十月初一。(旧九月四日)晴れて好き日なり。秋の声いつか断え果て虫の音も俄に細くなりぬ。読書また午睡。日の暮るゝを待ちて銀座散策例の如し。

十月初二。雨霏〻。午後小山書店主人来談。晡下新小説氏来談。終日彼理提督の東亜航海志を読む。夜銀座久辺留にて偶然池田大伍君に逢ふ。
[朱書]島源四郎 神田錦町一丁目四番地電25三四〇一番

十月三日。晴。午後銀座三越百貨店中央公論社主催維新前後より今日までの雑誌陳列会を見る。夜驟雨雷鳴。

十月四日。晴。午後平井程一君来談。燈刻烏森に飰す。

十月五日。晴。午後小山書店主人拙著すみだ川校正摺持参。晩食後、浅草田原町雇人口入宿昭和屋?より電話にて実直なる老婆見当りたれば、これより連れ参るべしといふ。散歩に出る頃なれば此方より見に行くべしと(こた)え直様赴き見たり。老婆雇入の事は殊に記すべき程の事にあらず。余は老婆の用件を済まして帰り去らんとするに、此の店の亭主一寸お話致したき事ありとて、余と共に外に出で人通りなき横町に佇立み、唯今店先に巻煙草のみ居たる美人を御覧になりましたか。彼の美人は昨日私の方より千束町のカフエーに世話をしましたが気に向かぬとて帰つて来ました。小遣ひにも困つて居りますし、それに今夜泊る處がないのです。芸娼妓公周旋の許可を受けたる店なれば都合により一晩や二晩は泊めて置いても差閊はないのですが、私の店は普通の雇人周旋業の鑑札しか持つて居ませんから、女を泊める訳には行きません。それ故先生若しおぼし召がありますならばお屋敷へなり待合へなりと連れておいでなされては如何でせう。御迷惑をかけるやうな女でない事は私が受合ひます。値段のところは直接当人にお掛合ひなされて下さいと、あたりを見廻しながら小声にて話しかくるなり。余実は昨夜烏森で遊んだばかりなれば今夜は都合わるし。二三日中に電話にて相談すべければ其時好きやうに頼むと言ひて別れたり。浅草の裏町ならでは聞かれぬ話なり。雷門より地下鉄道にて銀座に出で、茶店久辺留に憩ふ。いつもの諸子と談笑する中、突然生田葵山入り来り武林無想庵を紹介せむとす。余は武林氏に向ひ、葵山とはわけありて友人関係を断ちたればこの場合御同席は致しがたしと言ひ、其儘その夜の勘定をも払はず外に出で、尾張町より車を(やと)ひ家に帰りし後、電話にて武林氏を呼出し、先刻の無礼を謝し其中いづれかにて懇談したき旨を語りぬ。生田葵山と絶交せし事情は八月中旬九月二十日の記に書きてあり。此には再録せず。
[欄外朱書]向嶋寺嶋町一ノ一八九中平方 武林無想庵

十月六日。(日曜日)晴また陰。燈刻尾張町竹葉亭に飰して後茶店久辺留に至る。武林君来る。諧語夜分に及ぶ。

十月七日。空くもりがちなり。夕方より風吹き出で俄に寒くなりぬ。

十月八日。陰。午後小山書店主人来訪。終日提督ペルリ遠征記をよむ。小笠原群島の記述宛然冒険小説を読むが如く銅板の挿画また人をして夢想の世界に遊ばしむ。

十月九日。晴れて風冷にの鳴く声頻なり。の花は既に落尽し秋海棠の葉も萎れがちになりぬ。山茶花は赤きも白きも皆二三輪開きはじめたり。終日旧著夏姿を筆写す。燈刻尾張町竹葉亭に飰し久辺留に憩ふ。高橋邦氏雑誌の古本を購ひたりとて示さる。

