八月初一。晴。苦熱昨の如し。

八月初二。晴。華氏九十度のあつさなり。曝書半終はる。甥郁太郎より葉書にて西大久保?母上五月頃より田園調布なる鷲津家に移り住はるゝ由通知あり。夜ふけて驟雨雷鳴あり。夜半を過ぎるも()れず。
[朱書]鷲津郁太郎 大森区田園調布三ノ三七八

八月初三。晴。晡下美代子及び其情人渡辺生と烏森の芳中に会す。奇事百出。記すること能はざるを憾しむ。燈刻驟雨雷鳴あり。八時過雨の()るゝを待ちて別れて帰る。
[欄外朱書]政府日本国体明徴声明書発表すと云ふ

八月四日。晴。暑甚しからず。拙著雨瀟々印刷校正摺を検閲す(此日日曜日なり)

八月五日。曇天。涼風既に秋の如し。新聞紙の記事に米国紐育市発行パニチイフヱーヤと云ふ月刊雑誌[此間約三字切取、二行強抹消。以下行間補]の挿絵日本国を侮辱するものなりとて政府より米国へ抗議する處ありしと云、風説によれば其挿絵は日本の皇帝とサンガー夫人と相対して満州の地図をひろげて居るところの由、[以上晡]日暮れてより風益冷に驟雨屡来る。野田書房発行の雨瀟瀟の序を草す。[欄外約三十字切取]

八月六日。曇りて風涼しきこと梅雨中の如し。午後丸ノ内に用事ありたればそれより電車にて向嶋木母寺に到り花笠文京の碑文を写す。即ち左の如し。

 如電大槻修撰文

 香遠増田垕

奇人亦多矣。有豪而奇者。有諧而奇者。有奇而高者。有奇而汙自者。如文京翁諧而奇。奇而汙自者邪。翁生儒家不屑躬行。好院本度曲。數上戯台。父怒絶之。翁不以爲意。出客于蜀山人許。山人戯曰卿風丰類戯子持花笠而舞者。翁大悦曰弟子獲佳目矣。山人有小妻。翁誘之。山人割愛。併逐之。翁於之入劇部爲狂言作者。旁箸小説。多籍名優己行。故有三芝居士三界行者等別號。然以少通經史。傳記過高不適時好。常爲中所輕侮。翁積不平。天保癸巳著玅妙癡談。以發院曲事。衆大怒停其出入三座劇塲。先是翁託名蜀山人追福。將開一大會已攫巨利。人皆非之。官亦禁之。翁不特失望。幷前債無可償。窮窘更甚。出奔浪華方五旬。數年潛還。依書估甘樂堂。纔免饑渇。河竹其水其知友也。爲勸謝前過。復爲狂言作者。改稱豐島新造。卜尻淺艸茅街。常代人作詩文歌謠及齊諧滑稽諸戯因稱代作屋代作。告之江湖以求糊口。而業終不售。翁肯後三婦新陳去迎。二女倶陷身花柳。殘衰耿〻。乞哀所知。轉遷寄生。或一飯斗米。或枵腹數日。最後徙深川佃巷。寓守街舍。以終。年七十六。噫翁畢生所爲諧也汙也。竟不失其爲奇也。翁稱魯助。東條氏。自曰江戸人。如電子曰奇者昌之對。翁行事無一出于正者。謂之奇人亦宜矣。抑世之奇人奇于生時耳。如翁則棺後人猶怪其奇異。翁之歿係井伊元老殞命之日。都下騒擾。門人魯文京鶴拮据買棺。舁至菩提寺。寺僧曰此人爲父所絕。安得瘞之塋域。二人再舁出寺門。雪泥三尺無可往。相謀付諸荼毘。納遺骨于谷中永久禪寺法諡齡峰魯鈍。假立一片石。以爲標。戊辰五月戎馬蹂躙。石失所在。其後魯文貧甚。乞文於静軒居士。師建碑。遍募舊故得若干金。之學充陀債。盖能學翁所爲者歟。亦奇矣。凡物不可以終奇。必也受之以正。頃者魯文来云。先師逝矣三十年。頽齡亦及華甲。一碑未建。辠無所逃。先生幸銘其墓。吾將謝往事于江湖。余曰善哉善哉。雖然諛墓之文我不欲作。若傳則可直。書所聞以代墓表。

