後藤浩子先生のファンキーな引用法

でコメント書いた
後藤浩子『“フェミニン”の哲学』。ケラーの本が届いたので読みなおして
いるかな・・・と。その前に。

・・・ヒュームもまた、同様な問題に直面し、次のように言及している。

男性と女性は幼い者の教育のためには、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優美の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である(注8)。

(略)このヒュームによる男性が持つ不安の構造の指摘は注目に値する。まず、精子を生殖原理と見なし、生殖原理はそもそも男性である「この私」の内にあり、それが女性の体内で自動的に展開してゆくという認識がある。しかし他方で、その原理を男性は女性に手放さざるをえない、つまり譲渡(alienate)せざるをえないという認識がある。このような私の本質の疎外の構造が不安の根源なのである。ここには「遺伝子」という概念が男根中心的な意味合いを帯び始める枠組み、しかも現代に至るまで根強く存続している枠組が映し出されている。 (pp. 212-4、傍点は太字(strong)にした。)

ヒュームの文章につけられた出典注は、「David Hume, A Treatise of Human Nature, L. A. Selby-bigge*1 ed., Clarendon, 1978, p.570. (大槻春彦訳『人性論(四)』、岩波文庫*2、一七八~一七九頁)」

大槻先生の訳は次のよう。

男性と女性は幼い者の教育のために、〔力を〕合一しなければならず、且つこの合一は相当永く持続されなければならない。ところで、この場合、男子がこの〔幼い者のための〕抑制を自己に課し且つそのさい負債する一切の労役と失費とを欣然として甘受する心に誘致させられるためには、男子は、子どもたちが自己の実子であると信じなければならないし、また、自分たちがその愛情や優の情の赴くままに任せても自然的本性はまちがった目標にさし向けられない、と信じなければならない。さて、人体の構造を検討すれば判るであろうが、この保証は我々〔男性の〕側で得ることが困難である。我々は見出すであろうが、性交にさいして生殖原理〔ないし因子〕 (the principle of generation)は、男から女へ行く。従って、〔自分の子でない者を自分の子と思う〕錯誤は、男の側でこそ容易に起ころうが、女に関しては全く不可能である。

めんどうなので旧字は新字のまま。大槻先生の文章には傍点はなし。後藤先生の文章との異同を[del]と[ins」で示したが、うまくレンダリングされるかな。該当の文を含むパラグラフ原文。
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/ToC/hume%20treatise%20ToC.htm

Whoever considers the length and feebleness of human infancy, with the concern which both sexes naturally have for their offspring, will easily perceive, that there must be an union of male and female for the education of the young, and that this union must be of considerable duration. But in order to induce the men to impose on themselves this restraint, and undergo chearfully all the fatigues and expences, to which it subjects them, they must believe, that the children are their own, and that their natural instinct is not directed to a wrong object, when they give a loose to love and tenderness. Now if we examine the structure of the human body, we shall find, that this security is very difficult to be attain’d on our part; and that since, in the copulation of the sexes, the principle of generation goes from the man to the woman, an error may easily take place on the side of the former, tho’ it be utterly impossible with regard to the latter. From this trivial and anatomical observation is deriv’d that vast difference betwixt the education and duties of the two sexes.

  • レポート・論文を書くときには、「引用は一字一句正確に!」訂正・修正した場合はその旨を断わらねばいけません。これは基本です。大学生はぜったいに後藤先生を見習わないように!
  • 大槻先生が抜かしたeducationを「教育」として入れてよいのかどうか。「養育・育成」の方の意味だろう。
  • the principle of generation。 principleを「原理」と訳すのはどうか。大槻先生はprincipleに「【8】根源,本源;動因,素因;(本能・才能・性癖などの精神的な)原動力,素因:」(ランダムハウス)の意味があるからわざわざ「〔ないし因子〕」とおぎなっているのに、そこを勝手に飛ばして引用するのはどうか。
  • ちなみにWikiPedia(en)によれば、精子(spermatozoon)の発見は1677年(顕微鏡つくられてすぐに見つかっている :-)おどろいたろう)、卵子(ovum)は・・・あれ、載ってないぞ。哺乳類の卵細胞が発見されたのはいつぐらいなんだろう。・・・どうも精子より先に1672年には卵胞が見つかっているようだが、哺乳類の卵子を発見したのは19世紀になってからか?まああとで調べよう。なんかに載ってるだろう*3
  • さて、HumeのTreatise本文にはどこみても「譲渡 “alienate”」なんて言葉は出てこないぞ。(少なくともBook IIIには)どからこんな言葉引きだしてきたんだ?なんかおかしんじゃね? こういうのが「ポストモダンは電波系」と呼ばれる理由なんじゃないでしょうか。っていうか、後藤先生はルソーやヒュームなど、フェミな人々があんまり読まないところを読んでいて偉いなあとか思っていたのだが、こういうのを見ると、なんか全体がネタ本のパクリなんじゃないかという疑念が出てきてしまうわけだが・・・まあ、いつもいちいち「~の指摘よれば」とか絶対に書かなきゃならんというわけじゃないけどね。
  • まあ「男根中心主義」がどういうものかわたしはよくわからんが、この父性の不確実性の話は現代の進化心理学とかでも非常に重要な話だよな。配偶者防衛の話*4とか、いろいろインプリケーションあり。ヒューム先生は偉いなあ。
  • ちなみにタイトルは大槻先生のでは「第一二節 貞操と謙譲について」になってる。”Of chastity and modesty”まあ内容から言えば「貞操とつつしみ〔という特に女性に要求される徳〕について」だろうなあ。
  • あら、大槻先生が〔かっこ〕にいれているのは大槻先生の解釈じゃないのかな?凡例を見たいが、第1巻が見つからん・・・。発見。大丈夫。「〔〕のうちは譯者の補足的挿入である」。それにしてもp.180とかずいぶん解釈入れてるなあ。
  • 後藤先生とは関係ないけど、この部分のヒュームが、性道徳のダブルスタンダードを正当化していると読むのは読みすぎだろう。むしろその起源を(「人為的徳」という観点から)説明しているんだと思う。いや、この読みだめかも。正当化もしてるわ。
  • ヒュームは難しいよ。とほほ。

(つづくかもつづかないかも)続きません。もう読むのやだし、ケラーの本はあまりおもしろくなかったし。

*1:Selby-Biggeだよね。誤植。

*2:発行年つけてあげたい

*3:セックスの発明―性差の観念史と解剖学のアポリアによれば、哺乳類の卵子が報告されたのは1828年、K.E.フォン・ベーア。1840年代までは交尾が排卵を引きおこすと思われていた模様。ヒトの未成熟の卵子が発見されるのは1930年。この本は「セックスは18世紀に発明された」っていう主張自体は非常にあやしいというかどういう意味がよくわからんのだが、そこらへんの科学・医学研究事情は詳しい。

*4:長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』とかが定番の入門書だろう。

「哲学の劇場」コンビのヒュームの法則理解

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
はもう読む気がなかったのだが、ぱらっと手にとって気になって放っておけなくなった部分がある。

ヒュームの法則とは、「~である」から「~べきである」を導くことはできないという主張のことだ。ヒュームは主著『人性論』のなかで、「である/でない」という断言と「べきである/べきでない」という断言とはまったく異なるものであり、前者から後者を導きだせる理由など思いもつかないと語っている。(ヒューム『人性論(四)』大槻春彦訳、岩波文庫、一九五二、三三-三四頁)

たしかに、現に存在する「である」(事実)の中身をいくら検分したところで、そこには「べきである」(価値判断)を見いだすことはできない。価値判断は事実の側にあるのではなく、もっぱら私たちの側にあるのだから。(p. 169)

あれ、このヒュームの解説なんかおかしいぞ。「理由など思いつかない」がおかしい。

おそらく大槻春彦先生の誤訳をさらに誤解したと思われる。

大槻訳では

・・・突然、私は見出して驚くが、私の出合う命題はすべて、「である」とか「でない」とかいう・命題を結ぶ・通常の連辞のかわりに、「べきである」又は「べきでない」で結合されて、そうでない命題には何一つ出会わないのである。この変化は、これを看取する者がないとはいえ、極度に重大な事柄である。何故なら、この「べきである」或は「べきでない」は、断言の或る新しい関係を表現している。従って、これを観察して解明する必要がある。また同時に、いかにしてこの新しい関係がそれと全く異なる他の(「である」又は「でない」の)関係から導き出されることができるか、その理由を与える必要がある。しかも、この理由を与えることは全く思いもつかないことのように思えるのである。(表記を変えてある)

これはおそらく誤訳。「理由を与える必要がある」といっておいて「それが思いつかん」とかって意味わからんし。ヒューム大先生はこういう意味不明なことを書いて平気な方ではない。この倫理学史上最も有名なパラグラフの原文は以下のようなもの。

I cannot forbear adding to these reasonings an observation, which may, perhaps, be found of some importance. In every system of morality, which I have hitherto met with, I have always remark’d, that the author proceeds for some time in the ordinary way of reasoning, and establishes the being of a God, or makes observations concerning human affairs; when of a sudden I am surpriz’d to find, that instead of the usual copulations of propositions, is, and is not, I meet with no proposition that is not connected with an ought, or an ought not. This change is imperceptible; but is, however, of the last consequence. For as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, `tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given, for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it. But as authors do not commonly use this precaution, I shall presume to recommend it to the readers; and am persuaded, that this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason. (A Treatise of Human Nature, Book III, Part I, Secion 1。私のもってるOxford Univ. Pr.の Selby-Biggeのやつだと469-70。)

