一月廿二日。 山鳩一羽西向の窓に茂りし椎の木立の殊に小暗き葉かげを求め、朝の中より昼過るころまで動かず作りしものゝ如く枝にとまりたり。こは今日初めて心づきしにはあらず、いつの頃よりとも知らず厳寒の空曇りし日に限り折節見るところなり。大久保余丁町の庭にも年々寒さはげしき日一羽の鳩の来りしことはたしか二十年前の日記にしるし置きたり。二十年前のわが身はまことに寂しきものなりけり。されど其のころには鷗外先生も未簀(さく)を易へたまはず、日々来往する友には庭後啞々子あり、雑誌つくりて文字を弄ぶたのしみも猶失はれざりき。二十年後の今日は時勢も変り語るべき友もなくなり老と病との日々身に迫るをおぼゆるのみ。此日薄く晴れて後空くもりしが夜に至りて星影冴えたり。銀座三越に行き食料品を購ひ茶店久辺留に立寄ればいつもの諸氏在り。諧語に時の移るを忘れ例の如く夜半家にかへる。*

一月三十日。晴れて風烈し。去冬召使ひたる下女政江西洋洗濯屋朝日新聞其他自分用にて購ひたる酒屋のものなど其勘定を支払はず行方不明となりしため朝の中より台処へ勘定を取りに来るもの三四人あり。其中呉服屋もあり。政江といふ女わが家に殆二ヶ月程居たりしが暇取りて去る時余に向ひては定めの給料以外別にゆすりがましき事を言はず。水仕事に用ゆるゴムの手袋と白き割烹着とを忘れ行きしほどなれば、金銭の慾なく唯しだらなく怠惰なる女なるが如し。貸したものも催促せぬ代り借りたものも忘れて返さぬといふやうなる万事無責任なる行をなすものは女のみならず智識ある男子にも随分多く見る所なり。西洋人には少く支那人にも少く、これは日本人特徴の一ツなるべし。つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし。

鈴木かつ 柳橋芸者にて余と知り合ひになりて後間もなく請負師の妾となり、向島曳舟通に囲はれ居たり、明治四十一年のころ

蔵田よし 浜町不動産新道の私娼明治四十二年の正月より十一月頃まで馴染めたり、大蔵省官吏の女

吉野こう 新橋新翁家富松明治四十二年夏より翌年九月頃までこの女は事は余が随筆『冬の蠅』に書きたればこゝに贅せず

内田八重 新橋巴家八重次明治四十三年十月より大正四年まで、一時手を切り大正九年頃半年ばかり焼棒杭、大正十一年頃より全く関係なし新潟すし屋の女

米田みよ? 新橋花家(成田家か不明)の抱、芸名失念せり、大正四年十二月晦日五百円にて親元身受、実父日本橋亀島町大工なり、大正五年正月より八月まで浅草代地河岸にと三ヶ月ばかりにて手を切る、震災後玉の井に店を出さし由

中村ふさ 初神楽坂照武蔵の抱、芸名失念せり、大正五年十二月晦日三百円にて親元身受をなす一時新富町亀大黒方へあづけ置き大正六年中大久保の 家にて召使たり、大正七年中四谷花武蔵へあづけ置く、大正八年中築地二丁目三十番地の家にて女中代りに召使ひたり、大正九年以後実姉と共に四谷にて中花武 蔵といふ芸者家をいとなみ居りしがいつの頃にや発狂し松沢病院にて死亡せりと云ふ。余之を聞きしは昭和六年頃なり、実父洋服仕立師

野中直? 大正十四年中赤坂新町に囲置きたる女初神田錦町に住める私娼なり、茅か崎農家の女

今村栄 新富町金貸富吉某の見寄の女、虎門女学校卒業生なりと云ふ、一時書家高林五峯の妾といふ、大正十二年震災後十月より翌年十一月まで麻布の家に置きたり、当時二十五歳

十三 関根うた 麹町富士見町河岸家抱鈴龍、昭和二年九月壱千円にて身受、飯倉八幡町に囲ひ置きたる後昭和三年四月頃より富士見町にて待合幾代?といふ店と出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、実父上野桜木町々会事務員

十二 清元秀梅 初清元梅吉弟子、大正十一年頃折々出会ひたる女なり、本名失念大坂商人の女

十一 白鳩銀子 本名田村智子大正九年頃折々出会ふ陸軍中将田村□□の三女

十五 黒沢きみ 本名中山しん、市内諸処の待合に出入する私娼、昭和八年暮より九年中毎月五千円にて三四回出会ひ居たり明治四十二年生砲兵工廠職工の女

十六 渡辺美代 本名不明、渋谷宮下町に住み夫婦二人づれにて待合に来り秘戯を見せる、昭和九年暮より十年秋まで毎月五十円をやり折折出会ひたる女なり、年二十四

此外臨時のもの挙ぐるに遑あらず、

〔欄外墨書〕九 大竹とみ 大正十四年暮より翌年七月迄江戸見坂下に囲ひ置きたる私娼

〔欄外墨書〕十 吉田ひさ 銀座タイガ女給大正十五年中

〔欄外墨書〕 十四 山路さん子神楽坂新見番芸妓本名失念す昭和五年八月壱千円にて身受同年十二月四谷追分播磨家へあづけ置きたり昭和六年九月手を切る松戸町小料理屋の女*


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Last-modified: 2015-01-10 (土) 14:01:46 (866d)