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山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

 

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。

山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

山形の解説のまずいところ (3)

いろいろ調べたんだが、けっきょく山形のpp.68-70あたりの解説がどこから来たのかはよくわからん。

もうちょっとだけまずいところを指摘しておくと(細かいが)、

嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても — 強迫されても金を積まれても — 嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。・・・手が震え、舌が凍りついて嘘がつけない。(p.69)

とかって例を使ってしまうところとか。ちとミスリーディング。フランクファートの議論(“Alternate”論文と”Person”論文の両方)でもこんなふうに心理的な強迫に悩んでいるひとは、盗むことを望んでいない窃盗強迫や薬をやめたい薬物中毒のひとと同様に、やっぱり道徳的責任があるのかどうかよくわからかもしれない。こういうタイプの例はフランクファートの議論とは関係がない。

むしろ、よく使われるルターが審問されたときに言ったといわれる

「わたしはここに立つ、これ以外にどうすることもできない。」

っというケースで見られる「どうすることもできない」”I can do no other.” (原文知らないけど)での「できない」の意味が問題なんだよな。この「できない」は彼の道徳的な判断にかかわる「できない」で生理的なものではない。もしルターの手が震えたり(震えたと思うけど)、舌が凍りつき(凍りつきそうだったとは思うけど)したという理由から「できない」のであれば、ルターには道徳的な称賛も非難も与えられなかっただろう。

昨日引用した山形の

この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。

という部分の「追い込む」とかって表現が気になる。たしかに道徳的な判断とか価値観とか、そういう時にある状況であることをする傾向を自分自身に植え付けるのはとでも大事なことなんだが、フランクファートの議論で重要なのは、そういうことではなく、自分自身がその自分の一階の欲求に対してどういう態度をとってるか、ってことなわけだ。自分自身が嘘をつけないことについて、「自分自身が嘘をつけないことは望ましい」と判断しているかどうかがポイント。心理的障壁はあんまり関係ない。

だから、山形が挙げているひとが、「おれは10年前に嘘をつかないという道徳的決定をして自分を訓練してきたから本当に心理的に嘘つけないようになってしまった。でも今ここで、ほんとは嘘つきたいなあ、嘘つくべきだ、こんなかたくるしい良心なんか持つんじゃなかった」と思っているのにもかかわらず心理的障壁から嘘をつけないにすぎないのならば、そのひとは道徳的責任(この場合は称賛かな)に値しないかもしれない。(するかもしれないけど)こういう点で山形の解説はミスリーディングだ。(もちろん、そういうもともとどういう性格特性を身につけているかがポイントなのだ、という立場(「徳倫理学」とか)はあるわけだが、それはここでは関係ない)

 

あれ、うまく書けないや。私じゃ無理だ。ちゃんと自分なりに書けるだけ山形先生は立派だ。

なんか関西の偉い先生が書評書いているという噂だからきっとここらへんうまく解説してくれるだろう。

山形の解説のまずいところ(2)

さて、んじゃ山形の解説が”Freedom of the will~”をもとにしたものなのかな、と読みなおしてみたけど、微妙に違うんだよな。これにも「自律性」とかって概念は出てこない? でもたしかに見覚えのある解釈なんだよな。この解説はどっから来たんだろう? 泥棒強迫とかが出てくる論文だったような気がするのだが・・・わからん。

あれ。困った。ほんとに私は頭が悪い。

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<username>論文のタイトルは</username>

<body>Alternativeではなく、Alternateではないでしょうか。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>そうです。なおします。</body>

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<username>kallikles</username>

<body>昨日のもまちがってたので直しました。はずかしいなあ。</body>

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ウンコな議論: 解説のまずいところ(1)

山形浩生訳『ウンコな議論

「大学のレポートだったら落とされるだろう」とか書いてほっておくのはアレなので、一応解説を。

山形の解説のまずいところは、

・・・嘘がつけないこと、嘘をつくという選択肢を持たないことこそが道徳的責任の存在を示す。この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行ない、自分自身が嘘をつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。したがって複数の選択肢がなければ道徳的責任がないという考え方はまちがいであり、選択肢がないことこそその人物の自律性なのである。(pp.69-70)