“for what seems inconcivable”の訳が問題。 中公の『世界の名著 ロック・ヒューム』の土岐邦夫先生の抄訳*1ではこう。

突然、「である」、または「でない」という普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出合うどの命題も、「べきである」、「べきでない」で結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、この「べきである」、「べきでない」というのは、ある新しい関係、断言を表すのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されるのか、まったく考えも及ばぬように思えるかぎり、その理由を与えることが必要だからである。(pp. 520-1)(表記は変えてある)

こっちはまずまずまともな訳だと思うが、私だったらfor what seems~は、reason ~ for とつながると読んで、下のようにしたい。

「まったく思いもよらないように見えるものに対しては、この新しい関係がいかにして他からの導出でありえるかという理由が与えられるべきだ」

あら、ちょっと違うな。上の訳まちがい。だめ。土岐訳がよさそうだ。 *2

おそらく「もし「である」から「べし」の間のつながりがよくわかんない(自明でない)ときには、そのギャップはちゃんと理由で埋めてかなきゃだめだ」
ってことだろう。

人が「である」から「べきである」に移行するとき、かならずそこには飛躍がある。飛躍は、それ自体としてはよいことでも悪いことでもない。人が意見を抱くときに、飛躍が生じるのは当然のことだ。飛躍のまったくない意見などあり得ない。問題は、それがいったいどんな飛躍であるのかということ、これにつきる。(p.170)

だから、この哲劇な人々の解釈はぜんぜんちがってしまってる。ヒュームが言いたいのは「かならず飛躍がある」なんてことじゃない。そして論理の飛躍はふつうは悪いことだ。ヒュームが指摘しているのは、「事実に関する判断から「だけ」では規範や価値に関する判断はでてこない。(どこかに規範や価値に関する前提が隠されている)だから、飛躍がないように理由でつなげ、どういう関係か明らかにしろ、読むときは飛躍に注意しろ」だろうと思う(なんか自信がなくなってきた)。

土岐訳では略されてしまっているが、大槻訳ではヒューム先生はちゃんと次のように述べている。

ところで、道義の体系を説いた人々はこうした(理由を与えるという*3)用心をしないのが普通である。それゆえ、私は読者がこれをするように敢えて勧めよう。そして私は堅く信ずるが、この僅かな注意は道徳性に関する一切の卑俗な体系を覆すであろう。*4

まあ大槻先生の誤訳は罪が重いが、ああいうのを見たら文意からして「おかしい」と思ってみるのが哲学のセンスってもんだと思う。もしセンスがなくたって(私もぜんぜんない)、 少なくとも、自説の重要な部分でこんな重要な部分を使おうとするのなら、一回原文チェックぐらいしておこうや。ネットですぐに手に入るんだし。もしかしたらこの人たちはヒュームをまじめに読んだことがないのかもしれない*5。いいかげんな科学的事実や哲学的知識を振り回して暴れる馬鹿なバックラッシュ派を叩くために必要なのは、科学的事実や哲学的知識の正確さを検討するアカデミックな誠実さだと思う。反省してもらいたい。

なんかいろいろ自信がなくなってきたが、ここではとりあえず、ヒュームの言い分は、「事実判断「だけ」からは価値判断は出てこない」というものだと解釈しておく。いちおうオーソドックスな普通の解釈。(詳しくは下の方参照)

んで、もうひとつ。

たとえば、AさんにはBさんを喜ばせたいという目的があり、誰もそれに反対する理由を持っていないとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねから、「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても、たいていの場合その判断に反対すべき特段の理由はない。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。(後略)

こっちはかなりミスリーディングな解説になってる。

くりかえすが、「ヒュームの法則」のポイントは事実判断だけからは、論理的には規範判断は出てこないってこと。したがって、「Bさんはホットケーキを作ってもらうと喜ぶ」という事実だけから「Bさんにホットケーキをつくってあげるべきだ」という規範判断はでてこない。この規範判断をするためには、「Aさんを喜ばせる「べき」だ」という規範を含んだ大前提が必要。(しかしこの前提が入ればなにも飛躍はないことに注意。)

同じように、「女は子どもを育てるのが自然だ」という事実判断から、「女は子どもを育てるべきだ」は出てこない。これを言うためには、「女は自然なことをするべきだ」という規範を含んだ(かなりあやしい)前提が必要だ。(「自然なことをするべきだ」が言えれば飛躍はないが、この前提はすごく怪しい。)

これが「ヒュームの法則」をもちだす一番のポイント。つまり、隠された前提をはっきりさせろ、そしてその前提の妥当性を問え。

で、哲劇コンビの説明のなにがミスリーディングかというと、

「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」

という判断は、おそらく上のようなヒュームの法則でいわれる規範判断では「ない」かもしれないてことだ。少なくとも、もうちょっと正確に書きなおした、「AがBを喜ばすためには、ホットケーキを作ることが最善だ」のような判断は事実判断かもしれない。「Aが(あるいは「自分が」)喜ばせるためには」という条件がはいると、単なる目的合理性についての事実判断になってしまうかもしれない。

さらに重要な点として、もし「Aさんをよろこばせるべきだ」という価値判断がなければ、上にあげられている事実に加え、「AさんはBさんを喜ばせたいと思っている」「AさんはBさんを喜ばせるという目的をもっている」という「事実」(これは事実判断)を入れたとしても、ここから「AさんはBさんにホットケーキをつくるべきだ」はやっぱり出てこないのだ。

だから、ミスリードしない文章は次のようになるはずだ。

たとえば、Aさんは「Bさんを喜ばせるべきだ」と判断しているとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいと思っており、ホットケーキを食べたら喜ぶだろうという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねと、「Bさんを喜ばせるべきだ」という価値判断から、「私はBさんにホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても論理的にはまっとうである。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家庭を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。「産む性は家庭を守るべきだ」という隠された大前提がおおいに議論の余地があるからだ。~~~

哲劇コンビの文章とこの文章がどの程度違って見えるかってのが問題なわけだが、私にとっては全然違うのだが、あんまり違わんかもしれん。そして結論も同じような「「科学的事実」から規範を考えるときにはよくよく注意しましょう」でしかない。でもそういう細かいところが大事な違いだし、そういう細部にこそ哲学とかってものの意味があるんだと思う。でなきゃ思いつきがなんでも哲学になっちゃう。

もちろん、アカデミズムに所属していない人が哲学について語るべきではないとかそういうことではない。でも最低限のアカデミックな誠実さやメディアリテレシーのようなものは必要で、それがジェンダーフリー派とバッシング派の双方に欠けていたんじゃないかと思っている。これは私個人の予断かもしれん。

うーん、説明むずかしいな。これで「飛躍」とかが問題なんじゃないってことがわかってもらえるだろうか。なんかだめそうだ。力が足りない。だめだめ。(あとでもうちょっと書くかもしれないけど、あんまり改善しそうにない。)

ヒュームむずかしいぞ

ヒューム難しい。やばい。ヒュームやばい。知ったかぶりするんじゃなかった。困ったときはまずStanfordのplatoさんに聞こう。ましな知ったかぶりのヒントをくれるはず。http://plato.stanford.edu/entries/hume-moral/なるほど、解釈がかなり分かれている部分なのだな。たしかに複数の解釈を許してしまうような書き方だ。私は以下であげられているHareたちのオーソドックスな立場から解釈していた。でもまあどちらの解釈にしても「飛躍」があるとかあって当然だとかいうことにはコミットしないようだからよかった。はあ。

5. Is and ought

Hume famously closes the section of the Treatise that argues against moral rationalism by observing that other systems of moral philosophy, proceeding in the ordinary way of reasoning, at some point make an unremarked transition from premises linked only by “is” to propositions linked by “ought” (expressing a new relation) — a deduction that seems to Hume “altogether inconceivable” (T3.1.1.27). Attention to this transition would “subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason” (ibid.).

Few passages in Hume’s work have generated more interpretive controversy.

On the orthodox reading Hume says here that no ought-judgment may be correctly inferred from a set of premises expressed only in terms of ‘is,’ and the vulgar systems of morality commit this logical fallacy. This is usually thought to mean something much more general: that no ethical or indeed evaluative conclusion whatsoever may be validly inferred from any set of purely factual premises. A number of present-day philosophers, including R. M. Hare, endorse this putative thesis of logic, calling it “Hume’s Law.” (As Francis Snare observes, on this reading Hume must simply assume that no purely factual propositions are themselves evaluative, as he does not argue for this.) Some interpreters think Hume commits himself here to a non-propositional or noncognitivist view of moral judgment — the view that moral judgments do not state facts and are not truth-evaluable. (If Hume has already used the Motivation Argument to establish noncognitivism, then the is/ought paragraph may merely draw out a trivial consequence of it. If moral evaluations are merely feelings without propositional content, then of course they cannot be inferred from any propositional premises.) Some see the paragraph as denying ethical realism, excluding values from the domain of facts.