十月十日十三夜なり。月色清奇露気甚冷なり。残なほ声あり。

十月十一日。雨霏々。終日門を出でず。晡下野田書房主人来談。夜交遊諸家の書牘を整理す。

十月十二日。晴。読書及曝書。本年立秋後雨多かりし故曝書する事能はざりしなり。燈刻鼎家に飰して後茶店久辺留を過ぐ。この夜土曜日なれば銀座裏通酔漢多し。九月十五夜の月あきらかなり。

十月十三日。(日曜日)昏黒小山書店主人来りてすみだ川校正刷表紙見本其他を示す。食後散髪せむとて銀座に行きしが日曜日にて休みなり。独逸人ぱん屋?に小憩してかへる。空くもりて月影くらし。蟲声雨の如し。

十月十四日。晴。燈刻銀座に往き庄司にて理髪。茶店久辺留に一茶してかへる。

十月十五日。くもりて風なし。軍部対政府の国体問題今に至るも猶囂々たり。[以下四行弱抹消]

婦人公論新聞広告の中に女性文化二十年と題するものあり。他日参考の資料となるべし。

 芳川鎌子の心中

 松井須磨子の自殺

 日向きむ子 貞奴 萬龍

 白蓮女史家出

 ヴアレンチノリリアン、ギツシユ――田村梶川の庭球時代

 有島武郎波多野秋子心中

 大杉栄殺害

 人見絹江[ママ]の活躍

 寺尾姉妹

 久野久子自殺

 放送局出現

 マネキンダンサー出現

 九條武子

 山田順子

 藤原秋子

 フヱリシタ バーセルメス中野某

 チヤプリン来る サロン春女給里子

 女給小夜子

 三宅やす子

 櫻内元子?

 エントツ男の出現

 犬飼首相殺害

 坂田山心中

 三原山松本貴美子

 児玉勝美

 黒田雅子

 増田富美子西条エリ子

 [五字抹消]××元師[師はママ]孫娘良子家出

      文士島田清次郎船木海軍少将娘[船はママ]

十月十六日。微雨。夜に至って歇む。虫の声猶盛なり。

十月十七日。陰。終日読書。燈刻銀座食堂に飰して直にかへる。露しげきこと雨のごとし。中央公論社より同社営業五十周年記念品(白地縮緬ふくさ)を贈来る。

十月十八日。晴。読書。夜に至り風俄に寒し。

十月十九日。陰。燈刻鼎亭に飰す。鶴子といふもの来る。

十月二十日。(日曜日)小春日和の好き日なり。の葉猶落ちず、虫の音あはれに静なり。初夜黒ぱん買ひにと銀座に行き茶店久辺留に憩ふ。髪の毛振り乱したる青年文士と見ゆるもの数名頻に新作家の評論をなせるを見る。歌川大和田の二氏と車を同じくしてかへる。
[欄外朱書]新橋駅より田村町電車通地下鉄道工事中

十月廿一日。晴。山茶花満開なり。米国彼理東亜遠征記を読了す。夜銀座散歩。尾張町不二あいすに一茶す。人の噂によれば今春以来其筋の取締きびしき為銀座通に辻君なくなり怪し気なるカフヱーも閉店するもの多し。辻君は新橋を渡り片側汐留倉庫にて道路暗く人通稀なるあたりに出没し露地または人家のひあはひに客を引き込み春を鬻ぐといふ。

十月廿二日。晴。仏蘭西海軍士官アルフレド、ルツサン下関海戦志を読む。此書慶応二年の版なり。
Une campagne sur les côtes du Japon par Alfred Roussin, Aide-commisaire de la marine, Hachette et cie, Paris, 1866.
[欄外朱書]此書ニ三田済海寺仏国公使宿舎及江戸市街観察ノ記事アリ