山形がこの文章に注をつけている “Altenate Possibilities andResponsibility”という論文では、まったくこういうことは言ってない。”Alternate”論文で言ってるのは、私なりにラフに解説するとこうなる。

ふつう、「ほかにどうすることもできなかった」という発言は道徳的責任をまぬがれる言い訳になると思われている。たとえば太郎が「お前も参加しないと殺すぞ」と脅迫されて集団レイプに加わった場合、われわれはその人に道徳的責任がないと思う傾向がある。しかし、太郎自身がもともと参加しようと思っていた場合を想定してみる。つまり太郎は脅迫されようがされまいが、レイプに参加したのである。こういうケースでは、たしかに太郎は脅迫されて「他にどうすることもできなかった」、つまり太郎がレイプに参加しないという別の可能性はなかったわけだが、だからといって太郎に責任がないということにはならない。だから、「ほかにどうすることもできない場合には道徳的責任はない」という原則はまちがい。道徳的責任が免除されるかもしれないのは、太郎
が「他にどうしようもなかった」という理由「だけ」からそうした場合、そして太郎がそれをするのを望んでいなかった場合なのである。

これだけ。「自律性」とかって概念はこの論文では出てこない。まあまともな英米系の哲学の論文一本なんてのは非常に単純で、肩すかしをくわせるようなやつが多いが、これもその一例。こういう細かい議論のつみかさねがちゃんとした哲学が哲学であるところだと思う。

山形があげている解釈は、むしろ”Freedom of the will and the concept of
a person”というもっと有名な論文についてのものかもしれんが、それについても誤解がありそうだ。レポートでまったく別の論文の要約を提出したら、ふつう教師は「パクリだな」と判断して単位を与えないものだ。とにかく読んでない論文を注にあげて、一般読者を圧倒しようとするのはどうもブルシットの雰囲気がある。

フランクファート先生も分析しておられる。

ウンコ議論や屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれたときには避けがたいものである。したがってそれらの生産は、何かの話題について語る義務や機会が、その話題に関連した事実についての知識を上回る時に喚起されるのである。(p.51)

続く。

 

山形の解説はどこから来たか

山形浩生訳『ウンコな議論

どうも山形がFrankfurtのどの論文を解説しているのか発見できない。

“Freedom of the Will and the Concept of a Person”も、山形が
言っているような「自律性」なんてことには一言も触れてない。
しかしあの解釈は見覚えがある。ううん。わたしがなにか勘違いしているのかもしれない。

まあとりあえず、”Alternate Possibilities~”論文と”Freedom of Will”論文を混同して注をつけた、ということはなさそうだということがわかった。

どうでもいいが、Frnakfurtの論文の一部を訳出してみようと思ったが、とんでもなく日本語にのりにくいのであきらめた。”could have done otherwise”でさえ私には訳せない。原文は平明なのに、訳読むより英語読んだ方が早いような翻訳になってしまう。おそらくそういう邦訳読める人間は英文でも読めるし、英語読めないひとは邦訳も読めないだろう。翻訳する意味なし。

それにここらへんの自由意志とかにかかわる議論ってのは細かすぎて素人向けじゃないんだよね。一部の高級なアームチェアー哲学者向けというか、特権階級のものだという意識があるような気がする。
日本の哲学者(大学教員?)たちが翻訳したがらないのは、こういう問題もあるんだよなあ。
「下々の者にはわからんだろう」とか。ほんとうはそうではないんだと思うのだが。
そういうんでは、人々に教養を授けようとする山形先生は偉いよな。『自由は進化する』はどれくらい売れたのかなあ。

独白

はあ。まあ私はこうして一生ブルシットの山とつきあっていくんだな、きっと。勉強になった。それはそれでいいかもしれん。これまでも大量のブルシットに悩まされてきたし、これからも悩んでいくんだろう。このブログの過去の記載を見ても、書いているのはブルシットなものについてばかりで、私はそういうものにしか興味がないのかもしれない。

