二月廿二日。午に近く眠より覺むるに灰の如くこまかなる雪降りゐたり。折からサイレンの音聞えしが近巷寂然として人の聲もなく、雪の音さへせず、天地全く死せるが如し。昭和十一年二月内亂起りてより丁度十年目なれば、世の中再び變るべき前兆なるべし。夜半過厠より見るに月光晝よりも明るく、積れる雪を照したり。堀の上など五寸ほど積りたり。

二月廿五日。日曜日。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪ふりゐたり。飯炊かんとする時隣人雪を踏んで來り、午後一時半米國飛行機何臺とやら襲來する筈なれば心せよと告げて去れり。心何とも知れず落ちつかねば、食後秘藏せし珈琲をわかし砂糖惜し氣もなく入れ、パイプにこれも秘藏の西洋(たばこ)をつめ徐に烟を喫す。若しもの塲合にもこの世に思殘すこと無からしめんとてなり。兎角するほどに隣家のラジオにつゞいて砲聲起り硝子戸を揺すりしが、雪降る中に戸外の穴には入るべくもあらず。夜具棚の下に入りてさまざまの事思ふともなく思ひつゞくる中、門巷漸く靜になり、やがて警戒解除と呼ぶ人の聲す。時計を見るに午後四時にて屋内既に暗し。窓外も雲低く空を閉し、音もなく雲のふるさま常に見るものとは異りて物凄さ限りなし。平和の世に雪を見ればおのづから芭蕉が句など想起し又曾遊のむかしを思返すが常なるに、今日ばかりは世の終りまた身の終りの迫り來れるを感ずるのみ。再び臺所に行き今朝炊きし飯の殘れるを暖め、人より貰ひし麩を煮て夕餉を食す。燈下讀殘の巴里古雜誌をひらきよむ程に、十時頃またもや警報ありしが、この度は砲聲を聞かず、風吹出でて庭樹の梢より雪の落る響して夜は沈々とふけゆきぬ。


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-01-08 (木) 19:31:04 (839d)