ジュディスバトラー」タグアーカイブ

昨日書いた「よっぱらいメモ」を批評してみる

昨日書いたメモ。

 

よっぱらいだけど、コメントもらったことに感謝の意を表するため、さっきまで書こうとしてたことだけメモ。詳しくは明日か明後日かその次がその先のとにかく将来。

まあ独特のリダンダントな表現。

  • kalliklesは狭い意味での哲学者(まあ、哲学専門哲学者?)にはあんまり興味がない。実際、これまで哲学者を自認しているひとよりは、それ以外の学問分野の人々をねちねちとりあげることが多かったんじゃないだろうか。

問題なしかな。実際、社会学まわりの人々の方が気になる。

  • kalliklesは将来ある若者ではない。それゆえ将来のない若者である。

これは前件は正しい命題であり、後件も論理的に正しい推論なのでタイトルを変えておく。

  • 有害な(広い意味での)哲学者は、定義によって、存在しない。哲学は常に魂のために良い。狭い意味の哲学者は広い意味の哲学者の部分集合の一員であり、したがって狭い意味での有害な哲学者も存在しない。(うそ。この定義は採用したいけどおそらくできない。)

これよっぱらいで書いたわりにはおもしろいなあ。しかしいろいろ問題がある。もっと正確に書くべきだったろう。

  1. 「広い意味での哲学者」はいわゆる「学者」である。彼らは正しい知識を求める人々であり、そのための(ほぼ共通の)方法論と規範をもっている。
  2. 私が前に書いた「狭い意味での哲学者」は学問のなかでも特に哲学と呼ばれる分野に特化している人々である。「哲学研究者」とも呼ばれる。
  3. しかし、もうひとつ独特の意味で「哲学者」と呼ばれるかもしれない人々がいるのにも注意しなければならない。彼らは「思想家」とも呼ばれる。これらの人々はしばしば学者の一部である哲学研究者と混同される。一部には非常に豊かなアイディアをもっている人々がいるが、一部はソフィストに似ている。
  4. 「思想家」は「哲学研究者」かもしれないしそうでないかもしれない。

 

  • 狭い意味の哲学者も、広い意味の哲学者(つまり学者)の標準的な規範に従うべきである。少なくとも意図的に他の学問分野に影響を及ぼそうとする場合には。

これも気どらずに「哲学研究者も学者である以上、学者の標準的な規範にしたがうべきである」と書くべきだったな。

そしてこれが、「思想家」に適用できるかどうかが問題。

  • したがって、学者は狭い意味の「哲学者」と呼ばれている人々の言うことやることに、広い意味での哲学者(=学者)として批判するべきである。学者はすべて広い意味の哲学者としての自負と責任を持つべきである。

なぜかというと、往々にして思想家は、学者、特に哲学研究者の権威を借りている場合が多いからだ。 哲学は学問のなかでも非常に困難な分野だと推定されている*1ため、哲学研究者は学者のなかでも特に権威をもっているとみなされている。しかし、私は学者として満すべき基準はたいしてかわらんと思っている。

  • バトラーの場合の一番の問題点は、バトラーが論拠のように引用していることを、信奉者たちがその論拠そのもの、およびバトラーの解釈の妥当性を(学問的に)検討できなかったことにある。(これ一番大事。)

これは問題ない。私の理解ではバトラーは哲学研究者ではなく、またふつうの学者の基準さえ満たしていない。そしてそれを無批判に引用したり援用したりする人々も学者の基準を満たしていない。

  • 「kalliklesがバトラーを狭い意味での哲学者だと認めている」という言明は偽である。しかし、「広い意味での哲学者と認めている」もとりあえず偽である。でも「バトラーを広い意味の哲学者でないと考えている」もいまのところ偽である。

まあこれはアレ。

  • ポエムと哲学は、カップラーメンと湯沸しポットよりずっと近しい。

これもアレ。書いたときにポットとカップラーメンが目の前にあったということに
ついての感慨を詠嘆している。

  • 「バトラーを憎んでいる」という表現は正確ではない。「バトラーをもちあげる人々の一部を憎んでいる」がより正確な表現であり、誤解を招くことがすくない。もっとも、バトラー自身もやっぱり問題がありやっぱり憎んでいる。

 

バトラー自身は哲学者を自称していないが、哲学者と呼ばれることを拒否もしていないと思う。

  • 正直なところ、「哲学とはなにか」「哲学者とは誰か」とかってのはあんまり興味がなかったかもしれない。でもやっぱり一回は考えてみないとならんのだろなあ。でもそればっかり考えているのは時間の無駄な感じがある。中づりにしておくのがよさそうだが、どうなんだろうか。

これはそうなんだろうなあ。

 

  • コメントを見るかぎり、charis先生の思いえがいている哲学者とkalliklesが考えている(広い意味・狭い意味どちらもの)哲学者はまったく違う対象かもしれず、その場合、見解の対立はまったく存在しない。これはkalliklesの文章が悪い。

まあcharis先生がどういう人を「哲学者」と読んでいるのかは興味がある。おそらく上の「思想家」がcharis先生の「哲学者」なのだろうと思うが、わからん。 上のかなり広い意味の「思想家」のなかにははっきりと有害な人々がいると私は思うし、charis先生はそうは考えないのかもしれない*2ついでに「哲学屋」もどういう人だと考えているのかにも興味がある*3

  • 「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、「かなり多くの」の範囲にもよるが、私にはどうも偽に見える。少なくともこれを私が信じるにはかなり多くの論証が必要であり、少なくともその論証は検証したり反証したり、整合性を検討したり、最低限でもそれを信じることの妥当性や有効性(妥当性や有効性がどういうものかは難しいが、それも考えなくてはならない)を検討してたりできなくてはならない。でなければほんとに無意味。それほど無意味な主張がまじめに主張されることさえが私の主観的にはまったく信じられないほど無意味。上の「検証」には、正確には「経験的な」という形容詞がつくのかもしれない。より正確には「哲学の命題のうちいくつかは、経験的には検証も反証もできないということは、一部の哲学者の共通の見解である」なのだろう。それでも、その命題が経験的でないしかたで真であると認める理由がわたしにはないので、「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」でいわれている主張そのものは「哲学」の主張ではなく、なにか経験的な主張か、なにか「哲学」の定義に関する主張か、その両方かなにか私に理解できない種類の主張だと考えざるをえない。したがって、それを私が信じるには経験的かなにかよくわからない証明が必要だが、charis先生がそれについて論証を提出してくれる気があるのかどうかは俄然非常に興味がある。もちろんそれはよっぱらいにはわからん。当然のことながら、それを私が信じるかどうかにcharis先生が関心をもっていないなら論証を見せようという動機がcharis先生に生じなくても不思議はない。うーん、これなんかおかしい。なにか重大なことを見落としているような気がする。だめだ。消すかも。

問題はこれだ。これ書いている途中でダメダメなのに気づいて消したわけだが。これがなぜダメなのかを分析するのが今日のポイントだが、つながっているうちに一回アップしておくか。

  1. だめなのは敵意が剥き出しだからではない。
  2. むしろ、分析が足らんから。もう少しcharis先生の言いたいことを汲みあげる必要がある。
  3. こういうことをやろうとすると私が標準的な哲学のトレーニングを終えていないことがばれてしまう。
  4. もう1回やりなおしてみる。
  5. charis先生は「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」(40字)と主張している。
  6. 私の理解では、こういう主張をしようとするときに重要なのは、まず、それが全称命題なのかそうでないのか。
  7. 「哲学の命題はすべて検証も反証もできない」なのか、「哲学の命題の一部は検証も反証もできない」なのか。
  8. charis先生がどういうものを「哲学」と呼んでいるのかどうかは難しいが、少なくともプラトンやカントの著作を共通に哲学だと思っているのは確認できたと仮定する。これはたすかる。
  9. 私にはプラトンやカントの著作のすべての命題や主張が検証も反証もできないとは思えないので、charis先生が「すべての」と主張しているとは思えない。それはあまりにも強すぎる主張に見える。
  10. したがって、charis先生が主張したいのは「哲学の命題の一部は、検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」(44字)
  11. 「かなり多くの」がどれくらいなのかはよくわからない。
  12. 「哲学者」の定義がちがっている可能性は大きい。
  13. したがって、「かなり多くの哲学者」についてはcharis先生と私の間に共通の理解は成立しないかもしれない。しかしとりあえずここでは「この手の問題について正しい知識を獲得したいという強い関心をもっている人々が、文句なく哲学(研究)者と認める人々の少なからぬ一部」ぐらいに解釈しておくことにする。
  14. さて、んじゃ「哲学の命題の一部は検証も反証もできない」はどうか。
  15. 次に「検証」「反証」がどういう意味かが問題。
  16. charis先生が「経験的に検証も反証もできない」と書いてくれればかなりわかりやすかったろうと思う。
  17. というのは、経験的に検証も反証もできない命題はたしかに哲学には多い。
  18. たとえば「三角形とは三本の直線にかこまれた面である」とかって言葉の定義は経験的には検証も反証もできない。
  19. 定義は言葉の意味を明確にするものである。言葉の定義のない哲学はほとんど無理というか役に立たない。
  20. また、「公理」はそもそも検証や反証の対象ではない。
  21. 「仮定」や「要請」も経験的に検証したり反証したりすることはできない。
  22. というか、仮定や要請について検証するとか反証するとかってことには意味がない。
  23. しかしこれは、狭義の「哲学」(プラトンやカントがあつかっている問題)特有の特徴ではない。定義は幾何学でも社会学でも必要である。
  24. ある仮定を置いた場合にどのような帰結が生じるかということはどんな学問でも非常に重要であり、そういうのこそおもしろいものだと思っている。
  25. したがって、charis先生が主張したかったのは、おそらく「哲学を含むほとんどの学問には、経験的に検証も反証もできない命題が含まれるということはほとんどの哲学者が共通に認めることだ」(60字)なのだろう。
  26. けっきょくどういう思考もなんらかの前提から出発しなければならないのだから、これは真であるように私には思われる。
  27. でもそのかわり、あんまり哲学そのものの話とは関係がなくなってしまう。
  28. だから、おそらくcharis先生が主張したいのは、「哲学には、他の学問とは違う意味で、特別に検証も反証もできない命題が含まれる」なのだろう。
  29. 哲学がそういう特殊な種類の命題を含むというのは、やっぱり哲学が具体的にどういうものであるのかってことに依存してしまう。
  30. でもまあ、charis先生と私が共通に哲学と認めているものの範囲で考えるしかない。
  31. ここで興味があるのは、charis先生が命題の間の論理的関係が重要であると考えているかどうか。
  32. もしcharis先生が、複数の命題や主張の間の論理的な関係にはあまり興味がないと答えるのであれば、もうcharis先生と私の間には意味のある対立は存在しないことになりそうだ。
  33. しかしまさかそういうものに「哲学」が関係がないとはとても信じられないので、哲学に関心をもっているらしいcharis先生は命題の間の論理的な関係に重要な関心を抱いていると要請せざるをえない。もっとも、これは経験的には検証も反証もできないかもしれないし、定義でもない。
  34. したがって、charis先生の”anything goes”はほんとうになんでもよいのではなく、一定の基準をみたしたものについてはanything goesなのだと理解するべきであるように思われる。iseda先生が「頭から排除することないじゃん」ということだと教えてくれた。これは正しいと思う。なにごとも頭から排除する必要はない。
  35. でも、あんまり奇妙な前提から出発するのは私には魅力的ではない。「黒い太陽からの毒電波」「ボール様は大地を潤す」とかからはさすがに出発する気にはなれん。しかしこれは私の実践的な判断。そっから出発する人がいてもよいと思う。
  36. その結果、経験的に検証も反証もできないような体系をつくりあげる人もいるかもしれない。
  37. 奇妙な定義と公理から出発して、巨大な抽象的体系を作りあげることも可能かもしれない。(わからん)
  38. でも最終的にはなんらかの経験的なものに訴えかけるような帰結がないと、少なくとも私には、やっぱり魅力がない。ほとんどの理性的な人にとってもそうだろうと思う。
  39. ラッセル先生は「常識的に見える前提から出発して常識に反する結論に至るのが哲学だ」とか言ってたような記憶があるが、あやふや。
  40. 今日もよっぱらいつつある。
  41. 幾何学の精神と繊細の精神とかって言葉が思いうかぶが、よくわからん。
  42. だんだん余計なことを書くようになってきた。
  43. なんか飽きてきたのだろう。根気がない。だからトレーニングを完了できなかったのだ。
  44. ちょっと戻るか。えーと。
  45. ・・・。
  46. ・・・
  47. 手間がかかるわりにはおもしろくならない。だからちゃんとした人間は哲学なんかしない。若者にはよいかもしれないが、そういうのは若者のときだけに留めておくべきなのだ。
  48. プラトンで思いだしたが、たしかにプラトンがソクラテスに検証もなにもできないことを語らせることがある。でもそのときはちゃんと「神話・お話(ミュトス)」の形をとっていると思う。
  49. 学者ってのを他の人々から区別する一番のポイントは、どの程度多くのことを知っているかとか、どの程度斬新な発想をすることができるかってことよりは、むしろ、自分の主張の根拠がどの程度までさかのぼることができるか、どの程度確かか(不確かか)を知っているという点にあると思われる。これはもちろん哲学研究者についても言えると思う。
  50. 『星の王子様』の地理学者は学者としては立派だったかもしれない。王子様は地理学者の滑稽な見かけだけを見て判断してしまっていて、不器用な地理学者が大事にしていることにある「ほんとうのこと」を見ていないように思える。王子様は思いあがってたんじゃないだろうか。わからんけど。
  51. やっぱりだめ。おしまい。
  52. 参考文献がないのに書いてると自分のなかにあるものしか出てこないからおもしろくないのだな。本読んでねちねちやってた方がいいや。
  53. コメントいただいたみなさまありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。

