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中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、究極的にはセックスと死を結びつける — 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする — 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。女性の性的客体物化(sexual objectification)、これがジェンダーとしての男性が女性に行使する共通の性的権力である。(pp. 26-7)

うーん、どうなんだろうな。ポルノが女性を客体物化(objectify)しているってのまではわかるのだが、それがセックス殺人と結びつくってのはとっぴもない主張に見える。まあそういうのが好きな人がいるってのはありそうな話だが、ポルノ好きを極めると殺人ポルノに行きつくってことはどれくらいありそうな話なのかな。私はほとんどありそうにないと思うのだが。レイプもの好きなのもそれほど多くないような気がするし。「行き着く果て」ってのは、「一部の人の嗜好が行き着く果て」ということでよいのだろうか。

まあじっくり読んでみよう。衝撃的だったのはあとがき。

七年にわたるAPP研究会での活動をつうじて、多くの同志と出会い、少なくない同志を失った。この活動は幸福よりも不幸を、喜びよりも苦悩を、より多くもたらしたかもしれない。(p. 238)

うーん、いろいろたいへんだったんだな。やっぱり不幸になる研究活動とかって のは凡人には難しい。研究や勉強は、相応の快楽や喜びをもたらさねばならない [1]私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。 。訴訟とかもあったしなあ。あの会の活動のしかたが、ちょっと無防備というかvulnerableな感じがあって心配していたのだが。(この研究会も、webの使い方がヘタな団体の一例なんだよな。http://www.app-jp.org/

References

References
1 私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。

『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

加藤秀一他『図解雑学 ジェンダー』

読んでみたが、コンパクトで平明な表現なのに目先が利いていて非常に優れた入門書。これ1冊あれば他の入門系の本はいらんのではないか。

しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスという境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的ではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法も広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。 p.24

「生物学的な性差」まで社会が作りだしているとか言われるとやっぱるうっと来る。

それになぜ「ジェンダー」の方を優先するのか? それならもうセックスでいいじゃん、と言いたくなるよな。まあ日本語で「セックス」使うと性別より性行為を指しちゃうからしょうがないのかな。

・・・けれども、そんな風に勝ち負けにこだわること自体が、偏狭な — 男性中心・プロ中心・米国流中心の — スポーツ観に毒され過ぎているのかもしれない。カラダを動かす爽快感を純粋に楽しみ、他人との競争よりも自分との戦いを重んじること — アマチュア中心の女子スポーツや障がい者スポーツの盛り上がりは、そんなスポーツの原点を再認識させてくれるように思う。 p.54

ほんとうにそういうことを考えているのだろうか? ふつうの競技スポーツの基本はやはり競争にある。競わないスポーツはスポーツではないような気がする。まあ定義の問題なのだろうか。女子スポーツや障がい者スポーツが盛んになるのは、まあすてきなことなんだろうが、なぜ女性だとか障害者だとかでカテゴリ分けして競うんだろう。やっぱりそういうふうにカテゴリ分けた方が力が接近しておもしろいからなんだろうと思うんだが。

被害者の主張が事実に即しているならば、彼女がそれを強制だと感じる限り、加害者がどう自分勝手な意味づけをしようと、それは不当な性暴力なのである。性暴力を定義するのは被害者の視点である。 p.126

しかしなにが「強制」であるかを明確にするのは非常に難しい。

おそらくこういう場合の「強制」には、脅迫や誘惑や懇願や操作や欺瞞や取引がはいってることになるんだろうが、ふつうの人びとのセックスに”一切の”(こういう広い意味での)強制がはいっていないときってのはどれくらいあるんだろうか。まあ「強制」を狭く解釈すりゃいいのかもしれんが、気になる。これはそのうち関連論文紹介したい。