正月元日。快晴。九時頃に夢より覚めたり。直に枕頭の瓦斯炉に火を点じショコラを煮る。これを啜つて朝餉に代ること、築地僑居以来十年間変わることなし。諒闇中年賀の郵便物少きは最喜ぶべし。終日門巷蕭条として追羽子の響も聞えず日は早く暮れたり。山形ほてる食堂に赴き独り晩餐をなす。風なく寒気烈しからざるを幸銀座に徃き太牙楼に登り見るに酔客雑沓空席殆どなし。けだし新春三ヶ日の間銀座表通の酒肆にして客を迎る処この太牙のみなればなるべし。妓山勇市川登茂江を伴ひて来る。浅草公園松竹座初日を見ての帰りなりといふ。中村成弥また来る。二更の後家に帰る。燈火柳北の『硯北日録』万延元年の巻を記して深更に及べり。

正月二日。好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる処なり、午下自働車を(やと)ひ雑司ヶ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横切り、四谷津の守坂を下りて合羽坂を登り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま*之を見る時は、ぞヾろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ヶ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の臘梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当てにして行くに迷はずして直ちに尋至るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、歩みて再び護国寺寺門前に出で電車に乗りて銀座に(いた)るに日は忽ち暮れんとす、太牙楼に登り夕餉を食し家に帰らんとするに邦枝日高の諸氏来りしかば、この夜もまた語り興じていつか閉店の刻限に至りぬ、日高氏と電車を与にして家に帰れば正に三更なり。

正月三日。快晴、名古屋の人安藤次郎氏横井也有の詩文集蘿隠編一帙を送り来る、同地汲古会の出版にて編纂に当りし者は大口全三郎氏にあり、午後読書抄写例の如し、晩間富士見町相模家に赴き妓千成を招ぎて晩餐をなす、此妓数年前新橋森川家の抱にて其後は下谷にてかせぎゐたり、旧冬図らず電車にて邂逅し富士見町に住替せし由語りしを以て、今夕ふと思出づるがままに赴き見しなり、凾館生れの女にて色白く眼大きく睫毛濃く長し、西洋婦人に似たる顔立なり、是余の最好む処、寒国の女なれば閨中の秘戯巧妙濃艶なるは言ふを俟ざる所なり、新春の祝儀にとて弐拾金を与え二更の後別れて帰る、枕上也有蘿隠編を読む、

正月四日。晴れて暖し、午下三菱銀行に赴き昨年末諸会社配当の預入をなし、銀座に出で太牙楼を過ぐるに葵山人の来るに逢ふ、倶に晩餐をなす、女優河合寿美子亦来る、今朝関西より帰東せしなりといふ、酔態妖艶に過ぎて頗厭ふべきものあるに至りしかば之を避けんとして事に託して独歌舞伎座*に赴く、二番目黒手与助六の狂言将に(おわ)らむとする所なり、清潭子と共に劇場*を出て銀座を歩む、大谷竹次郎昨年末歌舞伎座稽古の日鼻血夥しく出でゝ止まず今猶病床に在りと云ふ、清潭子に別れ再び太牙楼に登る、邦枝成弥すでにあり、葵山又余を待ちて猶帰らず、酒肆燈を欠く頃まで笑語歓を(つく)すこと毎夜の如し、帰家入浴して眠る、

正月五日。晴れて暖なり、竟日(きょうじつ)読書また抄書余事なし、夜銀座太牙楼に登る、成弥邦枝日高の三氏既に在り、成弥其氏歌右衛門の後見をなすとて八時頃に去れり、

正月六日。晴れて暖なり。柳北先生の『硯北日録』を七巻を写し終りぬ。余すところ投閑日録日毎之塵その他十数巻あり。卒業の日なほ遠しといふべし。薄暮銀座へ赴かむとして箪笥町崖下の小径を通るに、一群の児童あり余の行き過ぎると見て背後より一斉に余が姓名を連呼す。驚いて顧るや群童また一斉に拍手哄笑して逃走せり。その状さながら狂人あるひは乞食の来るを見て嘲罵するものと異る処なし。そもそも近鄰の児童輩何が故に余の面貌姓名を識れるにや。これまたわざ文筆浮誉の致す所にあらずして何ぞや。虚名の禍此に至つて全く忍ぶ可からざるものあり、世の雑誌新聞記者の毒筆の如きは余之を目にせざるを以て猶忍ぶことを得べし、近隣の児輩が面罵に至つては避けむと欲するも其道なし、浩歎に堪えざるなり、余常に現代の児童の凶悪暴慢なることを憎めり。窃に余が幼児のことを回想するに、礫川の街上に於て余は屢芳野世経中村敬宇南摩羽峯等諸先生を見しことあり、余は猶文字を知らざる程の年齢なりしかど敬虔の情自ら湧来るを覚え首を垂れて路傍に直立するを常とせり、然るに今の児輩の為す所は何ぞや、余は元より学識徳望両つながら当時の諸先生の比較するもの有るなし、近隣の児童に面罵せらるゝも敢て怪しむに足らず、然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、一代の文教全く廃頽して又救ふべからざるに至れることを示すものにあらずや。これ父兄の罪。国家教育の至らざるが故歟。余はこれを知らず。この夜独銀座風月堂に抵り黙々として食事を終り帰途酒肆太牙楼に登る。日高邦枝二氏既にあり。成弥生田の三氏また踵いで来り会す。この夜生田翁帰途渋谷の妓と会盟の約あり帰らずとて意気頗昂然たり。この日小寒。

