七月十一日 唖々子が八年目の忌日なり、七月は余が身にとりて人琴の歎禁ずべからざる時なり、一昨日九日は鴎外柳村両先生を喪ひたる日にして、十一日は唖々子、十三日は南岳子の逝き日なり、朝の中白久寺に赴かむと家を出でしが途にて雨に値ひ、牛門の妓家に立寄り空しく一日を送りぬ、余平生唖々子の詳伝をつくらむと思ひながら老いて傾く遂に果さず、年々物事忘れ勝ちになり行けばこゝに思出るまゝを識し置くべし、唖々子姓は井上氏名は精一といふ、初め九穂と号し又玉山と称す、晩年不願醒客と号せり、加州藩士井上如苞の長男にて明治十一年某月某日尾州名古屋の城下に生る、是厳君如苞翁維新の後内務省に出仕し名古屋の県庁に祇役せし時なりと云ふ、幾くもなくして厳君は転任し家眷春を携へて東京に来れり、当時鉄道は横浜以西には未布設せられず、旅人は人力車にて東海道を行き箱根の山はむかしに変らず駕寵にて越えたりと云ふ、唖々子晩年幼時の追憶を筆にせしことありしが其の草稾は散逸してまた見ること能はず、悲しむべきなり、余の始めて唖々子と交を訂せしは明治廿五六年の春余が神田一橋なる高等師範学校附属尋常中学校に入りし時なり、子は学課の成績好かりしが殊に漢学と歴史との二科は常に教師の歎称する所なりき、明治三十年春尋常中学の課程を卒へ、其年の夏第一高等学校第一科に入り、やがて帝国大学文科に進まむとする前年、病を得て休学し、一時鎌倉の旅宿に養生し居たり、医学博士青山氏の診断を受けしに肺病なれば数年間勉学は思ひ止まるがよしとの忠告を受けたりと云ふ、唖々子が酒を好み又俳句漢詩をつくり始めしはこの時なり、明治三十二年に至り高等学校を退学し、予及木曜会の諸生と提携して文学雑誌活文壇を刊行せり、当時の事は予が書かゝでもの記と題するものに識したれば茲に贅せず、雑誌活文壇廃刊の後唖々子は雑誌発売の書店大学館の編輯員に雇はれ、大正改元の秋頃まで凡そ十四五年間通勤し居たり、其頃子は田村西男?岡鬼太郎氏等の刊行せしといふ雑誌に屡短篇小説を寄稿せしが皆散逸して再び見るべからず、大学館より出版したりし単行本二三種も今は悉く散佚したり、余はこゝに単行本の表題を識し置くべし、乃ち夜の女、小説修行、猿論語等なり、子は二十歳の頃より当時の青年とは全く性行を異にしたる人にて名聞を欲せず成功を願はず唯酒を飲むで喜ぶのみ、酒の外には何物をも欲せざる人なり、生れながらの酒仙とも謂ふ可し、されば平生作る所の文章俳句の如きも世の文学雑誌に掲載することを好まず、酔後徒然の折よ草稿を浄書し自ら朗読して娯しみとなすのみなりき、明治四十四五年の頃甲州の人某氏の女を要り男子二人を挙げたり、大正三四年の頃より旧加州藩主前田侯爵家歴史編纂所の部員となり、ついで籾山書店の編輯員に雇はれしが幾くならずして職を辞し、余と共に雑誌花月を刊行すること凡半年、大正七年の冬毎夕新聞社の聘に応じ初めは黒田湖山と共に新聞紙の三面に筆を執りしが、二三年の後同社内の活版所校正係となれり、子は其時余に語りて日く、日々愚にもつかぬ世間の俗事を記述するは永く堪ふべき所ならず、校正係となりて手偏と木偏の誤を訂正するの労遥に少きを思ふなり、新聞社にては初月給を増すぺければ三面記者の主席に坐せられたき由言出せしが、余はこれに荅へて月給は減少せらるゝも差閊閊なし、それよりは酒飲む暇の多き閑職こそ望ましけれと言ひしに、社中の者唖然として返す言葉もなかりしは近来の快事なりしと、唖々子が人物の如何はこれにて推察せらるべし、大正十一年の冬頃より酒量も次第に減じ豪気亦昔日の如くならず余を始め知友相逢ふ毎に子に迫りて是非にも医薬を用ゆべしと忠告せしが、子は唯冷笑するのみなり、翌年六月の中旬友人某々等と共に麹巷の旗亭に登り、飲んで夜深に至り酔倒して遂に起つ能はず、翌朝友人に扶けられて東大久保の就居に帰りしが、病遽に発して医薬もその効なく、七月十一日黎明に至りて瞑目しぬ、年を享ること四十有六なり、小石川白山蓮久寺なる先塋の側に葬らる、子の厳君如苞翁は子に先立つこと二年大正十年某月七十余才の高齢にて世を去り継母酒井氏もついで没したり、子の実母某氏は子が幼年の頃肺を病んで没せしと云ふ、子の弟梧郎君は子に先だち大正四五年頃急性肺炎にて世を去りぬ、子の妹もと子は東京府女子尋常師範学校を卒業し多年牛込区津久土町小学校の教員たり、前田男爵家の家令小野木氏に適き今猶恙なしと云ふ、唖々子の遺族は今何処に住居せるや久しく音信を断ちたれば知らず、唖々子尋常中学校に通学せし頃には本郷東竹町の家に在り、高等学校に学びし時には厳君は家を麹町飯田町三丁目に移したり、恰是時余が家も小石川より飯田町もちの木坂に移りしかば日として相見ざるはなく交誼水魚の如くになりき、此間凡一二年唖々子の先君は千葉県安房郡の郡長となり任地に出張せられしかは、唖々子は後母の実家酒井佐保?氏の家に寄寓せしことあり、酒井氏は後に第一高等学校の校長となりし学者なり、唖々子の厳君が官職を去り旧藩主前田侯爵家の家扶となり本郷元富士町なる侯爵家の邸内に移居せられしは明治三十年頃なるべし、子は大正十年厳君の世を去りし後まで凡二十余年侯爵家邸内の御長屋に住みしなり、明治四十三年八月都下大洪水の頃子は凡一年あまり元下谷の妓なりし女と狎れ親しみ深川東森下町なる女の家に入り込みゐたりし事あり、子が別号を深川夜烏と称せしは此の故なり、」 *


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Last-modified: 2015-01-25 (日) 11:30:02 (791d)