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男らしさへの旅 (7)「支配のコスト」と集団の責任

「支配のコスト」補足

そういや、「支配のコスト」について書き忘れてたことがあるんですが「〜が悪い」「〜のせいだ」みたいな責任と非難の話ってものすごくむずかしいんですよね。

「男性による女性の支配」が仮に成立しているとします。それは、(1) 一部の特定の男性が特定の女性を支配している(ありそうだけど逆もありそう)、(2) グループとしての男性がグループとしての女性を支配している(むずかしい)、(3) 男性の方が社会的・経済的地位を獲得する上で有利である(ありそう)、ぐらいの意味がある。そしてそうした支配なり有利なりはだいたい不正である、とします。

ここで、ある特定の男性、あるいは特定の男性のグループが「生きづらい……つらい……死にたい……」みたいなことを言ってる場合に、「それは(1)〜(3)の意味でとりあえず男性支配のコストなので自業自得なので十分苦しんでください」みたいなのはおかしいですよね。なんでかというと、集団として男性が女性を支配したり、あるいは一部に(不正に)有利で得をしている男性がいるからといって、その責任を支配や有利さを得ていない特定の男性が負担する理由はなにもないからだ。もしそうした「グループとしての自業自得」を主張するのであれば、「男性の集団責任」が個々の男性に分配される、ということを主張していることになる。

これって、たとえば「日本人は過去に周辺諸国に悪いことをしたので、現在の日本人にもその責任があるから自責の念に苦しむべきだ」みたいな発想に近い。「過去に男性は女性にひどいことをしたので、あなたはしてなくても女性を支配して好き勝手なことをしているので、あるいはセクハラや性暴力をする男性がいるので、男性のあなたは苦しむべきだ、生きづらさを感じるのは当然だ」とかそういうのは、なんか奇妙なところがある。私自身は、人間は自分がやったことだけに責任があり非難されるべきだという立場をとりたいので、そういうのには抵抗がありますね。でも男性の責任というのはそういうものだと主張する哲学者・社会学者たちも少なくないです。

まあここには集団の責任とか非難とかをめぐるむずかしい話があって、倫理学者とか好きなところではありますが、私はインチキなのであんまりよくわからないので、若い人々はがんばってくだください。

男らしさへの道 (6) 「吹きあがる男性を冷却」は気になるが、男は黙って話を聞くべきだ

(前からのつづき)というわけで、だいたい男性学がどういうのので、どういうふうであるべきと考えられているのかっていうのはそこそこ納得はしているのですが、気になるところもあるんですよね。次のは澁谷知美先生の文章(澁谷知美 (2019)「ここが信頼できない日本の男性学」、『国際ジェンダー学会誌』第17号)。

……信頼に足る男性学がどのようなものであるかを示しておく。「男の生きづらさ」を言うなら「男の特権のコストであることの指摘」、「特権解体のための考察」と必ずセットでなされるべきである。また、実践面では、「女性/相対的に弱い立場にある男性の邪魔をしない男性の養成」を指針とすべきである。

具体的には、

  • 〈生存レベル〉において女性を従属させることをやめる
  • 女性や相対的に弱い立場にある同棲への加害を誘発する男性性の分析、加害抑制のよびかけ、加害をしない次世代の育成
  • 稼得役割の獲得に失敗した男性、あるいは獲得に固執する男性を「冷却する」言説の開発

とかが男性学の課題であるべきだそうです。「生存レベルでの従属」もほんとうにそうなっているのか気になりますが、この最後のやつがものすごく気になる。

社会学者のゴッフマンによれば、詐欺師集団では騙したカモが警察などにかけこむのを阻止するために「冷却者 cooler」がいるという話です。これまた社会学者の竹内洋先生によれば、メリトクラシー社会でも競争に負けた人々を冷却する必要物らしい。

ジェンダー公正が貫かれる社会を、詐欺行為や、詐欺まがいのメリトクラシー社会と同等視するわけではない。しかし……ジェンダー公正を実現し、維持するためには、「男性に期待される社会的達成」を得られなかったり、得ようとして無理をしたりする男性をなだめ、「冷却する」ロジックを開発することが必要である。異性の恋人や配偶者を得られないため、あるいは稼得役割を達成できないために吹き上がる男性、期待どおりの人生を歩めなかったために女性憎悪に走る男性などを、「まぁまぁ落ち着いて」などとなだめるのである。/「結婚したいのにできない男性」が今後増えると予想される現在、冷却作業の必要性はより高まっている。……未婚でいることは人生の敗北を意味しないこと、稼得役割を遂行できないからといって人間としての価値が低減するわけではないことを懇々と説き、ジェンダー公正の実現が阻まれる要素をできるだけ打ち消してゆくべきである。(澁谷 2019, pp.43-44)

