三月初六。晴。後に陰。午下木戸氏?來り話す。二月廿五日雪中市内罹災地の事を聞く。吾妻橋西詰曾てオペラ館踊子等と折々茶を飲みに行きし丸三喫茶店のあたり、雷門郵便局を除き仲店一帶に燒亡。厩橋の上に爆彈落下の痕あり。又山の手にては市ケ谷堀端の町町も燒亡せし由。市内祝融の災を免れしところ追々少くなれり。わが偏奇館果して無事に終るや否や。詩集偏奇館吟草、冬の夜がたりの草稿を交附す。この日警報晝一囘、夜一囘。 *

三月九日。 天氣快晴。夜半空襲あり。翌曉四時に至りわが偏奇館燒亡す。火は初長埀坂の半程より起り、西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延燒す。予は枕頭の窓火光を受けてあかるくなり、隣人の叫ぶ聲唯ならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を掲げて庭に出でたり。谷町邊にも火の手上るを見る。又遠く北方の空にも火光の反映するあり。火粉は烈風に舞ひ粉々として庭上に落つ。予は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山より神谷町邊燒けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ。道を轉じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき樣子なり。時に七八歳なる少女老人の手を引き道に迷へるを見、予はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ。予は三谷町の横町より靈南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ。下弦の纎月凄然として愛宕山の方に登るを見る。荷物を背負ひて逃れ來る人々の中には平生顏を見知りたる近隣の人も多く打交りたり。予は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をも稍知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み二十六年住なれし偏奇館の燒け落るさまを心の行くかぎり眺飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。巡査、兵卒、宮家の門を警しめ、道ゆく者を遮り止むるが故、予は電柱または立木の蔭に身を隠し小徑のはづれに立ち我家の方を眺むる時、隣家のフロイドルスベルゲル氏褞袍にスリツパをはき、帽子も冠らず逃れ來るに逢ふ。崖下より飛來りし火にあふられ其家まさに燒けつゝあり。君の家も類燒を免れまじと言ふ中、我門前の田島氏、その隣の植木屋もつゞいて來り、先生のところへ火がうつりし故、もう駄目だと思ひ各々その家を捨てゝ來りし由を告ぐ。予は五六歩横町に進み入りしが、洋人の家の樫の木と予が庭の椎の大木炎々として燃え上り、黑烟風に渦巻き吹きつけ來るに辟易し、近づきて家屋の燒け倒るゝを見定むること能はず、唯火焰の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。これ偏奇館樓上萬巻の圖書、一時に燃上りしがためと知られたり。火は次第にこの勢に乘じ表通へ燃え抜け、住友、田中兩氏の邸宅も危く見へしが兵卒出動し、宮家門内の家屋を守り防火につとめたり。蒸汽ポンプ二三輛來りしは漸くこの時にて發火の時より三時間程を徑たり。消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず。火は表通り曲角まで燃えひろがり人家なきため、こゝにて鎭まりし時は空既に明く夜は明け放れたり。 *

三月十日。町會の男來り、罹災のお方は焚出しがありますから仲の町の國民學校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに向側なる齒科醫師岩本氏その家人と共に在るに逢ふ。握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが、寒風は昨夜に劣らず、今日も亦肌を切るが如し。予は一まづ代々木なる從弟杵屋五叟の家に至り身の處置を謀らんと、三河臺電車停留塲に至りしが、電車の運轉する樣子もなし。六本木の交番にてきくに靑山一丁目より澁谷驛までは電車ありとの事に、其の言ふが如く澁谷に行きしが、省線の札賣塲は雜沓して近寄ること能はず。寒風に吹きさらされて路上に立つてバスの來るを待つこと半時間あまり。午前十時過漸くにして五叟の家に辿りつきぬ。一同と共に晝飯を食す。飯後五叟は二兒を伴ひ偏奇館燒跡を見に行き、予は炬燵に入りて一睡す。昨夜路上に立ちつゞけし後革包を堤げ靑山一丁目まで歩みしなれば、筋骨痛み困憊甚し。嗚呼、われは着のみ着のまゝ家も藏書もなき身とはなれるなり。予は偏奇館に隠棲し文筆に親しみこと數ふれば二十六年の久しきに及べるなり。されどこの二三年老の迫るにつれて、日々掃塵灌園の勞苦に堪えやらぬ心地するに至りしが、戰爭のため婢僕の雇はるゝ者なく、園丁は來らず、過日雪の降り積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧ろ一思に藏書を賣拂ひ身輕になりアパートの一室に死を待つにしかじと思ふ事もあるやうになり居たりしなり。昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや知るべからず、されど四十餘年前歐米にて購ひし詩集小説、座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。昏暮五叟及び其の二兒歸り來り市中の見聞を説く。大略次の如し。

昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝田町に及べり。淺草觀音堂、五層塔、吉原遊廓燒亡、芝增上寺及び靈廟も烏有に歸す。明治座に避難せしもの悉く燒死す。本所、深川の町々、龜戸天神、向島一帶、玉の井の色里凡て烏有となれりと云。午前二時に至り寢に就く。燈を消し眼を閉るに火粉粉々として暗中に飛び、風聲啾啾として鳴りひびくを聞きしがやがて此の幻影も次第に消え失せいつか底なき眠に落ちぬ。 *


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Last-modified: 2015-01-08 (木) 18:08:56 (839d)