Other interpreters — the more cognitivist ones — see the paragraph about ‘is’ and ‘ought’ as doing none of the above. Some read it as simply providing further support for Hume’s extensive argument that moral properties are not discernible by demonstrative reason, leaving open whether ethical evaluations may be conclusions of valid probable arguments. Others interpret it as making a point about the original discovery of virtue and vice, which must involve the use of sentiment. On this view, one cannot make the initial discovery of moral properties by inference from nonmoral premises using reason alone; rather, one requires some input from sentiment. However, on this reading it is compatible with the is/ought paragraph that once a person has the moral concepts as the result of prior experience of the moral sentiments, he or she may reach moral conclusions by inference from causal, factual premises (stated in terms of ‘is’) about the effects of character traits on the sentiments of observers. They point out that Hume himself makes such inferences frequently in his writings.

追記:結論部分のミスリード

13日追記

脳科学は「である」という事実を追求し、人性論は「べきである」「したほうがよい」という指針を提示する。でも、先に見たように「である」から「べきである」は帰結しない。このふたつが結び付けられている場合、そこにどんな飛躍があるかということに注意しておきたい。そのような議論には、「べきである」という主張を裏打ちしたり補強したり、ようするに説得力を増すために「である」という知見が動員されている場合が多い(人はそれを「権威主義」という)。(p.171-2)

権威主義とは関係ないだろう。事実だけから規範は出てこないといっても、規範を考えるときに事実は関係がないというわけではない。むしろ逆に、なんか規範的な判断を下す際に、事実に関する知識は非常に重要だ。特に社会政策のように統計的集団を扱わねばならない場合には、統計的事実が非常に重要な場合がある。事実とまったく独立に規範判断を下せる場合なんてほとんど考えることができない。

それに、権威主義っていうのはふつうは権威とされるものによっかかってそれを無批判に受けいれてしまうことなわけだが、権威による論証が必要な局面は多い。われわれはなんでも自分で調べることができるわけじゃないのだから、たいていの知識は、伝統や親や教師や科学者や信頼できる科学ライターやブログ書きなどのいろんな権威に頼ることになる。その「権威」がちゃんと権威である資 格がある *6のなら、それ自体は悪いことじゃない。だめなのは権威を常に無批判に受けいれてしまうこと、権威の資格のないものを権威としてしまうことだ。脳科学者は社会的規範についての権威ではないから、そんなものを規範についての権威として受けいれたらやばいってことにすぎない。(ちなみに「倫理学者」も規範とか倫理についての専門家ではないからそんなものを受けいれてはいかん。というか、倫理や社会的規範についての専門家なんてのは存在しないのかもしれん。わからん。)

どれほど脳についての解明が進んだとしても、ここで考えたことがらの枠組みが変わるわけではない。なぜなら、このような場面でいつでも問題になるのは、脳科学があきらかにしてくれる「である」という知見を、「べきである」「したほうがよい」という主張やアドバイスに結びつけるそのやり方にあるからだ。しかし、見てきたように、そうした主張の有効性はけっきょくのところ、脳の性差がどうかではなく、その主張(ママ。「が」が抜けてる?)どのような社会を望ましいと考えているのか、それを聞く人びとがどのようにふるまいたいのかということにかかっている。そんなときには、”So What?”(それで?)と問いかけてみるのも一興だ。つまり「それで、何を言いたいの?」「それで、何が狙いなの?」というように。(p.173)

前に「陳腐」と書いた主張だけど、読みなおすとちょっとあれだ。脳科学そのものはあんまり規範判断に直接に関係することは少ないだろう。むしろ、規範判断に関係するのは、脳科学がバックアップすることになるかもしれない男女の心理的な性差に関する研究だ。くりかえすが、これは集団を扱う社会政策のレベルでは重要かもしれないし、個人が多くの他人とつきあう場合の一般的な心がまえや前提知識として重要になるかもしれない。たとえば、もし仮に、「母親は父親と比較して子どもに対する心理的愛着や依存が強いことが多い」とか「女性は男とちがって、いっぱんにカジュアルセックスを好まない傾向がある」とかってことがある確実さで言えれば、それは社会政策を構想したり、個人の行動を批判したりするのに重要でしょ(別にこんなのは脳科学なしにも知ってるこどだけど)。もちろん多くの例外があるとしてもね。「戦時強姦や日和見強姦は進化論的に適応で生物学的基盤があるかもしれない」「ある環境下での小児虐待傾向はもしかしたら進化論的な適応の結果であるかもしれない」とかってのは(ショッキングすぎるが)、悪い結果を予防するために非常に重要になるかもしれない。(くりかえすが「自然」なことがよいことではないし、進化論的な適応の結果が倫理的に正当化されるわけじゃないぞ。われわれの心理的傾向を知ることはわれわれの行動を(統計的に)予測したり、場合によってそれをコントロールするために重要だというにすぎない。)

あと「一興」ていどのために”So what”(だからどうした)とたずねるのはふつう喧嘩になるからやめた方がいいと思うけどね。まじめに「その事実はどの程度正確か、そしてそれが事実だと認めた場合に規範判断にどうかかわるのか、その前提となる価値判断はどうなのか」をまじめに考えた方がいいと思うよ。「飛躍」と考えるとここへんがわからんようになると思う。

*1:大槻先生が責任編集なのだが、『人性論』は土岐先生が訳している。

*2:ここは解釈がかなり難しい。おそらくfor what seems altogether inconceivableはa reasonにかかり、how ~は what seems inconceivableの言いかえだと思うが。うーん、難しいぞ。

*3:この「用心」についての大槻先生の解釈も微妙

*4:この部分が何を示唆しているのかも難しくなってきたぞ。

*5:実は私もまじめに読んだことがないが

*6:同業者他からの多くの批判にさらされて生き残っている、とかね。

macskaさんのアファーマティブアクションの解説

http://macska.org/article/117 。この件あんまり勉強してないのでただのメモ。このブログではネット上の情報について書くことはなかったのだが、不十分かと問われれば不十分だと思うのでメモだけは残しておくです。

米国の現状や判例に興味あるひとは http://en.wikipedia.org/wiki/Affirmative_action
、もっと哲学的な側面の方に興味があるひとは
http://plato.stanford.edu/entries/affirmative-action/
ちなみにこのStanfordの哲学事典は、哲学的な議論について調べるときの
最初の一歩にすることをおすすめ。

アファーマティブアクション(ポジティブアクション、積極的改善措置)が
実質的平等をめざすものだってのはもちろんOK。

今日から平等だから白人男性と対等に競争しなさいと言っても、それまで受けてきた教育が全然違うから同じ試験を受けても勝ち負けが目に見えているし、これまで稼いだお金や祖先から相続したお金に差があれば(差があるどころか、以前は一方が他方の所有物扱いだったんだから)ビジネス上でも対等に競争なんてできるわけがない。そういう競争は外見上平等なだけであって、実質的には社会の周縁に置かれた人たちに対して一方的に不利な「機会不平等」状態だ。だから、本当の意味で対等な競争が実現するまでのあいだ、暫定的な措置として失われた分の機会を補填しようというのがアファーマティブアクションの考え方。

これに加えて、代議士や会社役員のようなグループの代表となる地位については、競争や能力云々とは無関係に、グループの代表者、代弁者としてのポストを用意しておく価値がある。これもmacskaさんの指摘通り。

ただし、macskaさんが触れていない別の効用もあるはずだ。

ひとつは、(A)マイノリティ集団の人びとを、(特に)弁護士や医師などの専門職につきやすいようにするってのは、そのマイノリティ集団の利益につながりやすいということだと思う。黒人の弁護士は黒人が多く居住する地域で活動することが多いだろうし、同じ境遇や人種の人に対しては親身になることが多いだろう。女性の医師がたくさんいたほうが女性にとって診療受けやすいとかそういうよいことがあるだろう。瀬口先生の論文にあったように女性研究者がいるからこそわかってくるような科学的真理もあるかもしれない。

もうひとつ、(B)そういう上の階層にマイノリティ集団のメンバーが入りこむことによって、それまで一般人やその階層の人びと自身が抱いていた予断や偏見を消すことができるかもしれないということもある。会社でいっしょに働けば、黒人も女性も身体障害者も同じように「できる」ってことがだんだんわかっていくだろうから、格差や不平等を減らすために役だつにちがいない。

もう少し別の効用もあるかもしれないが、アファーマティブアクションの目的は必ずしも競争の出発点(や競争の途中の道のり)での差をなくすというだけではないと思う。

さて、macskaさんはアファーマティブアクションの問題点を大きく(1)どの程度のアクションをとるかという程度の問題、(2)クォータ制特有の難点のふたつに分けて説明していてわかりやすいが、やっぱり一番重要な問題を忘れているか書きそこねていると思う。

それはもちろん、「なぜマイノリティ集団に属しているという特徴によってそのグループのメンバーが優遇されることが正当化されるか」。もちろんその答は、「その集団のメンバーが、(皆同じように)出発点からハンデや不利益を負っているから、それを是正するため」ってことになる。逆に言うと、その集団のメンバーがそれほど同じようにハンデを負っているわけじゃない場合にアファーマティブアクションを使うと過剰に優遇してしまうことになってしまうかもしれない。そこでどういうグループがどういうハンデを負っているかに加えて、個々の成員はどの程度共通のハンデを負っているかも評価しなきゃならんことになる。

