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森岡正博先生にまだ粘着

森岡先生に粘着してみるメモ。

森岡正博先生の「パーソン論」批判は

  1. パーソン論は保守主義だ。
  2. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  3. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。
  4. 〈ひと〉でない存在者に対して冷淡だ。

の四つらしい。私は1と3の主張は偽であるか、すくなくとも多義的で曖昧であると思うし、2と4は偽ではないが文脈を無視していていいがかりに近いと思う。ちょっとずつ考えてみる。(パーソン論というくくりで、シンガーのような一流の哲学者とエンゲルハートのように哲学的に洗練されていない折衷主義者をいっしょにするのはどうも気になる。)

森岡先生でよくわからんのが、彼が、社会的・法的な(最低限の)ルール作りの話をしているのか、道徳的義務や責務の話をしているのか、もっと個人的な理想の話をしているのか、われわれの実感の話をしているのか。もっと別のことなのか。

4番目のやつから。キーになるのは次の文章。

潜在性を持ち出す議論のポイントは、……潜在的な〈ひと〉を殺すことは、将来生まれ出てくるかもしれない何らかの尊い「可能性」を奪ってしまったことになるのであり、その可能性を奪ってしまったことに対して、われわれは何かの「責め」を負わなければならない、ということを主張したいのではなかろうか。

すなわち、胎児には〈ひと〉になる潜在性があるということは、中絶を禁止する根拠にはならないけれども、中絶してしまったわれわれが何かの「責め」を負わなければならないということに理由にはなる、ということである。ここで真に問われているのは、それが道徳的に許容されるかどうかという次元の問題ではなく、われわれが「責め」を負うことになるのかどうかという次元の問題なのである。(『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』p.117)

いつもながら非常に魅力と迫力のある文章だが、この「責め」がどういう「次元」の話なのかが私にはぴんと来ないんだよな。「法的には許される(べきだ)が道徳的には非難される(べきだ)」はよくわかる。おそらく女性の中絶の権利を擁護する人びとにもそういう人びとは多い。

しかし、「道徳的には許されるが「責め」はある」となるとわかりにくい。森岡先生にとって「道徳」ってのはどういうものなのか。森岡先生と私の「道徳」の範囲が違うのかもしれん。やっぱりある種の宗教的立場で主張される罪(「私にはどうしようもなかったが、それでも私は非難されるべきだ」を認める立場)とかヤスパースの「形而上学的罪責」のレベルなのか。guiltとか remorseとかregretとかの議論だよな*1。難しい。

森岡先生の議論の裏には、おそらく、「中絶や治療停止を選択する人びとは、それが法的には許されても罪の意識を感じるべきだ」がある。そして、「その罪の意識を軽減する「パーソン論」は有害だ」と言いたいのだと思える。これどうしたらいいんかなあ。「罪の意識を感じる人びとの方が一般には善良だ」ならその通りなのかもしれんがなあ。少なくとも、たとえば、犬猫金魚ハムスターだって、何の罪悪感なく殺したりする人びとと私はつきあいたくないもんな。牛肉豚肉を平気で食うひとよりは、「命をいただいてありがとう」な人びとの方が善良だ。中絶ならなおさらだ。しかしこれ「パーソン論」の問題なんだろうか?森岡先生は、我々から「責め」の感覚(あるりは「罪悪感」)をなくそうとするあらゆる議論に反対なのかもしれん。

だから次のような文章が出てくる。

パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいのかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪の行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」をみずからに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。(p.118)

でもこれって私だったら個人の理想の話(もちろんそれは非常に重要だが)であって、「パーソン論」のように、「権利」とか線引き問題とかもともと最低限の基準の話をしている議論にそれを求めるのはおかどちがいだ、と言いたくなる。(「権利」はほんとうに最後の「切り札tramp」でしかない。これは、国内で読書してり議論している分には、「権利」って概念の切り札的性格が理解しにくいってのがあるんだと思う。)

そしてこの批判(批判だとすれば)は、森岡先生が考える「悪」がそもそもどのような基準によって判断されるのかがはっきりしなければ、「パーソン論」だけでなく、なんらかの利害の対立がかかわるほとんどあらゆる法的・道徳的思考に対する批判になってしまう。早い話、「これ、たしかに損する人いるかもしれないけど、事情が事情だから許されるべきだよな」というような思考すべてに適用できるように思われる。パーソン論だけ でなくたいていの法や道徳の理論は「不正」「受けいれられない悪*2」とみなされる行為や制度の基準をめぐるものなので、この問題は重大。もし「受け入れられない悪」の判断基準がわからないのであれば、このタイプの議論は限りなく拡大してしまう。(これに森岡先生がどう答えるかわからないが、ひょっとすると「それでもいい、そうであるべきだ」と言うかもしれない。これはもっとよく考えてみる必要がある。)