これはなんかすごいと思いましたね。ジェンダー公正を徹底するために不平不満をもらす男どもを黙らせろ、っていうことじゃないですか。ここでいう「ロジックを開発」というのは、論理というより不満をもつひとびとをなだめすかす説得方法、レトリックでしょうね。それは社会運動としては必要なんでしょうが、学問として必要なのかどうか私にはちょっとわからないです。そんな人を黙らせようとするロジックだか言説だかをわざわざ開発する必要はないと思う。そもそも、そうしたロジックなりレトリックなりで人々の不平不満がおさまるののなら、最初からジェンダー公正なんてものさえ必要ないのではないか、ロジック開発すれば不満をもつ人々も黙るのではないかとさえ思えてしまいます。

まあそもそも最初に気になった小手川先生の2019年の「「男性性」自己欺瞞とフェミニズム的「男らしさ」論文も、最後はこうなってるんですね。

自分に見えている現実とは異なる現実を教えてくれるものとして、女性や性的マイノリティの声に耳を傾けようとするなら、そうした人たちが発言しやすい場をつくり、「でも、それは…」などと口を差し挟むことなく、彼女たちの声を自分の声と同等なものというよりも、むしろ自分の声よりも重いものとして聴かなくてはならない。

……歴史的・社会的により多くの特権性をもつ立場にいるのが男性たちであるなら、自分の特権性に気づき、口を挟まずに他人の声に耳を傾けるようなあり方も、まずは男性たちに課されている「フェミニズム的男らしさ」と呼べるであろう。(小手川 2019, p.193)

「男は黙って女たちの話を聞け」な感じで、まあたしかに、男らしい……なんか読んでもすぐに「でもねえ」とか書いてしまう私がフェミニズム的に男らしくないだけでなく根本的に男らしくないのも当然だと思ったのであります。まだまだ修行をつまねば……


ちなみに、他人をどうやって黙らせるかっていうのは、次の本がとても役に立つので黙らせたいひとと黙らされたくない人は目を通してみましょう。

賛同するかどうかはともかく、ファレル先生あたりの言うことも聞いてみるのもよいと思う。嫌いな人々、反感感じる人々の言うことこそ聞くべきだ、っていうのは男らしいはず!

男らしさへの旅 (5)「支配のコスト」

「支配」のコスト

まあというわけで、私は実は「男性が女性を支配しているのだ!女性は支配されているのだ!」っていうのをかなり疑問に思っていて、とりあえずそれは、「現代社会においては職業や社会的地位において男性の方が有利な場面がけっこうある」ぐらいの話だと理解させてもらいます。

ところで、やっぱり男性の方が一方的に有利なわけではないので、苦しい場面もあるわけですよね。それに、有利な立場にあるとはいえ、「男性である」ということとは別の点相対的に困難な状況にある男性も少なくない。男女の別の他にも、たとえば親の社会的階層、学歴、容姿、性格、他にもいろいろ要因があります。頭よくて壮健で技能があり性格もリーダー向きであれば、お金たくさん稼いで女性にもモテたりできるでしょうが、そうでない男性の方が大半でしょう。そうした人々は生きていくのがつらいと考えても不思議はない。これが多賀太先生なんかがテーマにしている現代社会での「男の生きづらさ」問題ですわね。そして、女性の苦しさに比べて、男性の苦しさは(相対的に)無視されやすいかもしれない。

しかし、こうした男性の「生きづらさ」は「支配のコストだ」という考え方があるんですね。これが、多賀、平山、澁谷、小手川というこのシリーズで注目して読んでいる先生たちの共通理解です。

多賀先生によれば、メスナー先生という人が、男性による支配体制には、男性にもコストを払わせるところがあると指摘しているんですね。孫引きなりますがこう。

男性たちは、彼らに地位と特権をもたらすことを約束する男らしさの狭い定義に合致するために……浅い人間関係、不健康、短命という形で……多大なコストを払いがちである(多賀 2016, p.45)

次は多賀先生自身の文章です。

男性たちの「生きづらさ」の少なくともある部分は、集団としての男性による女性に対する優越を達成し維持するための物理的・精神的負担、あるいはそうした負担の結果として男性に生じているさまざまな弊害として理解することができる。(同 pp.44-45)

個別の、特定の男性(たとえば私)が感じる生きづらさは、集団として男性が女性を支配するために私も部分的に負しているコスト、負うべきコストだ、というわけですね。

そして、「男らしさなんかから解放されたい」「解放されよう!」とかっていう一部の「男性学」や「男性権利運動」(Men’s Right Activism)は、その生きづらさが支配のコストだということを直視していないのでけしからん、ということになるわけです。

