三月初三。晴れて暖なり。午後鹿沼町の女?突然尋ね来る。田舎にての縁談思はしからざるにて十日ほど前東京に來り、只今(ただいま)は蛎殻町(かきがらちょう)の待合(まちあい)XXといふ家に住み込み、当分ここにてかせぐつもりなりと言ふ。住込みの女三、四人あり。いづれもいそがしく一日ならし二拾円のかせぎあり。この待合の客筋には警視庁特高課の重立(おもだち)ちし役人、また翼賛会の大立者 {その名は秘/して言はず} あれば手入れの心配は決してなしと語れり。新体制の腐敗早くも帝都の裏面にまで瀰漫(びまん)せしなり。痛快なりといふべし。

三月十日。空晴れわたり春風のそよそよと吹通ふ暖かさ、四月も花盛りのころの如し。正午カメラを提げ向島木母寺(むこうじまもくぼじ)に徃(ゆ)き先年見残せし石碑及(および)石垣寄進者人名を撮影す。梅若塚周囲の石垣には文政頃の芸人歌妓俳優の名きざまれたり。両国薬研堀(やげんぼり)昇亭北寿の名も見ゆ。石碑は下の方泥土に埋もれたるもの多くなりぬ。白髭橋(しらひげばし)川しも旧小松島の辺一帯に埋地となり川はばも狭くまりたり。歩みて浅草公園に入りオペラ館楽屋に憩(いこ)ふ。『市川左団次伝』一部を小川丈夫に贈る。明日小川久保田金子長谷川その他戯曲家代表者打揃ひ内閣書記館某の宅へ御礼のため伺候(しこう)するはずなりと。小川氏の談なり。踊子の写真とりて後いつもの四、五人と共に中西洋食店に至りて夕飯を喫す。夜半輪の月あきらかなり。

三月十三日。くもりて風なし。来客を避けんと午後門を出でしがさし当り行くべきところもなければ、ふと思出づるがまま三田台町(みただいまち)の済海寺を尋ね見たり。維新前仏蘭西公使の駐在せし寺なればなり。魚藍坂上(ぎょらんざかうえ)の道を左に曲がりたる右側にあり。石塀に石の門あり。堂宇(どうう)は新しきものにて門墻(もんしょう)と同じく一顧の値もなけれど、墓地より裏手の崖には老樹鬱蒼として茂りたるに、眼下には三田八幡かと重はるる朱漆の神社より、高輪の町を望み、なほ品川湾をも眺め得るなり。墓地には久松松平家累世の墓石多く立ちたり。来路を歩むに妙庄山薬王寺の門前に来りたれば墓地に入りて大沼竹渓の墓を掃(はら)ひて香花(こうげ)を手向(たむ)けたり。本堂の階前に一抹の枝垂梅(しだれうめ)今を盛りと花咲きたり。魚藍坂を下り久しく行きて見ざりし物徂来(ぶつそらい)の墓を豊岡町の長松寺に尋ねたり。二十年前慶応義塾に勤務せし比(ころ)折ゝこの寺の門前を過ぎ石段の上に見事なる松の老樹ありしを見しが、今は枯れてその切株を残すのみなり。聖坂下(ひじりざかした)より斜に三田四国町通に出る道路取りひろげられたり。タキシを雇ひ、土州橋に至り浅草公園に行きし時日暮れとなりたれば、米作に入りて夕飯を喫し、オペラ館楽屋を訪(と)ふ。偶然永井智子菅原明朗と共に来るに遇ふ。帰途春雨霏ゝ(ひひ)。