こうして読んでくると、冒頭のまとめの四番目は、「冷淡だ」というよりは、「パーソン論はわれわれが本来感じるべき罪責感を軽減してしまう」と書きなおすべきかもしれん。しかしもしこう書きなおすことが許されるとすると、「本来感じるべき」という森岡先生の判断はどっから出てくるのか問いたくなる。あるいは「本来感じているはずの」か。難しい。

でもまあ、なるほど、この本でこの議論のあとに田中美津のリブ論や青い芝の会の議論が来るのは内的な必然性があるなあ。やはりよく書けている。(この本が奇書『無痛文明』と双子だという意味がやっとわかってきた。)森岡先生の議論を考えるためには、とりあえずわれわれの道徳的生活での「責め」や罪悪感ってのがどんなものであるかってことを理解する必要がある。これはとんでもなく難しいな。

*1:Bernard WilliamsのMoral Luckとかが有名。

*2:単なる「悪」ではなく「受けいれられない」悪だと思う。

森岡先生のパーソン論理解

だらだら。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)

この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。

パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)

20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。

もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。

(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)

昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。

うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。

でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。

うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。

「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。

もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、

(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。

ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。

ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。

 

ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。

このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)

うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)

でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う 1)ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)

References   [ + ]

1. ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。

トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

 

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

 

パーソン論その後

たいへんなことを見逃していた。

そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。

これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?

ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。

追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(2)

 

続き。

いわゆる「パーソン論」

前からいわゆる「パーソン論」の解釈は非常に気になっているのだが、よい入門・解説書がないんだよな(あとで調査する)。

とりあえず小松美彦先生の文章を読みながら落ちいりやすい読み間違いを確認しよう。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。一八世紀に活躍したイギリスの思想家ジョン・ロックなどの伝統的な人格論に基づいていると考えられている。 一九七〇年代にアメリカの生命倫理学者マイケル・トゥーリー*1が 提唱し、八〇年代以降のアメリカやオーストラリア*2で第一線の生命倫理学者たちによって磨き上げられてきた。(p.149)

最初の「一言でいうなら」の一文はちょっと乱暴かな。まあしょうがないのかしょうがなくないのかは最後に結論出すことにしよう。

まず、人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる、とパーソン論は捉える。人間を一生物種のヒトたらしめる生命と自己意識や理性を備えた人格者(パーソン)らしめる生命である。この理念的な区別を現実に当てはめてみると、人間世界には生物的生命と人格的生命の両者を兼ね備えている者もいれば、生物的生命しか有していない者もいることになる。他方、パーソン論は、ある人間が生物学的なヒトであること、その者が「生きる権利」をもった人間であることは必ずしも一致しないとする。つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

 

まず注意しなきゃならんのは、「パーソン論」なんてものは存在しないってことだよな。世の中に存在しているのは、あくまでマイケル・トゥーリーの議論やエンゲルハートの議論。

この「パーソン論」って言葉はおそらく森岡正博先生が 発明して、加藤尚武先生が広めたんじゃないかと思うけど*3、非常にミスリーディングだったんじゃないかと思う。まあしょうがなかったのかもしれん。これもあとで考えよう。

とりあえず「~と捉える」のはトゥーリー先生やH.T.エンゲルハート先生で、彼らが実際になにを主張しているのかしっかりとらえないとならん。ふつうは「トゥーリーは」と書いてほしいところ。トゥーリーの”Abortion and Infanticide”という悪名高い論文は、 『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』に(抄訳だが*4)森岡先生の訳で収録されている。ここからは、いちおう、小松先生はトゥーリーの議論を考えていると想定することにする。(別の論者ならそれを考えなきゃならん)

で、トゥーリーが「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」と捉えているかというとこれはミスリーディングなだけではなく、誤解だろう。

日本語で「ひとを殺すことは不正だ」「ひとを殺してはいけない」というようなときの「ひと」にあたる英語は”person” とか “humann being”が使われる。”It is wrong to kill a person.”とか”It is wrong to kill human beings.”とか使われる(んだと思う)。

おそらく”person”の方が日本語の上の「ひと」に近いだろう。でもまあ、日本語では、「無実のひとを殺すのは不正だ」「無実の人間を殺すのは不正だ」の間に違いがあると思う人はほとんどいないだろう。英語でも、personとhuman beingはふつうに交換可能に使われているはず。

でもまあ、トゥーリーの論文が書かれた1972年のころに激しく議論されていが妊娠中絶とかを考えると、personとhuman beingを同じ意味に使うのはまずいかもしれないってことにトゥーリー先生は気づいた。

ってのは、「胎児はいつから人間human beingですか?」という問いに対して答えようとするのは、難しいというより(もっと分析しないと)ほとんど意味がないからだ。生物学的に見れば、胚から胎児を経て新生児になるまでは

