八月十三日 谷崎氏勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山驛の停車塲に至る。構内には既に切符を購はむとする旅人雜沓し、午前四時札賣塲の窓に灯の點ずるを待ちゐたり。構外には前夜より來りて露宿するもの亦尠からず。予この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列に尾して佇立すること半時間あまり。思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。一ト月おくれの盂籣盆にて汽車乘客平日よりも雜沓する由なり。予は一まず寓居に戻り、朝飯かしぎて食ひし後、再び停車塲に至り九時四十二分發伯備線の列車に乘る。辛うじて腰かくることを得たり。向合ひに坐したる一老媼と岡山市罹災當夜の事を語る。この媼も勝山に行くよし。辮當をひらき馬鈴薯、小麥粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片を取りて口にするに味案外に佳し。列車倉敷を過る頃より沿線の山脈左右より次第に迫り來り、短き隧道を出入する事敷回に及ぶ。沿道行けども行けども淸溪の流るゝあり。人家は皆山に攀づ。籬邊?時に百日紅の花爛漫たるを見る。正午新見といふ驛の停車塲に着す。こゝにて津山姫路行の列車に乘替をなす。車窓より町のさまを窺ひ見るに溪流に沿ひ料理屋らしき二階家立ちならびたり。家屋皆古びて古驛蕭條の趣あり。鐡道從業員多くこの地に住居するが如し。新見を發するや左右の靑巒いよいよ迫り、隧道多く、溪流ますます急なり。されど眺望廣からざれば風光の殊に賞すべきものなし。一歩一歩囊中に追い込まれ行くが如き心地す。車中偶然西歐人夫婦幼兒を抱きて旅するものあるを見る。容貌獨逸人なるが如し。午後一時半勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ。驛の停車塲を去ること僅に三四町ばかりなり。戰前は酒樓なりしと云。谷崎氏は離れ屋の二階ニ間を書齋となし階下に親戚の家族多く避難し頗雜沓の様子なり。細君に紹介せらる。年紀三十四五歟。瘦立の美人にて愛嬌に富めり。佃煮むすびを恵まる。一浴して後谷崎君に導かれ三軒程先なる赤岩といふ旅館に至る。谷崎君のはなしに溪流に臨む好き旅館に案内するつもりなりしが、遽に獨逸人収容所に當てられて如何ともしがたしと。予が來路車中にて見たりし洋人は想像通り獨逸人なりしなり。やがて夕飯を喫す。白米は谷崎君方より届けしもの。膳に豆腐汁。溪流に産する小魚三尾。胡瓜もみあり。目下容易には口にしがたき珍味なり。食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る。歸り來つて寢に就く。岡山の如く蛙聲を聞かず。蚊も蚤も少し。

八月十四日晴。朝七時谷崎君來り東道して町を歩む。二三町にして橋に至る。溪流の眺望岡山後樂園のあたりにて見しものに似たり。後に人に聞くにこれ岡山市中を流るゝ旭川の上流なりと。其水色山影の相似たるや蓋し怪しむに及ばず。正午招かれて谷崎君の客舎に至り晝飯を饗せらる。小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。予初め谷崎君の勸告に從ひ岡山を去り此地に移るべき心なきにあらざりしが、岡山廣島等の市邑續々焦土と化するに及び此の地も亦人心日に平穏ならず米穀の外日々の蔬菜も配給停止し他鄕より來れる避難民は殆食を得るに苦しむ由。事情既にかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し。依つて明朝岡山にかへらむと停車塲に赴き乘車券の事を問ふに、明朝五時に來らざれば獲がたるべしと言ふ。依つて其事を谷崎氏に告げ旅館に還りて午睡を試む。燈刻谷崎氏方より使の人來り津山の町より牛肉を買ひたれば來たれと言ふ。急ぎ赴くに日本酒も亦あたゝめられたり。頗美酒なり。細君微醉。談話頗興あり。覊旅の憂愁初て一掃せらる。九時過辭してわが客舎にかへる。深更警報をきゝしが起きず。

八月十五日。陰りて風凉し。宿屋の朝飯。雞卵、玉葱の味噲汁。ハヤ附燒。茄子糠漬なり。これも今の世には八百膳の料理を食する心地なり。飯後谷崎氏の寓館に至る。歸り汽車の切符既に氏の手によりて購はれたりと云。雜談中汽車の時刻迫り來れり。再會を約し共に屋後の間道を歩み停車塲に至り、午前十一時二十分發の車に乘る。新見の驛に至るの間隧道多し。驛毎に應召の兵卒を見送る小學校生徒の列をなし旗を振るを見る。車中甚しく雜沓せず。凉風窓より吹入り炎暑來路に比すれば遥かに忍び易し。新見にて乘替をなし、出發の際谷崎氏夫人から贈られし辮當を食す。白米の握飯、昆布佃煮に牛肉を添へたり。欣喜名状すべからず。滿腹忽ち睡を催す。山間の小驛幾個所は夢の中に過ぎ、西總社倉敷の驛をも後にしたり。農家の庭に夾竹桃の花さき、稲田の間處々に藕花の開くを見る。午後二時岡山の驛に安着す。上伊福町の燒跡を過ぎ路傍の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門町の寓舎にかへる。菅原氏曰く君知らずや今日正午ラヂオの放送、突如日米戰爭停止の趣を公表したりと。恰も好し。日の暮るゝ比、三門祠畔に住する大熊氏の媼、雞肉葡萄酒を持ち來れり。一同平和克複の祝宴を張る。余がこの地に流寓中貸室の周旋をはじめとして日常の事何くれとなく大熊氏を煩すこと少しとなさず。感謝常に措かざるところ。その厚情、(ただ)に此夜の珍羞のみに限らざるなり。 *

八月廿九日。晴れて風涼し。正午村田氏の細君と共に岡山駅に至り、ツーリストビューローの事務員に面会し、金子一包を贈り、東京行二等の切符を手にすることを得たり。事皆意外の成就にて夢に夢みる心地なり。駅より直に三門町の寓居に至り食糧配給証東京転出の手筈をなし、五時頃の汽車にて総社の旅館に帰る。村田氏の一家と共に赤飯を食す。けだし帰京出発の前祝なり。*


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-02-12 (木) 16:08:00 (804d)