三月朔。朝日本橋第一銀行に赴き、株式払込の用件を辨じ、東洋軒にて食事をなし、八丁堀を過ぎて家に帰る。戯に小説作法?なるものを草す。午後春陽堂番頭林氏来りしかばおかめ笹の草稾を与ふ。薄暮窓外雨声を聞く。路地を歩む人再び雪になるべしと語りて過ぐ。

三月二日。小説黄昏の腹案成る。

三月三日。お房病あり。暇を乞ひて四谷の家に帰る。

三月四日。風月堂にて昼餉をなす。采女橋を渡るに白鴎?羣をなして溝渠に浮び餌をあされり。曾て浅草代地河岸に住みし時、二月三月の頃には白鴎屡羣をなし人家の屋根をかすめて飛ぶを見たり。かゝる日には夜に入りて必風烈しく吹出づるなり。

三月五日。くもりし空昼頃より晴る。麻布普請塲に赴く。近鄰の園梅既に開くを見る。

三月七日。朝の中机に凭る。風月堂にて昼餉をなし、麻布に徃く。燈前クロオデルの評伝を読む。初更新冨座裏に火事あり。

三月八日。丸善書店内を歩む。此の店家のみ徒に大きくして物品の価廉ならず。

三月九日。春風漸く暖なり。電車にて日比谷を過るに官衙の梅花咲き揃ひて、乱れ行く世のさまをも知らぬ気に見ゆ。春陽堂店員おかめ笹校正摺を持参す。

三月十日。晴天。明石町海岸通を歩む。

三月十一日。午後麻布に行く。帰途愛宕山に登る。春日遅々。夕陽白帆に映ず。藕花的歴?たるに似たり。

三月十二日。春雨霏々。終日机に凭る。強風余寒を送る。枕上ベルヂツク?現代詩文集を読む。

三月十三日。春寒料峭。江戸藝術論製本成る。

三月十四日。細雨烟の如く春尚寒し。連日執筆稍疲労を覚ゆ。燈下原稿罫紙を摺ること四五帖なり。

三月十五日。春雨猶歇まず。執筆の余暇樊川詩注?を繙く。深更風あり。陋屋動揺すること船の如し。

三月十六日。晴天風烈しく路忽乾きて砂塵濛濛たり。都門桜花の時節既に近きを知る。

三月十七日。筆意の如くならず。銀座を歩む。千疋屋店頭覆盆子を売るを見る。二月の瓜も今は珍重するに足らざるなり。夜母上電話にて病を問はる。

三月十八日。玄文社劇評会の諸子、岡村柹紅君米国漫遊の別筵を山谷堀の八百屋に張る。夕刻人力車を倩つて徃く。途上神田川の夕照甚佳なり。此の夜八百善の料理徃時の味なし。何の故なるを知らず。

三月二十日。天気好し。母上の安否を問はむと、新宿通にて人力車に乗る。途次横町の垣根道にて図らず戸川秋骨君に逢ふ。鬢髪蕭疎?四五年前に比すれば別人の如し。夜家に帰るに俄に発熱三十八度に及ぶ。終夜眠を成さず。

三月廿一日。起出るに熱去りて気分平生の如し。風をおそれて家を出でず。

三月廿二日。曇りて蒸暑し。湖山人南総稲毛に在り。絵端書を寄す。夜、微雨。

三月廿三日。雲低く空を蔽ひ溽暑六月の如し。午後九穂子来る。お房この日また帰り来りしかば伴ひて宮川亭?に一酌す。新富座を立見して家に帰る。松莚子電話にて秀調?実父金子元助?の病死を報来る。深更雨声瀟瀟。歯痛む。

三月廿四日。おかめ笹印刷校正摺を閲し終る。細雨糠の如く、銀座街頭柳眼既に青し。

三月廿五日。風冷なれど本願寺墓地の木の芽雨中翠緑滴るが如し。歯痛みて悪寒を覚ゆ。

三月廿七日。晴天。中洲病院に徃き診察を請ふ。午後全集第四巻校正に忙殺せらる。

三月廿八日。日曜日。微風軽寒。

三月廿九日。微雨。

三月三十日。松莚子に招がれて東仲通末広に飲む。清潭子も亦招がる。河合武雄?のために新作脚本を需めらる。

三月三十一日。雨歇まず。不願醒客訪来りしかば築地橋頭の酒亭に飲む。雲去りて雨歇み月出づ。銀座を歩みて再び清新軒に飲む。春陽堂この日江戸藝術論印税金を送り来る。

青空文庫から


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-01-10 (土) 17:47:00 (840d)