連続していて、どれもホモ・サピエンスの一匹(の子供)という意味では線なんか引けない。「受精卵」と「初期胚」と「後期胚」と「胎児」は連続している。だから上の「胎児はいつから人間ですか」が「胎児はいつからホモサピエンスの個体ですか」という意味の問いであれば、「おそらく胚の時点から」とか答えることになる。(ここ、実は「個体」の定義が難しいんだけど面倒なので書けない)

しかし、「胎児はいつから人間なんだろう?」という問いにはもうひとつの(おそらくもっと重要な)意味があって、それは「ひとはみんな生きる権利を持っている。だからひとは殺しちゃいけない。そして胎児はいつから(その殺してはいけない)ひとになるのだろう?」という意味での「ひと」の意味がある。この問いで使われている「ひと」はたんに「ホモ・サピエンスの一員」という意味ではない。

なぜかといえば、先の「胎児はいつから人間ですか?」という問いは、「(ホモサピエンスの個体はみんな生きる権利を持っている。だからホモサピエンスの個体は殺しちゃいけない。そして)胎児はいつからホモサピエンスの個体になるのだろう。」という問いではないように見えるから。ホモサピエンスの個体という意味でなら、さっき書いたようにずっとホモサピエンスの個体で、あんまり疑問の余地はない。

だから、「胎児はいつから人間なのか」っていう我々が日常的に考える(実 は曖昧な)問いは*5、実は、「胎児は(いつから)生きる権利を持つのか」というもっと正確な問いで問いなおすべきだ、ってのがトゥーリー先生の第一のポイント。すばらしい。ここらへんの分析の鋭さがトゥーリー先生の論文が皆に読まれ影響力をもったゆえん。答えなきゃならない難しい問いは、哲学的に反省してより明晰な問いに直さなきゃならん。そうすれば答えに少しは近づく。(もちろん、そこでいろんなものが削り落されることになってしまうのは意識しておかなきゃならん。)

さて、いったんこうして切り分ければ、曖昧な言葉づかいをしているのはテツガク的にあんまりうまくない。曖昧な言葉は曖昧な思考をまねくし、論理的な混同を犯しやすい。そこでトゥーリー先生は、生物学的な意味での人間を a member of homo sapiens とか呼んで、「生きる権利をもっている存在」を personと呼ぶことにしよう、と提案するわけだ。

「人格」personということばはどのように解釈されるべきであろうか。私は人格の概念を、すべての記述的内容を離れた純粋に道徳的な概念として扱うことにする。特に、私の用語法では、「Xは人格である」X is a personという文は、「Xは生存する(重大な)道徳的権利を持っている」 X has a (serious) moral right to lifeという文と同じ意味を持つsynonymousことになるであろう。(トゥーリー、p.97)

これは単なる用語法についての(勝手な)取り決めにすぎない。論文を読んでいてこういう宣言があったら、読者はいつも「person 人格」をそういう意味で理解しなければならん。もちろん、学術論文で勝手にそういう定義を採用するのはぜんぜん問題がない。

国内の議論の問題は、このpersonに「人格」という訳語を当てた(これはしょうがない)ので、「人格」に勝手にいろなものを読みこんでしまう傾向があることに思える。(だから森岡先生あたりが「人格論」ではなく「パーソン論」と呼ぶのは、まあ意味があったとは思う。術語なのだ。)

ぜいぜい。面倒。

上の小松先生の文章に戻る。「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」はまったく誤解。別にそんな奇妙な二つの「生命」を持っているわけではない。

もう一回確認すると、トゥーリーは第一歩として、「胎児はいつから人間ですか」という問いは、「胎児はいつから生存する権利を持つ存在になりますか」「胎児はいつから生存する権利をもちますか」という問いで問いなおすべきなのだというポイントを指摘しているにすぎない。

さて、トゥーリーの議論はこっからが難しい(それに問題も多い)。「胎児はいつから生存する権利をもちますか」に答えるためには、「権利をもつ」ってことがどういうことかわからなきゃならん。

こういう言葉の分析が、当時はやっていた言語分析とかそういう流れで重要だったんよね。まあ「問いをはっきりしなければ答は出ない」ってのはいまだに正しい方針だと思う。だいたいの「難問」は問い自体がなにを問うているのかよくわからんわけだし。正しい問いを問うことができるようになる、ってのが哲学の最大の目標なんだと思う。

まあ実際日本語では「~する/に対する権利がある/を持つ」と表現するわけだが、権利って概念もよくわからず使ってしまうのがふつうだと思う。テツガクやっている人間もたいていよくわかってない。私はまったくわからない。

トゥーリー先生は「権利」をかなり独特の意味で使う。(どう独特なのか書いてるとロンブンになってしまうので極端に簡略化するけど、それでも面倒。)

