能性が考えられる。・・・携帯電話によって・・・親などの大人を介さずに直接仲間とコミュニケーションが取れる状況が出現したため、これによって性情報が主に仲間集団の間で交換されるようになった。しかし、そこで偏った性情報が交換される可能性が高く、結果的にそれらの情報に多く接触する青少年の意識の中に歪められた性情報が受け入れられてしまうということになる。

このひとはどういう子ども生活を送ったのだろうかと心配になる。年長者や仲間と遊ぶなかで、エッチな話をして、ちゃんとまちがった知識をもらったり、謎をいっしょに推測してみたりしなかったのだろうか(そして自分の人生のなかで正しい理解を得たりまちがったり)。友達とつきあうときに親などの大人を介したのだろうか。親や他の大人から「正しい」知識を与えてもらい、そのまんまなのかな。さすがに性についての正しい知識をお持ちの方は違うものだ。

我々は最も重要で、かつ基本的なことを忘れるべきではないだろう。それは、生(なま)の環境における家庭や学校、あるいは地域社会での子ども同士、大人同士、そして大人と子ども同士の自然でダイナミックなコミュニケーションであり、メディアはこれ以上に子ども達に大きな影響を与えることはできないだろう。

そりゃそうだろう。しかし、性についての情報や知識や実践知がどう得られ、どう伝えられるべきなのかまじめに考えたことはなさそうだ。

References   [ + ]

1. ちなみにこの二つは有意差なし。

荒木菜穂さんその後

でネチネチからんでしまった荒木菜穂さんの「現代フェミニズムスにおける「性の政治」再考:「女性による性的快楽の追求」への多様なまなざし」女性学年報、25巻、2004 という論文を見る機会があった。

おそらく若い学生さんなので、特にこの方に粘着しようと思っているわけではないのだが、タイトルに興味があったから読んでみた、ぐらい。特に個人的に興味があるわけではない(まあ若い世代の学者文献リストを見たいってのはある)。読んでいると、途中、(Macska 1998=2002)という表記を見ておどろく。はてなダイアリーでも有名なid:macskaさん(正直私はファンだ)の Living in Postmodernity: The Third Wave Feminsm and the Identity of Desire という論文か本を参照しているじゃないか。おお、「macskaさんはこの名前で出版してたのか!これは読まねば」と思いきや、unpublishedで、http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html 
を指して「アクセス2004年5月8日」と書いている。んじゃ、論文webに載っけてるのかなと見てみると、このページはLiving in Postmodernityというmacskaさんの未発表の本の「解説」のページじゃないのかな。ううーん。まあweb参照するのはいいんだけど、さすがに存在しているかどうかわからない文献を参照しちゃだめなんじゃないか。この場合は、著作権主張もページの下ではっきりなされているわけだから、

macska.org, 2000, 「第3次フェミニズムとは?」, http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html, 2004年5月8日アクセス

ぐらいにしといてほしい。

それとも直に原稿見せてもらったのかな。いいなあ。

この本出てるんですか?macskaさん、ということでトラックバック送ってみた。トラックバックというのはリンク貼るだじゃだめなね。・・・あら、なんかおかしいことになった。失敗。ごめんなさい。

“Third Wave Feminism Explained!”っていう本も興味ある。

なんか考証癖がついてきたような気がする。いかん。しかしここしばらくの考証もどきは、論文に書くもんじゃないし、はてなぐらいが適当なネタという気もする。

 

ILLの恐怖

それにしてもあれだ。上の論文はILL (図書館相互利用)で入手したのだが、このILLとBlogは人文・社会学系の大学教員の研究生活を変える有用性だけじゃなくて、人生をまったく変えてしまう破壊力も持ってるんじゃないだろうか。いままでは紀要の論文などは手間がかかるから見ない人が多かったろうが、いまじゃあっという間に手にはいってしまう。コピーまでやってくれるから、自分で書庫に入って見つけるよりずっと楽。自分のとこの図書館にあるやつもILLで発注したくなる。へたなことを書いていると人生終ってしまうひとが出てくるんじゃないか。危険だ。夜眠れなくなっている教員もいるのではないか。大学教員は団結してILLを廃止させるべきではないだろうか。

山形の解説 (5)

山形浩生訳『ウンコな議論

「キツいシャレだなあ」と思っていったん終りにしようと思ったのだが、なんかへんな感じがする。山形がやろうとした(と私が想定している)ことは、うまくいってるんだろうか?

フランクファートの議論では、「嘘」と「ブルシット」ははっきり違うもののはずだ。嘘はなにが真理であるかがわかっていて、聞き手や読者を欺く。山形が「ファート」でやったことはブルシットではなく嘘だ。んじゃ解説全体はどうなんだろう?もしあの解説で山形が読者を(一時的にせよ)欺き、フランクファートが言ったことについて誤解させようとしたのであれば、それはブルシットではなく騙しになってしまう。

フランクファートの「ブルシット」論文自体は冗漫で曖昧だが、おそらく「嘘」は含まれていない。(出典を確かめたわけじゃないが、出典について嘘をついていたらそれはブルシットではない。)むしろ、ブルシットという彼自身がよくわからんものをいろんな出典を引いてよくわからんようにごちゃごちゃ議論しているだけだ。ごちゃごちゃしたなかで数少ないわかったことが「嘘とは違う」なわけだ。

というわけで、山形さんは(1)よく読めてない、(2)よく読めていて嘘をついている、のどちらかで、どっちにしてもあんまりうまくいってない。うまくいかない遊戯はかっこわるい。ブルシットは単なる技能ではなくある種の芸術であって、意図的にブルシットするには才能も必要なのだろう。

山形の解説のまずいところ (3)

いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。

もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、

嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)

とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。

むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる

「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」

っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。

昨日引用した山形の

この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。

という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。

だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)

 

あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。

なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。

翻訳を学術的業績として認めよう

たいていの大学教員の業績の評価では、翻訳はまったく業績にカウントされない。しかしこれっておかしいんじゃないのかな。わたしがこのごろよく見る社会学関係の本では、引用はたとえば

Parsons [1964=1973:120]

とかって形で行なわれる(上野千鶴子(編)の『脱アイデンティティ』p.13)。そして文献リストでは、

Parsons, Taldcot, 1964. Social Structure and Personality. Glencoe: The Free Press. = 1973 武田良三監訳『社会構造とパーソナリティ』新泉社「第1章 超自我と社会システム論」「第4章 社会構造とパーソナリティの発達—心理学と社会学の統合に対するフロイトの貢献」

とされている。どうもこういう社会学系の注のつけかたを見ると、パーソンズちゃんと読んだんだ勉強していて偉いなあ、と読者は思ってしまうわけだが、実は翻訳見てるだけ。文献表は邦訳のあるものだ、なんてことがけっこうある。

邦訳だけ参照にしているなら、

パーソンズ [1973:120]

と書いて、文献リストでも別に記載すりゃいいのにと思う。

もちろんべつに翻訳が悪いわけじゃないのだが、こういう原典と翻訳をいっしょに指示しようとする傾向には、山形がFrankfurtの論文を注につけたのと同じある権威主義的な欺瞞が感じられるんよな。なにを翻訳するかってのはやっぱりある見識にもとづいているわけだし、そこまで翻訳を信頼するのならば、翻訳する人々に対してもっと敬意を示し、業績として認めるべきだと思う。(ちゃんとした大学ではすでに翻訳も業績にカウントされるのかな?)

山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

 

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。