コストからの解放という主張は、その「コスト」が経済力が権力ある地位といった「特権」を得ることの代償であることをしっかりとふまえている場合にのみ正当性をもつ。(多賀 2006, p.185)

多賀先生はこういう感じの立場で、まあ理解できるんですが、平山先生はその多賀先生の立場でもまだヌルい、と考えてるみたい。私はなんでそんなに多賀先生に厳しいのかもうひとつよくわからないのですが、とりあえず次のように批判している。

端的に言えば、稼得役割に対する固執と、それを追求するがゆえに男性がさらされる身体的・精神的・社会的リスクは、家庭における支配を維持するための対価である。

多賀もまた、これらのリスクを「支配のコスト」と呼んではいるが、多賀のようにこのコストを男性の「生きづらさ」として語る必要は、わたしには感じられない。……男性による「一人で家族を養うことができること」の追求は、男性個人の「生の基盤」の確立のために行われるわけではないからである。要するに、「支配のコスト」は「支配のコスト」ではなく、それを「生きづらさ」と呼ぶ必要はない。(pp.238-239)

「生きづらい」とかっていうのは苦しい立場に置かれてる人々の実感だろうから私はそれでいいと思うんですけどね。くりかえしますが、私の理解では、ここで言われている「支配」っていうのは、実際に男性Aさんが女性Bさんを「支配」しているっていう意味ではなく、「男性の方が有利な場合がある」ぐらいの意味のはずだし、その有利な立場にない人々にとっては他の男性の有利さのために自分が苦しいというのは理不尽だと思う人がいても不思議ではない。

澁谷知美先生も平山先生と同じような意見です。

日本の男性学の信用できない点とは、男性の特権にまつわるコストを「生きづらさ」と呼び、男性の「被害者性」を強調しながら、特権を放棄するための考察を怠っている点にある。(澁谷 2019, p.30)

〔現代の社会には〕「男の生きづらさタブー」のようなものがあると実感している。/そうした実感をもつ筆者も「男の生きづらさ」が存在しないと主張するものではない。その「男の生きづらさ」なるものが「支配の挫折」、「支配のコスト」、「自縄自縛」でしかないのに、それに関するエクスキューズ以外の指摘がないまま、ただ「男の生きづらさ」が強調される「語り方」に問題があると考えている」。(澁谷 2019, p.31)

ここらへんの先生たちの見解は、全体として、男性は女性を支配するために勝手に「男らしさ」を追求し、その結果勝手に苦しんでいるのだから自業自得である、苦しんで当然である、みたいな感じなんでしょうが、こういう議論は、どうも「誰が被害者なのか」「誰が悪いのか」ということを争っている感じで、社会的な不均衡みたいなのを「誰が悪いのか」という形で論じるのは私には奇妙に思えます。

どういう話であれ、「苦しいです」って言ってる人々の話は「苦しいのだな」って聞いてあげてもいいのではないか。というか聞いてほしい。まあお釈迦様がおっしゃられているように、われわれの苦しみの多くは、満足できない勝手で無駄な欲望や煩悩に由来するわけですが、それにしたって「自業自得だ」みたいなのは気の毒な感じがする。

もう一点、これらの先生たちは皆、男性は、「男性の特権」を放棄し、女性を「支配」しようとするのをやめ、無理な「男らしさ」(特に稼得)の追求をあきらめるべきだ、またより男女平等な社会をつくりあげることを目指すべきだ、そうすれば「男性の生きづらさ」も軽減されるであろう、っていうことをおっしゃっておられて、それはそうなのかなと思うわけですが、具体的に特権を放棄するにはどうすりゃいいのかということと(仕事やめればいいとかではないだろう)、本当にそれで苦しい人々が苦しくなくなるのだろうか、とか考えちゃいますね。

いや、基本線ではその通りだと思うんですが。


このエントリあんまりおもしろならなかったのですが、特定の男性が他人をうまく支配しているかどうかはともかくとして、男性であることにはいろんなコストがある、ということについてはけっこうよい本たくさんあります。多賀先生のも平山先生のもそういうのではどちらも優秀なので読んでほしいと思います(なんで批判しあってるんじゃろか?)。男性の苦しさについては、若手批評家のベンジャミン・クリッツァー先生なんかそこらへん積極的に紹介してますのでそっち読んでもらった方がよかった。

男らしさへの旅 (4) 女性はもっとパワフルなはずだ

前のエントリうまく書けてないので、もう一回チャレンジ。

「支配」の原語は?