トゥーリーによれば、そもそも「なにかについて権利をもつ」ってことは、 本人が望まなければ(欲求しなければ)それを放棄できるってことでもある*6。こういう形で「~について権利をもつ」ことと「~について欲求をもつ」ことのあいだには密接な関係がある。

たとえば、子猫は暖かい場所で寝たいとか、踏まれたくなないという欲求をもつ(踏まれたらやだ)ことができるので、「猫はこたつで寝る権利がある」とか「かんぶくろにいれて踏まれない権利がある」ということは有意味だけど、まったくなにも欲求をもたない存在(新聞紙とかチョークとか)は、「権利を持つ」ということが言いにくい。

ここで理解しにくいので注意しておく必要があるのは、「権利が決めるかどうか」をどうやって決めるのかっていう問題と、たとえば「猫は~の権利を持つ」という発言が意味を持つかどうかってのは別の問題だってことなんだが、もう眠いのでまた明日。

一寝してもうちょっと。

「誰がどんな(道徳的)権利を持つのか」ってことをどうやって決めるかって問題はもちろん非常に難しい。ある種の人々はそれは単なる社会の取り決めだと考えるし、ある種の人はそれを神によって定められていると考えるかもしれないし、他にも理性によって要求されるとか、もっと基本的な功利の原理から派生する二次原理だとか、いろんな考えかたがある。しかしトゥーリーのポイントは、こういう「どうやって決めるか」には関係がない。むしろ、「権利をもつ」という言葉の意味に何が含まれているのかという分析。

トゥーリーの提案は、

「AはXに対する権利を持っている」という文は、「もしAがXを欲求しているならば、他人はAがXをするのを妨げるような行動を慎むという当面の義務を負っている」という文とほぼ同じ意味をもつ。 (トゥーリー、p.102)

て感じになる。慣れてないひとは「当面の義務 prima facie duty」がわかりにくいと思うが、「当面の」は「他になんか重大な理由がなかったら」ぐらいの意味のとってよいと思う。

「私は幸福を追求する(道徳上の)権利をもっている」という文は、だいたい「もし私が幸せを追求しようとしているなら、(特に理由がなければ)他のひとは私が幸せを追求するのを邪魔するべきではない」ということを意味すると分析できるってわけだ。

(なんども書くけど、この分析が正しいのかどうかはかなり微妙なライン。たとえば、「子供は教育を受ける権利がある」という文や発言が、本当に「もし子供が教育を受けたいと願うなら、他のひとはその子供が教育を受けるのを邪魔するべきではない」程度のことしか意味していないのかというのはもっと議論が必要。私の理解では、この文は「(子供が教育を受けたいと願うかどうかとは別にして、)他の人々はその子供が教育が受けられるようにちゃんと手配する義務がある」というはるかに強い内容をもっているように思われる。「生存する権利」もふつうはこっちの意味のはず。まあでも、トゥーリーの「権利」の分析は「権利」の一つの意味では有力かもしれない。)

トゥーリーの議論の最後のステップは、このたんなる「権利をもつ」の分析から、「生存権(生きる権利)」を持つに進むところ。

「~について権利をもつ」ためには、少なくとも「~に対して欲求をもつことができる」が必要。それでは、「生存する権利をもつ」ためには、「生存することについて欲求をもつことができる」が必要だということになりそうだ。

ところが、「生存することを欲求する」ってのはかなり多くの条件を必要とする。

子猫も「痛めつけられないことを欲求する」「暖かいところで寝ることを欲求する」ことがおそらくできる。だからなんらかの権利の決定の手順によって、「子猫は痛めつけられない権利を持つ」ということが言えるかもしれない。

しかし、自分が「生存する」ことを欲求するためには、「自分」が時間を通じて生きていること、そもそも「自分」が存在していることを意識していなければならんとトゥーリーは考える。

ある存在者が、諸経験とその他の心的状態の主体という概念を持っていなければ、その存在者はそのような主体が存在してほしいと欲求することなどできない。さらに、ある存在者は、現在自分自身が諸経験とその他の心的状態の主体であると信じていなければ、自分自身がそのような主体として存在し続けることを欲求することはできない。(トゥーリー、p. 104)

ここもわかりにくいと思う。ショーペンハウエルやシュバイツァーのような人々はどんな生物でも「生きようとする意志」とかを持ってるとかそういうふうに考えてたわけだし。

でもまあ、われわれが「自分が自分であること」「他人と違うこと」「5年前、1年前、1年後、10年後もおなじ私であること」を意識するってのは、ずいぶん成長してからのことはふつうのひとでもぼんやりとわかるんではないだろうか。そういう「自己意識」持っているのが人間(や他の大型類人猿とか)の特徴で、他の動物や植物と質的に違うポイントだと主張されることがある。この自己意識がないと、少なくとも「自分が生き続けたい」と望むことは難しそうだ。