補足

  1. 起きた。
  2. もうおわっているけど、補足をいくつか。
  3. 上の議論は、31の議論の導入に失敗している。唐突すぎる。
  4. まあでも、charis先生の「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、 実は、「どんな学問*4、経験的には検証も反証もできない命題を含んでいるというのは、ほとんどの*5学者たちの共通の見解だ」(52字)ぐらいの主張だと理解すれば妥当。
    しかしこれは別段不思議な主張ではない。
  5. いっぽう、「哲学に限っては、他の学問では許されないような特殊な種類の検証も反証もできない命題が許されるということは、かなり多くの哲学者の共通の見解だ」となるとかなりあやしい。ただしこれ自体は「検証」とはいわないまでも、いろいろ経験的に調べて信じるに値するかどうかを検討することはできるはずである。
  6. さらに、「かなり多くの哲学者の共通の見解だ」が実はたんなる権威づけのために用いられていて、本当に主張したいことはむしろ「哲学では他の学問では許されないような、(仮定でも想定でも推測でもない)特殊な種類の検証も反証もできない命題が、許されるし、必要でもある」のようなもの(価値判断?)であるとすれば私には受けいれられないし、他の人々にも受け入れてほしくない。
  7. もしこれをcharisさんが主張しているのであれば、なんらかの論証や説得が必要になると思われる。
  8. ここまでの分析が大筋において正しければ、charis先生の「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、かなりぼんやりした曖昧な主張である。
  9. もしそういうものが、こういうお遊びのブログの上ではなく、真面目な(つまり真の知識を求める)議論の文脈で出てきたら、誰もがその明晰化と正当化を求めるべきである。
  10. ちなみに、私の理解では、カントの「物自体と現象の区別」はカントが長い論証の末に辿りつく結論の一部であり、また他の論考の前提でもある。その論証の成否と前提としての有効性は検討することができる。サルトルの「自由の刑に処されている」はたんなる比喩、あるいはスローガンやモットーである。どっちも「検証も反証もできない」命題の事例としては不適切に見える。むしろ「神は愛である」のようなものの方が適切に見える。
  11. 哲学とかがたんなるレトリックの集積や説得の技術であるならば、曖昧な表現や論証ぬきの主張が役立つことがあるかもしれない。
  12. 特にそれはなんらかの「権威」と結びつくと成功する見込みが高くなるように思われる。
  13. 権威は非常に重要である。
  14. それは、われわれの知識のほとんどは権威を認めることから得られているからである。
  15. 権威とされているものが本当に権威であるかを自分一人で確かめることは非常に難しい。それは徹底的な懐疑を必要とする。しかしそんなタイプの徹底的な懐疑を遂行するのはほとんどの人間には無理であるように思われる。また生産性も高くない。
  16. したがって、真の知識を求めるものは、権威が権威として信じるに値するものであるよういろいろ手配するべきである。
  17. また権威かどうかよく知らないものが権威としてもちだされた場合、ほんとうにそれがその分野で権威なのかどうか確かめるよう努力するべきである。
  18. 学者に求められるさまざまな基準や規範は、そういう権威を保証するために重要である。それは長年の真理を求める努力の蓄積から学ばれた伝統である。
  19. 「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」のような主張と、華々しい名前のほのめかしによる権威づけは危険である。
  20. それは、とくに正しい知識を求めようとする若い人々に有害である。
  21. なぜなら、彼ら彼女らはまだ正しい知識を求める活動の基準と規範をまだ手に入れておらず、なんらかの権威に大きく依存せざるを得ないからである。
  22. したがって、かりに権威の名のもとに、「哲学の命題は検証も反証もできない」といった曖昧な主張がおこなわれる場合、正しい知識を求める将来ある若者たちは、それを受け入れざるをないことになる。
  23. しかしこの種の曖昧な主張を受けいれざるをえない状態は、正しい知識を求める将来ある若者には有害である。なぜなら、そのような曖昧で受けいれがたい主張を、十分納得しないまま、やむをえず受けいれなければならないことは、活発であるべき人の精神を鈍くするからである。(『自由論』の引用必要)
  24. ここまで私が試みているような分析と批判は、哲学の標準的なトレーニングを受けた人間のほとんどが行なうことのできるものである。
  25. もっとちゃんとトレーニングした人々であれば、もっとエレガントに同じことを示すことができると信じている。わたしのはだめだめ。
  26. ところで、この手の分析や批判には、たいしたオリジナリティは必要とされない。
  27. というか、標準的なトレーニングを受けた人間ならば、このレベルではほとんど同じような分析をすることになるのかもしれない。
  28. したがって、このような明晰さを求める作業は、むしろオリジナリティを失なうことに近いように思われることがあるかもしれない。
  29. われわれは他人のオリジナリティを重んじ、また自分のオリジナリティを主張することに大きな喜びを感じるものだと思われる。
  30. 特にそれは「哲学」と呼ばれる抽象的な学問のもっとも重要な部分だと思われている。なぜなら、有力な哲学者たちはその発想のオリジナリティによって評価されているからだ。というのも、分析の明確さはほぼ共有されているからである。
  31. だから、われわれはオリジナルなことをやりたいと思う。
  32. 実際のところ、一日中こういったあまりオリジナリティを必要としない
  33. 作業を行なうのはそれほど興味深いこととは言いにくいと感じる。
  34. したがって、将来ある若者がこのような作業に時間を費やすのは不毛だという見方にはかなり説得力がある。
  35. また、たくさんの重要な仕事をもっているひとかどの人間がそういうことをするのもどうなのかという意見がありそうだ。
  36. しかし若者や、ひとかどの者になりそこなった人間が、日々のつれづれのなかでてすさびにそういうことするのは微笑ましいことであることはプラトン著作に登場するカリクレス先生も同意してくれるのではないかと思う。立派にひとかどの人間になった人々も、たまにはそういうことをしてくれてもよいはずだ。
  37. 「はてな」に代表されるブログやインターネットの世界でも、正しい知識を獲得したいと願っている人々は多い。こういうテクノロジーがそういう人々にとって有益なものであればよいと思う。
  38. 別段いつもまじめに議論している必要はないのであって、皮肉やユーモアも時には欲しいものだし、馬鹿げた議論は馬鹿げたものとして笑いものにしてもよいだろう。
  39. 特になんらかの権威であることを自称し、曖昧な表現や誤った主張を行なうような人々については、ヒマがあればそれを指摘し、その自称権威が正しい知識をもっているかどうかを吟味するべきである。
  40. これはやすぎるとうっかり裁判にかけられて死刑になったりするから将来ある若者には実践的におすすめすることはできない。少なくとも人間関係を悪化させることが多い。私もそういうことをやるつもりはない。しかしそういうことをまじめにやるひとに、まあ敬意は払っている。

*1:「誤解されている」の方が正確か。

*2:ちなみに下にコメントしてもらったナーガールジュナ、アウグスティヌス、ルター、ルソー、ニーチェ、マルクス、フロイト、フーコーという華々しい名前はどれも(読んだことないナーガールジュナを除いて)ちゃんとした哲学者であり哲学研究者であると思う。

*3:そしてそれがソフィストと似ていないことを祈っている。

*4:ここはこれくらい強くしてもよい。

*5:ここも強くしてもよい。

 

メモ

ちなみに『ジュディス・バトラー』のSara Salihは英文学、http://www.utoronto.ca/english/faculty/bios/salih.htm、『ポスト構造主義』のCatherine Belseyも英文学っぽい。公式ページ見つけられないけどhttp://www.english.heacademy.ac.uk/intconf/plenary/belsey.htm

