昭和七年三月四日 晴天、風暖なり、晡時中洲病院に徃き診察を乞ふ、ヴィタミンの注射をなす、病後の衰弱を治するに効ありと云ふ、帰途日本橋丸善に立寄りオリンピア?に晩餐を食す、銀座通商店街の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し、蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す、時に満街の燈火一斉に輝きはじめ全市(こぞ)つて戦捷の光栄に酔はむとするものゝ如し、思ふに吾国は永久に言論学芸の楽土には在らず、吾国民は今日に至るも猶徃古の如く一番槍の功名を競ひ死を顧ざる特種の気風を有す、亦奇なりと謂ふべし、尾張町四辻にて偶然尾谷文子といふ女に逢ふ、大正十五年の夏折々赤阪の茶屋に招ぎし女なり、*

三月五日、 快晴、春風嫋々たり、表通には自働車の音絶間なく、遠く砲声のきこゆるに係らず、庭の早朝より午頃まで鳴きつゞけたり、都会の鶯は自ら物の響に馴れたりと見ゆ、午後お歌来り、悪家主中野光嘉?より去年十二月初かたり取られし家賃五百円の中半額だけ取返したりとて現金を示す、此金は病気見舞として其儘お歌に贈りぬ、晡時西銀座五丁目の路地に住める某女(=私娼文子)を訪ひ用談をすまし、風月堂に徃き独晩餐をなす、給仕人の持来る夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃実業家団琢磨三井合名会社?表入口にて銃殺せられし記事あり、短銃にて後より肺を打ち抜かれしと云ふ、下手人は常州水戸の人なる由、過日前大蔵大臣井上準を殺したる者も同じく水戸の者なる由、元来水戸の人の殺気を好むは安政年間桜田事変ありてよりめづらしからぬ事なり、利と害とは何事にも必相伴ふものなり、昭和の今日に至りて水戸の人の依然として殺気を好むは、之を要するに水戸儒学の余弊なるべし、桜田事変のことを義挙だの快挙だのとあまりほめそやさぬがよし、脚本検閲の役人は鼠小僧の如き義賊の狂言は、見物人に盗心を起さしむる虞ありとて、徃々その興行を許可せざる事あり、此の後は赤穂義士、桜田事変の如き暗殺を仕組みたる芝居も、其筋にては興行を禁止するがよかるべし、盗賊の害は小なり、暗殺の害は盗賊の比にはあらず、▼但し甘糟大尉が震災の時大杉栄と其妻及幼女を殺したるが如きは、余いまだ其是非を知らず、▲この夕、帰途尾張町タイガア裏通を通り過るに洗湯の鄰家五六軒焼けたり、昨夜深更失火せしなりと云ふ、家にかへりて後燈火三島政行?の遺稿『葛西志?』を読む、*

昭和七年三月十日。晴また陰。昨来春寒料稍?(りようしよう)たり。病来書斎の塵を掃はざれば、朝食の後書架机上を整理するに早くも午となりぬ。読書黄昏に及ぶ。銀座に徃き於倫比克?(オリンピア)に晩食をなす。数年前までは町に徃きて食事をなすこともさまで面倒ならず。時には外遊のむかしを回想して葡萄酒の盃を重ねしこともありしが、五十四歳の今日となりては、牛肉も咀嚼するに骨が折れ、又料理の献立表を見るにも老眼鏡をかけ直すなど、煩しき事多く、寧家に在りて燈下に悄然麦飯を食ふことを欲するなり。されど医師の忠告是非なければ、今は薬を服する心にて洋食をくらふなり。此夕銀座通平日よりも賑にて、三田の学生断髪の女子を伴ひ酔歩するもの尠からず。是陸軍記念祭の当日なるが故なりと云ふ。近年種々なる祭日増加したれば殆記憶するに遑あらず。二月十一日は紀元節の外更に建国祭と称するもの出来たるが如き其一例なり。此等の新祭日はいづれも殊更に国家の権威を人民に示さんがために挙行せらるゝやの嫌あり。我国家の何たるかは今更祭日を増加してこれを示すにも及ばざるべし。若し時勢に応じて之をなすものならんか、是さながら月刊雑誌の折々表紙の絵を変じて人目をひくに異らず、数十年の後には三百六十五日悉く祭日となさゞるべからざるに至るべし。*


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Last-modified: 2015-04-01 (水) 08:54:30 (813d)