五月初五。 陰。午前麻布區役所に行く。途すがら市兵衛町舊宅の燒跡を過るに一隊の兵卒處々に大なる穴を堀りつゝあり。士官らしく見ゆる男を捉へて問ふに、市民所有地の燒跡は軍隊にて随意に使用することになれり。委細は麻布區役所防衛課に就いて問はるべしと答ふ。軍部の横暴なるや今更憤慨ふるも愚の至りなれば、そのまゝ捨置くより外に道なし。吾等は唯この報復として國家に對して冷淡無關心なる態度を取らんことのみ。 *

五月廿五日。 空晴れわたりて風爽かに、初て初夏五月になりし心地なり。室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに隣園の新綠染めしが如く、雀の子の巣立ちして囀る聲もおのづから嬉しげなり。この日予は宿泊人中の當番なれば午後止むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り手車に米、玉蜀黍二袋を積み載せ曳いてかへる。同宿人の中江戸川區平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋來りし可憐の一少女あり。年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し。予を扶けて共に車を曳く。路すがら中川邊火災當夜の事を語れり。是亦戰時の一話柄ならずや。日暮れて後菅原氏の居室にて喫茶雜談に耽る時、サイレン鳴響き忽空襲を報ず。予はいはれなく今夜の襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ、頗油斷するところあり。草稿日誌を入れしボストンバックのみを提げ、他物を顧みず徐に戸外に出で、同宿の兒女と共に路傍の窖に入りしが、何ぞ圖らん。爆音砲聲刻々激烈となり空中の怪光窖中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる烟窖に入つて鼻を突くに至れり。最早や窖中に在るべきにあらず人々先を爭い路上に匐ひ出でむとする時、爆音一發予の頭上に破裂せしかと思はるゝ大音響あり。無數の火圑路上到るところに燃え出で、人家の垣墻を燒き初めたり。予は菅原氏と共に燃立つ火焔と騒立つ群集の間を逃れ、昭和大通上落合町の廣漠たる燒跡(四月中罹災の地)に至り、方向を見はかり、崩れ殘りし石垣のかげに熱風と塵烟とを避けたり。遠く四方の空を焦す火焔も黎明に及び次第に鎭まり、火勢も亦衰へたればおそるおそる烟の中を歩み、わがアパートに至り見るに、既にその跡なく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ。菅原氏が日夜彈奏せしピアノの如き唯金線の一圑となり糸のやうにもつれしを見るのみ。昨夜逃げ入りし窖のほとりにアパート同宿の男女一人一人集り來り、涙ながらに各その身の恙なかりしを賀す。予は菅原氏と共にひとまづ帰す杵屋五叟の家に行かむと思ひ、餘烟濛々たる戸塚、大久保、新宿の町々を歩み、代々木のの大通に至り見るに、こゝも亦中野と同じく見渡すかぎり燒原となれり。路傍に五叟子の次男佇みゐて、予等一同の來るを認め、この邊は廿三日の夜に燒かれしなり。一家は無事怪我するものもなく、代々木の驛前なる知人某の家に立退きたりと語るほどに、五叟の細君も亦來り配給の玄米むすびを恵まる。折からの雨ふり出して止むべき様子もなし。予等二人頗途方に暮れしが、このまゝ居るべきにあらねば通り過る貨物自動車の中好意にて人をも載するものあるを見、それに乘りて澁谷の驛に至れり。このあたりも道玄坂の兩側をはじめ一望悉く焦土なり。予等は駒塲なる宅孝二氏の家を尋ね、もし祝融の禍を同じくしゐたらば、豪徳寺畔なる小堀畫伯の救を請はむと思定め、雨に濡れつゝ燒跡の町々を歩み過ぎ漸くにして辿りつけば、幸にも宅氏の邸は綠樹のかげに恙なく立ちてあり。折から雨もまた止む。隣家の時計の鳴るを數ふれば午前十時なり。 *


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Last-modified: 2015-01-08 (木) 18:44:37 (842d)