六月廿二日。 快晴。風涼し。朝七時楼(=吉原)を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに、大関横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉ゝたり。掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ、鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即是なり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに、三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。碑背の文に曰ふ。

  若紫塚記

女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双(なら)びなかりしが、不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。
  明治卅六年十月十一日
      七七正当之日       佐竹永陵誌

又秋巌原先生之墓。明治十年丁丑二月十日歿。嗣子原乙彦受業門人中建之。ときざみし石あり。庫裏の戸口に至り、谷豊栄・遊女盛糸が墓のある処を問ひて香花を購ふ。僧は門内左側に井戸と茨の垣あるあたりを指したれば線香樒(しきみ)を受取り歩み行くに、そのあたりに唯一人遊びゐたる十二三歳ともおぼしき少女、並びたる二個の墓石を教へ、其傍に立ち独語のやうに二人仲好並んでゐるのと言ふ。この少女は寺の娘なるべし。折々墓詣する人の来るを案内して、其来歴をも知れるなるべし。十二三の年にて情死といふ事を知れるや否や。或は唯仲の好かりし二人の男女の墓とのみ思へるにや。余は何とも知れず不可思議なる心地して姑くは少女の顔を見まもりたり。目黄不動の門前に立戻りバスに乗り、銀座ふじあいすに朝飯を食し、十時過家にかへる。英文不夜城載する所の写真を見るに、盛糸・豊栄の墓は現在のものゝ如く密接せず。其間少し離れて立てられたり。現在のものは後に立直せしものなるべし。六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。銀座に飯して帰れば十一時なり。午後蔵書の中より吉原に関するものを取出して読む。夜執筆二三葉。早く寝につく。*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 15:20:22 (870d)