「そのグループ分けは正当な分け方なのか、そのグループはほんとうに不利益を受けているグループと言えるのか」というのも問題だよな。

60年代の米国なんかでは、黒人その他のエスニックグループや女性がそのグループに共通のハンデ負っているのが明確だったし、上の(A)(B)の効用もでかかったと思われる。

んじゃ今の国内の「男女共同参画」なるものでの「ポジティブアクション」はどうか。(この呼び方はどうも・・・「男女平等」でいいのに。)ほんとうに女性はそんなに共通に不利益を受けているのか、ってことを疑う人びとがいるのは、まあ理解できる。

特にネットとかでの「バックラッシュ」勢力の中心であると思われる大学生~大学院生男子の年頃というのは、グループとしての自分たちが同年代の女性たちに比べていろんなことで苦労していると感じ る思いこみやすい年頃なんで*1、「女性」全体を優遇しようとする政策に対してバッシングに走ろうとするのもわからんではない。「オレらがいろんなプレッシャーと戦って生きるのにせいいっぱいなのに、まだ優遇されたいだと!」「会社はいったってすぐやめてしまうんだろうが」とか。

職場での大学での成績競争とか、出世競争とかから(おそらく自発的に)距離を取ってしまう女性はまだ少なくないように見えるので、そこらへん優遇してどうすんだ、戦うなら 同じ土俵で戦え*2、と思ってる若者は少なくないだろう。

まあまちがっている認識も多いし、もうちょっと年をとると男性の方が得なことが多いことがわかってくるんだが。

http://macska.org/article/145 でmacskaさんは赤木さんという人のblogを
批判しているが、もうちょっと共感的に読んであげてもよいんじゃないかと思うんだが、どうだろう。

もし男女で生涯独身の割合は同じだとすると、弱者男性と結婚する強者女性の数は、弱者女性と結婚する強者男性と同数であるはず。それが同数でないとすると、それは強者女性が弱者男性を拒絶しているからではない。単に強者女性の絶対数が少ないからだ。*3つまり、赤木氏を主夫として養ってくれる女性があらわれないのは、女性が企業社会の競争において差別されているからだということになる。

とmacskaさんは書くわけだが、これがほんとうに差別の結果でしかないのかが問われているんだと思う。そうかもしれんが、そうでないかもしれん。私はわりと啓蒙された人びとのまわり生きているつもりで、すばらしく有能な女性もたくさん見ていて、尊敬に値すると思っている。

しかしそれでも「男なみ」に働こうとする女性はまだ一部のように見えるし、意識が低い人びともいる。ある種の男性は配偶者をバックアップ係として二人一組で戦っているようだが、女性でそれができる(やろうとする)人はまだ多くない。 (また女性の「上昇婚」傾向も問題なのかもしれん。この傾向が社会的差別の結果でしかないとかは言わせたくないなあ。*4

もちろん育児やその人自身のライフプランその他の問題はそれぞれおあるんで、ポジティブアクションがよくない制度だとは言わんが、国内で採用するまでに弊害を含めちゃんと議論されているのかなあ。そしていまやろうとしていることがほんとうに効果がありそうなのかなあ。

ある職種:-)の公募とか見ていて、注として「男女共同参画を~」と書かれているのを見ると、それに脅威を感じる男性オーバードクターなんてのはけっこういるんじゃないかと思う。「そんなんじゃなくて業績だけで評価してくれ、「グループとしての男性」が女性に比べて有利な立場にいるからといって、なぜ「この俺」が社会的な差別是正のための犠牲にならなきゃならんのだ、グループとしての女性が差別されているとしても、なぜ俺じゃなくて業績の劣るあの女が就職できるのだ」っていう疑問はかなり根本的で消しにくいものだと思う。

まあ答はそれほど難しくないんだと思うが、めんどうなので考えない。「あんたは男であるそのことでかなりの利益を受けているんだから、男であることで不利益を受けるべきだ」なんだろう。しかし、これがほんとうに受けいれられるべきなのか私はよくわからないし(いろいろ哲学的な問題がありそうだ。少なくとも森村進先生や昔のノージックは受けいれそうにない)、それが実感としてわからん時期もあれば、実感としてわからん階層の人もいる。(実際のところ、平均すりゃ男性の収入の方が女性の収入よりずっと多いだろうが、男性の収入その他のばらつきは女性の収入のばらつきよりずっと大きいはず。男性は上の方にも下の方にも広がっている。借金地獄で苦しむのも自殺するのも多くは男性。)

ジェンダーフリー論争なんてのは、こういうアファーマティブアクションについての議論のおまけというか前哨戦でしかない、ということは前から思っている。

とりあえず上の方の階層では男女不平等はすでにかなり解消されつつあるんじゃないだろうか。下の方では男性の方が苦しそうに見えるがどうなんだろうか。もしそうだとしたら、不平等感を煽ってしまうより、とりあえずの形式的平等と出産育児関係にかぎった優遇ぐらいで十分なんではないだろうか。ほんとうにもっと積極的な方策をとる必要があるんだろうか。とかってことは思ったり思わなかったり。ちゃんとした議論を読んでみたい。

で、こういうタイプの誤解をといたり、共感してあげたり、アファーマティブアクションの効用と不効用*5をあきらかにして正当化するって作業をバックラッシュ本でやるべきだったんじゃないかな。たんに二流の論者を叩いたり、「社会学」や「精神分析」の高みから分析したりするだけじゃなくてね。(まあそういうのにもそれなりの価値があるのもわかるけどね。)

(いつもながらうまく書けてないなあ。まあこういうあんまり勉強していないものに時間使うのはおかしいってのもあるのだが。)

追記(7/20)

トラックバック覧にもあるけど、
http://haseitai.cocolog-nifty.com/20/2006/07/_positive_actio_c836.html
で田中重人先生がこのエントリについて解説と批評を書いてくださっている(正直、大物すぎるです :-)。 このエントリ読んでしまった人は必読。

*1:かなり誤解をまねきやすい表現だったので修正。私自身が大学卒業時にはバブル期で、いわゆる「就職活動」をしてみて自分が実は男性として有利な立場にいることをまさに実感した。っていうかそれが自分が有利な立場にいることを自覚した最初だった。「ははあ、なるほどこういうことか」ってな感じ。だから私自身男女雇用機会均等法のようなのにはまったく抵抗感がない。

*2:実際いずれ皆同じ土俵で戦うことになるんだろう。勝負だ。当然男性と同じように徹底的に負ける女性も多数出てくる。まあそれは、最初から適度に負けてしまっているよりは(一部の女性には)よいことなのかもしれん。しかし、一部の意識の高い人びとは別として、集団としての女性がどの程度それを意識しているのか心配。そういうんでは、教育の場(特に中・高等教育)も徹底的に変わることになるのかもしれない。

*3:ちなみにこれはあやしい。macskaさんのページにもコメントがあって、それを見てはっきりしたが、男女10人ずついて、そのうち3人ずつが「強者」で、三人ずつが「弱者」で4人が「中間」だとする。さらに、男女2人ずつが生涯独身だとする。上昇婚を仮定すると、強者女性2人と弱者男性2人が生涯独身ってことは十分ありえるし、この場合、弱者男性と結婚する強者女性と弱者女性と結婚する強者男性は同数にならない。一時の「負け犬」ってのはそういうことじゃないのか。

*4:実際に自分より経済的能力が下である男性を配偶者に選ぶ女性がどれくらいいるのか。大学教授までなりあがった女性の配偶者がやっぱり大学教授だったりするのはなぜか。たんなる出会いのチャンスの問題か。もちろん「男の将来性に投資」する女性は多いが、あんまり将来性ない男(「気だてだけが取り柄」とか)はどの程度優秀な配偶者を得ることができるのか。「甲斐性なし!」とかって罵りは恐いものだ。これは単に文化や制度の問題なのかどうか。

*5:たとえば、「平等」の権利の侵害とか、(もしかしたらあるかもしれない)効率の低下とか、不公平感とか、「あいつらはできないのに優遇枠だからここにいるんだ」という偏見が助長されるとか。そういうのをはっきりさせずに「ポジティブアクションで行きます」では「単なる運動・イデオロギーだ」と言われてもしょうがない。共同参画基本法が制定されるとき、どの程度議論されたんだろうか?そこころあんまり関心もってなかったのでよくわからんのだよな。なんかいきなり制定されていたような感覚があったし、いまだにポジティブアクションについては議論が不足していると感じている。アメリカではほんとにホットでありつづけている話題の一つのはずなのに。macskaさんの書き方も、流して読むだけだと「先進国のアメリカではふつうですよ、反対しているのは「保守派」だけ、わかってない日本人は遅れてる」と読めちゃうような気がする。意図的かどうかはわからん。

『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

 

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

 

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。

 

後藤浩子先生のファンキーなフェミニスト哲学

後藤浩子『“フェミニン”の哲学』とか。なんだこれ。エヴリン・フォックス・ケラーの『遺伝子の新世紀』という本によっかかってなんか変なことを書いているが、このケラーの本というのはまともな本なのだろうか。調査すること。なんで現代思想とかそういう人たちは勉強もせずに変な本をまるうつしして自然科学を知ってるような顏するのかね。