もう一回、「男性支配」に戻って、多賀先生のやつ再度引用。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

やっぱりこの「支配」っていう訳語はあんまり適切じゃないじゃないですかね。対応する英語はdominanceで、ruleやgovernではない。

dominanceはなにかを比較する概念で、なにかと比較して優勢にあること、より力(権力)があること、目につくことですわね。制度的な支配とかそういうのではなく、単に数が多いとか、数が少なくともリソースの大部分をもってるとか、そういう感じになると思います。動詞のdominateとなると、これは「支配する」という語感に近いものになって、誰か他人をコントロールしたり強い影響力をもったりすることを指す。とくにまあ意に沿わない形で影響力を行使したりすることを指しますね。まさに支配だ。

「覇権的男性性」とかっていう表現に出てくる覇権的 hegemonicというのは、いろいろあるなかで一つが圧倒的に(なんらかの点で)優位・優勢であり、また強い影響力をもつという意味で支配的でもあることを指していると思う。

さて、大学教授とか、大企業の社長とか、議員とか、まだ男性の方がずっと多いので、たしかに男性優位だとは言える。しかしこの優位・支配というのは「女性をコントロールする」のような意味での「支配」ではない。もちろん数が多かったり高い地位にあれば他人をコントロールすることも容易になるでしょう。全体として、先進国の社会は、社会全体でも企業その他の団体でも、たいてい男性優位でしょうね。(美容業界や看護師や助産婦さんの世界なんかは違うかもしれない)

では家庭はどうか。小手川先生や平山先生が見ているように、男性支配、男性が優位であり、女性に強い影響を与えているだろうか、っていうのが最大の疑問なわけです。

女性は実はもっとパワフルなはずだ

このシリーズで名前をあげている日本の社会学・哲学の先生たちは、男性が稼ぎを資本にして女性をコントロールしている、と考えている。しかし、私のアイドルのパーリア先生や、キャサリン・ハキム先生なんかは、少なくとも家庭のようなプライベートな場所では第二波フェミニストたちが思っているより女性はずっとパワフルだと主張しています。

ハキム先生をちょっと引用しますね。

社会学的な調査は今のところパートナー間のエコノミックキャピタルの比較に焦点を当て、二人の平等性と力関係を評価している。欧州の国では(スカンディナビア諸国でさえ)、女性は普通、第二の稼ぎ手にすぎず、平均して家計所得への貢献は3分の1程度だ。夫は妻の約2倍の収入を得ていることになり、ときには収入の全部を賄う場合もある。フェミニストなどはこうした数字が男性支配(male dominance)と「性差別」(gender inequality)を示すものだと言いがちだが、その裏付け証拠はほとんどない。(p. 167)

この「証拠はほとんどない」には注がついていて、1984年の米国デトロイト州での社会調査が参照されています。それによれば、夫婦の相対的な収入も、妻の職の有無も、家庭内での力の配分には相関していないし、また結婚がうまくいくかどうかにも相関していない。さらには、身体的な魅力だけでも、家庭内での力関係にはリンクしていない、とされています。この資料(Whyte 1990, 1990, pp.153-4, 161, 169)はネットで手に入るみたいなので、私は見ませんが力のある人は確認してみてください。

先に社会保障・人口問題研究所の家庭内の意思決定の調査を見ましたが、あれのもっと詳しい版ですかね。とにかく、経済力によって男性が女性をコントール(支配)しているとか、影響力の点において優勢にあるとかっていうのは、裏づけがないかもしれません。

んじゃ男女の力関係はなにで決まってるのか?ハキム先生の推測はこうです。

男女関係に関する調査や結婚カウンセラーの本によると、一般に妻が駆け引きの材料に使うのは主にセックスで、お金ではない。妻たちは夫の協力を得ようと、セックスをちらつかせたり拒否したりする。夫は大抵妻よりセックスを望み、性風俗サービスの利用は恥ずべきこととされているので、この戦略は効果的だ。(pp. 167-168)

ははは。そうなんですか?他にも、フェミニストなんかが反対することが多い海外からのメイルオーダー花嫁なんかも家庭内ではかなりパワフルなようです。どうなんでしょうね。

男らしさへの旅 (3) 「支配」と「優位」と「有利」

「支配」は単なる強制と服従ではない(はずなのだが)

とにかく私は主流派フェミニズムや男性学での「支配」がわからない。なぜ「支配/服従」という形で社会や人間関係を考えようとするのだろうか。前にも書いたように、小手川〜澁谷〜平山と遡って、多賀太先生の『男子問題の時代?』でやっと答らしきものを見つけました。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