正月七日。午前国民文庫刊行会々員林敏氏来談。一昨年より引き続き迷惑至極なる翻訳書の事についてなり。午後寒雨霏霏、夜に入るも歇まず。富士見町相模家に赴き晩餐をなし一浴して二更前家に帰る。燈火硯北日録の注釈をつくりて深更に及ぶ。雨歇みて夜少しく暖なり。

正月八日。旭日窓を照して(あかしま)暖春の如し、終日抄書更に倦まず、黄昏新月を見る、夜銀座*太牙楼に赴き日高生田成弥に会ふ、婢阿春阿智慧の二女を伴ひ汁粉屋梅月に憩ひ二女に祝儀を与へ別れて独り家に帰る、阿春は亡友久米秀治の狎妓新橋春千代が姪なりと云、世の中ひろきやうにてまた狭きものなりと語りて笑ひぬ、

正月九日。昨日の暖気に引替へて寒気甚し、終日読書抄写例の如し、晩間銀座*太牙楼に赴き夕餉を食す、日高邦枝生田の三氏来る、初更家に帰り柳橋新誌の事につきて筆を執る、

正月十日。 書室を掃ひて後机に隠る、前夜の稿をつぐなり、午下小田内生来訪、築地小劇場の俳優になりたしとて、小山内氏に紹介されらんことを請へり、邦枝氏来りて葡萄酒を贈らる、活版本宣和遺事を貸す、日晡ならんとする頃倶に銀座に出て太牙楼に登る、此日薄夜深雨となる、

正月十一日。夜来の雨午後に至りて歇む、麹坊の妓電話をかけ来りしかば日暮湘南亭に赴き夕餉をともにす、一浴して後帰途(あまりに)月よかりしかば銀座に出て太牙楼に登る、邦枝氏と会ふべきことを約したればなり、婢百合子とて近き頃まで牛込の妓なりし者とて、先夜おはなし申せし大島さま今宵折好く階下に来りて待ちたまへりと告ぐ、是先年亡せたまへる大島叔父の遺子にて及予が従弟に当るべき人なり、叔母君と二人にて今は千駄ヶ谷あたりに澄みたまへる由曾て北堂より聞きし事ありかど、予は旧邸売却の後は親戚のものとは全く音信を通ぜざるを以て今日まで相見るの機なかりしなり、人の語る所によれば大島叔父の遺子は杵屋五三の門弟にて三絃をよくすと云ふ、白皙長身、鼈甲の眼鏡をかけ毛皮襟付の二重廻に白足袋をはきたる風采(あたかも)長唄の師匠の如し、中村成弥とは既に相識れりと云ふ、折好く成弥も来合せたりしかば共に階下の酒場に行き初対面の挨拶して後語り興じぬ、酒肆太牙は予に執りては(これ)奇遇の地と云ふべきなり、過日は今村白瀧君の如き旧友と邂逅し、今宵は偶然未知の族人と款語するを得たり、銀座の酒肆喧騒囂(そうきょう)厭ふべしと(いえども)猶全く棄つべきにあらず、

正月十二日 晴れて暖なり、読書抄写日課の如し、山形ほてる食堂にて夕餉をなし漫歩銀座に出て太牙楼に憩ふ、従弟大島氏また来る、二更前家に帰り柳北投閑日録を写し畢る、

正月十三日 快晴、柳北春声日乗を写す、夜月あきらかにして暖なり、太牙楼にて偶然花月画伯に逢ふ、

正月十四日 快晴の空薄暮に至つて曇る、太牙楼に赴きて夕餉を食す、成弥来りて先去り撫象氏尋で亦去り来り又去る、初更の後家に帰り几に対す、夜静にして暖なり、

正月十五日 晴天日暮に至つて曇る、初更南風俄に吹起り雲散じて月明に暖気忽夜の四月の夜の如し、此日昼夜共に家を出でず、書篋(しょきょう)を整理す、

正月十六日 烈風歇まず暖気昨日の如し、午頃母上威三郎の幼児を伴ひ来らる、風日暮に至つて漸く止む、夜銀座*太牙楼に赴きて看るに中村巌谷河原崎梨尾丸岡邦枝浅利の諸氏前後して来り会す、巌谷君合卺の吉日当月廿八日に定まりしといふ、

