昭和十九年六月廿九日。昨夜むし暑く寐られぬ故むかし紐育にて読み耽りたるラマルチンの詩巻などひらき見る中短夜はいつか薄明くなりぬ。表通の塀際に配給の炭俵昨日より積置かれたれば夜明の人通りなきを窺ひ盗み来りて後眠りにつきぬ。寤めたるは十一時ごろなり。晴れて溽暑昨日の如し。

今年も早く半を過ぎんとす。戦争はいつまで続くにや。来るぞ来るぞといふ空襲もいまだに来らず。国内人心の倦怠疲労今正に其極度に達せしが如し。世人は勝敗に関せず戦争さへ終局を告ぐれば国民の生活はどうにか建直るが如く考ふるやうなれどそれも其時になつて見ねばわからぬ事なり。欧洲第一次大戦以後日本人の生活の向上せしは之を要するに極東に於ける英米商工業の繁栄に基きしものなり。これ震災後東京市街復興の状況を回顧すれば自ら明なるべし。然るに今日は世界の形勢全く一変したり。欧洲の天地に平和の恢復する日来る事あるも極東の商工業が直に昨日の繁栄を齎し得べきや否や容易に断言し得べからず。兎に角東京の繁華は昭和八九年を以て終局を告げたるものと見るべし。文芸の一方面について論ずれば四迷鷗外の出でたる時代は日本文化の最頂点に達せし時にしてこは再び帰り来らざるものなり。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 16:58:48 (837d)