現代社会は医療技術から環境に至るまで、この生細胞(ママ)に新たなる実験の経験を強いているが、細胞の経験に配慮する者は多くはいない。それどころか、我々の意識とは独立して、それに先だって、生細胞それ自体の生の相があることを否認する動き(例えば脳死の認定)さえある。」(p.226)

意味わからん。そもそも「生細胞」ってのがなんだかわからんし。(おそらく「死細胞」と対になる意味ではないと思われる)。面倒だから書かないけど、前後の文脈と脳死がどう関係あるのかわからんし。まあこの本叩かれないのならフェミニズム哲学とかってのはどうしようもないと言われてもしょうがないと思う。

遺伝子技術も生殖技術も、セッティングや若干の修正ができるだけであって、その手前にはあくまでも「偶然と確率」に基づく「発生」がある。羊のドリーでさえドナー細胞と卵だけでは不十分なのだ。「電気ショック」、これが、いやこれこそが発生を始動させるのである。これについては、フランケンシュタイン博士=メアリ・シェリーも遥か昔に看破している。(中略)発生の説明におけるこのような「電気ショック」という言葉に私たちが感じる怪しさは、発生の手前にぽっかり空いた裂け目、つまりそれ以前の過程との非連続性を、この言葉が覆い隠せていないというところから来るといっていい。この個体発生の裂け目にドゥルーズは〈個体化〉という概念を置く。それは〈巻き込み〉という作用と、それによって形成される強度的な場、つまり質や延長を展開する元にある「あらゆる変身の劇場」を指し示すのである。

すげー。強い電波を感じる。こういう文章ひさしぶりに読んだな。こういうのがすべてのページにわたってくりひろげられている。もういっこぐらい。

わざわざ異種交配の賭けに出なくとも、フォン・ベーアが既に魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった脊椎動物は、その初期胚がみな形態的に類似していることを発見しているように、胚は既にキマイラなのである。(p.253)

この文脈で「キマイラ」はなにを意味するんだろうか。まあ憶測すれば、ドゥルーズがそういうことを書いていて、後藤先生はそれを引用だとわからないような形で書いているだけなんじゃないかと思うが。

女性の身体は〈宿主〉である。この〈宿主〉が家畜として進化を遂げていくのに必要なのは共棲者の多様性である。そして、この多様性の保持は我々の「想像力」に懸っている。この意味で、フェミニズムの真の闘争は、「想像域の自由」の法的確保より、むしろその手前、つまり幻想精算の実践にあるのだろう。つまり、簡単に言ってしまうと、「自由」や「アナーキー」ではなく、「ファンキーで行こう」ということだ。では、その実践例をひとつ挙げておこう。(Ciaran Carsonの詩省略) さて、あなたはこんなファンキーな〈宿主〉になれますか? (pp.258-9)

「ファンキー」ってのはどういうことかわかってるんだろうか。Ciaran Carson先生はアイルランド人男性のようだが、ファンキーなんだろうか。映画『コミットメンツ』で言われていたように、アイリッシュはイギリスの黒人だからファンキーで”I’m black and proud of it”とか主張してるんだろうか。自分がなにを書いているのかわかっていないようなひとってのはどうなんだろうか。誰かなにか言ってあげればよいのではないのか。全体を通して、まるでポストモダン論文自動生成器による文章のようだ。まじめに勉強して地味な論文を書いているオーバードクターがかわいそうだ。なんとかしてあげてください。

解説まちがいさがし(2)

メモだけ。山形はこの本がまんま「自由」についての本じゃなくて「意志の自由」と道徳的責任の本だってのをちゃんと理解していないかしれない。解説でも「自由」という言葉はふりまわしているけど「自由意志」という言葉は使っていない。ここには大きな違いがあるんだが。まあ自由意志の問題は根が深くて私もよく理解していないけど。それに「合理性」ということで経済学でいうような効用の最大化が意味されているのか、カントのような意味での理性にかなっているということが意味されているかの区別も曖昧なような気がする。だから森岡のような人に喧嘩を売りたくなるんではないだろうか。まあ、森岡正博さんに喧嘩売ってもなあ。成田さんの責任と自由 (双書エニグマ) ぐらいは目を通してもいいんじゃないかな。

三条ハンソン

5月7日日曜に京都 二条nano http://www.eonet.ne.jp/~nano2003/

でワンマンライブするらしい三条ハンソン http://hanson.buzzlog.jp/ のデモ作り。

下のようなミニアルバムを作る。

  1. ちょっと前にあげた「三条ハンソンfrom hell」、https://yonosuke.net/yonosuke/20060415-hell.mp3
  2. https://yonosuke.net/yonosuke/20060504-birthday.mp3 唱歌「誕生日」完成バージョン。
  3. https://yonosuke.net/yonosuke/20060504-tagami-last.mp3 フォークソング「手紙」完成版。
  4. https://yonosuke.net/yonosuke/20060504-futon-last.mp3 せきららな「ふとん」再録音。
  5. 前にあげた「彼氏はゲイ」 https://yonosuke.net/yonosuke/20060504-gay.mp3
  6. https://yonosuke.net/yonosuke/20060504-69.mp3 題未定(「69-96」?)

昨日の曲が最後の曲になった。トラックはyonosuke的に気にいってるけど、女の子用にはキーが高すぎるみたい。キーはFかGにするべきだった。作りなおしたい。

私もライブハウス出たいなあ。nanoは1日借りても3万円ぐらいらしいしなあ。バンド組みたい。

ミードの表その後はあるかな

そういや、トラックバックされたりして思いだしたのだが、Margaret Mead の Sex & Temperament: In three primitive societies がこの前届いていた。もちろん問題の表は存在しない。さて、調査はどちらの方面に進めるべきか。村田先生が参照している本のどれかにあると推測するのだが。

女性器研究本2冊

どうでもいいことだが、キャサリン・ブラクリッジの『ヴァギナ:女性器の文化史』ISBN:4309204538とイェルト・ドレント『ヴァギナの文化史』 ISBN:4878936894を短期間に読む機会があったんだが、ブラックリッジの方はドレントの本からずいぶんパクっているような。先にブラックジッリの方を読んでからドレントを読んだのだが、既読感のある文章ばかりでおどろいた。出版はドレントの方が先。でもブラックリッジからの言及は1回もない。Jelto Drenthの本は2001年らしいが、英訳ペーパーバックは2005年1月に出ているようだ。まあ独立かもな。内容はどっちも同じようなものだが、歴史的な話についてはドレントの方が情報が豊富で優れていると思う。ブラックリッジのは生物学の話がウリかな。

しかしこの2冊のタイトルはきつい。それぞれ”The Story of V: Opening Pandroa’s Box”と
“De oorsprong van de wereld: Feiten en Mythien over het vrouwilijk geslacht” (Origin of the world: Science and Fiction of the Vagina”)。

ファイトバックの会とwebプレゼンテーション

http://fightback.exblog.jp/ を見る機会があったのだが、
4月17日の裁判官退席の件、会の主張がよくわからんな。
傍聴者の人数を読めなかったとかってのはまずいのかもしれんが、
指示に従わない聞かない傍聴者が多くてやばいから裁判延期、ってのは
ありそうな話なんだが・・・。そういう話ではないのだろうか。
私のような政治音痴にはわからんかもしれない。

ついに裁判長は、「中止します」とあっというまに自ら退廷。これは多くの傍聴者が発したエネルギーが、裁判長の紛争解決能力を萎縮させ、裁判長席にい たたまれなくさせたせいではないだろうか。

とか、ちょっとまずすぎる。退廷命令出したのに従わなかった人間がいる場合、(1)強制的排除か(2)休廷・延期、のどちらかしか選択肢があるまい。まさか強制排除するほどじゃないから、延期は正しい判断に見える。

それにしても、運動家の人々はwebの作り方にもっと
注意してほしい。いまじゃ最強の市民メディアなんだし。
ブログ形式だけじゃ読みにくいからだめ。

ちゃんと全体の情報がわかるようにしてほしい。
「館長雇止め」がどういう裁判なのかさっぱりわからん。その「ホームページ」は
http://fightback.fem.jp/ だが、全
体がわかるのは「よびかけ」と訴状ぐらいが置いてあるだけで、あのページ読
んで会の主張の全体やその正当性がつかめる人はほとんどいるまい。
あれを読んだだけでそれに応じて「応援」しちゃう人はよっぽど批判能力がな
いひとたちだけだろう。2ちゃんねるあたりのいろんな「まとめサイト」の方が
よっぽどうまい。

