十一月初四。晴れて風なし。早朝深夜ともに火鉢の用なし。昨今の暖気は天も亦窮民を哀れむがためならむ歟。午後丸の内より土州橋に至り日本橋を過りて浅草に徃く。オペラ館芸人踊子等と森永に飯す。世の噂をきくに二月廿六日叛乱の賊徒及浜口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしと云ふ。*

昭和十五年十一月十六日。 陰。町会のもの来たりて炭配給券を渡しくれたれば早速出入りの炭屋に行く。程なく炭一俵持来たりしが以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまゝ門口に置き認印を請ひて去れり。今年は炭団煉炭も思ふやうには売られぬ由なり。灯ともしごろ土州橋の病院に行く。{ホルモン注視や三度目}水天宮門前に花電車数輛置きならべあり。見物人雑沓す。一輛三千円かゝりしなど語り合へり。余病院薬局の女の語るところをきくに病院内にて花電車を見たることなしと云ふもの三分の二以上にて、之を知るものは四十あまりのものばかりなりとの事より推測して、現在東京に居住するものゝ大半は昭和十年以後地方より移り来りしものなることを知れり。浅草公園の芸人に東京生れのもの少きも今は怪しむに足らざるなり。時代の趣味の低落せしも故なきに非ず。浪花節の国粋芸術といはるゝも尤至極なり。今回の新政治も田舎漢のつくり出せしものと思へばさして驚くにも及ばず。仏蘭西革命また明治維新の変などゝは全く性質と品数とを異にするものなり。*

十一月二十日。 くもりて庭小暗し。八つ手と枇杷の花の白きが目立ちて見ゆ。灯ともしごろ雨降り出せしが姑くにして歇む。食事せんとて銀座に行く。亀屋の前にて西銀座の或商店の主人に逢ふ。其人曰く銀座西側だけにて徴兵に出るもの今年は百七拾人あり。程なく南京あたりへ送らるゝ由。丁年者の体格今年は著しく悪しくなりたりとて検査の軍人ども眉をひそめ居たりと。*

十一月廿三日。 天気よし。暮方米屋の男米を持来りて言ふ。麻布区内にて米穀配給所といふ事にて纔に閉店失業の悲運を免れし店五軒なり。其他数十軒の米屋は皆店を閉ぢ雇人は満洲に行きて百姓になるべき訓練を受け居れりと。又米穀は警察署の印判を押して貰はざるかぎり店へ運搬する事を得ず、日曜祭日などつゞく時は警官役人ともに休みとなり店に米なき時あり。不便一方ならずといふ。此度の改革にて最悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至なりと。右米屋の述懐なり。*

昭和十五年十一月廿五日。 陰後に晴。午後谷中氏来話。珈琲及アスパラガスを饋らる。薄暮土州橋に至りかきがら町野口を訪うて帰る。此日暖気小春の如し{華氏八十五度}

    町の噂

一熱海温泉宿より帰り来りし人のはなしに、二二六民問側犯人の中、過日大赦出獄せしものゝ一人某、熱海のスターホテルに二週間あまり宿泊し居りたるが、毎夜土地の芸者十余名を招ぎ大尽遊びをなせども、警察署にては見え見ぬ振をなし居たり。宿賃は食事附一日七円のところそれでは安過るとて間代だけ七円食膳は別に払ふと言ひてきかぬ故宿屋にては其言ふまゝに為し置きし処、帰り際には女中一人に百円ツゞの祝儀を出し、勘定も滞りなく払ひし由。毎日諸方の名士及同類の者に電報を打つ。其金高も夥しき由。また手紙をかくに書簡箋を用ず。四銭の端書に大字にて五六字かくのみなれば一の用件をかくに端書五六枚を費し得意満々の体なりしといふ。此の如き濫費の金はいづこより持来りしものか。其源は良民の税より出でたるものと思へば世の中は闇なりと、この話の主は嘆息して又次の如き奇談をなしぬ。

熱海旅館の組合にては、内務省辺より秘密の通達ありしを奇貨となし、外国人には能ふかぎり物を高く売りて外貨獲得の効果を収めんとしつゝあり。鮪のさしみ一皿十六円。林檎一個一円ツゞ取りし旅館ありしと云ふ。現代日本人の愛国排外の行動はこの一小事を以て全班を推知するに難しとせず。八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。

▼〔欄外朱書〕西園寺老公薨去

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昭和十五年十一月念七。昏暮門を出でむとする時『改造』といふ雑誌の記者来り、西園寺公及雨声会の事につき余の所感を聞きたしと言ふ。文筆商売は数年前より廃業したれば今は口にすべき事もまた筆にすべきこともなしとて情(すげ)なく断りて帰したり。いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不図思ふに、老公の雨声会には斎藤海軍大将も二度程出席したりき。此人は二月内乱の時叛軍の為に惨穀せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加へられ居たりしこと裁判記録にて今は明なり。而して叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人を余さず皆放免せられたるに非らずや。二月及五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり。然るに怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介払ひとなざず却て哀悼の意を表し国葬の大礼を行はむとす。人民を愚にすることもまた甚しと謂ふべし。余は雨声会招飲より以前に両度老公を見たることあり。最初老公の初めて文部大臣に任ぜられ官立の諸学校を巡視せし時、恰も余は一ツ橋なる附属中学校に在り。公は随員と共に余が机の近くに立ちたり{余は其頃級中にて尤身長低き生徒なりし故机は一番前の方に在りしなり}色白にて髯なく役人らしく見えざる風采は余のみならず前項の生徒を驚かしたり{この事明治二十六七年なるべし}次は余が亡父に従ひ上海に徃きし時なり。公は欧洲漫遊の途上上海に上陸し日本領事館に休憩せられたりき。余が亡父は老公の文部大臣たりし時其秘書官にて後会計課長となりしが、老公及伊藤春畒公の勧告にて明治三十年官海を去り実業界に入りしなり。亡父は官職とは関係なく両公とは詩文の交もありしなり。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 16:17:47 (870d)