明治廿二年三月

 少教正堀越秀篆額

 假名垣魯文

  渡邊文京補 宮龜年鐫

木母寺境内の石碑大概震災前に見たるものにて破棄せられしものはなきやうなり。植半の門には坂田阪右衛門?といふ札掛りたり。樹木は猶盡く枯死するに至らず、梅若丸小祠も未倒れず。新しきの一木枯れかゝりし老の傍に茂りたり。此の小祠の周囲に立てられし石の柵は余程古きものらしく富本津賀太夫?両国薬研堀昇亭北燾などの文字読まれたり。祠後に木母寺の堂あり。中を窺見るに梅若堂の額二ツあり。一は三条実美一は梧竹の書なり。堂の左側なる庭には地蔵多くありて夏を供へたり。石門の柱を出で水神(隅田神社)の鳥居の方に歩みを移す。染物工場及相馬石鹸製造所?などありて臭気甚しく、生茂りたる處は大抵塵芥にて埋立てたる空地となれり。水神の境内には今猶八百松といふ酒亭ありて樹木鬱蒼として繁茂す。されど周囲の溝渠には汚水沈滞して悪臭を放てり。雑草に蔽われたる空地を横ぎり製造所のぼろ/\になりたる亜鉛塀に沿ひ、歩みて復び堤に出づ。堤上には新築の湯屋貸長屋あり。日満食堂など書きたる飲食屋あり。二三町にして白髯橋(たもと)に至る。其形永代橋に似たる鉄橋なり。橋をわたりて橋場の岸に至るに、岸の上に宏大なる石炭物揚機械屹立し工場の低き烟突盛に煤烟を吐けり。物揚機の鉄骨のかげに真崎稲荷の石燈籠と石浜神社の鳥居の立ちたるさま見るも哀れなり。水際の石燈籠には安永八己亥年五月吉日永代常夜燈と刻したる文字未磨滅せず。石浜神社の鳥居には鳳鳴卿成島道筑)の書を刻したり。真崎稲荷の祠と休茶屋の小家とは猶残りてあり。されど、二十余年前余が帰朝の当時折々井上唖々子と相携へて散策せし時の優雅なる風景は全く其跡なし。其頃稲荷の祠の裏手より石浜神明宮の境内に至るあたりにはの大木多く花の馥郁たるを見しこともありき。今は一株の樹木も無く小径を隔てたる工場の石炭二三町にわたりて山の如く積上げられたり。タンクの如きものも聳えたれば思ふに瓦斯会社なるべし。岸辺には汚くして大きたる達磨船幾艘となく繋がれ、裸体の人夫の徘徊するを見る。小雨降り来りし故円タクを呼び雷門より地下鉄道に乗りて銀座に出で、銀座食堂に飰して家にかへる。
[欄外朱書]関根氏ノ忌辰録ニ云本姓東條氏琴台ノ実兄ニテ号純亭豊嶋新造ト称ス戯作者ナリ萬延元年三月二日歿年七十六深川霊厳寺地中ニ葬ル法号魯鈍齢筆辞世山の端にしら雪と見し花は根にかへりし後のはるの古さと

魯文手澤草稿南陀迦紙乱を見るに次の如き文あり

○尾州名古屋人飄亭泉成?魯文十八九の頃新橋竹川町の裏屋ニ寓し知己と成年経て花笠文京泉成?が転居深川佃に同居当家に死去せり其後其音信なかしが親戚の余□なりとて二十四年四月人あり告て曰泉成?明治元年六月九日病床終焉浅草龍泉寺町西徳寺葬俗称清兵衛四十八