というわけで、トゥーリーのとりあえずの分析のたどりつく先は、「もし「ある存在者が生存する権利をもつ」ということが言えるならば、「その存在者は生存しつづけたいという欲求を持つことができる」が言えなきゃならん。そしてそのためには自己意識をもっているはずだ。」

もう一回注意しておくと、これは「自己意識をもっていれば生存権をもつ」という主張ではない。「もしあなたが(私が)「~は生存権をもつ」と言おうとするなら、「~は自己意識をもっている」ことを認めなければならない」ぐらい。

はあはあ。

でも、自己意識もってない動物やひとはいる。「自己意識をもつ」は「生存権をもつ」の必要条件なので、そういう存在者は生存権をもつとは言えない。

A ⊃ B。 でも ¬B。 しかるに、¬B ⊃ ¬A。よって¬A、という議論。

あーあ。だめだめ。時間の無駄。やっぱりふつうの人にはわかりにくいよな。これどうやって説明すりゃいいのかってのはほんとうに難しい。

もう一回あらっぽくまとめると、

(1) ある存在者が「権利をもつ」ならば、「それに対応する欲求をもつ」ことが言えるはず。

したがって、(2) ある存在者が「生存しつづける権利をもつ」ためには「生存しつづける欲求をもつ」が言えるはず。

しかし、(3)「生存しつづける欲求」をもつためには、(少なくとも)自己意識をもつことが必要。

したがって、(4) 自己意識をもたない存在者は、生存しつづける欲求をもつということはできない。

(5) したがって、自己意識をもたない存在者は、(この意味では)生存権(生存しつづける権利)をもつとは言えない。

だから、胎児とかは生存権をもっているとはいえず、妊娠中絶は正当化されるかもしれない。すくなくとも「生存権」があるから妊娠中絶は正当化できないと考える必要はない。ついでに新生児の安楽死とかも正当化されてしまう(!)。いっぽうで、子猫が(なんらかの「権利」の決定方法によれば)「無駄に苦しめられない権利」を持っていると主張することはできるかもしれないし、もちろん新生児が「無駄に苦しまない権利」をもっているとは言えそうだ、ということになる。まあこういう結論が邪悪なテツガクに見えてもしょうがない。

まあ、この議論の(1)と(3)はかなり問題を含んでいるし、この手の問題を考える場合に「生存権」がそれほど重要かどうか、あるいは実践的な議論にとって枠組として有用なのかどうかは問題だと思うが、とりあえずこれが「パーソン論」だってのをちゃんと理解したいところ。重要なので何回も書くけど、これは「権利をもつ」についての言葉の分析の結果の分析にすぎず(あやしげかもしれないけど)、「権利」の範囲をどうやって決めるのかという実質的な問題を扱っているわけではない


小松先生の解釈

で、小松美彦先生の文章に戻る。

つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

最初の方でも書いたが、「人格的生命を有している」は不正確な表現。

そしていつも気になるのは、この「認められる」なんだよな。こういう文章を書くひとは、トゥーリーが「人格だけに生存権を認めることにしようぜ」と主張していると誤解してしまっているのではないかと推測される。

一方、「生存権は人格にのみ認められる」のならば正確な表現だが、これはトゥーリーの恣意的な定義なので、別に批判の対象になることがらではない。

その証拠がすぐに出てくる。

したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死者や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格をもつ者ではない。 そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はない。(p. 150、強調kallikles)

この「人格をもつ」という表現(そして最初の引用であげた「人格者」という用語)が、小松先生の「パーソン論」理解をうたがわせる。 「人格」は持ったり持たなかったりするものではない*7。「人格かそうでないか」つまり「生存権をもつ存在者かそうでないか」なのよ。

まあこれは「人格」って言葉が専門の論文用の術語なのにもかかわらず、われわれがよく慣れしたしんでいる言葉でもある(とくに「性格」や「アイデンティティ」に近しい意味で)ことに原因があるわけだが。むずかしい。

もうちょっとだけ補足。

たしかにパーソン論は、それなりの論理を備え、概念用語を駆使してはいるものの、私たちにありがちな例の考え方”まともに感じ考えられなくなったら人間はオシマイだ”と、本質的に変わらないのではないか。パーソン論とは、”ありがちな考え方”を学問的に根拠づけたものに他ならないだろう。(pp.150-1)

トゥーリーの議論がどの程度「それなりの論理を備え」ているかは微妙(私はうまくいってないと思う)だが、この小松先生の指摘は(書き方は悪いが)大事なところで、小松先生もあとで議論するピーター・シンガーなんかも指摘するところ。たしかに、私自身は「まったくなにも感じ考えられられなくなった私はオシマイだ」と思う(ただし「まともに」感じられなくてもオシマイだとは思わないと思う)。