「優位な立場」を支配と呼ぶのはかなり奇妙な感じがしますね。たしかに優位な立場にあれば、支配しやすいことはあるだろう。教員というのが学生様に対して優位な立場にあると言われていて、一番大きいのは単位を認定する職務上の決定権をもっている。学生様は教員の指示にしたがって、授業に出席したりクラスで発表したり期末レポートを書いたりしなければならない。もちろん、学生じゃなくて道を歩いている人々は、大学教員の言うことなんか聞く必要がない。また学生様も、その教員の単位が必要なかったら、その教員の言うことなんか聞く必要がない。でもまあ学生様は卒業するために一定数の単位が必要だし、必修の授業とかになるとその教員の指示にしたがわないで卒業することは難しくなる。そういうわけで、教員は単位の認定権をつかって学生様を支配している。(ほんとうにちゃんと支配できればいいんですが……)

こういう形で男性が女性を支配しているかというと、これはむずかしいですね。まず、特定の男性が、不特定の女性に対してそうした、支配できる優位な立場にあるかというとそうではない。私は男ですが、道行く女性に「焼きそばパン買ってきて」とかって言ったとしても誰もそんな指示にはしたがわない。警察に通報されちゃいます。

特定の男性が、特定の女性に対して支配できる優位な立場にある、ということはありえる。たとえばある父親が自分の娘に対して生活費や学費の支払いを根拠に、自分の言うことを聞かせることはできるかもしれない。学費や生活費止められたら困りますからね。親子関係じゃなくても、カップルは配偶関係でもそうしたことはあるでしょうな。

日常的な感覚で「支配」と聞けば、暴力や脅しによって支配者が被支配者を強制的に服従させるような状況をイメージするかもしれない。しかし、社会学で「支配」という概念を用いる場合、それは必ずしもそうしたむき出しの暴力による統治だけを指すわけではない。「支配」には、被支配者がその支配体制を正当なものとみなし、自発的にそうした支配体制に従うような側面もありうる。……つまり、男性支配の社会であるからといって、常に男性が暴力や脅しによって女性を力ずくで服従させている……とは限らない。むしろ、女性たちが、男性が女性よりも利益や権威を得られる社会のあり方を正当なものと見なし、自発的にそうした体制に従っている状況を「男性支配」という概念で把握することは、社会学的な「支配」の用法として、十分理にかなっている。(多賀 2016, p.35)

これ言いたいことはわかりますね。しかし、「支配体制に自発的に従う」っていうときのこの「支配」は、被支配者にはもういやなものでもないし、また道徳的に悪いものでもないわけです。日本に政府があって、政府が国民を統治しているのは悪いことではない。

となると、上の社会学者たちの意味での支配(優位/劣位)が悪いのは、その優位/劣位または有利/不利が生まれるプロセス・経過が不正だったり、あるいは有利不利の格差が参加者たちが正当性を認めるものより大きすぎたりする場合に限られるように思います。

さて、日本の社会における男性と女性の関係はそうしたものになっているだろうか?グループとしての男性とグループとしての女性が、そうした優位・劣位の関係になっているというのはちょっと考えられない。私が男だからという理由でしたがってくれる女性はほとんどいませんしね。他の男性はそうした女性をもっているのかもしれないけど、グループとしてもってるわけではないでしょう。

一方、一般に男性の方が、女性よりも教育や就労の点で(優位ではなく)有利だ、ということはありえる。それほどはっきりした有利不利が性別によってあるのかどうか私は疑問に思っていますが、これはとりあえずここでは認めてもよい。でもこの有利不利は、我々がふつう使っている「支配」とはまったく違う概念ですよね。

そして、多賀先生自身はともかく、平山先生や小手川先生は、家庭内における支配、ふつうの意味での支配、すなわち 強制 を問題にしている。つまり、夫婦・カップルの間の経済力(稼ぎ)による支配ですわ。でも本当にそうなってますか?

なぜ稼ごうとすることが「支配」なのか?

前のポストで引用した平山先生。

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

小手川先生はこう。

集団としての男性は、男性は女性よりも優れているから女性を支配すべきだという思い込みのもとに、家父長制からもっとも利益を得てきたし、いまなお得ている存在である。(小手川 2019, p174)

これらの「支配」が強制や押し付けを指してるのははっきりしていると思うんだけど、どうでしょう?そして、男性は本当にそうした強制や押し付けをしているのかしら。逆に、妻からさまざまな強制をされている男性はあんまりいないのだろうか。

