断腸亭日乗

断腸亭日記巻之三

大正八年歳次己未

永井荷風

荷風年四十一

正月元旦。曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサン{三日月形のパン}を食し、昨夜読残の疑雨集をよむ。余帰朝後十余年、毎朝焼麺麭と咖琲とを朝飯の代りにせしが、去歳家を売り旅亭に在りし時、珈琲なきを以て、銀座の三浦屋より仏蘭西製のシヨコラムニヱーを取りよせ、蓐中にてこれを啜りしに、其味何となく仏蘭西に在りし時のことを思出さしめたり。仏蘭西人は起出でざる中、寝床にてシヨコラとクロワッサンとを食す。(余クロワッサンは尾張町ヴイヱナカッフヱーといふ米人の店にて購ふ。)読書午に至る。桜木の女中二人朝湯の帰り、門口より何ぞ御用はなきやと声かけて過ぎたり。自働車を命じ、雑司ヶ谷墓参に赴かむとせしが、正月のことゝて自働車出払ひ、人力車も遠路をいとひ多忙と称して来らず。風吹出で寒くなりしかば遂に墓参を止む。夕刻麻布森下町の灸師来りて療治をなす。大雨降り出し南風烈しく、蒸暑き夜となりぬ。八時頃夕餉をなさむとて桜木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻に新春の曲を弾ずるものあり。梅吉莭付せしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排愁剰有聴歌処。到得聴歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に帰る。風雨一過、星斗森然たり。

正月二日。曇りてさむし。午頃起出で表通の銭湯に入る。午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。夕刻灸師来る。夜半八重福春着裾模様のまゝにて来り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈下につく/″\その風姿を見るに、眼尻口元どこともなく当年の翁家富枩に似たる処あり。撫肩にて弱々しく見ゆる処凄艶寧富松にまさりたり。早朝八重福帰りし後、枕上頻に旧事を追懐す。睡より覚むれば日既に高し。

正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に徃き先考の墓を拝す。去月売宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蝋梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。

正月四日。八重福との情交日を追ふに従つてます/\濃なり。多年孤独の身辺、俄に春の来れる心地す。

正月五日。寒甚し。終日草訣辨疑をうつす。

正月六日。櫓下の妓家増田屋の女房、妓八重福と、浜町の小常磐に飲む。夜桜木にて哥沢芝きぬ?に逢ひ梅ごよみを語る。此日暖なり。

正月七日。林檎麺麭其他食料品を購はむとて、夕刻銀座に徃く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり。

正月八日。竹田屋西鶴の作と言伝る色里三世帯を持来る。春陽堂主人の請ふにまかせ、自ら断膓亭尺牘を編む。八重福吾家に来り宿すること、正月二日以後毎夜となる。

正月九日。昼前梅吉方にて清心三味線けいこす。午後尺牘を編纂すること前日の如し。此日本年に入りて始めて雨ふる。増田家女房明治屋ビスケツト持参。

正月十日。雨ふる。

正月十一日。日暮雨霽る。風暖なり。独風月堂にて晩餐をなす。たま/\梅吉夫妻の来るに逢ふ。市村座筆屋幸兵衛の出語に徃くところなりといふ。枕上グールモンの小説シキスチンをよむ。

正月十二日。くもりて蒸暑し。咳嗽甚し。午後病臥。グールモンの小説をよむ。夜草訣辨疑を写す。

正月十三日。大石君来診。夜竹田屋病を問ひ来る。風烈しく寒気甚し。

正月十四日。久来君来訪。桜木に徃きて晩餐を倶にす。

正月十五日。風邪未痊えず。

正月十六日。桜木の老婆を招ぎ、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由相談す。余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず。家はもとより冨めるにはあらねど、亦全く無一物といふにもあらざる故、去歳辯護士何某を訪ひ、遺産処分の事について問ふ処ありしに、戸主死亡後、相続人なき時は親族の中血縁戸主に最近きもの家督をつぐ事となる。若し強ひて之を避けむと欲するなれば、生前に養子か養女を定め置くより外に道なしとの事なり。妓八重福幸に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、数日前よりその相談に取かゝりしなり。桜木の老媼窃に女の身元をさぐりしに、思ひもかけぬ喰せ物にて、養女どころか、唯藝者として世話するもいかゞと思はるゝ程の女なりといふ。人は見かけによらぬものと一笑して、此の一件はそのまゝ秘密になしたり。

正月十七日。晴れて暖なり。宮薗千春を訪ひしに病気にて稽古なし。

正月十八日。春日にて昼餉を食す。晩間三笑庵河東節語初に招れゐたりしかど、微恙あれば行かず。早く床に入りて読書す。

正月十九日。井川氏の書に接す。三田文学十周年紀念号寄稿の事につきてなり。

正月二十日。新冨町の妓八郎薗八節けいこしたしとて相談に来る。

正月廿二日。八郎を伴ひ市村座に行きしが、見物の中に差合ひのものあり、茶屋より直に引返し、春日に至り晩餐をなして家に帰る。この日風なく暖なり。

正月廿四日。くもりて寒し。雪もよひの空なり。午後三十間堀の深雪にて八郎に逢ふ。

正月廿五日。沢木梢井川滋の二子来訪。

正月廿六日。寒気日に/\加はる。路地裏の佗住居、ガスストーブの設けとてもなければ、朝目覚めて後も蓐中にて麺麭とシヨコラとを食し、其儘に起出でず、午頃まで読書するなり。此日全集第三巻に当つべき旧著冷笑を校訂す。

正月廿七日。浜町の袋物屋平野屋を呼び、所持の烟草入のつくろひをなさしむ。

正月廿八日。あめりか物語印刷校正摺到着。

正月廿九日。鎧橋角内海電話屋より電話を購ふ。余は元来家に電話あることを好まざれど、独居不便甚しく、且又女中の気のきゝたるもの無き故、将来は下女も雇はざるつもりにて、遊蕩の金を割きて電話を買ひしなり。肴屋八百屋など日々の用事も、電話にて自ら辨じなば、下女など召使ふには及ばざるべし。兎に角日本現代の生活にては西洋風の独身生活は甚不便にて行ひがたし。

正月三十日。東仲通を歩み、古着屋丸八にて帯地並にいつぞやあつらへ置きたる表装用きれ地を購ふ。

正月卅一日。朝まだきより雪降る。砂の如くこまかなり。


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Last-modified: 2015-01-14 (水) 11:12:37 (862d)