もちろん、そうでないと考える人びとがいることも理解できるのだが、そういうひとが、まったく自分が何もまったく感じない場合に、自分の(他人のではなく)生命が、自分にとって価値があるとするときに何を判断の基準にしているか非常に理解しにくいとは思う。これを主張できるのは、私生命の価値が私にとって価値があるのは、私が感じるなにかのためではない、私が感じるなにかとは独立の価値があると主張できるときだけになる。

もちろん、他の(感覚のない)人の生命が私にとって価値があることは多いだろうし、私の感覚のない生命が他の感覚のある人にとって、価値があることはあるかもしれない。でも感覚のない私にとって感覚のない私の生命が価値があるかどうかはわからん。

誰かの主観的経験(つまりなんらかの「感じ」)にまったく依存しない客観的な価値ってのがあるのかどうか。これが言えるかどうか。哲学・倫理学の大問題だが、これにイエスと答えるのはかなり難しいと思う(必ずしも不可能ではないと主張する人びともいる)。

(続く)


 

(ところで、もしこのエントリ読んで大学の期末レポート書こうとするひとがいたら、(1)自分でもちゃんと調べてください。(2)出典にこのブログのURLを書いてください。「kallkles, 「kalliklesの日記」、2006年12月15日、ttp://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061215 」、とかでいいんじゃないかな。”kallikles”とか変な名前を書くのがいやなひとは
メールくれれば教えます。)

*1:トゥーリー先生を「生命倫理学者」と呼ぶのはあんまりよくない。生命倫理では他にたいした業績はない。むしろ因果関係とかが専門のはず。「哲学者」「分析哲学者」ぐらいがよさそう。

*2:イギリスも

*3:間違い。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061218 のコメントによれば、飯田亘之先生の論文が初出ではないかという情報。

*4:たいていのセイメイリンリガクシャはこれが抄訳であることさえ気づいていないのではないかと思わされることがある。原文はたいていの生命倫理学のアンソロジーで手にはいる。いま私の手にあるのはP. Singer (ed.) Applied Ethics, Oxford University Press, 1986. 原論文はPhilosophy & Public Affairs, Vol. 2, 1972. 印税もらってたらとんでもない額になってるよなあ。

*5:どうでもよいことだが、私は高校生のころに生物が好きで特に発生のあたりが好きだったのだが、ある日「んじゃいつから人間なのかな」とか考えて泥沼にはまったことがある。結論は「こりゃ生物学じゃなくて哲学だよな」ってことでテツガク勉強したいと思った。その選択はまちがってたんだけど。

*6:この点は強い異論がありえる

*7:この主張は怪しいかもしれません。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061217 参照。わたしがまちがっていたらごめんなさい。

『情況』を買ってみた。

ちょっと前に大庭健先生の名前を出したばっかりなのだが、おもしろいという評判なので(http://d.hatena.ne.jp/haecceitas/20061122)『情況』11/12月号を買う。(この雑誌はじめて買ったかな)『状況』だと思ってたけけど違うのね。無知はいやだなあ。

p.51 の特集扉が「諸論理のポリティクス」になっていて驚く。雑誌表紙と目次と次のページでは「諸倫理のポリティクス」なのでそっちが正しいのだろう。すげー。

特におもしろいという大庭・伊吹対談と中島論文を読む。おもしろいかな。

生命倫理学というのはよく知らないのだが、p.54で大庭先生と伊吹先生は脳死の問題からはじまったと言ってるが、中島先生は、p.66で大戦中のナチスの人体実験の問題からはじまったと言ってる。どっちが正しいのだろうか。どちらかと言えば中島先生かな。哲学をまともに勉強した者がその手の問題を扱いはじめたのは一時期はやった「情況倫理」あたりかからだと思っていた。よく知らないけど、脳死じゃなくて植物状態の治療停止や新生児の治療停止とかそこらへんじゃないのか。バイオエシクスとかも本職の哲学者というよりは医療よりの人びとがはじめたと理解しているが、ここらへん記憶がさだかでなく、本ひっぱり出さないと不明。

それにしてもこの二本の記事はよくわからない。そもそも生命倫理とかってのが国内でそんなに流行っているのも知らなかった。

対談にしても中島論文にしても、生命倫理学とか生命倫理学者ってのが誰のことがよくわからんよな。「脳死を認めて臓器移植をもっと推進しましょ」「12週以内の中絶は自由にしましょ」「22週以降でも「医学的」適応があれば中絶許容しましょう」とか言ってる論者ってのはかなり少ないと思うし。正直ほとんどそういう文献は見たことない。