私が思うところでは、多くのご家族(夫婦)は、政府と人民、みたいな支配(強制)と服従、みたいな形にはなってないと思うんですよね。前のエントリで貼った「意思決定」だっていろんなことを夫婦で相談しながら決めてるじゃないですか。労働と家事の分担みたいなのも、夫婦それぞれ不満をかかえながらかもしれないけど、そこそこうまく分担して協力している。多くのご家庭では夫が主たる稼得者であるけれども、家計の管理なんかは妻がやって、おこづかい制度になっていると聞きます(旦那が稼いだものなのに!)。もちろん、協力がだんだんうまくいかなくなってくると、おたがいの不満も増えるし、いっしょにいるメリットがなくなって別々にいた方がましとなれば、離婚してしまう(現在初婚カップルの1/4だっけ?)でもそれって、支配/服従じゃないですよね。たしかに、ある時点から結婚生活が支配と服従になってしまうかもしれないけど、支配から逃れて離婚して独立することもできるのだから。

でもここで、平山先生や小手川先生に、私が想定していなかったある仮定があることに気づきました。先生たちは、たくさん稼いで妻を専業主婦になってもらおうとしている男性たちのことを考えていたのね!「結婚するなら仕事やめて」みたいな男性たち。あー、そりゃ勝ち組だわ。

子どものころから、私のまわりにはめったにそういう人がいなかったので、そういう発想がわからないんですよね。専業主婦なんてほんとうに限られた高収入層の贅沢じゃないっすか。

いまどきの男性も、配偶女性に実際に専業主婦になってほしいとは思わない傾向があると思う。統計はすぐに出ませんけど出せると思う。現代の若者男性(20代から40才ぐらいの未婚男性)が苦しいのは、妻が専業主婦になってくれないからではなく、お金がないと結婚はおろか交際(一対一の、結婚を前提とした)さえ難しいからですよね。

こういうのに気づいたら、先生たちがいったいなにを議論しているのか、そして私がそれをなぜ理解できなかったのか、疑問が氷解した、っていう感じでした。

(続く)

男らしさへの旅 (2) 「男らしさ」と「男性性」

「男らしさ」と「男性性」

小手川先生や彼が参照する男性学の系統の先生たちでは、「男らしさ」は「家父長制」と強く結びつけられて考えられていて、そこでは、男性は「支配者、稼ぎ手、威厳ある父」(小手川 2020 p.62)である、ってことになっているみたい。なんかずいぶん違和感ありますね。ここらへんはいろいろむずかしい。

まず「男らしさ」っていう言葉が誤解をまねきやすい。我々が日常的に「男らしい」という言葉を使う場合は、宮下あきら先生の『魁!!男塾』みたいないかにも男男していて、強く乱暴で義侠心がある漢!侠!みたいなのか、あるいは生物学男性がとりがちな不合理で馬鹿げた振舞をすることを指してると思う。まあそれほど馬鹿らしくなくても、正義感とか忍耐とか、そうした優れた(?)性質に対する誉め言葉や、それを逆手にとった皮肉でユーモラスなけなし言葉だと思うんですわ。とにかくなんらかの評価語だ。

私が「男らしさ」っていう言葉で連想するのは、身体的な強さや筋骨に加え、なんといっても「勇気」と「公正さ(正義)」と「忍耐」とかの精神的な美徳なんですわ。他にもチームワーク、なんかに習熟していること、各種テクノロジー使えること(ITに限らない!たとえばロープ結びや火起こし)、冒険心、そしてなによりタフさ、かなあ。

こういう「男らしさ」って、我々男性の大半が手に入れてないものですよね。「男らしい」筋骨隆々のボディなんてほとんどの男性はもってない。たいていの腹ぼて洋梨体型でしょ。勇気も正義も忍耐も技術も冒険心もタフネスももってない。我々は卑劣でえこひいきしてすぐに投げだし、不器用で臆病で弱虫だ。いつも泣き言ばっかり。男らしさはそれは単なる理想としてだけある。そして、我々の大半は、まあ自分がすでに手に入れた男らしさを、なにかの機会に発揮できたときに、満足して確認することはあるかもしれないけど、他のたいていの男らしさ(美徳)を努力して手に入れようとさえしないことも多いように思います。 男らしさ、男性性がそういう能力の獲得と発揮にあるなのなら、我々はほとんど男性失格だと思いますね。

でもどうも男性学とかその手の人々のあいだではちがうものを見てるみたいなんですよね。小手川先生も日本の男性学の影響を強く受けてるのは感じられる。

社会学は基本的に価値中立が望ましいってことになっていて、いろんな言葉を、ほめたり推奨したりけなしたり非難したりする価値的・規範的な使い方ではなく、なるべく記述的に使う、ってことになってる。つまり、「男らしい」 masculine っていうのはほめ言葉でもけなし言葉でもなく、単に「男であること」女性と比較した場合にもっているある性質、みたいに使うことになっています。そうすると、評価的に使われる「男らしさ」っていう日本語はあんまり適切じゃなくて、masculineは「男性的」、masculinityは「男性性」とか訳した方がいい、って立場もある。社会学者の多賀太先生なんかはそういう立場で、「男らしさ」ではなく「男性性」を使うようになっているようです。この一群の記事では面倒なので使いわけません。

