三月朔。雪歇み空晴る。築地に行く。市街雪解け泥濘甚し。夜臙脂を煮て原稿用罫紙を摺ること四五帖なり。

三月二日。風あり。春寒料峭たり。終日炉辺に来青閣集を読む。夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く。市ヶ谷谷町より津ノ守阪のあたり、貧しき町々も節句の菱餅菓子など灯をともして売る家多ければ日頃に似ず明く賑かに見えたり。貧しき裏町薄暗き横町に古雛または染色怪しげなる節句の菓子、春寒き夜に曝し出されたるさま何とも知れず哀れふかし。三越楼上又は十軒店の雛市より風情は却て増りたり。

三月三日。園梅漸開く。腕くらべ印刷費壱千部にて凡金弐百六拾円。此日東洋印刷会社へ支払ふ。

三月九日。微風軽寒。神田電車通の古書肆をあさる。

三月十日。春隂鶯語を聞く。午後烈風雨を誘ひしが夜半に至り雲去り星出づ。

三月十一日。風寒し。風邪の心地にて早く寝に就く。

三月十二日。臥病。園丁を植替ふ。

三月十六日。唖々子令弟梧郎君病死の報に接す。大雨。

三月十七日。雨晴れ庭上草色新なり。病未痊えず。終日縄床に在り。

三月十九日。いまだ起出る気力なし。終日横臥読書す。此日天気晴朗。園満開。鳥語欣々たり。

三月二十日。北風烈しく寒又加はる。新福亭主人病を問ひ来る。

三月廿二日。風烈しく薄暮雹降り遠雷ひゞく。八重次訪来る。少婢お房既に家に在らざるが故なり。

三月廿三日。病既によし。唖々米刃堂解雇となりし由聞知り、慰めむとて牛門の酒亭に招いで倶に飲む。

三月廿五日。暴風大雨。落雪の如し。

三月廿六日。雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乗りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。お房もと牛込照武蔵の賤妓なりしが余病来独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ来りしなり。然る処いろ/\面倒なる事のみ起来りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。

三月廿七日。母上訪来らる。

三月廿八日。風邪全癒。園中を逍遥す。春草茸々。水仙瑞香連翹尽く花ひらく。春蘭の花香しく桃花灼然たり。芍薬の芽地を㧞くこと二三寸なり。

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Last-modified: 2015-01-15 (木) 10:50:46 (799d)