七月初三。晴。巌井三門町一ノ一八二六武南功氏方に移る。庭に天竺葵の花灼然たり。毎夜サイレン人の眠を妨ぐ。

昭和二十年七月九日。快晴。雲翳なし。谷崎氏及宅昌一氏に郵書を送る。午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また二王門ありて大乗山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺{佐文山の書}とあり。法華宗なるべし。墓石の間を歩みて山の頂上に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聳ゆる連山の青きを見るのみ。墓地より小径を下ればわが寓居の裏手に出る道路なり。こゝより別の石径あり。三門神社の立てる丘陵の頂に登るを得べし。巖石崎嶇。松林鬱蒼たり。山麓に鳥居を立てたるところは三門町二丁目の道路にして人家櫛比す。社殿の前の平地に立てば岡山市の西端に延長する水田及び丘阜を望む。備中総社町に至る一条の鉄路田間を走る。又前方南の方に児島湾を囲む山脉を見る。風景佳ならざるに非ず。然れども余心甚楽しまず。白雲の行くを見て徒に旅愁の動くを覚ゆるのみ。こゝに於て余窃に思ふに山水も亦人物と同じく(したし)み易きものと然らざるものとの別あるが如し。明石より淡路を望みし海門の風光は人をして恍惚たらしむるものありしが今眼前に横はる岡山の山水は徒に寂寞の思をなさしむるのみ。一は故人に逢うて語るが如く一は路傍の人に対するが如し。*

七月卅一日、晴、昨来暑気()くが如し、南瓜の蔓延び花盛にひらく胡瓜既に盛を過ぐ、茄子赤茄日に日に熟す、下痢やまざれば近鄰の医師藤山氏を訪ひ薬を請ふ、東京より川尻清潭の書来る、依然として明舟街九番地芳盟荘に在りと云、東京は五月以来火災なく平穏無事今日に至れが如し、但し他の人の端書によれば米三分豆七分の食料には困却せりと云、

見聞録
大阪市内にて人の拾ひたるビラの文次の如し、
日本の偉人よ何処に在りや。日本は自由の何たるかを理解した人々に依つて強大を致したのであり、国家の独立ハその国の独立よりと喝破した福沢諭吉氏、その著書思想と人格に於て自由の定義を下した深作安文博士、多年議会政治の闘士として令名を馳せた尾崎行雄氏、刺客に襲はれた時板垣死すとも自由は死せずと絶叫した板垣退助氏、この人達によって昔の日本には自由の国家のみがその強大を致し得ると云ふ事実がよく理解されてゐる、昭和十一年に尾崎行雄氏が世界の趨勢に逆行し軍国主義の旧弊を固守し、恰もそれが国に最も忠なる所以であるが如く考へることは、決して忠でもなく又自らを愛する所以でもないと叫び得たのが、恐らく最後であらう、軍閥がその発言の自由を拘束し荒木の如き人間が日本を軍事的敗北に導いたのである、現在の事態ハ日本を破滅に導いた軍部指導者の採つた理論が誤謬であって、尾崎氏の如き人々が正当であつた事を立派に證明してゐる、言論の自由と自由主義政府とを再び確立することが日本の将来を保証する唯一の道である、


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Last-modified: 2017-01-09 (月) 13:00:21 (110d)