もっともまあ、哲学ってもの一般と、学問の専門分野としての哲学とか哲学学?のようなものは区別しなきゃならん。どんな学問にも広い意味での哲学ていうか自己反省は必要だからして。方法論もってない学問ってのはありえん。また専門的な知識をもっているという意味で「知者」でなければならん。ある意味で、学者のほとんどは哲学者でかつ知者だし、またもうちょっと別の意味で学者じゃないひとにも立派な哲学者は多い。

ヌスバウムが指摘している問題は、広い意味での哲学者にすぎない人が、他の分野の学者のなかにまじって狭い意味での哲学者とみなされたり自称したりすることだな。ジュディス・バトラー自身は、狭い意味での哲学者を自称してはいないと思う。しかし、他の分野の人々(特に文学畑)がバトラーを狭い意味での哲学者である(そして「(文体だけではなく引用とか前提知識の点で)わからないのは私たちより哲学的に深いからだ」)ととらえていることは十分ありえる。プロフェッションとしての哲学ってのは成立するかとかそういうことだなあ。狭い意味での哲学者はthe learned professionと呼ばれるもののなかに入るかな?前にも書いたけど(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060320)、新しい学問分野が成立するときとか、学際とかってのはあぶないものが成長しやすい場所だと思っている。前には(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061126 の注)、哲学者ってのは「「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人」って書いたけどこれじゃだめだ。

続き(charis先生攻撃)

カントの文体

のコメント欄でid:charis 先生がゲーテがカントの文章を褒めたという話を紹介している。文体なんてどうでもよいのだが、数日前に同じ話を読んだところだった。

カントの悪文は同時代人にとってもそうだった(同時代人でゲーテのようなくろうとになるとカントの文は名文だとほめるが、これは後の話である)。(野田又夫「カントの生涯と思想」, 中公世界の名著『カント』, p.8)

しかしこれ、具体的にはどこでどういうふうにほめたんだろうな。もちろん野田先生は知ってるんだろうけど、出典ついててないから探しにくい。googleではうまく探せない。カントの文章はそれほど悪くないような気がする。(あと余計だけど、岩波文庫読んで「カント難しい~」って嘆いている学生さんはとりあえずこの野田先生編集のやつで『プロレゴメナ』なり『基礎づけ』なり読めばよいと思う。名翻訳。三批判も野田先生にやってほしかった。)

ヴィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインがカルト的な人物だったのはわりと有名なんじゃないだろうか。火かき棒を振り回すウィトゲンシュタインに、ポパーが敢然と立ち向かった話は胸を熱くする。私はモンクの『ウィトゲンシュタイン〈1〉―天才の責務』で読んだ気がするが、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』の方が入手しやすいかな。まあでもポパーも人物としてはかなり高圧的で反論を封じこめようとする人だったとかて話は、なんで読んだんだったかな。『哲学人―生きるために哲学を読み直す〈上〉』かな。それにウィトゲンシュタインの直弟子たちはまともな人が多い印象。

『天文対話』

これ読んだことないのはやっぱりはずかしいか。でもあれだよね。哲学みたいなものにはいつもカルトや詐欺師が付随しているのはその通りなんだけど、哲学とかの歴史ってのはソクラテスの時代からカルトや詐欺師との戦いって見た方がいいんじゃないかと思うのだが、どうなんだろうか。

Anything Goes.

日本人であると思われるcharis先生がわざわざ英語で書いているのは、ファイヤアーベントかな。『哲学、女、唄、そして…―ファイヤアーベント自伝』でいいのかな。でもファイヤアーベントだって、なんでもありとはいえ、ほんとに「なんでもあり」じゃないですよね。「黒い太陽からの毒電波が半減したんデス」とかはやっぱり困るから。

ヌスバウムの感動

んで昨日のヌスバウムの続きだけど、これは主として文体の話。なんども書くけど私にとっては文体はどうでもよいのだけど、まあ感動的な部分だから紹介。

バトラーは、文学の世界で哲学者であることによって名声を得た。称賛者の多くは、彼女の書き方から哲学的な深さを連想する。しかし、そんなものがそもそも、哲学の伝統に属するものなのか、むしろ哲学と敵対関係にある詭弁術(ソフィスト術)やレトリックの伝統に属するのではないかと問うべきなのだ*1。ソクラテスが、ソフィストや修辞家たちがやっていることから哲学を区別して以来、哲学というものは、対等な人々が、一切の曖昧主義的ないかさまを用いずに、主張と反論を交しあう対話でありつづけている。ソクラテスの主張によれば、こうすることで、哲学は魂への敬意を示しており、一方、ソフィストや修辞家たちの他人を操作しようとする方法は、魂に対する軽蔑を表わしているのだ。ある午後私は、長い飛行機旅行の間に、バトラーを読んで疲れはてたあと、人格の同一性についてのヒュームの見解に関する学生の論文を読むことにした。私はすぐに、自分のスピリットが息を吹きかえすのを感じた。「あら、この子、明晰に書いているじゃないの」、私はよろこびを感じながら考えた、そしてちょっとしたプライドも感じた。そして、ヒューム、なんというすばらしい、なんという優雅な精神だろう。いかにヒュームが心優しく読者の知性を尊敬していることか。そしてそのためには、彼自身の不確かさを曝けだしてしまう犠牲さえいとわないのだ。

大きな伝統に自分が属しているという確信に満ちていて力づよく、感動的ですな。私自身も似たような経験を何度もしている。昨日紹介したサラ・サリーに反対して、ヌスバウムは、バトラーがレトリックの教授であることはなんの「看板に偽り」のないことだと主張するでしょうなあ。

おそらく、バトラーのタイプの思想表現の一番の害は、上でヌスバウムが感じた哲学する学問する喜びとプライドを、人々からうばうことにあるんじゃないかな。これが学部学生大学院生に与える害。

あとほんとにメモ

あとせっかくコメントいただいているのにどう答えてよいのかわからないので、こっちにメモ。ひとつはコメント欄に書くのが技術的に面倒(hatena-mode.el使ってるから)で、もうひとつはネットワーク上の議論のようなものに慣れてなくて、公開独白しかできないので。すみません。特に下のメモに対する回答が欲しいわけではないです。もちろんどなた様からのコメントも歓迎ですが、私はあんまり上手くコメントを返すことができません。

charis先生の、「あと、上記で論じられているバトラーの文章ですが、単純なことを言っているだけじゃないでしょうか。」以下が、「いかなるテキストも、それ自身で”意味”は完結していませんから、つねに解釈と批判を許します。」以下とどう結びついているか私にはうまく理解できない。上のはたんにcharis先生の解釈ってことでよいのだろうか。そうなのだろう。しかしそういう「たんなる一解釈」であるようなものを提出することにどういう意味があるのだろうか。それはやはり「よりよい解釈」でなければならない。あるいは少なくとも「よい解釈」の基準がなんかあるだろうというな気がする。ほんとうにanything goesでよいのだろうか。ファイアアーベントの議論はこのような文脈でも使えるんだろうか。

「哲学の議論が必ず水かけ論に終る」というのはほんとうなんだろうか。その根拠はどこにあるんだろう?これまでの哲学の議論がほとんど水かけ論に終っているということから*2必ず水かけ論に終るっなんて強いことまで言えるんだろうか。また、それは人間的な制約によるものなのか、それとも事柄の必然なのか。そういうのを考えるのがそもそも無駄なのかどうか。

頭悪いからこういう基本的なことさえおさえるのに時間がかかってだめだめ。少年易老学難成、一寸光陰不可軽、ってのは昔から知ってるわけだがさいきんやっと本当の意味がわかってきた。(あれ、これ誰の言葉がわかんないのか。へえ。)

あとあれだ。なにかを憎んだりするのは人間の心理に関する事実で、ふつうの人は自分ではなかなかコントロールできないから「憎むな」と言われてもこまってしまう。もちろん認知のあやまりが不合理な態度を生んでいる可能性はあるから注意しなければ。でも別に出版するなとか焚書にしろとか穴に埋めろとかそういうんではない。たんに憎んでいるだけ。まあ憎んでいる人がいるということを知っておいてほしいってのはある。ここらへん徳がないのは反省している。憎まずにすめば健康にもよいらしいので、努力してみる価値はありそうだ。

あ、私ソフィスト見習いって設定なんだった。はてなでの名前は「ポロス」ぐらいにするべきだったなあ。お借りしている尊敬すべきカリクレス先生の名前は、荷が重いや。ソフィストへの道も遠い。アルフォンゾとかの方がよかっったなあ。

*1:ここちょっと訳が正確じゃないけど許して

*2:これは「ほとんど」の範囲にもよるけど、おそらく偽の命題だと思う

カルト対象としてのバトラー

charisさんにつっこんでもらったので ( )、バトラーをなぜ憎んでいるのか少しずつ書いてみよう。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20050718 に関連。

バトラーのやばさをはっきり理解したのは、ちょっと前にサラ・サリー『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』を読んだときだと思う。

ジュディス・バトラー(略)はカリフォルニア大学バークレー校のマクシーン・エリオット冠教授で、修辞学・比較文学教授という地位にある。しかしこの大学でのこの公式の称号は、いくぶん「看板に偽りあり」である。というのも、バトラーには、紛れもなく修辞学、あるいは比較文学と言える著作がないからだ。・・・一九世紀ドイツの哲学者G. W. F. ヘーゲルがバトラーの仕事に与えた影響は計り知れない。というのもバトラーは、一九八〇年代に哲学を学び、彼女の最初の本はヘーゲル哲学が二〇世紀フランスの思想家たちに与えた影響を分析したものだったからである。しかしバトラーは二作目以降、精神分析、フェミニズム、ポスト構造主義など、広範囲にわたる理論を使っている。(pp. 13-14)

どうもバトラーは難しい哲学をたくさん勉強した哲学者だと強調したいようだ。

ここ数年は、バトラーの散文の文体は彼女の概念と同様に、批評家*1の関心を惹く傾向にある。おそらくバトラーの文体に文句を言うことで内容が理解できないことの代わりになっているのだろうし、内容を拒絶する安易な口実にもなっているのだろう。
(中略)
バトラーの文体が拙劣であるとか、扱う概念の説明に労を取らない傲慢な思想家と片づけてしまう代わりに、バトラーの文体そのものが、バトラーが理論と哲学で試みる介入の一部であると認識することが肝要である。(サラ・サリー『ジュディス・バトラー』, 竹村和子訳, 青土社, 2005, pp. 32-33)

これって、カルトや一部の宗教が使うのと同じ手口だよな。「わからないのはあなたの勉強が足りないからです」「非難している人は無能か怠惰なのです」「実は裏に政治的な意図があるのです。」「ジュディス様は皆さまのことを真に心配しておられるからこそ、このような態度をお取りになるのです。」