正月一七日 曇りて風なし、正午浜町三丁目野波といふ旗亭に赴く、七草会新年の宴なり、浜町より間部河岸の辺都市復興局の工事漸く進捗し、街路の光景一変し旧時の観全く無し、野波といへる旗亭も近頃開店せしなりと云ふ、黒渋の板塀をめぐらし門より玄関のあたり料理屋らしく見えてよかりしかど、二階の畳廊下に添ひて塗骨障子の立ちつらなりしさま寺の如し、大広間の床の間書院窓の様子甚落ちつきなし、欄間に漆細工の青竹をはめたるさま(もっとも)俗悪なり、青竹に笹の葉をつくり付けたるさま有平糖の菓子に似たり、脇息は蒔絵を施し、金色の金具をつけ、座*布団も何やら御殿風の模様を染めたるなど居心地よろしからず、但し此日の料理味あしからざりき、会する者松莚清潭錦花大伍郎松翁吉井小山内城戸の諸氏なり、芳坊の老妓数人(えん)に侍す、三時頃解散、自働車にて銀𫝶尾張町に至り、大伍子の令兄天均子の近頃開店せし書画舗に入りて憩ふ、吉井君も共に来り憩ふ、橋本雅邦の雪中揚柳小禽の図、棲鳳の群雀、菱田春草の仲国馬上吹笛の図、野口幽谷の花鳥其他を観る、独り辞して太牙楼に登り、邦枝子の来るを待ちて夕餉を食し直に家に帰る。

正月一八日 市河㤗庵翁去十日死去、一六日日暮里本行寺に葬し由端書にて同家より通知あり、㤗庵翁は市河寛斎先生の曾孫なり、余昨年中屢翁を訪ひ教を受けんものと思ひつゝ荏苒として日を送る中突然其訃に接せり、痛歎の情遣る方なし、此日曇りて午後微雨あり、夜に入り空晴れ寒月皎々として昼の如し、澀谷の某亭にて偶然女琵琶師某女を見る、

正月一九日 麹坊湘南亭に赴き夕餉を食す、夜猶初更にも至らざるに四隣寂寞(しりんせきばく)として屐声なし、世の不景気なるに加へて諒闇中の故なるべし、忽新内の流シを聞く、嘈ゝとして雨の来るが如し、此声多年耳に熟したるものなれど今猶時として哀怨の思を牽くこと深し、噫余年歯(ねんし)四十九年に及びて猶往の非を悟ること能はず、今宵亦賤妓と酒を酌み路傍の絃歌を聴いて暗涙(あんるい)を催す、何等の愚ぞや、今宵の事こゝに記するを欲せざるなり、

正月二十日 寒邪、午後体温三十八度三分あり、食事に出ること能はざるを以て山形ほてるよりサンドイツチを取寄せ(わづか)に飢をしのぐ、この日快晴夜月明なり。

正月二十一日 気分少しく快し、病床に在つて慊堂全集最終の一巻を読む、頃日配本を送り来りし崇文閣樷書本なり、此日晴天、風吹きいでゝ寒気甚し、

正月二十二日 寒風吹きやまず、体温平生に復したれど猶病床を出でず、林述斎の蕉窗永言を読みて終日倦むことなし、

正月二十三日 水道の水午頃まで凍りで出でず。今暁(こんぎょう)の寒気甚しきを知るべし、体温全く平生に復したれど此の日の寒気に悪熱再発せんことを慮りて病床に湯湯婆を抱きて臥す、邦枝子電話にて病を問はる、

正月二十四日 快晴寒気少しく減ず、猶病床に在り、竟日湯湯婆を抱いて蕉窗永言を読む、谷口樵唱七絶の作中三河島尾久村あたりの光景を詠じたるものあり、曾て亡友井上唖々と相携へて(しばしば)そのあたりを吟行したりし当時の光景歴々として思い出さる、大正改元の頃まで隅田川上流の田園は述斎が市中に見るところの光景を夛く異る所なかりしなり、谷口樵唱七絶の中に、民産亦知随地域異、水田多是蒔慈菰といひ、隤岸焼痕青未遍、幾多藚筍簇尖頭といふが如き、或はまた路廻始識荒河近、十幅蒲帆穿樹行といふが如きもの、是十余年前散策の途上予の親しく見たりし光景にあらずや、然るに大正五六年頃より水田は次第に埋められトタン葺の貸家建ちつらなりて今は尾久村には藝者家もあり、大森鶴見の辺と異なる所なきに至れり、