十月廿三日。晴。晡下のぶ子?来訪す。昭和三四年頃まで多年銀座尾張町タイガアといふ酒楼にはたらきゐたる女なり。三四年前より伊太利亜大使の婢女となり其邸内に住むなりと云ふ。夏は毎年鎌倉なる大使の別荘に行き乗馬のけいこをもなすとて、ハンドバツクの中より写真数葉を取り出して見せたり。タイガ女給数百人の中玉の輿に乗りたるものはこの女と紅組の光子二人なるべし(のぶ子は紫組に属したるなり)一人は伊太利亜大使の婢一人は白耳義(ベルギー)公使館通訳官の婢となり。大分貯金もできたる様子なり。談話一時間あまりにて去る。

十月廿四日。晴。英国公使フレーザー夫人日本遊記二巻を繙く。書中の記事は明治廿二三年頃にして、出版はそれより十年後(明治卅三年西暦千八百九十九年)なり。深夜二時頃蓐中読書する時枕元の硝子窓にがさ/\と音するを聞く。鼠か鼬ならむと思ひて枕より頭を(もた)げ見るに藪鶯の燈火にあざむかれ硝子窓より家の内に飛入らむとするなり。是亦孤独閑居の家にあらざれば見る事能はざる珍事と謂ふ可し。

A Diplomat's Wife in Japan(Letters from Home to home)by Mrs, Huch Fraser. Lndon: Hutchinson & Co.1899.

十月廿五日。晴。三時過丸ノ内三菱銀行に徃く。電車にて浅草雷門に至り公園を散歩す。千束町を過る時この春一個月ばかり余が家に雇置きたる派出婦に逢ふ。松竹座向側なる浅草ハウスといふアパートに住へりといふ。誘はるるままにその室に至り茶を喫す。右鄰の室はダンサア。左鄰の室にはカフヱー女給。向側は娼妓上りの妾にて夜十二時過になれば壁越しに艶めかしき物音鳴声よく聞ゆといふ。日は早くも暮れかかりたれば外に出で、公園裏の大通りを歩み待乳山に登る。山の側面は目下セメントにて工事中なり。聖天町に接する崖下は洋式の新公園となりぬ。山上の聖天の殿堂は既に新築落成したれど今はお百度踏むものなし。樹木はの若木二、三十本を植えたるのみ。石段を下り聖天町猿若町を歩みたれど町の様子全く変りて旧観を思返すべきよすがもなし。新築の今戸橋際より山谷掘の北岸に沿ひて歩む。掘は四、五町行きたるところにて尽きその先は土管にて地中に埋められたり。掘には新築の橋多し。第一は今戸橋、第二は聖天橋、第三は吉野橋、第四は正法寺橋、第五は山谷堀橋、第六は紙洗橋、第七は地方新橋、第八は地方橋、第九は日本堤橋にて、堀はこの橋の下より暗渠となるなり。即左図の如し。又今戸橋北詰もと慶養寺の樹木繁りたるあたりには曹洞宗潮江院、霊亀山慶養寺本龍寺などの門札を掲げたる寺ありて、其亜鉛塀の外には肥料桶数知れず置れたり。霊亀山の額かけたる門のみセメントづくりにていかめしきものなり。吉野橋に至る河岸通には今猶××の住家多しと見え皮屋の店または太鼓を売る店もあり。(南岸に瓦屋釣舟屋あり)山谷掘川口のあたりも光景一変し地図を参照するも新旧の地勢を明瞭に比較する事能はざるなり。日本堤東側に裏町を歩み行く時、二間ほどの間口に古雑誌つみ重ねたる店あるを見たれば硝子戸あけて入るに、六十越したりと見ゆる坊主の亭主坐りゐて、明治廿二、三年頃の雑誌頓智会雑誌十冊ばかりを示す。開き見るに宮武外骨の編輯する処小林清親ポンチ絵もあり、外骨氏〔この間二字切取、約七字抹消〕重禁固三年の刑に処せられたる記事もあり。禿頭の亭主が様子話振りむかしの貸本屋も思出さるるばかりの純然たる江戸下町の様子なれば、旧友に逢ひたる心地し、右の雑誌その他二、三種を言値のままにて購ひ、大通りに出ればむかしの大門に近きところなり。日は全く暮れ果て廓内の燈火輝き出したれば衣紋坂を過ぎ大門に入る。五十間に在りし引手茶屋大半閉店し小料理屋となりしものあり、吉徳稲荷の跡は空地となり、何とやら云ひし名所の井戸もなくなりたり。大門を入りて仲の町右側大門際の茶屋西の宮は他の名称と変じ、隣の山口巴はわづかに其名を納簾にとゞめたり。桐佐大忠?などむかしのまゝなる名前は残りたれど、店先に水兵服きたる少女脛を出して臥転(ねころ)びゐるところもあり。客の出入するを見ず。仲の町より左右の大通り貸座敷の間にも射的場?ところ/゛\に開店し、女給風の美女三四人を雇ひ居れり。京二不二楼となりの射的場?には銀座に連れて来ても耻しからぬ美形あり。千束町に出で自動車にて銀座に来れば夜も八時を過ぎたり。竹葉亭にて夕餉を食し久辺留に少憩してかへる。毎夜十時を過れば霜気俄に寒し。*