ヌスバウムなんかはこういう感じで批判している。ヌスバウムの批判については上のサリーも触れているが、主として文体の問題と解釈しているようだ。しかし以下読めばわかるように、単に文体だけの問題ではなく、「学問」としての方法の問題を指摘している。(ヌスバウムに批判のもうひとつはバトラーたちの議論の政治的含意についてなんだが、そっちには触れない)

バトラーの思想を把握するのは難しい。それがなんであるかを理解するのが難しいからである。バトラー自身は非常に頭の切れる人物である。公開討議の場では、彼女は明晰に話し、また彼女に対して何が言われているのかをすぐさま理解する。しかし、彼女の文章の書き方は、ぎこちなく曖昧である。彼女の文章は、雑多な理論的伝統からひきだされた他の理論家たちへのほのめかし(allusion, 間接的言及)に満ち満ちている。フーコーと(最近注目しているらしい)フロイトに加え、バトラーの作品はルイ・アルチュセール、フランスのレズビアン作家モニク・ウィティッグ、米国の人類学者ゲイル・ルービン、ジャック・ラカン、J. L. オースチン、米国の言語哲学者ソール・クリプキなどの思想に依拠している。控え目に言っても、これらの人物の見解がお互いに一致することはない。したがって、彼女の議論があまりにも多くの互いに矛盾する概念や学説によって支えられており、ふつうはそういった一見して明らかな矛盾がいかにして解消されるのかについてなにも説明がないのを発見して読者は途方にくれざるをえないことがバトラーを読む上でまず最初の問題だ。

さらに問題なのが、バトラーのいきあたりばったりのほのめかし方にある。上のあげた理論家たちの思想が、初心者に向けて十分に詳細に説明されることはけっしてない(もし読者がアルチュセールの「アンテルペラシオン」という概念に不案内なら、本のなかで迷子になるだろう)。また、上級者に向けて、難解な思想がどう理解されているかを説明することもない。もちろん、アカデミック文章というものは、どうしたってなんらかの仕方でほのめかしを含むことになる。アカデミックな文章はある学説や立場についてのあらかじめなんらかの知識があることを前提としている。しかし、大陸系でも英米系でも哲学の伝統では、専門家を相手に書く学者は、一般に、彼らが言及する思想家たちが理解しにくく、さまざまな解釈の対象になることを認めるものである。それゆえ、学者たちが典型的に想定するところでは、学者は対立する複数の解釈のなかでひとつのたしかな解釈を提出し、また、その人物を自分が解釈したように解釈する理由を議論せねばならず、また他の解釈より自分の解釈が優れていることを示さねばならないという責任がある。

バトラーはこのようなことをなにもしない。さまざまに相違する解釈は、単に検討されずにすまされる。フーコーやフロイトの場合のように、ほとんどの学者は受けいれないであろうかなり異論の余地のある解釈を提出している場合でさえそうである。そこで、バトラーの文章を読む読者は、そのようなほのめかしの多用は、深淵な(esoteric)学問上の立場の詳細について議論しようとする専門家が読者として仮定されているのだと思いこみ、普通の方法では説明することができないという結論に至ることになる。また、バトラーの著作が、現実の不正義ととりくもうとしている一般人に向けられたものでないことは明白である。そういう読者は、それがグループ内での知識を前提としているという雰囲気や、説明に対してさまざまな名前が果たしている高い割合から、バトラーの散文のどろどろのごたまぜスープに途方に暮れるだけだろう。(Nussbaum, Martha, The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler, New Republic, Vol. 22, 1999.)

 

同じようなカルト性は、デリダについても見られる。

Q. デリダを読むのはひどくむずかしい。どうしてもっと簡単に書かないの? 意味を伝達したくないの

A. デリダを読むのが難しいのには、三つ理由があるわ。まず最初は、彼が(大陸の)哲学者だってことね。この伝統の外ではあまり行きわたっていない対象に幅広く言及するの。彼のとりわけ不可解な言明の多くは、わかってみるとプラトンとかヘーゲルとかハイデガーに間接的に触れていて、わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ。つぎには、たいへん細かいところにこだわるということがあるわね。繰りかえしが多くて気取りすぎだと思えることがあるかもしれないけど、それは厳密さを求める欲望から来ているのよ。でもこれ意外にもね、ロゴス中心主義に対抗する議論をするという観点からは、言語が透明な窓ガラスのようなものでその向こうに完璧に理解できる観念を認知できるわけではないことを、実例でしめすことがだいじなの。(キャサリン・ベルジー『 ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 』, 岩波書店, 2003, p. 121, 。)

「わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ」が素敵すぎる。

ちなみに、どんどんずれていくけど、このベルジーさんはおもしろい人で、ラカンについても
こんなこと書いている。

・・・彼の『エクリ』は、初読では異様にとらえがたく、謎めいており、読解に難渋する。・・・これらの著述や口頭発言は、精神分析家に向けられたものだった。ラカンの考えでは、精神分析家のしごとは、この上ない注意を払って患者の発言を聞くことだった。分析家は、謎々やほのめかしや削除や省略などによって意識の検閲をくぐり抜けてくる無意識の声を聞くのである。そしてラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。

称賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテキスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。

だが、徐々に前よりはわかるようになるものだ。しかもこの苦労は報われる。ラカンは途方もなくよく本を読んでいて、きわめて知性が高かった。彼は折りに触れてたとえば絵画、建築、悲劇などにコメントしているが、ずっと重々しい学問的著作何冊かにそのコメントが匹敵することも珍しくない。(p. 95)

この確信と批判力のなさはどっから来るのか。この人の実人生だいじょうぶなんだろうかと不安になる。この岩波の「1冊でわかる」シリーズは一般に水準が高くてどれもおすすめなんだけど、なんでこんなものがはいってるんだろうか。

(続く)

*1:ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。

江原先生のを検討してみるがわからん

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/11/11/11_11_62/_pdf

経験科学的水準の議論においては、セックスもジェンダーも、具体的性差それ自体を指す。セックスとは、生物学的な根拠を持つ性別・性差(それ自体多様性を持つが)のことであり、ジェンダーとは、社会環境によってつくられる性別・性差のことである。したがって、この意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解しようとすると、「生物学的な根拠を持つ性別・性差は、社会環境によってつくられる性別・性差である」という意味になってしまい、到底理解不能な命題となってしまう。

しかし、認識論的水準の議論においては、セックスとは、生物学的な性別・性差とされている「知識」をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された「性別・性差に関する知識」をいう。ここの意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解するならば、「生物学的な性別・性差という『知識』も、知識である以上、社会的文化的に形成されている知識である」という命題となる。この文脈では、セックスとジェンダーというカテゴリーは論理階梯が異なるようにずらされており、その点で「セックスはジェンダーである」という命題はレトリカルな命題であるような印象を受けるが、上記のように理解すれば全く理解不能な命題ではなく、むしろ当たり前で自明なことを述べているに過ぎないように思われる。

なに言ってるかわからん。カッコの使い方になんかトリックがある。

これ、特に後ろの方があやしいなあ。前の段落と同じように単純に書き代えるなら、

生物学的な性別・性差とされている「知識」は、社会的文化的に形成されている「性別・性差に関する知識」である

になって、私にはやっぱり前の段落と同じくらいおかしいと思える。「~とされている知識」がわからん。

セックスとジェンダーはどっちもは知識なのか?そう使いたいんなら、それでもいいけど、ふつうに考えた場合1)なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。、知識というのはなんらかの対象についての知識だろう。では江原先生の言う「セックス」はなんについての知識で、「ジェンダー」は何についての知識なんだろうか。「セックス」はセックスについての(文化的負荷を負って生物学的とされている)知識で、「ジェンダー」もやっぱり(文化的負荷を負っている)セックスについての知識か?んじゃおなじじゃん。トートロジー。

あれ、おかしい。江原先生の「とされている」が気になる。

生物学的な性別・性差とされている対象についての知識は、社会的文化的に形成されている性別・性差とされている対象についてのについての知識である

と言いたいのかな。

江原先生が言いたかったのは、

認識論的水準の議論においては、セックスとは、社会的文化的に生物学的であるとされている性別・性差に関する知識をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された生物学的な性別・性差に関する知識をいう。

と言いたかったのか?あれ、おかしい。

なんというか、難しいのはわかるけど、こういう言葉の使い方ひとつろくにできない(し、解決の見込みもない)のなら、「ジェンダー論」とかってのはやめた方がいいんじゃないかな。生物学的性差と文化的性差ぐらいでいいじゃん。それならOKだしまだ生産性もある。あるいは哲学やっている人がちゃんと助けてあげるべきじゃないのか。(哲学やっているという人たちが助けることができるかどうかは知らないけど、もし哲学者がなんかできるならそういうことしかできないだろう。)

この文脈にはあんまり関係ないけど、こういう馬鹿なことを考えたくないひとは、やっぱり、バトラーに『ジェンダー・トラブル』で引用されて脱構築されちゃってるウィティッグの原文を読んでみるべきだと思う。私の理解では、Wittigは「わしら、人を見るときに、まずどうしたってまず男か女か考えちゃうわよね」ってな実感をちゃんとした言葉で語っていて、別におかしくないしよくわかるし、鋭い指摘だ。

わたしらの大部分(ほんとは全員と言いたい)は、人間(通りすがりでも)を見たときに、どうしても、まずそれが異性か同性かをまず最初に認識しようとするし、すぐに認識できない場合かなり気になり確かめようとする。私の場合は異性だとわかったら、すぐにどの年齢層にいるかとか性的に魅力的かとかをもっと意識する。むしろ、まず最初に性的に魅力的な生き物(つまり若い女)とそれ以外(ジジイ、オヤジ、おばあさん、子ども、猫、机、鉛筆、舗道、空、太陽など)とをまず分けて認識しているかもしれないほどだ。そういう意味で、女性には性的なマークがつけられてしまっている(少なくとも私には。まあ私がつけているのだが)。女性ならば中学生ぐらいまではよくわからんが、20代だと2才の差ははっきりわかる。40才近くなるとかなりおおざっぱになり、60才を越えるとほとんど同じと認識してしまう。同性でも自分にとって危険な近い年齢層はかなりとはっきり意識しようとするが、自分より歳がはなれるにつれてよくわからんようになる。ウィティッグのは、そういうのから逃がれられない私たちってはたいへんだ、って文章だと読んだ。興味あるひとは読んでみるとよい。(今手元にないので、そのうちもう一回読んでみようと思う。いや、勝手にこう読んじゃっただけかもしれんのでぜんぜん違ってたら許してください。)

