十月初三。 小雨ふりては歇む。夜も燈火なければ門を出でず。『旧約聖書』{仏蘭西近世語訳本}を読む。日本人拝外思想の由つて来るところを究めむと欲するのみんらず、余は耶蘇教及仏教が今日に至るまで果していかなる程度まで日本島国人種の思想生活を教化し得たるものありしやを知らむと欲する心起りしが故なり。余は今日に至るまで殆聖書を開きたることなかりき。今俄にこの事あるは何の為ぞ。〔此間一行弱切取]べし。*

昭和十五年十月初五。秋晴の天気限りなくよし。鄰家の柿は熟し石蕗の花開かむとす。山茶花も亦二三輪ひらきそめたり。午後銀座の洋服屋冬外套の仮縫ひに来り支払勘定は受取証だけ十月七日の日附に致し置き現金は勿論品物出来上りの上にてよろしと言ふ。当月七日を限り洋服の売価制限せらるゝが為なり。日本服呉服物も同じく定価附けとなるがため目下投売盛の由。縮緬一反総匹田紋など三百円位のもの八九拾円にて手に入ると云ふ。水天宮四辻久留米絣の店は女洋服地専売になる由。是夜禁煙令解除。始めて燈火を点ず。*

十月初八。 新秋八月この方新聞紙の記事は日を追ふに従つて益甚しく人をして絶望悲憤せしむ。今朝読売新聞の投書欄に、或女学校の教師虫を恐るゝ女生徒を叱咤し運動場の樹木の毛虫を除去せしめたる記事あり。この頃の気候より推察するに毛虫のつくは山茶花また椿の類なるべく、其毛虫の害は最恐るべきものなり。むかし渋江抽斎のなめくじを恐れたることは森先生の著伝に見ゆ。余が亡母はさして毛虫を恐れざりしが蛇を見れば其日は食事を廃せられたる程なりき。然るに余の性はこれとは相反したり。子弟を教育するものは先第一にこれ等人心の機微を察せざるべからず。〔此間二十行強切取。以下欄外補〕鰻は万人悉くうまいと思つて食ふものとなさば大なる謬なり勲章は誰しも欲しがるものとなさば更に大なる謬なり都会に成長する女生徒をして炎天に砂礫を運搬せしめ又は樹木の毛虫を取らしめて戦国の美風となすは抑も何の謂ぞや教育家の事理を解せざるも亦甚しと謂ふべしジヱズイツト宗の教育家と虽かくの如くは残酷にはあらざるべし余は妻なく従つて児女なきことをつくづく喜ばんばあらざるなりこの日〔以上補〕この日天気また牢晴。夜は半輪の月明かなり。晩食の後浅草公園に至る。広小路より松竹座前通タキシ駐車場廃止となり一輛の車もなく、街上の眺望俄にひろくなりて並木の落葉の風に舞ふを見るのみ。

〔欄外朱書〕103 河合教授無罪ノ判決アリ*

十月十日。 晴天またつゞきたり。正午ニイナ洋装店主婦来話。いつぞや頼みたる家政婦の事につきてなり。午後日高氏来話。燈刻芝口の金兵衛に飯す。偶然沖電気社の歌川氏に会ひ食後金比羅祠の縁日を歩む。群集の雑沓酉の市に劣らず。山の手の繁華も亦驚くに足る。植木屋に梅もどき枝柿の盆栽甚多し。月下の江戸見坂を登りてかへる。

[欄外朱書]帝国大学慶応大学々生各数十名共産党嫌疑ニテ捕ヘラル新聞ニハコノ記事ナシト云*

昭和十五年十月十五日。雨歇みて薄き日かげ折々窓を照す。野菊の花さかりなり。夜に至り空隈なく晴れわたり十五夜の月輝き出でしが行くべきところもあらねば銀座三浦屋にて舶来オリーブ塩漬を購ひてかへる。この頃は夕餉の折にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至つては寧ろ憐憫に堪ざるものあればなり。深更夢よりさむ。また眠ること能はず。鳴しきる虫の声あまりに急なれば、

何とて鳴くや
   庭のこうろぎ夜もすがら
   雨ふりそへば猶更に
   あかつきかけて鳴きしきる。
   何とて鳴くや
   こうろぎと問へど答へず、
   夜のみならで、
   秋ふけゆけば昼も鳴く。
   庭のみならで台どころ、
   湯どのすみにも来ては鳴く。

  ▼思出しぬ。わかき時、
   われに寄り添ひ
   わが恋人はたゞ泣きぬ。
   慰め問へば猶さらに
   むせびむせびて唯泣きぬ。
   「何とて鳴くや
     庭のこうろぎ。
    何とて泣くや
     わが恋人。」
   たちまちにして秋は尽きけり。
   冬は行きけり。月日は去りぬ。
   かくの如くにして青春は去りぬ。
   とこしなへに去りぬ。
   「何とて鳴くや
     庭のこうろぎ。
    何とて泣くや
     わが恋人。」
   われは今たゞひとり泣く。
   こうろぎは死し
   木がらしは絶ゑ
   ともし火は消えたり。
   冬の夜すがら
   われは唯泣く一人泣く。