あたりまえのことかもしれんが、ブルシットの一番も問題は、それを実際にほじくり返してみないかぎりブルシットかどうかわからん、というところなんだな。今回実地に確認させてもらった。とりあえず最初は「これはブルシットではなさそうだ」という構えでいかなくてはなにも得られない。もちろん、ブルシットの雰囲気をかもしだしているものからはすべて遠ざかる、という手もありそうだが、それではなにか手に入れるべきものを失なうことになってしまうかもしれない。「哲学」だの「思想」だのと呼ばれているもののほとんどはブルシットで、営み自体がブルシットを生産するだけのものなのかもしれない。われわれにできるのは意図的なブルシットを避けることだけだ、と言いたくなるが、ブルシットかそうでないかと見分けることさえ実際に触ってみなければわからんのであれば、意図的かどうかはなおさらわからん。

山形の解説の気になるところ (4)

あと気になるのがやっぱりpp.71-76あたり。一次的欲求と二次的欲求の区別の話はOKなのだが、そのあとが気になる。

最終的にどう生きるべきかを決めるのは何か?それは・・・何かを大事に思うという気持ちだ、とフランクファートは論じる。それを愛と呼んでもいいだろう。・・・昔キリスト教の宣教師が「お大切」と訳したような、何かを気にかける感情全般だ。何かを大切だと思うのは、必ずしも理由があるわけではない。そしてそれ自体はコントロールできない。何かを大切に思うなら、それを保存繁栄させるためには自分がどういう欲望を抱かなくてはならないかは自然に決ってきてしまう。つまり愛にこそ、実用的な規範性の源泉があるのだ、とフランクファートは論じている。(pp.73-4)

注ではThe Importance of What We Care About本が参照されているが、おそらく論文”The Importance of What We Care About”なんだろう(この本で愛とか神の愛とかについて触れているのはこの論文しかないような気がするから。全部読んだわけじゃないのでまちがっているかもしれない)。しかし私にはこの要約がどこから来たかよくわからん。あまりに違いすぎるので、どこがおかしいかを指摘することもできない。したがって、

フランクファートは、実用的な規範の源泉を最終的には個人の愛=大切に思う気持ちに求めた。それは説明しようがないものであり、その個人の趣味としかいいようがない。さてそれが規範の根拠となるなら、これはフランクファートが最後に批判している、自分に対する誠実さを称揚する発想とどれほどちがっているのであろうか? p.89

という山形の『ウンコな議論』に対する疑問もどういうことかよくわからん。

山形先生は日本の知的リーダー(?)の一人だし、多くの人々のブルシットを指摘する側の人なんだから、もうちょっと慎重であってほしいような気がするのだが、そういう役まわりではないのかもしれんな。まあ山形先生はフランクファート読んでなにか実存的に悟って実存的に創造的誤読したのかもしれんし、たんにイロニカルにブルシットの実例を示すためにブルシットしているだけかもしれん。もちろん前者であることを望むが、そもそもフランクファートのブルシット論文自体も意識的ブルシットを目指したものかもしれないんで、それに合わせて解説もブルシットして出版するという非常に手のこんだ冗談なのかもしれない。あとで「あれは実はブルシットだったよ~ん」っていって哲学系の学者やブロガーを馬鹿にするつもりだったのかな。わかんないけどその匂いはする。「ファート」の件(p.62)はすぐにわかったんだが。ひっかかってしまったかな。やられた。なんだかなあ。

大庭健「時-間における人-間の性」

同じシリーズの『原理論 (シリーズ 性を問う)』所収。

珍しい日本の哲学者によるセックス論。(ほかに大物(?)でこういうのを扱ってるのは神戸大の宗像恵先生ぐらいか・・・いや、大物中の大物の森岡正博さんがいた。でもあの人が狭い意味での哲学者かどうか・・・ [1]哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

どうやら独力でネーゲルの「性的倒錯』とほぼ同じような地点に辿りついているようだ。

えらいものだ。ただしいろんな概念もちだしてぶんまわしているので難解でわたしの頭ではよく把握できない。規範についての議論は直観的すぎて、彼と同じ直観もってない人間にはほとんどわからんだろう。