いったいバトラー読んでいる人間のうちの何割が自分でWittig読んでいるのか私は疑っている。おそらくバトラーがWittigの鋭い洞察になにを借りたのか、Wittigが本当はなにを言ったのかについて、バトラーのファンはほとんど興味がないのだろう。日本googleをひくと、ウィティッグの名前が必ずバトラーと組になって出てくるのがかわいそうだ。そういう風潮を私は憎んでいる。誰もバトラーがちゃんと引用してまともなことを言っているかどうか調べようとせず、「ジェンダーがセックスを規定する」(バトラー)とか書きまくり、伝言ゲームしているのだ。フェミニズムの没落、あるいは、いかにしてフェミニズムはジェンダー「論」とかいう学問もどきとなり退廃したか。

あとバトラーのもうひとつのネタ本であるファウスト=スターリングのあの本が現在どういう立場にあるのかを、生物学まわりの他の本を読んで理解しているひとがどれくらいいるのかとかね。もちろんわたしはちゃんと理解しているとは言えないけど、ファウストスターリングのどこがおかしかったかぐらいはぜんぜんわからないわけではないと思う。

さすがに『哲學』のシンポ論文二本がどっちもバトラーからはじまっていればこういうことを考えちゃうよな。

References   [ + ]

1. なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。

北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

あんまり素敵だったので写経してしまった。『哲學』は日本哲学会が出している雑誌で、おそらく(会員でもないのでよくしらんけど)哲学業界では一番権威がある雑誌のはず。難しい哲学的散文を覚悟して読んだら素敵なポエムだったので得をした気分。

誤解されないように書いておくと、これは「3 「女性的なアプローチ」の意味」と題された一節の最初の一段落。次の一段落はこんな具合。

ジェンダーは遂行的な性格のものであり、固定した場をもたない。ジェンダーは、その場の配置のなかで、その場で行なう者たちが生みだすなにかである。「母たち」や「主婦たち」や「女性たち」という場所にあって、そうしたすべての場所にはないものである。フェミニストたちが、女性たちの場所にこだわるのにたいして、ジェンダー論では「女たち」は構成された主体にすぎず、セックスはパロディーでしかない(バトラー)。ジェンダーの場所は、「ないものがあって、あるものがない」場所である。ただし、「ないものがあって、あるものがない」という謎かけのようなジェンダーの場について語ることがえできるようになったのは、フェミニズムが「不在とされた場所」を可視的にしてくれたからである。(同上)

上で(ジュディス・)バトラーの名前があげられているが、どっからどこまでがバトラーかわからん。「セックスはパロディーでしかない」だけなのか、そこまで全部なのか。素敵なポエム*1が北川先生のオリジナルか、バトラーなのかどうか気になる。文献表に挙げられているのはGender Troubleだけ。最初の段落のも『ジェンダー・トラブル』からの引用かなにかなのかな。見たことないような気がするから、Undoing Genderあたりかもしれんがよくわらかん。

あんまり関係なく上のポエムからふと思ったのだが、ポストモダンフェミニズム(あるいは北川先生の、「フェニズム」と対比される意味での「ジェンダー論」)では「男」「女」「ドラッグクィーン」などの定義ってのはどういうものになるのかな。ドラッグクィーンが「派手な女装をした生物学的な男」ではありえないと思う。「ドラッグクィーンの服装をし、ドラッグクィーン的な思考をする人」かな。この場合、再帰的になってもやむをえないかもしれない。「派手な社会的に女ジェンダーとして認められる服装をして特有の伝統的なパフォーマンスをする、社会的に「生物学的に男」と思われているような人」か。「伝統的にドラッグクィーンと呼ばれるふるまいをする人」しかないかな。男は「社会的に男だと思われている人」でいいのかどうか。あんまりよくないよな。まあ定義なんかどうでもよいと思うが、私は基本的なところが理解できていないな。北川先生の次に掲載されている舟場保之先生の論文でも、

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだっと」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。(p.77)

と書いておられる。その次の引用はGender Troubleの原書 p. 10/ 邦訳p.29の超有名な部分。(どうでもいいが、舟場先生は 「Butler, op. cit., pp. 10/29」 という表記を使っているけど、pp.は「pages」の訳なんじゃないかな。ふつうはpp. 10-11のように使うと思う。1ページだけの時はp.10のように使う。おそらく校正ミスだろう。いや、原書と翻訳のページの複数という意味なのかな。それなら私の誤解だ。出典も調べずに勝手に推測した。ごめんなさい。)

それにしても私が憎んでいる*2ジュディス・バトラーが哲学業界でも大人気。バトラーのこの部分は超人気でこの手の議論するときには必ず出てくるわけだから、やっぱり近いうちゃんと理解できるようになりたいものだ。

前にも書いたけど、哲学業界とかってところでも、だんだん地味な研究をするのはむずかしくなっているのかもしれないが、大学院生やオーバードクターの人には地道にアカデミックに典拠のはっきりした散文でがんばってほしい。ポエムは論文の最初か最後ぐらいだったら許してもらえると思うし、かっこつけるなら偽名使って偽書でっちあげて、エピグラフとして使うとかがよいのではないか(ついでに本文でもそれに言及したりするともっとかっこいい)。生物学的女性院生や女性ジェンダー大学院生や生物学的オーバードクターや女性ジェンダーオーバードクターやそれ以外のジェンダーのオーバードクターもやっぱり地道にやってほしい。

追記

ポエムは秘密クラブかハプニングバーかなにかの場面描写なのだろうか?そうだとすればわかるような気がする(し、バトラーがそういうこと書くのはわかる)が、『哲學』の読者はそういうものになれてるのかなあ。あれ読んでぱっとなんの話かわかるとか。学会の懇談会ではそういうシーンがあるとか。私の知らない世界は広い。

追記2

上の舟場先生のバトラーの引用箇所あたってみたけど、私のもってるGener Troubleだと(Routledgeの1999年のプリント)だと該当個所はp.10じゃなくてp. 11が正しい。おそらく校正ミスだろう。そうでなければどっかで起こった伝言ゲームのミスか。邦訳ページはp. 29で正しい。*3

ところでこの有名な箇所の翻訳だが。竹村訳だとこうなる。

したがって、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」—-つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面 —- として生産され、確立されていくのである。

It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex (a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established. As a result, gender is not to culture as sex is to nature; gender is also the discursive / cultural means by which “sexed nature” or “a natural sex” is produced and established as “prediscursive,” prior to culture, a politically neutral surface on which culture acts.

こうしてみると、竹村訳の「セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない」は「ジェンダーと文化の関係は、セックスと自然の関係とは同じではない(/違う)」ぐらいがよさそうに見える。”pregiven”も「生得の」は訳しすぎかもなあ。「あらかじめ存在する」ぐらいでどうか。

それにしても難しい文章ですな。なぜ難しいかというと、今指摘した”gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established”の一文なんかにおける無冠詞単数形の”gender”が「genderという語」の意味で使われており(上の意味でのdesignateという動詞の主語は私には「語」に思える)、それに対して”sex”の方が「セックスという語」ではなく「性」という概念内容(conception)か、あるいは「性」という対象を指していて、それをごっちゃにして一文のなかで使っているからのような気がする。わからんけど。難しい。とにかくこの一文でバトラーはジェンダーという概念の分析をしているというよりは、彼女が(勝手に)使う「ジェンダー」という語の操作的な定義をしているように見えるのだが、どうなんだろうか。

“gender is not to culture as sex is to nature”はどう読めばいいのかな。「ジェンダーという語と文化との関係は、セックスという語と自然との関係とは違う」なのだろうか。

“sexed nature”や”a naturel sex”はどう訳したらいいんかな。これも冠詞(a natural sexだから男女どっちか一方の性のはず)とかよくわからんよなあ。「性的本性」と「ある自然的性別」なのかな。竹村先生は”a natural sex”を「自然なセックス」と訳しているが、これはおそらくわからないというか訳しようがなくて逃げたんだろう。

あと竹村訳だと”Gender ought not to be conceived merely as ~”のmerelyが抜けてるね。けっこう大きい抜けだと思う。「たんに、あらかじめ存在するセックスに文化が意味を書き込んだものだとしてのみ理解されるべきではない。」あれ、バトラー的にはinscriptionは「書き込んだもの」でいいのかな。「書き込むこと」なのかな。ここも原文があいまいだな。

“discursive”と”prediscursive”も私にははっきり概念の内容が理解できない。「文化的」と「前文化的」に対応すると読んでいいのかな。ここらへんがポストモダン的な言語理解の難しいところだな。わからん。

一行目の”It would make no sense to define~, if ~ is“も気になる。このwouldは英語的にどういうニュアンスなのかな。あ、これは「もし~なら、~なんてことをしようとしたも意味ないよ」でいいのか。if以下じゃなくて、to define以下に仮定がはいっていてそれを受けたwouldなのね。OK。これは読めないとはずかしい。

竹村先生の「つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面」は「つまり、文化がそのうえで作動する政治的には中立な表面」の方がよいと思う。でも「表面」の意味がわからん。あるいは、「~は「前言説的」なもの、すなわち、文化に先行し、また(それゆえ?)政治的には中立なものとされ、その表面で文化が活動しているのだということになる。」ぐらいなんだろうか。

こういうぼんやりした思考や概念が本当にいやだ。それが無批判にどんどん使われて「ジェンダー論」とかの主流になっていくのもいやだ。私の理解では、哲学ってのはまずはまさに吟味することで、おもしろいことを言うことではない。

やっぱりわからん。バトラー読んだり引用している人は、ここらへんちゃんとわかっているのだろうかと疑問におもう。日本語の明晰な解説があれば教えてください。コメント欄に「これ読め」と書いてくれれば必ず読みます。

*1:The DoorsのStrange Daysのレコードジャケットを連想した

*2:これも前にも書いたけど、マッキンノンやヌスバウムについては愛憎いりみだれるって感じ。少なくとも言ってることや魅力はわかってるつもり。

*3:2007/6/4訂正。詳しくは

アンドレア・ドウォーキン メモ

WikiPediaでAndrea Dworkinの項読んでみたり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrea_Dworkin
恥ずかしながら、知らない重要な事実がけっこうあった。

  • ジョン・ストルテンバーグと20年以上同棲して、1998年ごろには結婚してた*1
  • 1999年にドラッグレイプ被害(妄想?)に会ったと主張して論争が起こった。

なんじゃこら。ううむ。

ちなみに編集ディスカッションもおもしろい。WikiPediaの編集フレームを英語で読むのははじめてだな。ニュースグループでのフレームに比べて読みやすい。それにしても英語圏のやつらは力があるなあ。キチガイが暴れてもなんとか水準を維持している。まあメインライターの力なんだろうが。日本語のWikiでここまで耐えらえれる人材はいるのだろうか。たしかにWikiPediaには新しい可能性(と困難)を感じるね。ま、このキチガイの言動を見るといわゆる「バッシング」というものが
どういうものかよくわかる。