というか、そもそも「生命倫理学者」なんて人(特に哲学を背景にした研究者)が国内に実際に存在しているのかどうか。いてもかなり希少だと思う。生命倫理の論文はたしかに多いように見えるけど、その多くは法学者や社会学者や政治学者だし。私が「生命倫理学者」という呼び名にぴったりだと思うのは森岡正博先生と立岩真也先生ぐらいしかいないのだが、どちららも脳死や安楽死や(選択的)中絶にはかなり慎重な立場なんではないかと思う。松原洋子先生や玉井真理子先生、斎藤有紀子先生、柘植あづみ先生、金森修先生あたりも非常に影響力のある人びとだと思うけど、これらの人は「生命倫理学者」とは呼びにくいと思う。やっぱり加藤尚武先生なんだろうが、あまりにもいろんなことやってて生命倫理学者とは言いにくいんじゃないか。「哲学者」だよな。米本昌平先生や広井良典先生も「生命倫理学者」ではなかろう(すぐに名前があがらなかった先生はごめんなさい)。国内での生命倫理とか生命倫理学ってのは雑多な領域の人びとの学際交流の場で、一番偉いのは法学者で次が社会学者で、哲学やってる人間はうしろからついて行く感じなのではないか。(現場や大学の医者の地位が意外に低いように見えるのが興味深いところ)

まあいつものようにコメント。

(大庭先生)[生命倫理の問題は]政治問題であるかぎり、生物学者は生物学者で、脳科学者は脳科学者で、法律家は法律家で、それぞれ分かるかぎりのことは出し合って、あとは市民が決めることがらなのです。(pp.54-5)

まあそうなんだと思うけど、脳死やらなんやらは、少なくとも多数決で決めることがらではないという意見もあるんじゃないのかな。倫理学者なるものがいるとして、そういうひとがなんか「決める」こともできないっしょ。なんか言うしかできないだろう。まあ政府の委員会かなんかに食い込んで力をつければ別かもしれないけど、そういう人いるのかな。梅原先生は失敗したしな。そもそも政治的問題は市民が決めることかどうかも哲学者なら議論したいところ。中島先生ならもちろん突っ込むだろう。だいたい、生や死の問題について、大多数の市民が「これこれの人は死人ということで」と合意すりゃ死んだことになるわけでもあるまいと思うのだが。

(臓器移植を推進しようという動きについて)

(大庭)独立法人化あたりからはっきりしているのは、役に立たない人文系を切り捨てて、いわゆるアクチュアルな、「社会的なニーズ」に答える学問へと再編成するという至上命令が出てきた。では「社会的なニーズ」とは何かというと、・・・新鮮で若い生きた臓器がほしいという移植医のニーズであり、・・・

まあ、この文脈で、重要かもしれない「患者のニーズ」をあえて無視するのはプロパガンダと呼ばれてもしょうがないんではないか。

(大庭)生命倫理学にすでに乗ってしまっている人は、脳死は死であり、したがって臓器移植は問題ではない、今問題なのはドナーの数が少ないことであり、どうやって新鮮な臓器を欲しがっている人に公平に分配するかであると言っています。

これは特定の個人なんだろうか?それとも国内の生命倫理学者の主流なんだろうか。なんか特定の個人のような気がするが、気のせいだろうか。特定の個人なら同定できそうな気もするのだが、それならそんなはっきりした見解をもっているなら貴重な生命倫理学者だろうから名前出してあげたらいいのに。名前をあげるまでもないということなのか、わざと名前を出さずに大勢いるように見せるプロパガンダなのか。

中島先生の方。

生命倫理学は「死」をめぐって活発な議論を展開するが、「〈死ぬ〉とはいかなることか」という問いには立ち入らない p.62

「〈生きる〉とはいかなることか」という問いは見事に欠落している。p.62

そうなのか。国内の脳死や障害に関する議論とか見てるとそういうのばっかりだと
思ってたんだが。加藤尚武先生の本にそういうのがないってことかな。

すべての議論は「ひとの生命には価値がある」という大枠の内で進んでいる。p.64

それはよいことだと思うんだが。でも国内で議論されているのは、ある種の生命倫理学者(たとえばピーター・シンガー)とかは「ある種の生命には価値がないかもしれない」と主張している(本当かどうか知らんが)のをどうするか、ってことのような気がするんだが。

中島先生のは他にもいろいろあるんだが(エンゲルハートのとことか)、まあそのうち考えよう。しかしまあ、中島先生がやっている議論そのものが国内の哲学系「生命倫理学」の主流のやり方のように見えるし、もう中島先生は「生命倫理学者」を名乗る資格が十分あるんじゃないかな。