辞世 泉成? いそかしや廻燈籠の人影は尽るともなく出つ隠れつ *

八月七日。陰晴定まらず夜に入りて驟雨来る。単行本雨瀟々の序を草して野田書店に郵送す。

拙作雨瀟々(かっ)て余が編輯せし雑誌花月に掲載せむがため大正七年の秋稿を起せしもの。初め彩箋堂佳話と題せしが其冬雑誌の廃刊と共に転居の事などありてそのまゝ久しく筆を断ちたり。大正九年の夏築地より現在の家に移るに及び再び執筆の興を催し同年十二月の末に至りて稿を脱し得たり。恰も雑誌新小説記者の草稿を求むるに会ひ浄書の時改めて雨瀟々となしぬ。大正十一年九月当時執筆の短編小説数篇及雑録の類いと (あわ)せて之を一巻となし春陽堂より刊行したり。大正十三年九月麻布襍記の一書を梓するに当り再びこの小篇雨瀟々を取りて其の巻初に掲げぬ。昭和二年九月書肆改造社の現代文学全集第廿二篇を編輯するや雨瀟瀟の一篇また其巻首に採録せられぬ。此度書估野田氏またこの一小篇を取りて刊行せむとす。依つて印行の次第を記し以て序に代ふ。昭和十年乙亥秋八月於偏奇館荷風散人識。

八月八日。秋立ちし故にや風爽にして涼し。終日二階書斎の書を曝す。黄昏尾張町の竹葉亭に飰す。人の噂に昨夜西銀座サイセリヤといふ酒場の女給数人賭博犯にて挙げられたりといふ。本年四、五月以来カフェー及び酒場へ刑事入込み折折手入れをなす。これがため銀座一、二丁目裏通りに軒を連ねし怪し気なる酒場は行き立たず閉店するものもあり。三、四年前の景気今は全くなくなり表通にも街娼の影少くなりたり。

八月九日。西風颯〻残暑甚しからず。薄暮美代子金兵衛に夕餉を食す。

八月十日。朝の中より雨ふりつゞきて蒸暑し。夜銀座きゆぺるに往く。千香女史余が小説すみだ川掲載の雑誌新小説(明治四十二年十二月号)を貸与せらる。

八月十一日。雨歇まず。腹候例によって可からざれば薬を服して終日家に在り。階前の秋海棠秋に入りてより花次第に多くその色また濃かになれり。夜十二時電燈消滅すること一時間ばかりなり。(此日日曜日なり)

八月十二日。陰。涼味九月も半過ぎの天気の如し。曝書半日。夜銀座裏通のきゆぺるに徃く。空庵大和田五叟の諸氏に逢ふ。

この日朝陸軍省内に刃傷あり。殺されたるは軍務局長永田少将殺したるは中佐某なりといふ。逗子葉山より帰京したる人の話に麻布三聯隊の兵士二百人あまり機関銃を携え葉山御用邸を護り飛行機も六、七台来りし由。刃傷沙汰ありてより一時間を出でず。初めのほどは人々何事なるを知らざりしといふ。

八月十三日。くもりて涼し 寒暑計華氏七十五六度を示す。午前土州橋の病院に赴き厚木学士の診察を受く。帰宅後曝書また読書。後銀座に往き黒麵麭を購ふ。亀屋?の前に人だかりあれば歩み寄りて見るに海軍兵曹二名と陸軍歩兵三名と口論をなすなり。巡査来りて双方を言ひなだめ事なく済みたり。〔以下一行強抹消〕

八月十四日。雨歇みてはまた降る。読書意の如くならず。腹候亦可ならず。時〻睡魔に襲はる。燈刻尾張町竹葉亭に飰し茶店久辺児に小憩してかへる。

八月十五日。雨歇まず冷気九月末の如し。

八月十六日 雨ふりつゞきたれど空あかるく風なし。終日書篋を整理す。六時頃銀座尾張町に至り竹葉に入らむとする時空俄に晴れ虹あざやかに三越の建物を隔てゝ東の空に現はるゝを見たり。行人皆傘をつぼめ佇立ちてこれを見て喜ぶ。食事して後直に烏森の待合芳中に徃きて待つ間もなく美代子渡辺生来る。談笑する中おかみさん入り来り、この頃出入りする私娼の中に一人年三十ばかりの小づくりにて男好きのする女あり。生活に困つてゐるわけではなく道楽にて私娼になりたるものの由。目の縁黒ずみ着物の着こなししだらなく見るからにすきさうな女なりと云ふに、忽ち淫心動き其女を呼んで貰ひぬ。築地の明石町アパート?に住める由にて待つこと半時間ばかり、おかみさんの連れ来るを見ればどこやらににて一度見たことのあるやうな女なり。女の方でも何やら不思議さうな面持するも無理ならず、暫くして心づけば昭和四年十月の頃中洲病院よりの帰り道、中の橋より水天宮の四辻に至る徃来にて歩みながらふと何心なく言葉を交へ、其儘自働車にのせて神楽坂の待合に連れ行きしことありし其女なり。(断腸亭日乗九冊目十月十四日の記にしるす)指を屈すれば七年前のことなり。其時には後難をおそれて番地姓名も言はずまた女の住所も問はずして別れたるなり。此夜の再会はまことに小説よりも奇なる心地したり。*