覇権的な男らしさ/男性性

小手川先生も使ってるけど、主流の男性学では、「覇権的な/ヘゲモニックな男らしさ/男性性」っていうのがキーワードなんですわ。これまたやっかいな概念です。「支配的な男らしさ」っていう表現も見ますね。

「男っぽい」っていっても、いろんな「男っぽさ」があるわけですわね。豪放磊落、豪傑っぽいのだけが男じゃない。ブラッドピットみたいなのも男っぽいし、ホーキング博士みたいな科学者も男な感じ。そういうわけで、「男らしい」「男性性」っていってもいろんなイメージがあるわけですわ。だからレイウィン・コンネル先生という有名な人は、男性性 masculinity はいろいろあるから複数形でも使えるはずだ、複数形で使うべきだ、ってんで Masculinities っていう本を書いて男性性の概念をそうしたものとして扱った。まあ実際男性っていろいろいるから、なかなか「これが男だ!」ってのはやりにくいですわね。

んでコンネル先生は、そうした複数の男性性には、特別に偉いと思われてるやつがある、っていうんですわ。それが覇権的な(ヘゲモニックな)男性性。覇権って、国とかまあいろいろあるなかで、他の同種のものに対して支配権・支配力をもってるような存在ですね。男性のなかでも特にあるグループの人々は他の男性グループに対して優越し、支配権をもつ。

コンネル先生は現代社会では、ホワイトカラー、正規雇用、異性愛者、既婚者であることが覇権的な男性性である、っていうわけです。まあ結婚している上級サラリーマンみたいなのがそれだっていうんですかね。この人々のなかの個人が実際他の男性を支配しているか、というのはよくわからない。実際のサラリーマンは簡単には他人を支配することなんかできないだろうと思う。むしろ、いまの日本を動かしてる自民党とか経団連とかそういう人々を思いうかべるんですかね。

男性学の主流では、この「覇権的男性性」から解放されようとか、そういう話をするわけですわね。あれ、さっき社会学の主流は価値中立的とかって書いたのに、とかなるかもしれませんが、まあ基本は分析だけど、もし「生きづらさから解放されたいならば」みたいな条件があるわけですわ。おそらく。

男性よる女性の支配

んでくりかえしますが、小田川先生のなかでは、従来の男性というのは、なによりも家計を稼いで 支配 することを目指すものってことになってるんですよね。

男性たちは、家事や育児や介護を女性たちに丸投げすることで、仕事に専念し収入や公的な信頼を獲得したてきただけでなく、彼らの扶養者である妻や子どもを自分に依存させ、従わせることができた。しかし、そのために彼らは、妻との対等の関係や子どもとの愛情ある関係を犠牲にしてきたとも言える。フェミニズムとは、こうしたあり方の歪みを問い直し、支配者・稼ぎ手・威厳ある父であり続けなければならないという家父長制の束縛から男性を解き放つことを目指すものである。(小手川 2019, p.174)

しかし本当にこうなってるんですかね。同種の発想は平山先生にもある。

事実、日本では、離別や死別によって貧困に陥る女性が非常に多い。夫婦という単位において、男性が稼得者としての役割の固執することがどのような意味をもつかは明らかである。その固執は、何よりもまず妻を自身に従属させ、その生活に係る資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味するのである。(平山 2017, p.234)

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

ここらへんで、「男らしさ」がけっきょく家族を養うお金を稼ぐことと、女性(妻)を支配することに煮つめられているのが私にはとても意外なのですが、まあ一般に「男の生きづらさ」と言われるのは、「仕事したくないでござる」と思いながらつらい職場で仕事しなければならないことや、性的におつきあいしてくれる女性がいないことに集中している感じがあるのでしょうがないですかね。でも「男らしさ」の話として、貧弱すぎる気はするのです。

まあそれはおいといて、現代日本での覇権的な「男らしさ」なり男性性なりに、「お金をもっていて家族を養うことができる」というのが入っていると認めるとしましょう。それでも、「女性を支配する」っていったいどういうことでしょうか。女性を支配している男性とかいま日本にどれくらいいるんでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所が出してる第6回家庭動向調査 (2020)だと、「主たる意思決定者」はこういう感じなんですよね。

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まあ高額品の購入、家計の管理、親戚づきあい、子どもの教育について、夫婦のどちらが意思決定しているかってだけなので、妻が家庭を支配しているというよりも、夫の方がそうした家庭のことにさして興味をもたず、妻に丸投げしている、という小手川先生や平山先生が指摘していることを示しているのかもしれませんが、んじゃ実際のところ、男性が女性を支配している、夫が妻を支配しているというのはどういうことなのだろう?ほんとに支配なんかできてるんでしょうか?

