十一月六日。半晴。風邪の気味。土州橋に至り注射。

十一月七日。晴。薄暮物買ひにと浅草に行く。

十一月八日。世の噂をきくに本年九月以来軍人政府は迷信打破と称し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず、十月中日本橋べつたら市のことも新聞紙は一斉に記載せざりしといふ。清正公の勝まもりも迷信なるべく鰹節を勝武士などとかく事もやがて御法度となるべきや否やと笑ふ人もあり。

十一月九日 {日曜/日} 陰。微恙あり。門を出でず。

十一月十日。北風吹きて俄に冬らしくなれり。午後土州橋より浅草に徃き夜ふけてかへる。

十一月十一日。晴。籾山半三郎 {俳号/柑子} 当月二日急病にて歿せし由金兵衛の店にて聞く。

十一月十二日。晴。午後カメラを提げ再び小林院の後丘に南郭先生?の墓を展しその養子仲英?の墓誌を写す。

十一月十三日。灰色に空曇りて暮方より雨ふる。

十一月十四日。市兵衛町表通曲角に原田積善会事務所?あり。大いなる破風造にてまづは地震加藤の舞台面を見るが如きものなり。この頃日米開戦を予期し構内に貯水池を掘りしところその土の捨場に窮し、我門前の細径の私道なるをいかにして知りしにや、居住民には何の断りもなく数日前二日間にわたりねばねばしたる赤土を棄て行きたり。居住者の中にて鄰組の物を積善会に遣し問はしめしところ、かの横町は坂道にて凸凹甚しく幼児の通学には費用かかるが故名を慈善に仮りて近き処に捨てたるに非ずや。これさながら満洲の人民が張作霖?のために苦しめらるるが故にこれを救ふと称して日本の軍人を張を殺し奉天府を占領せし策略[田が上につく字]とその揆を一にするものなり。美名の下にかくれて不義を行ふは今や天下の通弊となれり。慨嘆せざるべけんや。原田積善会なるものはもと金貸原田某?の計営せしものの由。死後今日の如く財団法人の組織となりしなり。早稲田出身の文士島村民蔵?積善会の依嘱により原田某の伝記を編纂せしに、頗強慾非道の事もあり、島村は資料を得るがままこれを除かず皆明細に記載しかせば積善会にては大に困却し島村氏には名義をつけて毎月莫大の給料を贈り、別の人を頼みて金貸原田の立志談を編纂して世に公布せしといふ。余この事を早稲田大学?の某教授より聞きしなり。二十年前の事なり。余はまた島村民蔵とも面識あり。余の三田にありし頃なり。島村は柳原土手古着屋の忰なり。余談はさて置き昨夜の雨に我門前の細径は原田積善会に赤土ぬかるみ通行殆出来ぬやうになれり。我家には幸いにして横手に裏門があり、そこより隣の塀際をつたひ歩みて四、五歩左手に出づればどうやら靴を泥中に没せずして外出することを得るなり。

十一月十五日。晴。土州橋への道すがら日比谷を過ぐ。菊まつりとやら称ふる催ありとて人雑踏せり。戯に口ずさむ事左の如し。

 菊さへも赤木が目立つ世なりけり

 しばられて竹をたよりや菊の花

 しだらなく野菊寝転ぶ風情哉

十一月十六日 {日曜/日} 晴。終日家にあり。

十一月十七日。晴れて暖なり。夜浅草に徃く。

十一月十八日。晴。暖気華氏六十三度なり。夜雨ふる。

 [欄外朱署] 家庭電燈節減。


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Last-modified: 2016-08-28 (日) 10:23:40 (208d)