*

昭和十五年十月十八日。 陰。午後落葉掃かむとて庭に出るに門外の木の間に何やら赤ききれの閃くを見る。〔此間約八字切取。以下行間補〕女の腰巻かと見るにさにあらず。〔以上補〕これ鄰家の墺国人ナチスの旗と日の丸の旗とを其門に立てたるなり。此墺国人は第一次欧州大戦の時には既に日本に在りしが、いかなる方法を取りにしや日本に滞在し戦乱鎮定の後日本人の下女を妻となし現在の家に来たり住みしなり。家屋は下女の名義にて之を買取りしものなり。此事は余大正九年偏奇館築造の際旧の家主及地所々有者より聞きたるなり。下女は房州辺漁村の者かと思はれ二目とは見られぬ醜婦なれど、忠実に能く働く女なり。二児を挙ぐ。長女は既に廿二三なるべく男の子は十七八なるべし。名は何といふや知らず。其母折々大声にてクニトモクニトモと怒鳴りゐることあれば国友と云ふにやあらむ。此の子も近頃は日本の学童と交るようになりて我家の門前にて球投をなし行儀甚わるくなれり。〔この間約十六行強切取。以下欄外補〕日本人の教育を受くれば人皆野卑粗暴となること此実例にても明なり余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜細亜洲の他邦人に及すことを恐るゝが故なり。〔以上補〕夜芝口の酒亭金兵衛に至りて飯す。おかみさんより小村雪岱氏の訃をきく。行年五拾余なりと云ふ。

[欄外朱書]昭和七年暗殺団首魁井上橘出獄*

昭和十五年十月廿一日。 くもりて蒸暑し。薄暮物買ひにと銀座に行く。雲散じて夕陽明媚なり。或人のはなしに書籍雑誌店も店数を減じ、閉店を命ぜられし家の主人は雑誌配給所の雇人となりて給金を貰ふことになるなり。過日市内書店営業者一同其筋の呼出しにて内閣情報部に出頭せしところ掛りの役人(此間約九字切取。以下行間補〕の他に二人の軍人剣を帯びて出で来り〔以上補〕陽には忠節とやらを説き聞かせ、陰に不平反対することを許さざる勢を見せたりと云ふ。いかなる店が配給所として残り、いかなる店が閉店の悲運に遭遇するならむか。世の中はいよいよ奇々怪々となれりと云ふ。▼左の如き偶成一篇を得たり

昨日の雨けさの風。
   河岸の柳は散つてゐる。
   燕の群よ。旅の仕度はもうよいか。
   冬の来ぬ中お前達は南へ行く。
   時候は変る世はかはる。
思返せば桐の花揚場の岸に匂ふころ
   わが家の倉の軒かげに
   お前達は来て巣をつくり
   雛を育てゝ今打そろひ
   南をさして帰り行く。
   時節はかはる世はかはる。
   燕の群れよ旅立つ仕度はもうよいか。
   河岸の柳は散つてゐる。
   見ずや今年の秋風のはげしさを。
   お前達の行つた後
   わたしは店をしめるだらう。
   日毎あらしは烈しくなるばかり。
   先祖のたてた老舗の倉も
   今年のあらしに倒れるだらう。
   燕の群れよお前達は南へ行く。
   家族そろつて南へ行く。
   わたし達はどうしやう。
   家族をつれてどこへ行こう。
   時節はかはる世はかはる。
   燕の群よまた来る春にお前達のまた来る時。
   お前たちの古巣はもう在るまい。
   老舗はつぶれ庫は倒れてゐるだらう。
   さらば燕よ。
   さらば古巣よ。
   さらばわが家わが老舗。
   時節はかはる世はかはる。
   河岸の柳は散つてゐる。

*

昭和十五年十月甘四日。 午後より雨ふり出して風も次第に吹き添ひたり。この頃ふとせし事より新体詩風のものをつくりて見しに稍興味の加はり来たるを覚えたれば、燈火にヴェルレーヌが詩篇中の『サジヱス』を読む。戦乱の世に生を偸む悲しみを述ぶるには詩篇の体を取るがよしと思ひたればなり。散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。

〔欄外失書〕九段参拝の群集にまぎれ十六歳の女学生掏摸(すり)をはたらき捕へらる*

昭和十五年十月三十日。〔この間約四字切取。以下行間補〕専制政治〔以上補〕の風波は遂に操觚者の生活を脅すに至りしと見え、本月に入りてより活版摺の書状にて入会を勧誘し来るもの俄に多くなれり。文学者と活版職工との差別は唯机の上にて紙に字をかくことゝ工場にて活字を拾ふ事との相違あるに過ぎざるに至りしなり。哀れ果敢(はかな)きかぎりならずや。今入会勧誘の手紙の甚滑稽拙劣なる一例として今朝到着せし書簡をこゝに写す。(前文畧)もともと時局に処するための文学者の運動は既に数多く存する。然し本会ハ特に文学の局部的機能を強調宣伝せんとするものではない。文学そのものゝ大使命を掲げ文学報国の真意義を世に徹底せしめると同時に一国文化の担当者たる文学者の自主的機関たらしめんとするものである。(中畧)本会ハ高邁にして健全なる国民文学の建設に全力を尽し文学の社会的認識を高め日本文学界の一元化を図りつゝ新文化創造運動の一翼たらんことを期す{以下畧}余笑つて曰く、もし此文言の如くにならむと欲せばまづ原稿をかく事をやめ手習でもするより外に道はなし。

この日陰晴定らず時に細雨の来るあり。晩食後オペラ館楽屋に至り例の如く踊子三四人と共に楽屋裏の喫茶店に談笑してかへる。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 16:18:15 (894d)