上のファイトバックの会のページを批評してみると

  • いま「ホームページ」で一番目立つのは「5月22日に法廷を埋めつくそう」になってる。わからんではないが、そういうのはblogの方で大々的にやればよい。そういう流れていくべき情報と、基盤となる情報や主張は分けておく必要がある。
  • 「雇止め裁判とは何か」のページを作ってホームページの一番目立つところにおくか、トップページに書く。現状では最低限の知識を得るために「ホームページ」→「みなさん応援してください」→「よびかけ」の3クリックが必要だから、最大2クリックにしなきゃ。
  • 三井館長の雇止めが「バックラッシュ」によるものだという論証が必要。「社会的にフェミニズムとかそこらへんに対するバックラッシュがあった」ということと、「三井館長がクビになった」ということの因果関係をはっきりさせてくれないと納得できない。訴状に書いてあるんだと思うが、そんなもん読む気になる奴はほとんどおらん。
  • 就業規則の改訂が三井館長をターゲットにしているという論証も必要。なんか一方的だぞ。企業でも終身雇用をやめて派遣使って、思い通りに働いてくれない人は使い捨てるってのが流れだろう。官公庁や大学その他、かたいところでも全国的に非常勤に厳しくなっていったってのはここ10年ぐらいの流れだったと思う。それで苦しんでいる人は男女を問わず多い。そもそも館長を非常勤にしてしまうというんだから、最初から館長が固定しないつもりだった、使い捨てにするつもりだったんじゃないのか。(もちろんそれがよいことだと言うつもりはぜんぜんないが。)
  • Q and Aはブログで書いたあとにホームページに移動すべき。
  • テレビ番組の動画について、「公開期限が切れました。ご覧になりたいかたは私的に保存している物がありますので fightback@hh.fem.jpまでご相談下さい」とかって書いていて著作権とかそういうのに関して無関心なところを晒しているのはまずい。ワキが甘いというか。
  • フェミニズム運動系のページでは、「代表者」がはっきりしてないことが多いのがいつも気になる。いったい誰が代表者なり責任者なりなのか、明示してほしい。誰が責任を負っているページなのかはっきりしていないのはやはり価値が下る。これは私の男性的なバイアスなのかもしれない(っていうかまさにその典型だろう)のだが、最終的に誰が責任負うのか、誰に話をすればよいのかは、私のような資質の人間には非常に気になる。筆名その他なんでもよいが、とにかくトップの人間ぐらいは明示してほしい。「ファイトバックの会、代表者 フェミ野フェミ子 femimi@~、会員~。でOK。逆に、「賛同者」なんてのはいらん。せめて「ファイトバックの会とは」のページぐらいは作ってほしい。もしかするとトップが誰か意図的にはっきりさせてないのかもしれないが、そういう組織はやっぱり社会的な信用に欠けると思う*1

まあwebもblogも、やっぱり最後はコンテンツだ。あたりまえ。自分たちの主張をわかりやすくプレゼンしてください。とにかく運動家はもっとプレゼン能力を高めよう!

*1:同じく気になるVAWW-NETジャパンは「共同代表者」になっている。なぜ「共同」にするのか、とかってのはジェンダー研究にとってよい課題だと思う。

On Bullshitその後

『ウンコな議論』 ISBN:4480842705 に品川哲彦先生が
書評を書いている。

うーん、品川先生は山形先生の出典や解説その他の問題についてはぜんぜん触れていないな。いろいろ指摘していただけるのではないかと思っていたのだが。やっぱり私の勘違いなのかな。

あと、

フランクファートはウンコな議論の横行に対抗する術を説いているわけではないが、本書のなかに引用されている、友人のちょっとした不用意な表現についてもひとこと文句をつけずにはいられなかったヴィトゲンシュタインの厳格さは参考になるだろう。評者は本書を読んでこんなことを考えた。たとえば、一時期、日本の政治家が口にした「人の命は地球より重い」というフレーズ。もし、このフレーズを耳にしたら、「その重さは物理的な意味の重さか。もしそうなら、命の重さをどうやって測定するのか。たとえば、死の直前直後の体重の変化を調べるのか」などと反問すべきだろう。真実への配慮のみがウンコな議論にまみれることを逃れる術だからである。

これは品川先生自身どの程度本気で書いているのかわからん。品川先生もブルシットしようとしているのかどうか。

こんな奇妙な文章を読むと、しばらく前にある方が、「あのフランクファートの論文はブルシットも時には意味があると読むべきなのだ」とおっしゃっていたのだが、そっちの方が正しいような気がする。少なくとも私は上の品川先生のような返答をするのはウィトゲンシュタインと同じくタイプのガイキチとみなすべきだと思し、真実への配慮ってのはそういうもんではないような気がする。少なくともそれはふつうの人間の会話ではない。哲学者というのはたいへんな人々だ。
ウィトゲンシュタインの逸話は下。

ウィトゲンシュタインはその哲学的なエネルギーを、もっぱら狡猾で破壊的な「ナンセンス」と考えるものの発見と阻止に費やしていた。私生活でもどうやらそうしていたらしい。これは一九三〇年代にかれとケンブリッジで知り合いだったファニア・パスカルの語る逸話に現れている。

扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう。」(『ウンコな議論』、 p.21)

どうでもいいけど、この「訪ねて参る」は日本語としてどうか。「訪ねていらっしゃった」ではないのかな。筑摩の編集者は日本語直さないのかな。

まだまだ「ミードの表」

粘着している「ミードの表」問題。

村田孝次先生の『教養の心理学』四訂版、培風館、1987を入手。初版1975年、改訂版1979年。村田孝次先生は奈良女の先生だった模様。発達心理学が専門かな。てっきり村田先生は文化人類学者だと思っていたけど。毎年教科書に使われているのか98年には第17刷。タイトル通り、大学1、2回生向けの教養授業で使うような薄いテキスト。発達、学習、情緒、知覚、思考と言語、知能、パーソナリティと、まあコンパクトななかに70年代くらいまでの心理学の研究成果が要領よくまとめられていて、よい教科書なのではないかと思う。信用できる学者に見える。図書館に大量にあったので、一時期定番のテキストだったのかもしれない。村田先生は1918年生まれ。ご存命だろうか。それにしてもこの手の教科書からミードを引用するってのは勇気が要るよなあ。井上知子先生も専門は心理学なので、まあ村田先生のテキストを見る機会があったのは
わかるけどね。

本文でのミードに対する言及はほんの10行程度。問題の表の解説程度。興味深いのはそのすぐあとの記述。

もっとも、こうした性による役割の分化は、多くの社会において男女の身体的・生理的な差異にもとづいているので、文化的要因によって変動しうる限界が一般に考えらえ、このような限界に若干のバラエティがあるというべきであろう。(p.186)

とか。

先生は一応ミード流の文化人類学の知見を紹介しておいたが、若干批判的な立場に立ちたいと思っていたのかもしれない。そしてすぐにH. Barry, M.K. Bacon and I. L. ChildのA Cross -cultural Survey of some sex differences in socializaion. Journal of Abnormal and Social Psychology, 55, 32-332 をひきあいに出して、児童の性差は文化共通かもしれないという表を提出している。でもこの研究はちょっと問題がありそうだ。

問題の表はp.187。内容は井上知子先生のものとまったく同一。表番号が変わっているだけ。原稿を村田先生からもらったか、貼りつけたのだろう。出典は、巻末の「図・表出典』にある。

Mead, M. 1935 Sex and temperament in three primitive socieitis. Morrow.

ふむ、ぴったり。このリストの最初に

ここには、本書に引用した図・表の掲載された原著をリストしてある。なおそれぞれの図・表にある著者名、掲載年のつぎに、〈より〉とあるのは、原著に若干手を加えたか、原著の記載をもとにして図ないし表を作ったことを意味する。

とある。ミードの表には〈より〉はないので、おそらくこれとほぼ同一のものがSex and Temperamentに載っているのだろう。図書館にないので注文したが、紀伊国屋なのでしばらく時間がかかる。ヒマつぶしのために2000円ちょっと使ってしまうわけだが、まあ行きがかり上しかたがない。他の学者さまをインチキ呼ばわりしているわけだしそれくらいの責任はありそうだ。

まあこの村田先生の本の中心的な部分は、50-60年代のもの。やはり学者は中年までに勉強した財産で残りの学者人生食っていくことになるのだと思う。しょうがない。

アンドレア・ドウォーキン メモ

WikiPediaでAndrea Dworkinの項読んでみたり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrea_Dworkin
恥ずかしながら、知らない重要な事実がけっこうあった。

  • ジョン・ストルテンバーグと20年以上同棲して、1998年ごろには結婚してた*1
  • 1999年にドラッグレイプ被害(妄想?)に会ったと主張して論争が起こった。

なんじゃこら。ううむ。

ちなみに編集ディスカッションもおもしろい。WikiPediaの編集フレームを英語で読むのははじめてだな。ニュースグループでのフレームに比べて読みやすい。それにしても英語圏のやつらは力があるなあ。キチガイが暴れてもなんとか水準を維持している。まあメインライターの力なんだろうが。日本語のWikiでここまで耐えらえれる人材はいるのだろうか。たしかにWikiPediaには新しい可能性(と困難)を感じるね。ま、このキチガイの言動を見るといわゆる「バッシング」というものが
どういうものかよくわかる。

まあ
精神的にもろい人だろうということは誰もがわかっていただろうが。先日読んだカミール・パーリア のVamps and Trampsが殺したんじゃないかとか想像してみたり。

さらに色々読んでると、米国では明らかにPagliaの影響を受けた世代のフェミニストたちがかなり力をつけてるんだな。たとえばSusie Bright。ううむ、保守化なのかどうか。こういうのぜんぜん紹介されてないよな。

まあこの人のインパクトを考えれば、『現代思想』あたりが追悼特集組むぐらいのことをしてもよかったんじゃないかと思うのだがすでにやったのかな。あといつまでもバトラーだのコーネルだのどんくさいフェミニストの紹介やってないで、若い世代を紹介してくれりゃいいのに。

