六月初一、晴、菅原氏曰く埼玉県志木町の農家にも行きがたくなりたれば今は其故郷なる播州明石の家に行くより外に為すべき道なしとて頻に同行を勧めらる、熟慮して後遂に意を决して氏の厚誼にすがりて関西にさすらひ行くことになしぬ、早朝氏と共に渋谷駅停車場に至り罹災者乗車券なるものを得むとしたれど成らず、空しく宅氏の家にかへる、*

昭和二十年六月二日。 未明{三時半}小雨のふる中を菅原氏夫婦と共に再渋谷の駅に赴きしが乗車券を得ざること昨日に異らず、策尽きてまた駒場に戻り、午前八時三たび行くに及びて辛くも駅員より乗車券の交附を受けたり、其手続の不便に且ツ繁雑なること人の意表に出づ、我国役人気質の愚劣なること唯是一驚すべきのみ。余菅原君夫婦と共に宅氏の兄弟に送られていよいよ渋谷駅の改札口に入ることを得たるは午後一時半なり、山の手省線にて品川を過ぎ東京駅に至り罹災民専用大阪行の列車に乗る、乗客思の外に雑沓せず、余ら三人皆腰掛に坐するを得たるは不幸中の幸なり、午後四時半列車初てプラトホームを離る、発車の際汽笛も鳴らさず何の響もなければ都会を去るの悲しみ更に深きを覚ゆ、浜松に至る頃日は全く暮れ細雨霏霏たり、余大正十年の秋亡友左団次一行と共に京都に遊びてより後一たびも東海道の風景に接せしことなし、感慨無量筆にしがたし、*

六月初三、 列車中の乗客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが、幸にもその厄なく午前六時過京都駅七条の停車場に安着す、夜来の雨も亦晴れ涼風習々たり、直に明石行電車に乗換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す、菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なる其邸に至り母堂に謁す、邸内には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの事に、三四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分こゝに宿泊することになれり、西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江湾一体の風景古来人の絶賞する処に背かず、殊に余の目をよろこばすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり、墓地につゞき数頃の菜園崩れたる土墻をめぐらしたるあり、蔬菜の青々と茂りたる間に夏菊芥子の花の咲けるを見る、これ亦海を背景となしたる好個の静物画ならずや、余明治四十四年湘南逗子の別墅(べつしよ)を人に譲りてより後三四十年の間、一たびも風光明媚なる海辺に来り遊ぶの機会を得ず、然るに今図らずもこの明石に来り其静閑なること雨声の如き濤声をきゝ、心耳を澄すこと得たり、何等の至福ぞや、西林寺の主人は年四十あまりなる未亡人にして言語快活談話巧みにして俗客の来ることを厭はざるが如し、吾等三人を客間に迎え直に昼飯をつくり、夕刻にはまた晩食の後風呂を焚き余等をして一浴覊旅の疲労を洗ひ去らしむ、夜十二時菅原君夫婦と枕を並べて寝に就きぬ、*

昭和二十年六月四日、軽陰軽寒、暮春の天気を思はしむ、午後墓地の石段を下り渚を歩す、防波堤に児童の集りて糸を垂るゝを見る、海風の清和なること春の如く、亦塩気を含まざれば、久しく砂上に坐して風景を賞するも房総湘南の海辺に於けるが如く肌身のねぱつく事なし、此日菅原君用事ありて神戸大坂に赴き夜半に近く帰り来り蘆屋に住める林龍作氏の消息を伝ふ、*

六月初五、晴、朝八時空襲警報あり、黒烟忽ち須磨海辺の彼方に昇るを見る、西林寺墓地下の海岸に近鄰の人々家財を運び出せり、二時間ほどにて警戒解除となる、昼食の後寺主檀家の庭に裁培したる莓を馳走せらる、東京の人戦争以来曾て口にせしことなき珍味なり、*