References

1 哲学の伝統や他の哲学者の集団に一定の配慮と敬意を払っている、という感じかな。

細かいところつっこんでも無駄

馬鹿げた記述を見るとつっこみたくなるのだが、こういうクセはどうなんだろう。たとえば『シリーズ〈性を問う〉 (2)』の「性差」の赤川学「ジェンダー・セクシュアリティ・主体性」

ではその「主体性」とはどのように定義されるのか。『広辞苑第三版』にあたってみる。

しゅたい‐てき【主体的】

(1)ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。「〜な判断」「〜に行動する」
(2)(→)主観的に同じ。

しゅたい‐せい【主体性】
主体的であること。また、そういう態度や性格であること。「〜に欠ける」

いずれの定義の中にも「主体」という概念が中心的な要素として織り込まれ、ほとんど同語反復となっている。

p.143 (表記は変更している)

とかって平気で書く。そりゃそうだろう。しかしそれにしても、なぜついでに「主体」も辞書ひかないんだっ!

しゅ‐たい【主体】

(1)[漢書東方朔伝「上以安主体、下以便万民」]天子のからだ。転じて、天子。

(2)(hypokeimenonギリシア・subjectイギリス) 元来は、根底に在るもの、基体の意。

(ア)性質・状態・作用の主。赤色をもつ椿の花、語る働きをなす人間など。

(イ)主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調するために、この訳語を用いるに至った。⇔客体。→主観。

(3)集合体の主要な構成部分。「無党派の人々を?とする団体」

ふつうの理解では、「主体的」っていうのは(2)の(イ)の意味で「主体」であるのに必要な特徴をそなえているってことで、主体性ってのは主体であるのに特徴的な性質だろう。ぜんぜん循環してない。まあ辞書的な定義についてどうのこうのいってもしょうがないわけだが、そもそもこんなこと考えるのに広辞苑とか論文の最初に持ちだすのは勘弁してほしい。

こういう細かいことが気になって読めない。やっぱりこういう分野の文章読むのは向いてないなあ。

ていうか、なんというか、自分のケツの穴の小ささを感じてしまうね。向いてない向いてない。

加藤秀一他『図解雑学 ジェンダー』

読んでみたが、コンパクトで平明な表現なのに目先が利いていて非常に優れた入門書。これ1冊あれば他の入門系の本はいらんのではないか。

しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスという境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的ではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法も広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。 p.24

「生物学的な性差」まで社会が作りだしているとか言われるとやっぱるうっと来る。

それになぜ「ジェンダー」の方を優先するのか? それならもうセックスでいいじゃん、と言いたくなるよな。まあ日本語で「セックス」使うと性別より性行為を指しちゃうからしょうがないのかな。

・・・けれども、そんな風に勝ち負けにこだわること自体が、偏狭な — 男性中心・プロ中心・米国流中心の — スポーツ観に毒され過ぎているのかもしれない。カラダを動かす爽快感を純粋に楽しみ、他人との競争よりも自分との戦いを重んじること — アマチュア中心の女子スポーツや障がい者スポーツの盛り上がりは、そんなスポーツの原点を再認識させてくれるように思う。 p.54

ほんとうにそういうことを考えているのだろうか? ふつうの競技スポーツの基本はやはり競争にある。競わないスポーツはスポーツではないような気がする。まあ定義の問題なのだろうか。女子スポーツや障がい者スポーツが盛んになるのは、まあすてきなことなんだろうが、なぜ女性だとか障害者だとかでカテゴリ分けして競うんだろう。やっぱりそういうふうにカテゴリ分けた方が力が接近しておもしろいからなんだろうと思うんだが。

被害者の主張が事実に即しているならば、彼女がそれを強制だと感じる限り、加害者がどう自分勝手な意味づけをしようと、それは不当な性暴力なのである。性暴力を定義するのは被害者の視点である。 p.126

しかしなにが「強制」であるかを明確にするのは非常に難しい。

おそらくこういう場合の「強制」には、脅迫や誘惑や懇願や操作や欺瞞や取引がはいってることになるんだろうが、ふつうの人びとのセックスに”一切の”(こういう広い意味での)強制がはいっていないときってのはどれくらいあるんだろうか。まあ「強制」を狭く解釈すりゃいいのかもしれんが、気になる。これはそのうち関連論文紹介したい。