まあ国内でももうちょっとすると出てくるかな。ここらへんやっている人びとでも、英語で直接どんどん読める人はそれほど多くないのかもしれない。

*1:はてなだと、 http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050510 ではゲイとレズのカップルと書いてるけど、そうじゃないと思う。

立岩真也先生『自由の平等』その後

立岩先生については、内容的にもけっこう難しい問題がはいっているので、内容について少し真面目に考えてみる必要があると思うようになった。時間がかかりそうだ。とりあえず

では他にこの規則を正当化する理由があるか。考えてみると、実はこの主張は「私の働きの結果は私のものである」という結論以上、以外のことを述べていないことがわかる(注6)。この主張はそこで終っている。その底抜けの原理を最初に立てている。そもそもその所有権をどのように正当化するのかが問題なのだが、それについては語らない。だからその主張をそのまま受け入れる必要はない。それ以外にこれの正当性を言う言い方があるかというと、この規則をとった方がうまくいくことがある・・・という理由以外にない。(pp. 41-42)

 

ここに付いている注。

(注6)このことを言ったのはロックだが、ノージック(Nozick [1974=1992:271-273])がこの立場を引き継ぐ。

彼の議論はゲームの展開のように見えるが、少なくともいくつかそれだけで進行していない部分がある。ゲームの「あがり」のように私には思える私的所有論は、論の最初に置かれる。ゲームから私的所有には行けず、そこで結局権利を最初に置くしかない。利口なノージックはそのことに気づいていて、そのような論の構成になったのだし、次の著書以降でこの種の議論がなされることがなかったのかもしれない。 (p.298)

これが非常に奇怪な注であることだけ指摘しておく。p.271-273はバスケットボール選手のチェンバレンがどうのこうの、というけっこう有名な部分ではあるが、ノージックが彼の原権理論のアウトラインを提出しているのも、ロック流の労働所有説を提出しているのもここではない。

 

「マーガレット・ミードの表」問題その後

マーガレット・ミードの名前を使ったニューギニアの3部族についての表問題。

Amazon から本が届いた。

まず、井上知子・新野三四子・中村桂子・長嶋俊介・志水紀代子『生き方としての女性論』嵯峨野書院、1989 ISBN:4782301375 では、この表はp.129にある。

内容は伊藤公雄先生の『男性学入門』のp.163と同一。ただし、気になっていた部族名はそれぞれ「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャムブリ」になっている。したがってこれは伊藤先生の本で単に誤植されただけかもしれない。

しかしショッキングだったのは、前にも述べたように伊藤先生の本では出典は

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

とされていたので、この表を作成したのは村田孝次先生で、彼の文章が『生き方としての女性論』に収録されているのだろうと思いこんでいたのだが、この本には村田先生の文章はなかった! この表が使われているのは井上知子先生の第5章「女性と男性のありかた」で、井上先生が村田孝次先生を引用しているのである。表には

(村田孝次、1979より引用)

とだけ書いてある。そして、さらに悪いことに、この村田孝次先生の文章がどこの論文であるか、『生き方としての女性論』には載っていない(!)のである。それに、表の上の方、「Mead, 1935」って書いてる! それは『サモアの思春期』ですがな・・・いや、違う。Sex And Temperament In Three Primitive Societies っていう本か( ISBN:0688060161 )。これは見てない。おそらく村田先生の論文は、『男性と女性』ではなく、この本の紹介か解説かそういうものなのだな。で、それを伊藤公雄先生は『男性と女性』だと思いこんだ、というのが真相に近いかもしれん。

とにかく伊藤先生は井上先生からの孫引き。伊藤先生の出典の書き方から孫引きだとは思いもよらかなったが、私の早合点だったか。

それにしてもこれは・・・。とにかく村田先生の論文はどこのなんという論文なのだろう?

続いて、諸橋泰樹先生の『ジェンダーというメガネ:やさしい女性学』フェリス女学院大学2003 ISBN:4901713027 では、『生き方としての女性論』での表と同様のものがp.44にある。ただし、左右が逆になっている。『女性論』で「男女」と表記されていたのが「女男」になり、「女性的」が「いわゆる女性的」のように語句が変更されている。出典は、

出所 マーガレット・ミード「男性と女性」 1935

これも「1935」!とりあえず諸橋先生は有罪。剽窃決定。真っ黒。

部族の表記は「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」。この表は奇怪で、他の三つの表では「パーソナリティー特性」に入れらているアラペッシュ族の「女男とも子供の世話をする」「きびしいしつけはほとんどしない」「子どもには寛大でむしろ溺愛する」「子どもの成熟を刺激しない」が「パーソナリティ」の方に入れらている。誤植?

伊田広行先生の『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店2004 (ISBN:4272350188)は、この本とミードの『男性と女性』が出典だと主張しているが、それを(「正しく」?)修正しているのだから、伊藤先生か井上先生か村田先生を参照して出典が怪しいことに気づいているのにそれを書いてない。おそらく幇助?

これひどすぎる。インチキ! 諸橋泰樹フェリス女学院大学文学部教授は剽窃野郎で有罪。伊田先生は出典を隠して灰色、井上先生はもっと薄い灰色というかほぼ白(村田先生の文献の参照を忘れただけかもしれない)。伊藤公雄京都大学文学研究科教授は無批判孫引き野郎で学者としてまじめに相手するに値しない。と考えてしまってはちょっと言いすぎかな。

まあしかし、ちゃんと自浄できないまま引用しあう学者社会はだめだ。

あんまりあれだから、伊田広行先生のブログにトラックバックしておこう。トラックバックってしたことないからわかんなけど、リンクするだけでいいのかな? http://blog.zaq.ne.jp/spisin/

最近スキャナを入手したので、PDFにしてあげておこう。あら、hatenaにPDFは上げられないのか。

  •  井上先生の表 ← 「和子」じゃなくて「知子」先生ごめんなさい。
  • 伊藤先生の表 
  • 諸橋先生の表
  • 伊田先生の表

ぐえ。井上先生は「知子」でした。

と、ふと本を読みなおすと井上先生は和子じゃなくて知子(ともこ)先生。こりゃひどいまちがいをしたなあ、と思って上は修正した。しかし、これ実は上の伊藤公雄先生の表がすでにまちがってるからだよ。なんなんだ。伊藤先生は井上先生の本の出版社や出版年も書いてないし、文献表にも出さないし、これくらい色々重なるとなにか出典を探しにくくするための意図的なものではないかとか思ってしまう。そういうことを考えさせられるのがたまらん。

ちなみに諸橋先生の『ジェンダーというメガネ』も、あるアフリカの部族ではイニシエーションに失敗した男の子は「女」として生き男と結婚することがあるとか、別の部族では生まれる前から占いによって性別が決まってるとか、あやしい調査を出典出さずに紹介している。この本ではさまざまな文化人類学の知見が紹介されるのだが、実際に名前が出るのはミードだけ。(それも実は確認してないわけだ。)

なんというか、こういうことが重なると、「ジェンダーフリーバッシング」とかが起きるのはある程度しょうがないという印象を受ける。女性学とか男性学とかジェンダー論とかって科目名で大学の授業している人々は、いったん自分たちの研究を見直してダメな研究をちゃんと排除して浄化しなきゃならん。まあいわゆる学際的な学問領域が立ちあがるときは、伝統的な領域から難民のような人々がまぎれこもうとする傾向があるようだ。別の分野でもそういうのを見たことがある。そこでがんばれるかどうかがその分野がちゃんと成立するかどうかの分かれ目なのだろう。先行研究を信頼して参照できないのならば学問として一本立ちできない。まあ伊藤先生や伊田先生や諸橋先生が権威として信用されているわけではないだろうが。ジェンダーな人々もここは踏ん張り所だな。

 

立岩先生とI.バーリン

北田先生の立岩先生評

立岩真也先生は『自由の平等』(岩波書店、2004) のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

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幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。・・・本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことがから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(pp.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

立岩先生はバーリンを読んだか

立岩先生の本を議論しているとキリがないので、今日は私がそういう印象を抱いている根拠を一箇所だけ指摘しておく。

『自由の平等』の第1章では第1節では主にノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』→森村進先生のリバタリアニズムと、アイザイア・バーリン『自由論』での「消極的自由」/「積極的自由」の区別が取りあげられているのだが、ここが何度読んでもわからん(ので先を読む気にもなれない)。おそらくどちらも(少なくともちゃんと)読んでないんじゃないのかな。

((a)~(d)は私が勝手につけた)

(a)このように述べてくると、親切にも、「あなたは「消極的自由」と「積極的自由」の後者の方を言っている。それは評判のわるいものだ」と教えてくれる人がいるだろう。素朴には、積極的自由は「何かをする自由」であり、それが現実に可能であるための手段の提供が権利として求められる。消極的自由は「何かを妨げられない自由」だとされる。この対比において、私有派は消極的自由を優先すべきだとし、積極的自由は危ないと言う。(p.44)

ここに得意の注がつけられる。

(b)この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin [1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという —- なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。 (p.298)

「だということになっている」は気になるフレーズだ。また出典の好きな立岩先生がこのバーリンのフレーズに出典をつけてないのは気になる。まあ注の注はいやなのかもしれんが。

