八月初一。{旧六月二十八日}正午銀座に至り銀座食堂に飯す。南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す。此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば、其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり。尾張町四辻また三越店内にては何事もなし。丸の内三菱銀行に立寄りてかへる。今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや。笑ふべきなり。

〔欄外朱書〕贅沢ハ敵也トイフ語ハ魯西亜共産党政府創立ノ際用タル街頭宣伝語ノ直訳也ト云*

八月念一。 残暑猶盛なり。階除の秋海棠満開となる。夜王の井を歩む。例年なれぱ今宵の如き溽暑の折にはひやかしの雑沓すること甚しきが常なるに、今年七月頃より其筋の取締きびしく殊に昨今連夜の如く臨検あるが為、路地の中寂寞人影少し。されど遊客は拾円弐拾円位つかふもの多く、商売は以前の数こなしよりも楽にて収入も多き由。女のはなしなり。帰宅後初て庭前に蛼(こほろぎ)の鳴出るを聞く。*

八月廿四日。来月朔より市中料埋店膳部の値段きまると云ふ。これが為市中にはむかしの八百善伊予紋などにて出したる二ノ膳付の会席料理は其跡を断つことになるなり。余震災後の事は知らねど大正十年頃までの経験を思起すに、築地の茶料理喜多の家四五円、竹川町花月七円位、代地河岸深川亭五六円、山谷鰻屋重箱、日本橋の小松あたりいづれも四五円なりしが如し。当時{大正のはじめ}新橋芸者一時間玉祝儀共五円なにがしと記憶せり。銀座風月堂洋食壱円五拾銭それより弐円五拾銭となれり。牛肉屋は上等の店にて五拾銭あれば満腹なり{尤酒代は別なり}銀座七丁目の仏蘭西人洋食屋参円にて無類の珍味なりしが第一次大戦にて閉店したり。徃時茫々都て夢のごとし。*

昭和十五年八月念九。 薄く曇りて風なければ過日の風雨に散りみだれし枯枝木の葉を掃きよせて焚く。樹陰に椎の芽生多し。燈刻銀座に出でゝ飯す。家に在る時は隣家のラヂオ喧噪甚しく堪ふべからざるを以てなり。夕刊新聞紙に馬場先外帝国劇場九月かぎり閉場。その後は何やら官庁になると云ふ記事あり。思出せば明治四十二三年の頃なりけり。同劇場開演前たしか丸の内中央亭と云ふ洋食屋に招がれ渋沢栄一{号青淵}末松青萍(せいびよう)等卓上演舌にくるしめられたることあり。鷗外先生も出席せられしが演舌中窃かに席を立ちそのまゝ帰宅せられたり。来客の中小杉天外頻に実業家連中と談話する様子見るに堪へざるものありし事今に忘れず。同劇場こけら落しは明治四十四年四月なりしと記憶せり。委細は帝国劇場十年史に見ゆるなるべし。其頃入場券の裏には今日は帝劇明日は三越としるされたり。帝国劇場の長く我等に記憶せらるゝは、露西亜オペラとパブオワの舞踊、梅蘭芳の華劇、また欧米諸楽士の独奏をきゝたる事あるが為なり。日本人の演芸にて忘れざるは市川団蔵の菊畑をいだせし事なるべし。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 16:18:55 (866d)