正月二十五日 神気未全く恢復せざれど、体温平生の如く、咳嗽も早やおさまりたれば、晡時車を倩ひ麹坊湘南亭に赴き阿千を招ぎ晩餐をなす、帰途銀𫝶太牙楼に登る、邦枝二子既に在り、大島山田{成弥本名}相踵いで来る、日高子亦来る、本年の風熱度高くはなければ咳嗽甚しく、筋骨痛み、全癒するまで長きは半月程にも及ぶもありと、日高氏の語る所なり、中村福助も風労にて本日より木挽町芝居欠勤すといふ、此夜伊太利亜大使館々員数名来りて楼上にて写真を撮影せり、二更日高氏と共に帰り枕上千葉芸閣の文集を読む、此日風なく寒からず、

正月二十六日 病未痊えず終日家に在り、夜初更邦枝子来訪、寝房の壁に懸け置きたる予が拙画を見て是非にもとて持ち去れり、昨夜太牙楼に来りし伊人は航空隊士官なりと云ふ、邦枝子二更の頃辞し去りし後柳北春声楼日乗を繕写す、此日快晴風寒からず、去年の向嶋百花園主人より借り来りし菊塢の随筆を書留小包郵便にて返還す、

正月二十七日 曇りて風なく雪になやならむと思はるゝる空合なりしが午後に至りて薄く晴れたり、晩間風月堂に赴きて飰す、頃日(けいじつ)山形ほてる宿泊の客なく、食堂火乏しくて寒気に堪ざるを以て赴かざるなり、風月堂にて食事中給仕人の持来りし夕刊の新聞を見るに、今暁(こんぎょう)慶応義塾理事石田新太郎氏脳溢血にて死亡せし由、享年五十八歳なりと云ふ、予明治四十三年始めて慶応義塾享受に招聘せられし時、その事務に当りし人は石田氏なりき、石田氏は曾て就学中鷗外先生の教を受けしこともありし由にて、先生の紹介状を持ちて始めて予が大久保の家に来られしなり、その後は次第に心安くなり、予妓八重次を妻とせし頃には折々訪ひ来りて八重次とも語を交へられたり、予大正五年の春慶応義塾を辞し去りし後は一度も三田の校内に赴きしことなかりしかば遂に再会の機なかりき、年々知人の淪謝し行くは心細きかぎりなり、食後太牙楼に立寄るに生田葵老予の来るを待てり、巌谷三一氏婚儀忽破綻となりし由を語る、其為今夕楽天居に赴くなりとて七時頃去れり、邦枝大島山田の諸氏来たり会す、二更後諸氏に先立つて家に帰る、

正月二十八日 晴れて風なけれど寒気甚し、日少し長くなりぬ、立春の近きを知るべし、晩間車を倩いて松莚子の約に赴く、来る者岡田池田川尻の三氏なり、

正月二十九日 快晴、晩間夕餉を食せんと家を出るに市兵衛町表通自働車の徃復常よりも繁く路傍には人夛く佇立ちたり、何事なるやと道路の人に問ふに、東久邇宮欧州より帰朝、今夕御帰館あるべしとの事なり、市兵衛町東側赤練瓦瓦塀立続きし館邸は乃東久邇宮の邸なること今夕始めて之を知りぬ、徃時は静寛院の宮(和宮様)の邸なり。又江戸時代には欧州八戸の領主南部氏の上屋敷にて、向嶋の定紋を打付けし長屋門は大正十二年の震災にも無事なりしが、翌年に至りて何故にや取り払ひとなりぬ、惜しむべきことなりけり、此日寒風肌を切るが如し、銀𫝶風月堂にて晩餐をなし歌舞伎座に徃き城戸氏主催の活働写真俳優の演劇を看る、帰途太牙楼に上り従弟大島氏に逢ふ、

正月三十日 寒気甚し、竟日炉辺に書を読む、

正月卅一日 去年十二月のはじめに髪を刈込みしまゝ今日まで寒邪の気味にて床屋へ行かざりき、今日天気好晴風なくして暖なれば午後日吉町の庄司に赴き、帰途太牙楼に登りて晩餐をなす、城戸邦枝山田大島等前後して来り会す、


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Last-modified: 2015-01-16 (金) 04:38:43 (861d)