十一月十六日。 今年梅雨のころ起稿せし小説『冬扇記』は筆すゝまず。其後戦争起りて〔此間約一行抹消。以下行間補〕見ること聞くこと不愉快ならざるはなく〔以上補〕感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし。今日は朝八時頃には目ざめたれば久しく窓を閉じたる二階の掃除に半日を費しぬ。空よく晴れて風しづかなり。日の没するや明月皎然窓を照す。銀座不二地下室に飯して後今宵もまた浅草に徃きオペラ館の演技を見る。余浅草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。曲馬もこのオペラ館も十年前に比較すれば場内の設備をはじめ衣裳背景音楽等万事清潔になりたり。オペラ館の技芸は曾て高田舞踊団のおさらひを帝国劇場にて見たりし時の如くさして進歩せず。唱歌も帝国劇場に歌劇部ありし頃のものと大差なし。されど丸の内にては不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。*

昭和十二年十一月十九日。 快晴。堀口君その訳者オオドゥウの小説『マリイ』を郵寄せらる。空午後にくもる。晡下浅草に行きオペラ館の新曲を聴く。この一座の演ずる一幕物{社会劇}は何人の作れるにや、簡明にして人を飽かしめず。徃々人情の機微を穿つ。侮りがたき手腕あり。木戸口を出づるに今宵は曇りて月なればあたりは暗し。広小路松喜に飯し玉の井を歩む。こゝも公園と同じく案外賑(にぎやか)なり。帰途銀座不二地下室に入らむとするに、夜はまだ十時を打ちたるのみなるに、既に戸をとざしたり。枕上『むく鳥通信』を読むて眠る。

今秋より冬に至る女の風俗を見るに、髪はちゞらしたる断髪にリボンを結び、額際には少しく髪を下げたるもの多し。衣服は千代紙の模様をそのまま染めたるもの流行す。大型のものは染色けばけばしく着物ばかりが歩いてゐるやうに見ゆるなり。売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見るに新調の衣服{和洋とも}を身につくるもの多し。東京の生活はいまだ甚だしく窮迫するに至らざるものと思わるゝなり。戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず。要するに目下の日本人は甚幸福なるものゝ如し。*

十一月廿一日{日曜日}くもりて風甚寒し執筆の興至らず怏々として徒に時間を空費するのみ。忽にして窓暗く街上防火団の警笛をきく。燈火を点ずること能はざれば今宵も浅草公園に徃き国際劇場に入り時間を空費す。安藤君所作の『日高川』其他のルビューを看る。品好くつくりたるものなれば興味少なし。オペラ館の通俗卑俚却てよろこぶ可し。九時過芝口佃茂に夕飯を喫し料理番と雑談してかへる。深更雨ふる。*


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Last-modified: 2016-08-28 (日) 10:30:38 (238d)