十月廿七日。瀧の如き大雨十五分置きくらゐに振り来りては歇 み、歇みてはまた降る。昏黒小山書店主人来りて小石川諏訪町あたりの道路雨水踵を没し歩行すること能はざりしと云ふ。七時頃雨歇み星出づ。銀座にて物買ひ鼎亭に夕餉を食してかへる。燈下フレザアー英国公使夫人日本遊記を読む。国会開始の前年都下壮士の横行するもの多きを痛論せし一章あり。大に我意を得たり。安政以後壮士の暴行は日本の社会に於いて特殊の減少となれり。昭和六七年来の世態を見るに文久慶応の世と異るところなし。

十月廿六日。燈刻杏花君招飲の約に赴く。池田川尻の三君来る。帰途雨。
[欄外朱書]十月廿五日晴 十月廿六日陰 十月廿七日大雨

十月廿八日。晴。歌舞伎座構内に坪内博士の銅像建てられし由。或人曰くこの劇場に博士の像を建つるは元よりあしからず。されどこの劇場の最紀念となすべき人物を挙ぐればまづ第一に福地桜癡を推さざるべからず。座主竹次郎は大阪者にて無学文盲の徒なれば福地源一郎などいふ人の世にありし事は知らざるなるべしと。これあるいは然らむ。呵〻。終日読書。夜銀座に徃く。

昭和十年十月廿九日。晴れて好き日なり。今春以来腹候甚佳ならず。午後土州橋の病院に赴き厚木医学士の診察を請ふ。厚木氏は故大石君の門人なり。この度論文を呈出し博士の学位を授けられたりと云ふ。風静なれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。午後五時を過ぎたるばかりなるに暮霞既に糢糊たり。水上に大なる汽舩の泛べるを人に問へば大島通ひの新造船にて四千五百トンなりと云ふ。河岸通りに聳る三菱倉庫の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかゞなりしやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。境内は広く掃除も行きとゞきたり。堂は二棟あり。大なる堂には田宮神社の額をかけ見影石の鳥居には於岩稲荷の額あり。昭和九年十一月建之亀戸町松田定一?と刻したるは如何なる人ならむ。小なる堂の軒には白狐堂の額をかけ前なる鳥居には明治三十年一月吉日田岡栄造建之と刻したり。大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向ひの貸家にたしか荒川とやら言ひし淫売宿あり。わかき後家人妻など多き時は七八人も集りゐたることもありき。今日も猶このあたりの貸家には囲者らしきもの多く住めるがごとし。於岩稲荷の裏手に新築の小祠あり。通行の子供に問ふに金比羅をまつれるものなりと云ふ。祠前の横町を燈火明るき方へ歩み行けば越前堀二丁目の電車停留場に出づ。銀座に赴き銀座食堂に夕餉を食し、茶店久辺留に立寄りしが、今宵は慶応義塾野球勝負の後にて泥酔せる学生の出入多ければ一茶して後家にかへる。川尻清潭君よりたのまれし歌舞伎俳優芸談筆記集の序を草す。
〔欄外朱書〕有喜世新聞明治十二年十二月中ノ紙上に左ノ如キ広告アリ 当社曩(さき)ニ類焼ニ罹リ再建之地所狭小ニ付本月十七日越前堀一丁目四番地へ引移候ニ付此段信仰之諸君ヘ広告ス 四谷左門町四十九番地田宮稲荷社々務所*