なにかを批判するためだけに勉強しちゃう、ってのが哲学っていう学問の特殊性なんではないかと思う。昔っから、哲学を批判する活動がまさに哲学の核の部分にあて、それでいけば生命倫理学を批判するひとはすでに生命倫理学者なんじゃないのか。っていうか哲学者がこの手の話に参加するんだったら、求められている一部はそういうものに見える。わからんけど。哲学者が「生」や「死」の専門家であるわけでもあるまい。おそらく哲学(史)の標準的な教科書(あるかどうか知らないけど)にはそういう問題はあんまり取りあげられていないような気がする。それに、もっぱらそういうのを扱うのを生業にしている文学者やほとんどそればっかりの宗教者とかもいるぞ。

もちろん、「そういうを考えるのこそがまさに哲学で、そういうのをまじめに考えはじめると誰でも哲学者になるのじゃ」という立場はあるだろうけど、そりゃ「生命倫理学」と哲学者・倫理学者の関係とか言うとき、あるいは生命倫理学の裏にあるポリティクスだのなんだのってのを考えるときの哲学者・倫理学者の意味じゃないよね。そういう広い意味でならほとんどの誰もが哲学者になっちゃうわけだから。*1

それにしても、大庭先生も伊吹先生も中島先生も、誰だかわからん人に「生命倫理学者」とかってレッテル貼って不十分な知識で批判して得意になるんじゃくて、自分でやってみりゃよいのではないかと思う。でないと少なくとも私は哲学者である資格を放棄していることになるじゃないんじゃないかと思う。まあこれらの記事は先生たちの哲学的活動の一部ではなく、ただの漫談や印象エッセイにすぎないというなら話は別だが。

それはそうと、いま標準的な生命倫理学のテキストって何なのかな。

あ、上の二本の記事より、むしろ、浜野喬志先生の「エコテロリズム:アメリカ環境運動の現状と歴史的系譜」は知らない情報が多くておもしろくて収穫だった。ただし、『情況』という雑誌からして市民的不服従としてそんな悪くないぞという主旨かと思ったのだが、そういうわけでもないのか微妙な論旨。

エコテロリズムはヘンリー・ディヴィッド・ソロー以来の「市民的不服従」の伝統に属している。・・・しかし他方で彼らの活動は、その暴力性において、この市民的不服従の伝統を踏み越えているようにも見える。にもかかわらず、そもそも市民的不服従という概念自体が、常に歴史的には、暴力への逸脱、という傾向との、絶えざる緊張関係にあったと言えまいか。 (p.151)

論文は最後にスティーブ・ベストという人が言ったという言葉で締め括られている。

財産破壊と市民的不服従はアメリカの伝統の一部なのだ…

なのだそうだ。この引用で終わっちゃうのはかっこつけすぎか腰が引けているかのどっちかなんではないのか。まあ市民的不服従のグループから時々暴力的集団が出ちゃうの
はほとんど歴史的必然のようだなあ。浜野先生がそういう暴力についてどういう規範的判断しているのか知りたいのだが。『情況』だし書いてもいいやんね。

*1:うーん、中島先生が自分を特権的に「哲学者」と考えるときの意味はなんなんだろう。哲学することを職業にするという意味ではないよな。生と死について高度に考えて知見を得ている人ってのなら、職業的哲学者(というか哲学研究者・教員)のほとんどは哲学者じゃなくなってしまう。私は哲学者・倫理学者ってのは「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人ぐらいの意味に考えてるようだ。よくわからん。

解説まちがいさがし(2)

メモだけ。山形はこの本がまんま「自由」についての本じゃなくて「意志の自由」と道徳的責任の本だってのをちゃんと理解していないかしれない。解説でも「自由」という言葉はふりまわしているけど「自由意志」という言葉は使っていない。ここには大きな違いがあるんだが。まあ自由意志の問題は根が深くて私もよく理解していないけど。それに「合理性」ということで経済学でいうような効用の最大化が意味されているのか、カントのような意味での理性にかなっているということが意味されているかの区別も曖昧なような気がする。だから森岡のような人に喧嘩を売りたくなるんではないだろうか。まあ、森岡正博さんに喧嘩売ってもなあ。成田さんの責任と自由 (双書エニグマ) ぐらいは目を通してもいいんじゃないかな。

大庭健「時-間における人-間の性」

同じシリーズの『原理論 (シリーズ 性を問う)』所収。

珍しい日本の哲学者によるセックス論。(ほかに大物(?)でこういうのを扱ってるのは神戸大の宗像恵先生ぐらいか・・・いや、大物中の大物の森岡正博さんがいた。でもあの人が狭い意味での哲学者かどうか・・・ 1)哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

どうやら独力でネーゲルの「性的倒錯』とほぼ同じような地点に辿りついているようだ。

えらいものだ。ただしいろんな概念もちだしてぶんまわしているので難解でわたしの頭ではよく把握できない。規範についての議論は直観的すぎて、彼と同じ直観もってない人間にはほとんどわからんだろう。

References   [ + ]

1. 哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。