四月九日。花ひらきて後風却て冷なり。終日困臥。日暮に及ぶ。笄阜君来り訪はる。三田文学に余についての批評を寄稿せしと云ふ。夜銀座に徃きて飯す。露店の玩具屋は軍人まがひの服装をなし、軍人の人形をはじめ飛行機戦車水雷艇の如き兵器の玩具を売る。蓄音機販売店にては去年来軍歌を奏すること毎夜の如し。今に至るも人猶飽かずして之を聴く。余つらつら徃時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年毎に戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治卅七八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後は此度の満州上海の戦争なり。而して此度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりも却て盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑に異らず。今や日本全国挙つて戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりと云ふ。武力を張りて其極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を踏まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非らず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。此の兵法の奥義は中華人能く心得てゐるやうなり。*

昭和七年四月十四日。わかき時読みたる書を再び繙く時、思ひも掛けぬ興味を覚えてやまざることあり。又はさほどに面白しとも思はず、昔はいかにして此の如き書を面白しと思ひたるかなど怪しむ事もあるなり。ピヱールロッチの著作『お菊さん』を読みたりしは、米国に在りし時なれば、指折り数れば三十年の昔なり。又『お梅が晩年の春』といふをよみしも三田の大学に通勤せし頃なればこれさへ二十年のむかしなり。此頃『お菊さん』の一書を再読するに、日本現代の風俗習慣殆亜米利加風になりたれば、篇中の記事叙景によりて明治年間の生活を追想して感概おのづから窮りなし。大雨降りそゝぐ夜人力車の幌の内に肩をすぼめ、暗夜の町を行く情景の如き、今の世には既に亡きことなり。車夫の遠き道を休まずに疾走する有様をしるしたる一章は、余をして明治年間吉原洲崎などの遊郭に遊びし頃の事を思出さしめたり。深夜行燈の光薄暗き一間の天井を鼠の走り騒ぐ音。昼夜のわかちなく庭に虫の鳴しきる声。暑き夏の日団扇つかふ静なる音。女供の煙管にて竹筒の灰吹叩く鋭き響。これ等の物音は日本に来りて始めて聞かるべき固有なる生活の響なり。然れどもそは二十年のむかしにして今この固有なる響は再び聞くこと能はざるなり。余はロッチの書をよみて新橋の芸者さへそのむかしは巻烟草を客の面前にて喫するものは少く、皆それぞれ好みの煙草入煙管を帯の間にはさみゐたる事など今更の如くに思ひ返しぬ。ロッチは日本の気候風土、及び日本古来よりの生活には言葉には云ひ得ざる一種の哀愁あり、又一種恐怖すべき暗惨なるものありとなしたり。是ロッチの官覚のおのづから斯くの如く感じたる所にして、余が明治四十一年の秋六年ぶりにて日本に帰りし時感じたる所と全く一致するものなり。余が六年ぶりにて日本を見たりし時の感想は、『監獄署の裏』の一篇にしるしたり。『冷笑』の中「夜の三味線」「都に降る雪」の二章も、余が官覚の最鋭敏なりし時、日本の都会を見て感じたる所を憚る所なく記述せしなり。ロッチの『お菊さん』『お梅さん』及『日本の秋』の三書は、明治時代の日本を知らむとするには最必要なる資料なり。因(ちなみ)に言ふ。天井裏にて鼠の騒ぐ音の物すごき事は日本のみならず、土耳古の都も同じきものと見え、ロッチはつぶさにその事を記し、鼠はトルコの語にてはSetchen(セチヤン)と発音することをも記たり。此夜銀座の酒館にて葵山撫象の二子に逢ふ。撫象子は四月七日海外漫遊を終りて帰京せられしなり。巴里の空濠は既に埋立てられて跡なき事。安料理屋にて葡萄酒を無料にて出す事は止められし事。また紐育ハドソン河に大橋かゝりし事ブロンクス公園のあたりも繁華なる市街になりしことなど聞知りぬ。*

昭和七年四月廿三日。一昨々夜銀座太訝楼にて人を殺したる男は下谷辺に住居する夜店地割人の親方にて俗にテキ屋と呼ぶ者なる由。昨日捕縛せられし由。新聞紙は太訝楼より口留金を贈りし故詳細なる事は記載せず、唯怪我人ありし事を記したるのみなりと云ふ。以上の事は昨夜電車の中にて乗客の語るところを立聞したるなり。近年銀座界隈にてつまらなき喧嘩のため人の殺されし事再三に及べり。余が耳にせし所によれば、二三年前黒猫酒肆の入口徃来にて白昼匕首にて刺殺されしものあり。又銀座裏通書籍おろし売北隆館の店頭にて荷づくりをなしゐたる店員の無頼漢の喧嘩を仲裁せむとして一人の店員は鼻をそがれ、一人は急処を刺されて即死せしことあり。其他麦酒壜にて頭を打割られし噂は数かぎりなき程なり。いづれも原因はつまらなき其場の言争ひより起りて徒に血を流し生命を失ふなり。斯くの如き事はむかしより今に至るまで日常絶えざるはなしにて更に奇となすに足らざるなり。血を見る事を好むは日本人の特性なるべし。繁華の町に在ては酒楼の喧嘩となり、田舎に在ては博徒の出入、請負師土方の喧嘩となる。されば戦争に臨みて日本人の勇猛なる事野獣の如くなるも亦更に奇となすに及ばす。此度上海の戦争にて勇名を轟かせし兵士尠からざるは盖当然の事と謂ふべし。何事にも利害は相半するものなり。戦争に強ければ銀座の血まぶれ喧嘩は免れざる事と知るべし。*


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Last-modified: 2015-01-12 (月) 06:09:14 (832d)