十月三十日。晴。この頃新聞紙上の論文に欧禍といふ新文字を見る。非常時の語は満州事変の際[此間三字抹消。以下行間補]軍人の[以上補]造り出せしもの。この度は欧禍の語となる。[以下六字抹消]

 川尻清潭名優芸談の序

歌舞伎俳優の技芸には過去二百余年の伝統と歴史との存するあり。さればこれが鑑賞と批判の道にも自ら亦伝統と歴史あるは言ふを俟たずして明なり。川尻清潭君はこの伝統と歴史に養はれたる演劇の鑑賞家なり。君が家は世〻江戸日本橋の富商なりき。君が先大人は雅号を宝岑と称し、風流文雅の道に遊び、(ひろ)芸苑の名流と交りぬ。就中古河黙阿弥関根只誠および九世市川団十郎と深交あり。商業の余暇著すところの戯曲また尠からざりしといふ。清潭君弱冠のころより其父君宝岑翁に従ひ常に戯場に遊び、好んで俳優を其家に訪へり。今よりして其歳月を算すれば三四十年の久しきに及ぶ。清潭君が今日の演劇界に於て唯一の古老として尊重せられるるは蓋し怪しむに当らざるなり。今年十月下旬の一夜たま/\清潭君と市川左団次君の家に会す。君携るところの草稿を示して曰く、これ曾て中村歌右衛門尾上梅幸片岡仁左衛門其他の名優と相会し諧語の際聞きし処の芸談を書きつゞりしもの。各優平生の語調を採りて措辞用語の間自ら其人特有の面目を彷彿たらしめむことを企てたり。是執筆の際最も苦心せし所にして。稿を改むること再三に及びしものあり。加るに記中の老優にして早く既に世を去りしものあるを思ふや哀惜の情禁ずる能はず。因って俄に旧稿を整理し今将に梨棗に上さむとす。請ふ一読して之が序をつくれと。余はもとより其任に当るべきものに非ざるを知る・然れども君が知遇を辱なくすること二十余年の久しきに及ぶを思へば、菲才の故を以てこれを辞するは却て礼を失するを恐れ、こゝに蕪辞を草す。おそらくは尊意に満たざるところ多かるべし。昭和十年乙亥十一月朔麻布の陋居にて永井荷風識。

俳諧人名録二編東都惟草庵惟草輯(天保十年頃刊本)といふ本に余が祖父もしくは曾祖父とおぼしき人の句あり。左の如し。

尾張鳴海在荒井村永井松右衛門

 永井烏津

夜通しの浦風凪てとんと[ぼカ]哉

居馴染て客から好む蚊遣かな

さす月のやゝ取合す山はたけ

街道の見透て寒き林かな

同書に

東都山城河岸細木子之吉号甘雨亭亦其実庵

 翠滴園李

梅の暮れ菎蒻堤て戻りけり

鯉の尾に水のうねりや青簾

枯野見に出るやこゝろを友として

(コレ津藤香以か可考)

[欄外朱書]香以の父龍池ナリ

十月卅一日。晴。プラターン樹のしげり薄く黄ばみ()めたり。の葉どうだん半霜に染む。燈刻尾張町竹葉亭に飰す。


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Last-modified: 2015-05-12 (火) 06:01:51 (716d)