まあ
精神的にもろい人だろうということは誰もがわかっていただろうが。先日読んだカミール・パーリア のVamps and Trampsが殺したんじゃないかとか想像してみたり。

さらに色々読んでると、米国では明らかにPagliaの影響を受けた世代のフェミニストたちがかなり力をつけてるんだな。たとえばSusie Bright。ううむ、保守化なのかどうか。こういうのぜんぜん紹介されてないよな。

まあこの人のインパクトを考えれば、『現代思想』あたりが追悼特集組むぐらいのことをしてもよかったんじゃないかと思うのだがすでにやったのかな。あといつまでもバトラーだのコーネルだのどんくさいフェミニストの紹介やってないで、若い世代を紹介してくれりゃいいのに。

まあ国内でももうちょっとすると出てくるかな。ここらへんやっている人びとでも、英語で直接どんどん読める人はそれほど多くないのかもしれない。

*1:はてなだと、 http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050510 ではゲイとレズのカップルと書いてるけど、そうじゃないと思う。

性=人格論とか

セックスやセクシャリティまわりの社会学や哲学まわりというのはほんとうに難しい。私の頭が悪いからなのだろうが、よくわからない議論が多くて困る。

今日は「性と人格」まわりの議論を見てみようとしたのだが、これがまた泥沼。自分用にちょっとだけまとめを作っておく。

「性=人格論」という言葉がある。この「=」をどう発音するのかが非常に気になるのだが、まあそれは置いといて。華やかな人々がこの「性=人格」論をやっている。重要なものだけあげると

1992 (1995) 松浦理英子 「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」
1994 → (1998) 上野千鶴子 「『セックスというお仕事』の困惑」
1995 赤川学 「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
1998 浅野千恵 「『性=人格論批判』を批判する」
1994 (1998) 上野千鶴子 発情装置―エロスのシナリオ
1999 赤川学 セクシュアリティの歴史社会学
2003 杉田聡*1 『レイプの政治学』

とか。瀬地山・角田対談(1998)とかもあるんだが、まああとで。

赤川先生の言説分析

この「性=人格論」という「=」のはいった形の言葉を造語したのは、どうも赤川学先生のようだ(と浅野千恵先生が言ってる)。

売春が「人格」や「人間性」との関わりにおいて問題化されている。
こうしたレトリックの前提になっているのは、「性そのものが人格や人間性の中心に位置する」という認識である。これを性=人格論のレトリックと呼ぼう。
(江原由美子編『性の商品化』勁草書房1995, p175 )

これだな。

赤川先生は、その後超労作『セクシャリティの歴史社会学』の第11章でさらに詳しく性=人格論の源流をさぐっていらっしゃる。1995年の論文では「レトリック」と呼んでいたが、1999には「レトリック」ではなく「言説」と呼んでいる。(おそらく「レトリック」という言葉が与える「単なる表現上の修辞や工夫」といった印象を嫌ったのだろう)

んで、この赤川先生の研究は私にはけっこう問題があるように見える。

まず赤川先生は「人格」の概念を知るために佐古純一郎の『近代日本思想史における人格観念の成立』という本を参照して、ほとんど無批判に信用しているように見える。(佐古先生の本は持ってないのでわからん)

p.275で赤川先生は、

佐古によれば、「人格」という言葉がPersonalityの訳語として用いられるようになったのは明治二十年代前半

だという。これはもちろんOK。

それは当初は心理学の訳語として使われていたが、やがて中島力蔵・井上哲次郎らによって哲学・倫理学上の用語として定着していく。

ということらしい。これもOK。ただし、そっちの意味の「人格」はpersonalityの訳語ではなく、personの訳語のはずだ。これについてどういうわけか赤川はまったく触れていない。(そしてそれを柳原良江先生は博士論文でそのまま援用してしまっている。おそるべき劣化コピーの連鎖。)

この混同をしたのが佐古先生か赤川先生かははっきりとはわからん(おそらく佐古先生)が、非常に重大な混同だと思う。赤川先生はp.276でこう言う。

まとめると、近代日本において「人格」という観念は、(1)人間の中核にあるものであり、(2)「物」や「器械」ではなく、(3)手段として利用してはならないもの、という含意を持つ記号として生まれた。その意味で「人格」という観念は、現在私たちが通常の意味で使っている以上に、哲学的・倫理学的な負荷の高い概念であったようである。筒井清忠が論じているように、その事情は、「人格」概念が、「人格の向上」を旗頭とし明治末期に登場した修養主義=人格主義とも密接に関わっていたことで一層、強化される。

佐古先生はおいといて、これはとりあえず赤川先生の解釈と受けとめていいのだろう。(赤川先生は「=」が好きなのね。たしかにこの人が造語したように見えるな。)(あと赤川先生が「記号」や「観念」や「概念」をどう使いわけているのかも興味あるが、まあいいや)

このまとめは、(1)の心理学でのpersonalityと、(2)と(3)の(カント的な)倫理学でのpersonを混同してしまっているため、使いものにならないように見える。たしかにカント先生は、価格をもつ「物」と、尊厳をもつ「人格」をはっきり区別しているし、

「あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。」

のような形で人格を単なる手段として利用することを戒めている。

でも、カント的な意味では、「人格person」は(1)人間の中核にあるものではない。カント的な意味だったら、それは人間性Menschheitだ。さっきの1995年の論文では正しく「人間性」にも触れているのに、なぜ『歴史社会学』では落としたんだろうか。

「まとめ」の(1)や、修養主義で言われるのは性格特性character traitや人間性や道徳性をさす「人格」で、けっきょく赤川先生の「人格」は日本語で同じ訳語になる複数の概念をごっちゃにしたものでしかない。

赤川先生は日本の社会学者のなかでも抜群に明晰な方なので、もちろんそんなことには気づいている。大正~昭和の恋愛至上主義と性教育を概観して、次のように言う。

性=人格論とは、恋愛至上主義のフィールドにおけるカント的用法、つまり「人格である性を、道具・モノ・機械のように扱ってはいけない」という倫理命令と、性教育のフィールドにおける性の重要性の強調、つまり「性は人間生活の中核に位置する重大なものである。」というフロイディズム的用法との二つの要素からできあがっている。

これは、非常に重要な主張だ。ただしカントが恋愛についてどう考えていたかというのはおもしろい問題で、カント自身は恋愛至上主義からはもっとも遠い場所にいるはずだ。赤川先生は「恋愛至上主義」がカント議論の流れにあるというが、カントというよりはゲーテ→ショーペンハウエル→トルストイ→ロマン・ロランとか続くロマン派からヒューマニズムの議論なんじゃないだろうか。文学上の自然主義に対する反動もあるわけで、ここらへんもっと難しい対立があるように見える。

まあそこらへんの細かい議論はおいといて、問題は、こういうまったくちがった源流から来ている(原語が違うはずの)「人格」という訳語が、いっしょくたに議論されてしまっている点にある。赤川は少なくとも源流が違うのだからこれらの「人格」がまったく違う概念であることも理解しているはずなのに、それをはっきり述べない。むしろ積極的に混同してしまう。上で引用した文章に続いてこう言う。

そしてこの二つの要素は、戦後の純潔教育において合流・合併することになる。

このようなところに、赤川の「性に関する言説の歴史社会学的記述」という方法論そのものの重大な欠点があるように見える。心理学的なpersonalityと倫理学的なpersonが混同されたのは歴史的な必然ではなく、偶然にすぎない。ぶっちゃけて言えば、personalityとpersonが混同されたのは、どちらの派閥も日本語で「人格」という訳語をつかってしまったために、頭の悪い人々がその二つを混同してしまったからにすぎない。しかし赤川の方法論では、「とりあえずこの時代にはこういうふうに言われていたのでこうだったのだ」としか言えず、批判することができない。赤川先生は、ここで混同があったことを指摘し批判するべきであって、同じ「人格」という日本語を使っていたからといって、それを無批判に受けいれてしまうのが非常に奇妙に見える。彼の方法でわかるのは、せいぜいのところ、「混乱した思考のなかで日本人の文筆家たちが「人格」と性のつながりについてどう考えていたか」でしかない。そしてそれはふつうの人々の生活や意識からも乖離してしまっているかもしれない。(あら、うまく表現できない。私の頭が悪い。)

なんかだめ。わからん。赤川先生はp.286-7で吉本隆明まで持ちだしてごちゃごちゃやるのだが、わたしには理解できない。うう。

上野千鶴子

赤川先生の方法論については上の記載はなんかおかしいので考えなおすです。

で上野先生なんだが、上野先生が『発情装置』の序文でやっていることは、赤川先生や加藤秀一先生の研究に影響を受けているんだと思う。(90年代後半から上野先生は親分になり、子分たちの研究を十分参照するようになった。これは「フェミズニムの社会学」があるとすれば非常に重要な一面なんだけど・・・*2上野先生は、

セクシュアリティの歴史的研究があきらかにするところによれば、性と人格の結びつきは、「近代パラダイム」というべきものです。もちろんここには男にとっては性と人格の分離が可能だが、女にとっては性と人格との分離は不可能だ、という「性の二重基準」が組み込まれています。(p.23)

とかって言ってしまうわけだが、ここで上野先生が「人格」という言葉で何を言おうとしているのかが曖昧でわからん。少なくとも赤川先生のいう(1)の意味か、(2)(3)の意味かをはっきりさせる必要があるんだろうが、これではどうしようもない。社会学者でこれほどまでに自分の使っている概念に無批判な人はめずらしい。おそらく、とりあえずただ書いてみたのだろう。

そもそもカントからロマン主義的な「人格」が近代的なものだってことはそうなのかもしれないが、もっと注意が必要に見える。セックスははるか古代から重要だったと思うのだが。

浅野千恵先生の「性=人格論批判」批判」

浅野先生というひとは上野先生とかと比べるとずいぶん真面目な人のようだ。深刻すぎて困ってしまう。「『性=人格論批判』を批判する」という論文は腰のすわったフェミニスト的意識に根差したよい論文だと思う。(私はこの人が書くものを非常に高く評価している。論文は先生のホームページから手に入るのだが、浅野先生、ディレクトリが丸見えですよ。 )

浅野先生は(1)赤川流の「性=人格論は近代固有だ」」という見方を否定。フーコーはインチキ。(2) 「性=人格論」批判は、たんなるレトリックである「性=人格論」を実体化してしまっているのでダメだ、(3) 「性=人格論批判はフェミニスト的でない。」の三点を主張したいようだ。ここでは議論しないけど、(1)と(3)はその通りだと思う。問題は(2)が何を主張しているか。