八月十七日。晴れてはまた曇る。薄き日光折〻雲の間より漏れの声聞ゆ。夜食料品を購はむとて銀座に行き茶店きゆうぺるに立寄るに生田葵山氏在り。葵山氏またもや余の事を何やら雑誌に書き立てたりと云ふ。余の迷惑実に是より甚しきは無し。激論二三時間に及び余は兎に角葵山氏とは以後友人関係を断つ可きことを声明したり。数年来胸中に蓄積せし事を一時に解放し得たるなり。溜飲の下りたる心地とはこれなるべし。この夜ふけてより月あり。

八月十八日。晴れて再びあつくなりぬ。燈刻銀座食堂に飰す。今宵も月よし。

八月十九日。くもりて蒸暑し。

八月二十日。晴れて風涼し。初めて法師蝉のなくを聞く。午後大工岩瀬来る。夜銀座竹葉亭に飰してかへる。

八月廿一日。晴。曝書。夜もまた家に在り。

八月廿二日。晴。曝書。夜芳中に一酌す。小松来る

 鴎外先生序文深尾贇之烝天の鍵

天のかぎを読めばわたくしには病後に白粥を啜つてゐるものがコニヤツクウヰスキイに脣を潤すやうな気がする。識らぬ味ではない。しかしわたくしは老いてこれを飲みほす力を失つた。飲みほされぬのみではない。(やや)もすれば些のアンチパチイさへ起つて来ようとする。これは作者の恥ではない。却てその誉だと云つても好いかも知れない。」何故と云ふに、わたくしのアンチパチイは感情にねざしたものではなくて、理性にいざなはれたものだからである。ちやうどルソオが自然に反れと云つたときヲルテヱルがそんなら四つばひにはふかと云つたやうなものである。昔の人は黄金時代を過去に求めた。其性命は回顧の間に見出された。今の人は楽土を未来に求める。其性命は予言の中に見出さられる。しかし自然に近かつた過去の生活も。ダアヰンの目で観れば残酷なる自然淘汰の境界である。若し因襲の呪縛を解いた未来の生活がはかない夢幻であつたらどうする。かう云ふ思慮分別がわたくしのアンチパチイをさそひ出すに過ぎない。原来詩は理性を以て読み、思慮分別を以て論すべきものではない。此アンチパチイをわたくしに起こさせたのは、たしかに天のかぎの作者の力である。わたくしは此力を尊重する。大正十年六月森林太郎

上田敏先生序文 竹友藻風時のながれに

竹友君の詩の園生には、態とらしく、せゝこましい林泉の飾は無い。こゝにはむしろの匂に野花の色を添へた天然の趣が、ほのかに流れて、慎ましく、しをらしい清教徒の少女を憶起させるニウイングランドの後園のやうだ。蟠い心の華ハこゝに白く、はた赤く咲いてゐて、紫に黄に乱れ散る矜の色も罪の影も無い。たゞ晩秋のある昼さがり、気温に空霞む「印度の夏」の小春日和、こゝもとを訪ひ来ると旧世界の南国に親しむ美のかんばせは髣髴として顕れ、吹上の水のすつくと伸びて、ちろ/\と落ち来る音は、伊太利亜の庭園にまだ残るあの声と聞迷う。空をも貫けと立ちのぼる祈祷の叫か、地に帰り行く安住の息か、そも/\パアンの歌か、クリストの賛美か。大正二年夏上田敏