六月初六、陰、東南の風つよし、今日も昼飯の前後に西洋莓を多く食ひぬ、百匁金拾円なりと云、午後菅原君夫妻相携へて宝塚なる知人某子の家に行けり、曾て東中野のアパート{菅原君鄰室}に仏蘭西の女と同棲せし畸人なり、晡下墓地を逍遙す、石墻に倚りて海を見る、東方に横たはる丘陵の背後より黒姻猶盛に立ちのぼりたり、昨朝の兵火未だ歇まざるを知る、被害思ふべし、寺の茶の間にかへるに菅原君夫婦在り、電車動かず、大坂には行き得ざりしと語る、夜電光閃々、雷鳴驟雨の襲ひ来るあり、*

六月初七、驟雨午後に歇む、黄昏菅原君に導かれて海岸の遊園地を歩む、西洋風のホテルまた邸宅あり、海浜の老松害虫の為に枯死し砂上に伐り倒されたるもの幾株なるを知らず、一条の堀割あり帆船貨物船輻湊す、岸上に娼家十余軒あり、店かゞり東京風なり、絃歌の声を聞く、*

昭和二十年六月初八、晴、午前七時警報あり姑くにして解除となる、朝飯を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出来ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らぱよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべき椅子もなし、乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘(=池の堤)の風致殊に愛すべし、石級を昇るに徃時の城楼石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所写真入の土産物を売る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁渋茶と共に甘いものもありますとて一碗を勧む、味ふに麦こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天主台の跡に立ち眼下に市街及江湾を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工塲の烟突林立せり、これが為既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拝し林間の石径を上りまた下りて人丸神社に至る、石磴の麓に亀齢井(かめのゐ)と称する霊泉あり、掬するに清冷氷の如し神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海湾の眺望城址の公園に劣らず、石級を下り電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、もまた熟したり、正午過寺に帰る、食後寺の女主人また苺を馳走せらる、午後菅原君と楼上に蔵する先代住職の書冊を見る、多くは皆現代出版の文芸書類なり、頗奇異の思をなす、*

六月十日。 晴。日曜日。明石の町も遠からず焼払はるべしとて流言百出、人心恟々たり、午後人々皆外出したる折を窺ひ行李を解き日記と毛筆とを取出し、去月二十五日再度罹災後日々の事を記す、駒場なる宅氏の家に寓せし時は硯なく筆とることを得ざりしに明石の寺には其便あり、明日をも知らぬ身にてありながら今に至つて猶用なき文字の戯れをなす、笑ふべく憐む可し、日誌をしるし終りて後晩飯の煮ゆるを待つ間、夕陽の縁先に坐して過日菅原氏が大坂の友より借来りしウヱルレーヌの選集を読む、菅原氏は仏書をよむ、夜菅原君細君岡山より帰り宅孝二氏既に彼地に在り、谷崎潤氏亦津山の附近に避難する由、余等行先の事思ひしよりも都合好かるべしと言ふ、依つて明後十二日未明の汽車にて岡山に行くことに決す、*

昭和二十年六月十一日、晴。燈刻鷲仙紙を携へ来りて書を請ふ人あり、旧作の発句を書す、飯後寺主をはじめ同宿の避難者に別を告げ夜半枕につく、六月十二日、暁三時半に起出で晩飯の残りたるを粥にして一二碗を食し行李を肩にして寺を出づ、入梅の空明け放れんとしてあかるきまゝ雨しとしとと濺ぎ来る、一行三人傘を持たねば濡れに濡れて停車場に至る、其困苦東京駒場の避難先より渋谷の駅に至りし時の如し、初発博多行の列車は難沓して乗るべからず、次の列車にて姫路に至りこゝにて乗つぎをなし正午岡山に着す、宅氏の知人最相氏の家に至り昼飯及晩飯の恵みに与る、此夜小学校講堂にて宅氏洋琴弾奏の会あり、雨中皆々と共に行く、帰り来りて最相氏の家に宿す、*

▼〔欄外墨書〕六月十三日

六月十三日、 梅雨霏々、午前菅原氏と共に其知人池田優子なる婦人を巌井下伊福の家に訪ひ昼飯を恵まる、此の婦人の世話にて住友銀行支店に行き三菱銀行新宿支店預金通帳を示し現金引出の事を請ふ、引出金額一個月五百円かぎり、一回引出し金額金弐百円也と云、一同岡山ホテルに宿す、蚊多くして眠り難し、*

六月廿八日。 晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。*


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Last-modified: 2017-02-20 (月) 02:17:26 (33d)