私がとりあえずの疑問として提示しておきたいのは、「性=人格論批判」の言説が、むしろレトリックレベルで提出された議論~を実体視するところに成り立っているのではないかという疑問である。

と言うわけだが、この周辺の部分が読みにくくてよくわからない。もし非常におおざっぱな解釈をしてもよいのなら、浅野先生が主張したいのは、「性と人格が結びついているなんてのは、売買春を非難したり規制するためのたんなるお話。だから、そんな議論をまじめに受けとって議論するのはだめだ」ということになる。これでいいのだろうか。

浅野先生も「人格」ということでなにを言おうとしているのかはっきりせてくれないから、せっかくの気合の入った論文もだいなし。もったいない。

杉田聡先生の上野批判。

んで、「性=人格」論者の代表が杉田聡先生なわけだが(NHKビジネス英会話の先生とは別、のはず)。

あんまり好きな人じゃないけど、とりあえず上野先生の「性と人格のむすびつき」が多義的であることを正しく指摘している。さすが哲学専攻(というか、そういう分析ができないようでは哲学勉強している価値がない)。杉田先生によれば、上野先生の「人格」概念は少なくとも

  • 人となり
  • 尊厳を有する人たるペルゾーン
  • 愛もしくはそれに類する心情・内面

の三つの意味で使われているという。最初のが赤川先生の言う(1)のpersonality、二番目が赤川先生の(2)、正しい。三つ目を「人格」と呼ぶのはかなりむずかしいのだが、上野先生が斎藤美奈子のインタビューに答えたものなどを見ると(浅野論文参照)、たしかにそういうルーズな使いかたをしているようだ。「愛」や「親密性」が基本的に「人格的なまじわり」なので、そういう使われかたをするようになるんだろうな。ルーズすぎるが。

わたしだったらこれに加えて「人間の価格」という意味を付け加えたいと思うけど。たとえば貞操を失なうことによって失われると考えられていたのは、私には女性の市場価値そのものに見える。「売春すると人格が損われる」「強姦は女性の人格を損なう」とかって発言で意味されているのは、「売春する女/強姦された女は価値が下る」のように見えるし。(言うまでもないが、私はこの判断にコミットしない。)

杉田先生の分析によれば、上野先生は、(I)性が「人となり」に重要だという考え方と、(II)性(の自由)は人権の一部だという考え方の二つを混同してしまっているという。さらに杉田先生は、上野は(III)ある種の性は人となりを汚す という考え方を採用してしまっているという。

あとで議論するけど実は杉田先生は上のIIIを受け入れているはずで、これが問題を複雑で泥沼にしてしまっているのだが、今日はまあよかろう。

まとめ(られん)

飽きた。上野先生も赤川先生も浅野先生も、「人格」の意味をちゃんととらえておらんというかなんか混同しているというか、明晰化しようという努力のあとが見られない。杉田先生はそこらへん努力している(が、ぜんぜん自分ではダメな議論をしていると思うが、それについてはまた後日)。

おまけ。加藤秀一先生のショッキングな主張

ついでにメモだけ。加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』はよく書けていると思っていたのだが、よく読むとなんかあやしいところがたくさんある。性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって? — 可哀相に — もう処女じゃないのか….でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。バトラーとかの悪い影響がある。

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?男性も暴力的な犯罪の被害者になったときに強い屈辱感を味わうと思うが、それと強姦の被害はどう違うか?
  2. 強姦の被害者の女性はいまだに「汚れたもの」と扱われているのか?
  3. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?
  4. 処女とか貞操とかっていうのはこの本が出た90年代にはこういうふうに扱われていたのか?
  5. 強姦された女というスティグマを貼るのはまさに加藤先生のような考え方じゃないの?「社会がそう思う」は往々にして「私はそう思う」しか意味していない。上の文章で加藤先生が「存在そのものの否定に等しい」とするのは、たんに「社会が一般にそう考えている」という記述には読めない。
  6. 「少しは感じたんじゃないの?」と加藤先生の言う「屈辱」との関係が、往々にして見逃されている巨大なポイントだ。今すぐには議論できないけどそのうち書く。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為の場合もあるだろうが、必ずしもそうでなければならないわけではない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

松浦理英子先生の「嘲笑せよ」論文の影響力が90年代にいかに強かったのかがわかる。あとブラウンミラーやエストリッチ。私にはレイプ犯の内面を見ることは難しいけれども、想像することはできると思う。私の内省によれば、彼らが「女性を侮辱しよう」なんてことを第一の目的にしているはずがないと思う。たとえば京大ギャングスターズのギャングレイプ犯は、女性が寝ている間にセックスしようとしたんだし、気づかなきゃそのままにしようとしてたんだろうから、直接に「侮辱」しようとしたなんてことはないだろう。(文字通り侮辱するためには相手がそれを意識する必要があると思われる。)彼らに「女性を侮辱するつもりだった?屈辱を味あわせるつもりだった?」とたずねても、「そんなこと思いもしなかった」と答えるんじゃないかな。(もちろん、それが問題なのだが)レイプは暴力でもあるが、とりあえずはセックスだ。性暴力を他の暴力と区別するのは、その動機の性欲にほかならない。この点でも杉田聡先生は正しい。

感想

まあ今日あげたような華やかな人びとの研究ってのは、ちょっとおかしいところがあるような気はするがインチキではない。偉い。攻撃しているわけではないつもり。

 

杉田聡先生の人格論アゲイン

杉田先生の『レイプの政治学』の議論は、全体としてよくできていると思う。80年代のフェミニストたちによる「レイプはセックスじゃなくて暴力」という議論を叩く。これはOK。人格は尊厳を持っていること、性的な自由は人格の尊厳の維持のためにも、個人の幸福の追求ににとっても核心的部分であることを主張、これもOK。上野千鶴子の反「性=人格」論を曖昧だとして叩く、OK。

新レイプ神話や上野を攻撃しているときは明快なのだが、彼自身の立場を擁護する肝心の部分になるととたんに歯切れが悪くなるのが難点だ。

杉田が自分の立場を弁護しなければならない点として (1)強姦被害をどう見るか、性的インテグリティのようなものをあまりにも人格の中心部分とみると、強姦被害者は回復不可能な傷を負ったことにされてしまうのではないか、 (2)売春も性的自由の一部ではないのか、というのがありそうだ。杉田先生は明晰な方なのでもちろんこれに気づいてる。

強姦被害の問題

まあそもそも上野が松浦の尻馬に乗って「性と人格を分けよう」と主張したのは、やっぱり強姦被害の問題がある。なぜ強姦は特別な種類の犯罪、人格に対する犯罪とみなされなきゃならんのだ、他の犯罪とどこが違うのだ、というのはもっともな疑問に思える。

杉田先生は、まず、松浦→上野の「意味づけ」を変更しようとする試みは役に立つことはあるかもしれんが社会的にダメだという。p.234-236。たとえば息子が自動車に轢き殺されたときに、「それはたいしたことがないことだと考えよう」なんてのはナンセンスだ。OK。よい議論。また、「レイプは女性を侮辱するために行なわれるのだから、性と人格を切りはなしてしまえばよいのだ」という上野の議論がレイプ被害を少なくする戦略にはならないという指摘も正しい。でもこれだけでは杉田先生は「性犯罪のなにが特別か」に答えていない。これに対するこたえがどこにあるか私は見つけることができない。もしあるとすれば、

たとえば、強力な貞操モラル・・・が成立しているところでは、強姦被害は貞操を破るものとして、女性にとってたしかに「特別な侵害」となっているであろう。・・・弱化したとはいえ「貞操」モラルの残渣、あるいはそのある種の変種・・・でさえ、依然として強姦が女性にとって特別な侵害となる原因になる。人権が意識された社会っではことのほかそうであろうが、そうした意識がなくてもまた同様なのである。
だから、性と人格とを切り離したとしても、そうした根強いモラルが生きる社会では・・・強姦が女性にとって特別な侵害になるという事実は、何ら変わらないのである。(p. 243-4)

ここしかない。つまり杉田先生は、社会のモラルがそうだから強姦は女性にとって特別な侵害なのだ、と主張したがっているように読めてしまう。もしこの読みが正しければ(あんまり自信がない)、松浦や上野の議論と大きな距離があるわけではないように見えてしまう。おかしすぎる。杉田先生はもっとはっきりと性犯罪が特別な犯罪である根拠を提出しなければならないと思う。

私だったら、性的な侵害を受けることは文化とは独立に、実際に被害者にとって心理的に特別な経験なのだ、それは人間に共通の経験だ、と主張して終わりにするんじゃないかな。それで十分なはずだ。誰でも頭を殴られればいやなのと同じように、レイプされることはそれよりイヤなことなのである。(そして進化心理学もそれを支持するはずだ。Randy Thornhill and Craig T. Parmer, A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion, The MIT Press, 2000やDavid M. Buss, The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating, Basic Books, 2003とか。)

これに対して社会構築主義とかって馬鹿な立場を原理主義的に採用すると、強姦を受けた女性の嘆き悲しみも社会的な条件づけや文化に依存することになってしまうから、「女性が現にそう感じるから」という主張の威力が薄れてしまう。まったく馬鹿な立場だと思う。

売買春は?