三月二十日。快晴。早朝始めて鶯の鳴くを聞く。午後佐藤観次郎来話。

三月廿一日。春分。午後浅草辺りの墓石をさぐる。稲荷町市電停留所のほとりに北斎の墓あれば、尋見(たずねみ)るに路傍に東京市指定の杭(くい)立ちたり。誓教寺といふ寺なり。 {永住町/五四} 墓には既に香花の手向けられたるを見る。附近の延命院といふ寺に乾坤坊良斎(けんこうぼうりょうさい)の墓を探りしが見当らず。本堂裏手に井岡桜仙(いおかおうせん)の碑あるを見たり。本草家(ほんぞうか)にて天保十年十一月没す。撰文は佐藤一斎(さとういっさい)。書は米庵(べいあん)なり。日なほ高ければ同じ町内 {二十四/番地} 最尊寺に梅亭金鷲(ばいていきんが)の墓を尋ねしに、寺僧の案内せし墓、俗名の瓜生(うりゅう)氏といふ姓は同じなれど墓は異なれるものの如し。都(すべ)てこの辺の寺の墓地は区劃整理の後狭きところに石のみを並べたれば探索にはかへつて不便となれり。門跡(もんぜき)の境内を抜(ぬ)け公園に入りオペラ館に憩ふ。小川氏及踊子らと中西に夕飯を喫す。この日暑気既に夏の如し。

三月廿二日。日本詩人協会と称する処より会費三円請求の郵便小為替(こがわせ)用紙を封入して参加を迫り来れり。会員人名を見るに蒲原土井野口あたりの古きところより佐藤春夫西条八十(さいじょうやそ)などの若手も交じりたり。趣意書の文中には肇国(ちょうこく)の精神だの国語の浄化だのいふ文字を多く散見せり。そもそもこの会は詩人協会と称しながら和歌俳諧及漢詩朗詠等の作者に対しては交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。今日彼らの詩と称するものは近代西洋韻文体の和訳もしくはその模倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ生まれ出でざりしものならずや。その発生よりして直接に肇国の精神とは関係なきもの、またかへつて国語を濁化するに力ありしものならずや。藤村の詩にはわが脣を汝(な)が口にやはか合さで措(お)くべきやなど言ひしもありき。佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極といふべし。これらの人ゝ自らおのれを詩人なりと思へるは自惚(うぬぼれ)の絶頂といふべし。木下杢太郎(きのしたもくたろう)またこの会員中にその名を連ねたり。彼らは今後十年を出でずして日本の文章は横にかき左からよむやうになるべき形勢今既に顕著なるを知らざるにや。今更国語の整理だの浄化だのと言ひはじむるは泥棒の去りたる後縄をよるが如し。

三月廿六日。晴。午後庭に草花を蒔(ま)く。燈刻 {六時/過} 午夢よりさめて銀座を歩み芝口の金兵衛に夕餉(ゆうげ)を喫す。沖電気社の歌川氏に逢ふ。春風暖なるに従つて銀座通の人出日に増し甚しくなれり。芝居活動小屋飲食店の繁昌(はんじょう)また従つて盛りなりといふ。その原因はインフレ景気に依るのみにあらず、東京の人口去年あたりより一箇月二、三万人ヅツ増加するにかかはらず、米穀不足のため町に出でて物喰はむとするもの激増せしがためならむといふ。飯米(はんまい)は四月六日より男一人一日分二合半の割当にて切符制実地に及ぶといふ。

三月廿七日。北風はげし。終日家にあり。

三月廿八日。昨夜烈風吹きつづきて歇(や)まず。晩餐後浅草に行く。帰宅の後プレヴォの伝をよむ。

 Andre de Maricourt: Ce bon Abbe Prevost, l'auteur de Manon. (Hachette, 1932)

三月廿九日。今日も風歇(や)まず。寒さ冬の如し。終日蓐中(じゅくちゅう)に書をよむ。日の暮るるを待ち浅草に行き踊子らと森永にて夕餉を喫す。芸人生田の情婦某と地下鉄を共にしてかへる。町の噂に新内節(しんないぶし)師匠は去年御法度(ごはっと)この方門口へ師匠の看板かけることを禁ぜられたりといふ。歌沢節(うたざわぶし)も芝派寅派の差別なくこれも御法度の由。されば、小唄(こうた)も同様なるべく、薗八節(そのはちぶし)は言ふまでもなき事なるべし。或人は江戸俗曲の絶滅することを悲しめどもこは如何ともする事能(あた)はざるものならむ。新政府の法令なしとするも江戸時代風雅の声曲は今日の衆俗には喜ばるるものならず、早晩絶滅すべきものなればなり。余が著述の如きもこれを要するに同じ運命に陥るべきものなるべし。


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Last-modified: 2015-01-05 (月) 01:21:48 (846d)