八月廿三日。晴。秋暑熾なり。能楽之友?編輯者齋藤芳之助?氏書を寄す。直に返書を裁す。夜銀座庄司理髪店に至る。冷飈颯〻寧寒きをおぼゆ。

八月廿四日。晴。残暑いよ/\烈しく風また強し。午後小山書店主人青森市より遠距離の電話を懸け来る。水害のため鉄路不通帰ること能はずと云ふ。

八月廿五日。晴。残暑堪難し。午後能楽編輯者齋藤?氏来訪。銀座食堂に飰す。


断腸亭日記巻第十九 続

昭和十年乙亥秋八月 荷風散人


八月廿六日。晴。残暑いよ/\烈し。午後京屋印刷?支配人児玉?氏拙著冬の蠅其後の純利金参百五拾八円四拾銭持参。これにて初版勘定一時切上げとなす。

出版費千部萬端金八百弐拾参円九拾四銭也

利益金金千壱百五円四拾四銭也

差引利益金壱壱八拾壱円五拾銭也*

八月念七。晴れたる空近くより俄にくもり驟雨二三回。夕焼の色全く秋らしくなりぬ。夕餉の膳に向はむとするときの鳴音を聞く。この日また曝書。

 吉原町二丁目九郎助稲荷の事(春水梅見船二篇中)

毎月の日京町二丁目九郎助稲荷の縁日とて小間もの商人植木屋など種〻の見世を出して賑なり。因に曰(そも/\)九郎助稲荷大明神と申奉るは往昔(おうせき)保元年中より今天保亥年まで凡六百八十余年の旧社にて旧地ハ田町砂利場の辺に有しとぞ。九郎助の名の発意を尋るに右大将頼朝卿の御治世に下総城主千葉介自胤の一族千葉九郎助?といふ人専信迎せしゆへに九郎助稲荷と其頃の俗の称初(となへそめ)しを言伝ふ。然れば其昔広〻たる武蔵野の端手(はて)浅草の原の田家の者の利益を蒙る事数〻にて、中むかしの頃までは今よりも猶名高き社にて、明暦の頃にいたり益霊験著く感応神徳挙てかぞへがたし。(ここ)明暦三年元吉原今の地に引移りしころ神社一宇無之。()って此御神の徳を慕ひ家内安全愛敬の護を願んと則ち蒙御免当地へ遷坐なし奉り、廓中の鎮守の神と崇尊信(あがめそんしん)せざるものもなく毎年七月廿一日当社の祭礼有て、太兵衛といふ人始て練物踊り等を出せしより八月にいたるまで廓中の諸處より種々の思ひ付にて踊り狂言などを出して、廓の賑ひ十倍の繁昌なりしかば、毎年に稲荷祭を怠らず、面白き趣向の絶ざりしが、何時となく九郎助稲荷の祭礼に付いて出し初めたる俄狂言の基をわすれ、只俄の催しハ廓の遊びの全盛とのみ心得たるはいと本意なし。(かゝり)斯しかば九郎助稲荷の神徳も漸〻(しだい)に隠れ、五町の町には町毎に稲荷の宮を勧請し、九郎助の名は廓外に知られたれども、里には却って信心をわすれ、京町二丁目の稲荷と思ひて年久しき間廓最初惣鎮守と知るもの既に絶んとせしを、当時の廓に好古の老人寄集ひて神徳を古代のごとく尊み、霊験を祈らせ氏子の繁栄あらまほしと再興なしたる九郎助祭、月〻賑ふ縁日の催しこそはいとめでたし。

八月念八。晴。曝書未終らず。松林伯圓伊香保土産(明治十二三年)をよむ。講談師の文筆当今大衆小説家に優ること数等なり。燈刻W生と共に烏森の芳中に飲む。此夜八九頃夕立永代橋真中を境にして深川の方大降りなりし由。不動尊縁日の晩にて大騒ぎなりし由。

八月念九。朝来暴風雨。午後二時頃最烈し。風は真東より吹き来れり。夕暮に至り風雨忽歇み夕陽燦爛。秋蟋蟀一時に鳴き出づ。

八月三十日。晴又陰。溽暑甚し。夜茶店きゆうぺるにて空庵高橋歌川の三子に逢ふ。

八月卅一日。雨晩に()る。W生と烏森に飲む。小松美代子来る。


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Last-modified: 2016-08-20 (土) 09:17:17 (216d)