もうひとつ。

(c)消極的自由を積極的自由からはっきりと区別することができるだろうか。そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。「したいことを妨げらられない」のが消極的自由である。ここでは、したいことをする「能力」が欠けていてそれができない、選べない「事情」があるとしよう。それはどうなるのか。実際には実現不可能であっても、その不可能が他人の意図的な妨害によってもたらされない場合には、それについてその人は既に自由であると主張されるかもしれない。しかしこれはおかしい。(p.45)

これにも注。

(d)バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。(・・・)最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれくらい多くのドアが開かれているか」(Berlin [1969=1971:58)という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています」(井上[1998:23]) (p.299)

これもバーリンに出典がついてないのが気になる。「ドア」の比喩は私の知るかぎり、『自由論』のなかでこの一箇所しかない。またこのp.58は序文で、有名な「二つの~」ではない。それを補足訂正している文章。そもそもなぜ(a)でバーリンは関係ない、と言いつつ、ここでバーリンが出てくるのだろうか。

これから何が読みとれるか

私はこの二つの文章と注から、立岩先生はバーリンの『自由論』を本当に読んでない(!)と推測する。『自由の平等』とかって本を書き、消極的自由と積極的自由を論じるためにバーリンを読んでないというのはほんとうに驚くべきことだが、おそらく立岩先生は正直なのである。信じられないほどのことだが。

消極的/積極的自由

まず、ふつう言われている消極的自由と積極的自由の区別は、たいていの場合バーリンの『自由論』に由来する(バーリン自身はその区別がオリジナルなものではないと言う)。バーリンの『自由論』は序文と四つの論文(「二十世紀の政治思想」「歴史の必然性」「二つの自由概念」「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」)からできていて、序文は四つの論文より後に書かれており、特に「二つの自由概念」については序文で自説の部分的訂正と誤解の解消が行なわれている。

「二つの自由概念」でのバーリンの区別は、立岩先生の最初の引用に挙げられているようなものではない。(b)の注に出てくる形が正しい。「「積極的自由」の概念は評判が悪い」「危険だ」と言われるのは、この「自己実現」としての積極的自由の概念についてであって、「それが現実に可能であるための手段の提供」の権利としてではない。たとえば最低限の教育を受ける「権利」や最低限の文化的生活を送る「権利」(この権利をある種の人は「自由」と言う)をバーリンの立場の人が否定するはずがない。そういう権利(や「自由」)は政府が保証しなければならないという立場と、バーリンの立場はまったく矛盾しない。こんなのはバーリンの「二つの~」を直接読めばすぐにわかる。

バーリンが分析したのは、政治的な文脈における「自由」の概念が、さまざまな論者によって混乱されて使われており、そのうち特に二つ(上の区別であげられるもの)が特に重要な概念だということ。たとえばルソーやヘーゲルやマルクスその他の人々は積極的な意味で自由を使い、結果的に個々人の欲求や感じる幸福とは独立に全体主義的な社会を構想してしまう、それが「危ない」と言われるんだと私は理解している。

立岩の(b)

(b)で立岩は「なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない」と書くが、そりゃもし読んでいなければわからない。少なくともバーリンが(a)の形の区別をしたと思いこんでいるならわからないに決まっている。調べてみようと思わなかったんだろうか?

立岩の(c)

「そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。」こういう素人くさい文章が立岩先生のウリなのは認める。しかし「よい」「いけない」がどういう意味が考えたことがあるのだろうか。バーリンも(おそらく立岩先生に積極的・消極的の区別を指摘した人も)さすがに「よい」とかいきなり使わない。もしまともな人なら、「なぜ消極的自由は政治的に保護するべきで/保証されるべきで、それ以上は社会は保証するべきではない/保証しなくてもよい/干渉すべきではない(のどれ?)」と問うべきだろう。もしちゃんとそういう形で問えば、たとえばバーリンがどういう根拠でどう主張しているか調べようという気になるはずだ。むしろ、バーリンを一度でも読めば、「よくて~はいけないのか」なんて乱暴な問いは立てられない。

立岩の(d)

結局バーリンを読んでないから、こういう意味不明な問いが出てきてしまう。バーリンはまったく関係ない。(井上達夫先生の論文は未読)最低限の選択肢や他者からの承認(p.360ff)が人間が生きる上で必要なことはバーリン自身認めているし、必要なパターナリズムも認める(p.350)。バーリンの主張は、それが社会が保証するべき狭い「自由」ではないってこと。

 

リバタリアン vs 功利主義

ふつうに理解すれば、立岩先生が議論しようとしていることはリバタリアンと功利主義(そしてロールズ流の中道路線)の間で延々とやられている議論の一バージョンで、もちろん立岩先生は功利主義の方。(でも立岩先生はベンサムの「序説」もミルの「功利主義論」も読んだことがないだろう。文献表にも出てこないし。)

立岩先生がバーリンを読めば

立岩先生が問題にしている弱者の「することのできぬ状態 inability」については、バーリンは消極的自由の観念を論じている一番最初に出てくる。

ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だと言われる。この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができるしかしながら、強制とはすることのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。・・・単に目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。
・・・自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられているからなのである。いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているというのは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。」(pp.304-6)

もちろん「自由」と「できない状態」の区別は難しいかもしれない。しかしわれわれの多くはイナバウアーのポーズをとることはできないが、それがイナバアウアーする自由を妨げられているわけでもなければ、誰かが私にイナバウアーできるよう手配する責任を負っているわけでもないのははっきりしている。

もっと立岩先生の問題意識に近い文章もある。

ここでの問題に対する歴史的に重要なもう一つのアプローチがある。それは、自由の対立概念である平等と博愛を自由と混同することによって、同じく自由主義的でない結論に到達するものである。 (p.360)

おそらく立岩先生はこの混同の餌食になっている。もちろん、平等や博愛は非常に重要だし、バーリンの言うことが正しいかどうかはいろいろ議論の余地があるのはたしかだ。ある種の意味では、自由と平等や博愛は対立する概念ではないかもしれない(特にバーリンの言う「積極的自由」の意味では)。

 

しかしこんな立岩先生の論点にとって非常に重要なものを、もしバーリンを読んだことが一度でもあればふつうの学者なら無視できるはずがないと思う。バーリンのように優れた学者の書くものは明確で一定の訓練をすれば誰にでも理解しやすいものになる。ふつうの読者はそういう優秀な人がその鋭いナイフでいったん切り分けてくれたものをまたくっつけて議論しようなんて思わないものだ。すくなくともいったん切られたその切り口を意識せずにはいられない。

バーリンの『自由論』は本当に名著中の名著の一冊で、何度読んでも目からウロコが落ちるような思いがする。(学問的・政治的な立場を共有していなくても)一回でも真面目に読んでいれば立岩先生の本はまったく違う本になっていただろうと思う。訳文も立派だし。

もちろん、バーリンを読むか読まないかは立岩先生の自由だし、「関係ない」と言っているのだから本当に関係ないのだろう。彼は読んでないものを読んだと言っているわけではないので別に不誠実なわけではない。しかしいったい、まともな学者として、この手の問題をバーリンをまったく読まずに議論することができるか私にはわからない。(すくなくとも政治学とか真面目に勉強している人間にはそうだろうと思う。)

たしかに「まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。」のはたしかで、学者は常にその問題に悩まされつづけている。しかし、まともな学者である一つのポイントは、どこに豊かな思考のためのリソースがあるのかを知っていること、ある主題を論じるのに最低限どうしても読んでおかねばならない文献を知っていること、少なくともそれを嗅ぎわける嗅覚のあること、それを自分で確かめてみる労力と時間をかけてみる意欲があることだ。そしてそれは学者社会の伝統が教えてくれる。引用(a)の「親切」なひとたちは伝統にしたがって立岩先生にそれを教えてくれたのだろう。そういう伝統に敬意を払うことができない者は学者ではない。そういうひとに文献リストにバーリンの名前をあげたのは大学院生のこれからの仕事に役立てようと言われても、呼びかけられた大学院生は困ってしまうことだろう。(少なくとも政治学者の卵はあきれ、哲学者の卵は冷笑し、法学者の卵は律儀に怒るだろう。社会学者の卵はわからん。)

北田先生の文章に戻れば、立岩先生は正直に自分で認めているように、北田先生が言う「(2)+オレ流」で『自由の平等』を書いたのだろうし、北田先生は読んだのにたしかめもせず「(1)+オレ流」と判断したのだろう。少なくともバーリンに対する立岩先生の言及はただの儀礼だ。この調子でいちいちやってると1年かかるが、同じような個所は山ほどあるように見える。

北田先生は「引用学」とか唱える前に、『私的所有論』の権威(北田先生は他の「学者」の評価とは独立に自分でも評価しているのだろう)によりかからず、いったん立岩先生の引用が実際にどのように行なわれているか確かめるべきだったろう。馬鹿げている。とにもかくにも正直でたしかに(先例にこだわらないという意味で)オリジナルな(これは重要)立岩先生より、北田先生の方が問題が大きいかもしれない。

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北田暁大先生の立岩真也先生評

立岩真也先生は『自由の平等』岩波書店2004 ISBN:4000233874 のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。・・・本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たち*1に呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことがから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。
『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(p.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

*1:kallikles注:大学院生

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

 

伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

 

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。