昭和十八年七月初五。晴。午後土州橋注射。

  ▼冗談剰語

 一 東京市を東京都と改称する由。何の為なるや。其意を得難し。京都の東とか西とか云ふやうに聞えて滑稽なり。
 一 日本人は忠孝及貞操の道は日本のみ在りて西洋に無しと思へるが如し。人倫五常の道は西洋にも在るなり。但し稍異るところを尋れば日本にては寒暖の挨拶の如く何事につけても忠孝々々と口うるさく聞えよがしに言ひはやす事なり。又怨みありて人を陥れんとする時には忠孝を道具につかひ其人を不忠者と呼びかけて私行を訐(あば)くことなり。忠孝呼ばはりは関所の手形の如し。これなくしては世渡りはなり難し。
 一 日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異らず。其短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。腹にもない世辞を言へば見す見す嘘八百と知れても軽薄なりと謗るものはなし。此国に生れしからは嘘でかためて決して真情を吐露すべからず。富士の山は世界に二ツとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから奇妙ぢや。楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違はなし。押しも押されぬ愛国者なり。
 一 隣の子供の垣を破りておのれが庭の柿を盗めば不届千万と言ひながら、おのれが家の者人の家の無花果を食ふを知りても更に咎めず。日本人の正義人道呼ばゝりはまづこの辺と心得置くべし。
 一 近頃の流行言葉大東亜とは何のことなるや。極東の替言葉なるべし。支邦印度赤道下の群島は大の字をつけずとも広ければ小ならざること言はずと知れたはなしなり。Greatest in the worldなどゝ何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。今時北米人の真似をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。

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七月三十日。昨日午後上野うさぎ屋主人炭二俵を送り呉れたり。店の若い者炎暑の日盛をおそれずギアカーにて運び来りしなり。台所の縁下にかくす。日米開戦以後世間を憚り人目をしのぶ事の多くなれるも是非なし。谷崎氏其近著『初昔きのふけふ』合冊一巻を贈らる。夜久振りにて玉の井を歩す。広小路の両側に屋台店出で夜遊びの人出賑なること銀座に優れり。凉風水の如し。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 16:51:47 (894d)