杉田先生のもう一つの弱点は、売買春の自由のようなものをどう扱うか。性的自由が認められるんなら、なんで売買春しちゃだめなの、というのはもっともな疑問だ。これで非常におかしな議論をしている。

「ある種の性的自己決定は、法的な厳しい制約を課されるべきである。・・・自己決定権は、それ自体尊重されるべきであるとしても、その行使は他者を害するかぎりはっきりと制限されなければならない。」

これはまともな議論である。危害原則。また、

「他者を害する」とはいかなる事態を指すのか。他者に対する身体的危害はもちろんだが、精神的危害を加えることもここに含まれるであろう。またより広く、他者の有する権利・・・に対する侵害も含まれるだろう。」(p.180)

これもOKである。しかし杉田はここから次のように論を進める。

ある人が、他の人と比べて不当に差別され、それによって「同等に扱われる権利」(平等権)を侵害されたとき、たとえその人が精神的苦痛をこうむらなかったとしても、それは他者を害する行為とみなされなければならない。(pp.179-180)

ここでかなり異常な議論になってしまっている。

言論の自由—これはふつう「精神の自由」として公権力による侵害を受けない権利であるが、一方でより積極的な行動の自由を含意している—の行使の結果、たとえば黒人やユダヤ人、さらには同性愛者、「内縁」者といったマイノリティ集団に対する偏見や憎悪が助長されるとき、そうした自由の行使は無制限ではありえない。(p.180)

上は主張はわからないでもないのだが、かなりホットな議論の対象となっている問題である。少なくとも自明だと言えるような事例ではない。

次に問題の多いパラグラフが続く。

「自己決定権」は、前記のように結婚の自由を含むと理解することができるが、これがたとえば同性愛者や「内縁者」に対する差別をもたらしうることは、明らかであろう。

「明らかであろう」と言うがまったく明らかではない。

人はそれぞれ個人として現われるが、多かれ少なかれある種の規定性を背負った類(たとえば異性愛者、制度的結婚の肯定者として現われる。そして私たちは、その種の規定性を理由に、しばしば人を差別しがちである。差別(平等権の侵害)は、ふつう個人に対する行動にうちに現われるとはいえ、その実差別は、ある種の類的規定をもつ人々に、したがって集団に、向けられるのである。だから「他者」に対する侵害は、個人を越えて集団に及ぶと言うのである。

非常にわかりにくい文章だが、言いたいことはおそらくこうだ。われわれはもちろん個人ではあるが、同時に常になんらかの特徴をもったグループの一員でもある。たとえば私はkalliklesという偽名を持つ個人であるが、同時に「男性」であり「京都市民」であり「日本人」であり「血液型B型」であるように、特定の特徴によってあるグループに入れることができる。

「差別」は常にあるグループに対してなされる。「差別」は私が理解している意味では、「当の問題に無関係な特徴を根拠として扱いを変えること」である。企業が新入社員を採用する際に重要なのは、「その新入社員がその企業にとって有用な人間であるか」であるはずで、そこでは男女の差はとりあえず重要な違いではない。だから「女性だから」という理由で入社を認めないのは「差別だ」と言われる。同様に「生まれた地域」もまたふつうの企業にとっては重要ではない特徴のはずだ。

もちろん、銭湯の女湯に男は入ることができない。なぜなら、われわれは一般に異性に裸を見られることを恥ずかしいと思うことが多いので、銭湯での性別は重要だからである。

さて、差別はある特徴をもとに扱いを変えることなので、ある特徴を共通にもつグループに対してなされる。「おまえはノビタだから仲間に入れない」という「差別」は考えられない。むしろ、差別は「おまえは男だから」「おまえは北海道出身だから」という形になる。「女だから~」という差別は女性というグループに対して、「アジア人だから~」はアジア人に対してなされる差別である。つまり、差別は常にグループに対するものである。ここまでは杉田の言うことはわからないわけではない。

一般に行動は、それが担いうる意味・・・に対して、即自的(無自覚的)でも対自的(自覚的)でもありうるが、ここで問われるべきは、即自的な行動であるよりは対自的な行動である。いま「同性愛者」差別にふたが、たとえば異性との結婚は、即自的な行動として、自らを異性愛に—サルトル流に言えば—アンジガジェ(拘束)するが、それは同時に世界全体を異性愛にアンガジェすることであり、したがって時として同性愛差別を招きうる。しかし、仮にそれを招いたとしても、その差別は、源泉が即自的な行動であるだけに、ふつうは暗示的implicitなものとして許容しうるであろう。

ここから議論は泥沼に入る。こういう難解な文章や独特の術語が出てきたときは用心しなければならない。下敷になっているのはサルトルの『実存主義とは何か』の悪名の高い個所。

「異性との結婚はみずからを異性愛にアンガジェする」。サルトル自身がこういうことを言っているのだが、この文章が何を言おうとしているのは非常にあいまいである。「アンガジェ」に説明されていないさまざまな意味が含まされており、文章の意味を画定することが非常に難しい。「異性愛に拘束する」と解釈しても不明瞭である。異性との結婚が自分を異性愛に拘束するとはどういう意味か?「拘束する」という言葉を文字通りに解釈すれば、おそらく「異性と結婚したら、それからずっと異性を愛するということに自分を拘束し約束したことになる」と解釈するべきなのかもしれないが、いったい結婚することのどこにそういう意味あいがあるのだろうか。なぜひとが異性と結婚したらそれ以後ずっと異性を愛さねばならないということになるのだろうか。わたしにはさっぱりわからない。

さらに悪いことに、そういう異性との結婚は「世界全体を異性愛にアンガジェ」することになるらしい。「世界全体を異性愛にアンガジェ」することがなにを意味しているかわたしにはまったく見当がつかない。「他人も異性を愛するよう拘束する」のだろうか?このようなタワゴトにつきあっている暇があるひとはそれほど多くないだろう。

好意的に解釈すれば、「異性と結婚することは、そのひとの「私にとっては異性との結婚が価値のあることに思える」という価値判断を表明することになる」ということだろう。しかしこれのどこが問題なのだろうか。

さらに、これが「同性愛差別」になる理由がさっぱり見当がつかない。なぜ私が異性と結婚することが同性愛差別と関係があるのか。杉田は差別を招き「うる」としているが、どういう場合にどういうタイプの差別を招くのかわからない。

さらに「ふつうは暗示的なものとして許容しうるであろう」の根拠も明白でない。たんに杉田がそう思いこんでいるだけである。

全体としてこのパラグラフはひどい文章である。意味不明。

だが、対自的な行動から発する差別はそうではない。一般に対自的な行動は、即自的な行動に対してはもちろん、単なる言葉の使用・・・よりもはるかに明確に、自らを、そして世界全体をある方向にアンガジェし、それを通じてより明確なマイノリティ差別を生むのである。」

自覚的な行動は世界全体をアンガジェする力が強いらしい。しかしアンガジェとはなにか?

買春は、対自的な行動である。・・・買春は、ふだんなら望んでも容易に手に入らない女性の身体を、金の力により自由にし、玩弄する行為である。それは、明確な女性支配の行動である。・・・また買春によって男性は、女性を(個々の女性のみか類・集団としての女性を)、男性の欲望に奉仕すべき性的モノ(セクシャル・オブジェクト)であり、金で支配してよい対象であるとする見方の方向に、己れを、したがって世界全体を明確にアンガジェ(拘束)する。それ故、買春者が実勢に女性一般(類・集団としての女性)を差別視する蓋然性は、非常に高い言うべきであろう。ある女性たちを、金で支配してよい存在と見るなら、そもそも一般に女性を、したがって他の女性を支配すべき存在と見ることは、彼にとって正当なのである。(p.182)

この何度も繰り返されるサルトル流の「世界全体をアンガジェする」の意味が明確でない。ある男性が買春するかどうかで世界全体が変化するというのはわかりにくい。おそらくもっとふつうの言い方をすれば、「買春することによって、その男性は女性を支配すべき存在と見るような世界観を手に入れることになる」ということだろう。

構造的・集合的な関係においてみたとき、買春は(ポルノ視聴とともに)「男権主義的セクシュラリティ」や同パーソナリティを作り、女性の性的モノ化、女性に対する支配・統制・差別を生み出さずにはおかない。・・・買春が右のような行動であるとしたら、買春は女性の平等権を侵害する営みであると言わなければならない。それ故、仮にそれが自己決定権の行使とみなされようと、買春はこの故にまったく権利性を主張できない。 (p.183)

これまた難解な文章だが、おそらく言いたいことは、「買春やポルノ視聴は女性に対する支配や差別の心理的原因になるからだめだ」ということなのだろう。

よくわからんよな。たとえばある女性が、留学するためのお金をためるため、一時的に風俗嬢として生きることを主体的に選択し、自分のセックスとひきかえに男性から金を要求することを決断したときに、この女性はいったい何にアンガジュするんだろうか。この女性の決断によって世界はどうなるんだろうか。この女性はおそらく、自分の実存のために、自分の性的な魅力を金銭的な価値に還元し、男性をたんなる財布とみなし、できるかぎり客から金をむしりとることにしたのかもしれない。男性を「モノ化」することによって、この女性は主体性を獲得するのかもしれない。これは杉田先生の言う「平等権」についてはどういう影響をもたらすんだろうか。そういう選択は主体的でも実存的でもない、とか言うんだろうか。

自由と平等のどっちが優先するのかってのはたしかに難しい問題だけど、杉田先生のようになんでもかんでも平等が優先する、というような主張をするのは難しいだろう。

こんな曖昧で怪しい議論をしなければ売買春を非難することができないのは、杉田先生としても無念であろう。

気になるのは、このような文章で杉田は男性あるいは人々の心理や思想を直接に統制しようとしていることである(これに杉田がどの程度自覚的であるかはわからない)。われわれは人々の行動を制限することがあるが、人々の思想をコントロールすることはつつしむべきであるということが近代社会の大原則の一つである。杉田はそのような内面や思想の自由にたいした価値を認めていないのかもしれない。(そうではないと思うのだが)

まあよくわからん。むずかしい。

*1:はてなキーワードになってないのがかわいそうだからブレースでくくってみた。

*2:もし上野先生にあれほど強力な弟子筋(特に赤川先生と加藤先生)がつかなければ、上野先生はカミル・パーリアの路線に乗ってたんじゃないかと憶測している。ラジフェミ路線やフーコー路線より、パーリアのラインの方が上野らしい。でもただの憶測。

マーサ・ヌスバウム、ジュディス・バトラーを批判する

それでは、バトラーはいったい誰に向って語っているのだろうか。彼女は若いフェミニスト理論家たちにむかって話しているように見えるかもしれない—そのフェミニスト理論家たちというのは、アルチュセールやフロイトやクリプキが本当はなにを言ったのかをちゃんと気にかける哲学の学生でもなければ、問題の本性について情報を必要としており、また自分の価値についてはっきりとしたことを知りたいアウトサイダーたちでもない。ここからすると、読者たちは驚くほど御しやすいと想像されているのだ。バトラーのテキストの預言者的な声にお追従をし、高度な概念の抽象性の緑青に目をくらまされて、想像上の読者たちは質問もせず、議論を要求もせず、言葉の定義も要求しないのである。(Martha Nussbaum, “The Professor of Parody”, The New Republic, Feb 22, 1999. Vol 220 Iss. 8.)

バトラーに関しては、私も同意見だな。そういやドゥルシラ・コーネルという人もいた。彼女も非常に曖昧でカントとラカンだのといった有名人を使ってほとんど意味を把握できないようなことを言っていると思う。日本でバトラーやコーネルをもちあげている人びとは、いったいどういう理解をしているのだろうか。多くの場合、そういう人びとは政治哲学や法哲学や文学の専門家で、バトラーやコーネルを「哲学者」と見ているような気がする。正統の哲学の人びとは彼女たちを哲学者とは認めないだろう。

そういや私はマッキンノンも曖昧で嫌いなのだが、ヌスバウムはそれなりに評価しているようだ。まあマッキノンはバトラーのように有名人たちの名前だけ借りてくるようなことはないからな。マッキノンの議論の迫力と実効性は認めざるを得ない。