男らしさへの旅 (1) ジェンダー論や男性学も勉強しないと

セックスのことばっかり考えてないで、ジェンダー論や男性学も勉強しないと

子供のころから、注意散漫でわがままで泣き虫で人とうまくやってけなくて、自分の「男らしさ」に不安や疑問や不満をかかえつづけている高齢者男性としては、ジェンダー論とか男性学というやつは気にはなりますねえ。1月末ぐらいから少し余裕があって、数冊本や論文めくってみて論じられている「男らしさ」というものについて少し考えてみたので、読んだ順番で紹介してみたいですね。

最初に目にしたのは、哲学者の小手川正二郎先生の一連の論文・書籍。

どれもとてもおもしろいので、ジェンダー論や「男らしさ」に関心がある人はぜひ一読をおすすめしますね。つい読んでみて気なったのは2019のやつで、2020の2冊でも、「男性学」や男性の発想について、だいたい同じ論旨の批判と主張をおこなっておられる1。でも私ずいぶん違和感あったんですよね。

小手川先生は「親フェミニスト」っていう感じで、ちょと違和感はあるけどフェミニズムに賛成して性差別をなくしたい、そのためにもまず自分の悪しき男性性を反省したい、みたい感じで、文章読んでるとても誠実でいいひとっぽいのが伝わってきますね。

小手川先生の「男性学」や「男らしさ」に関する主張を簡単に紹介するのはむずかしいのですが、2019のやつだと次のようになる。

  1. 現代でも性差別は大きな問題である
  2. 性差別をなくすためには、男性は自分たちの「男らしさ」についての考えかたを反省するべきだ
  3. 一般に現代日本で「男らしさ」(覇権的男らしさ)として考えられているのは、家父長的な男らしさであり、稼ぎ、支配、威厳、独立、自律などの特徴が中心的である
  4. しかし実際には男性は女性に依存しており、女性のサポートによって有利な立場にありつづけている。男性は男性的特権をもっており、それを十分自覚しておらず、自己欺瞞的である
  5. 男性が家父長的な「男らしさ」を求めるのは、他人、とくに女性の支配のためであり、「つらさ」はそのコストにすぎない
  6. 日本の男性学では、「男の生きづらさ」が強調され、それの対策として「男らしさから降りる/男らしさを捨てる」のようなことが提唱されているが、「男らしさ」はそんなに簡単に降りたり捨てたりできるものではなく、それできるとかすでにおこなったとかって主張をするのは自己欺瞞的である。
  7. 男性はそうした自己欺瞞をやめ、次のような方針に賛成するべきだ。そしてそれが「フェミニズム的男らしさ」である。(1)自分たちの力の限界を認識し、アファーマティブアクション等の制度の改善に貢献するべきだ (2) 自分たちの男性的特権に気づき、他人(特に女性)の言いぶんをよく聞くべきだ

私の違和感は、家父長的な威厳をもって「支配」してたりしようとしている男性というのはいまどきそんなにいるものだろうかとか、男性学で言われている「生きづらさ」がそんなに欺瞞的なものだろうかとか、アファーマティブアクションみたいなものをそんなに簡単に肯定して大丈夫なのかとか、「違和感があってもとにかく女性の話を聞け」みたいなのがかえっておかしな「男らしさ」ちゃうんかとか、まあいろいろあるわけです。

んで、「男性学」や、ネットのアンチフェミニストを激しく批判していて気なっていた澁谷先生のを読む。伊藤公雄先生2や田中俊之先生や多賀太先生という方々が「男はつらいよ型男性学」みたいなレッテルで批判されてますね。澁谷先生は平山亮先生という方の多賀太先生批判にかなり頷くところがあったみたいなのでそれも読む。

最後に問題の「つらいよ」型の代表として多賀先生の読んで(順番が逆だ!)、ここらへん、どういう議論がおこなわれているのか少しわかったような気がする。どれもおもしろいので、ぜひ読んでください。でもいろいろ違和感あるんですよね。少しメモ書いておきたいと思います。

脚注:

1

時系列的には『現実を解きほぐすための哲学』は出たあとすぐにめくってはいたのですが、あんまり細かく読んでなかった。

2

伊藤先生は実はこのブログで何回か言及しているんですが、まあ今回はパス。